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K.付録:マンハッタン計画の鍵になった人々

米国は、戦争前から枢軸国の軍事力に多大の関心を寄せて来た。フランクリン D.ルーズベルトは1939年8月2日にアインシュタインから受け取った手紙に特に注目した。その手紙の中でアインシュタインは新しい科学分野に於いて"爆弾の構造が・・・・新しい形式の非常に強力な爆弾"の可能性が開けて来たと述べている。原爆は敵の施設に大きな損害を与えうるであろう。また、アインシュタインは"ドイツはチェコスロバキアの鉱山から産出するウランを売ることを事実上停止した"そして"ベルリンでは・・・・ 米国が行っているウラン研究のうちの幾つかが反復して実施されている"と述べた。アインシュタインのこの最後の文章がルーズベルト大統領の関心を引き、これが原爆設計製造の可能性を探る委員会を設置するきっかけになった。1942年3月9日、バンネバー ・ブッシュは大統領に宛てた手紙のなかで、この爆弾はより強力でより容易に目標に投下できる、と報告した。彼はまた、米国はこの新しい兵器を開発している敵国との競争に参加すべきであると強調した。米国より先に原爆を開発しているドイツへの関心がまた、科学分野 にも反映された。この関心はオッペンハイマーの自叙伝の中で、よく描き出されている。その中で彼は、"我々(科学者)は、もし彼等(ドイツ)が原爆開発で我々と引分に持ち込むまで我々を鞭打てば、それは何を意味するか知っている"と述べている。ブッシュの手紙にルーズベルトは応えて、この計画を最高機密の中でフルスピードで実行すると決めた。ドイツが原子兵器を開発しているという事実が、この計画を始めさせ、進むに任せ、そして最高機密にさせるに十分であった。アインシュタインやジラード等この計画に従事した多くの科学者にこの計画を始めた責任がある。マンハッタン計画は科学者、化学者、軍人、一般人など多くの陣容を網羅した。私の論文の中で、私はただこの計画の鍵になった数人の人物に焦点を絞ったに過ぎない。
写真:原爆開発の責任者達で左からネイル・ボーア、ロバート・オッペンハイマー、リチャード・フェイマン及びエンリコ・フエルミ
 

レオ ・シラード
1933年4月、アドルフ・ヒットラーは最初の反ユダヤ法を成立させた。この法律で、"非アーリア人"の科学者をその地位から追ったので、100人以上の物理学者がドイツを逃れた。 シラードは英国に移り住んだ科学者の一人であった。ジラードは、英国で核連鎖反応が可能であると考えるに至った。1935年、彼はベリリウム放射源からガンマ線により誘起されて中性子が放射するのを発見した一人である。シラードは米国に来て、核分裂現象の発見を学んだ。シラードは米国が核分裂研究の非常に効果的だが危険な競争に踏み込むべきであるとの確信を抱いた。彼は米国であまり知られていないため、アルバート・アインシュタインの助力と名声を頼りにした。一緒にルーズベルトに手紙を書き、核分裂研究の費用を要求した。1942年12月2日、シラードとエンリコ・フエルミはシカゴ大で最初の制御された連鎖反応炉を作った。マンハッタン計画はそのすぐ後から始まった。 シラードは原爆の使用に抗議する人達の中心人物であった。
写真:アインシュタイン(左)とシラード

アルバート・アインシュタイン
レオ ・ジラードの助けにより、アインシュタインはルーズベルト大統領にドイツがウランを使って新しい形式のスーパー爆弾を作るために核分裂研究を行っていると信じ込ませた。彼の論点はこの章の緒言にもっともよく現れている。アインシュタインは米国がドイツで行われつつあるウランと核分裂の研究と同じ事を始められるよう手助けした。大量の資金がこの計画に 宛てられるようになったのはパールハーバー攻撃の1941年12月6日以前のことであった。この資金によってエンリコ・フエルミが最初の制御可能な核分裂を起こした。アインシュタインは公式にはマンハッタン計画に参加してはいなかったが 、それを始めさせ(そして原爆の使用に反対す)るのに責任があった科学者の一人であった。

グレン ・シーボーグ
シーボーグはカリフオルニア大バークレーの化学教授であった。彼は卒業生アーサー・C・エールと同僚の化学指導者ジョセフ・W・ケネデイと共にプルトニウム元素を発見した。彼らは同位元素プルトニウム238(P-238)を発見し 、のちに同位元素プルトニウム239(P-239)を作りだした。P-239は核分裂しやすいので原爆にもってこいである。またシーボーグは核反応装置の中でウランから兵器級のプルトニウムを分離する工程を開発した。シーボーグは公式にはこの計画に参加しなかったが、彼の発明がこの計画の中でプルトニウムが重要であるとの方向に導いた。

ネイル ・ボーア
ボーアは核理論で最も重要な人物の一人であった。彼は疑わしいと考えられてきた原子核の寸法の1/10,000であると言い出した最初の人である。彼の“小滴モデル”が核分裂への道を開いた。この理論は基本的にもし中性子がある原子の重い原子核に衝突したら、分裂反応が 始まることを予測した。ボ ーアもまた 、ドイツのユダヤ人の迫害を逃れて米国に行き、中性子放射の過程に必要なアウトラインを完成した。彼のもっとも有名な発見の一つは、稀少なウラン同位元素235(U-235)は核分裂しやすく、一般によくあるウラン同位元素238(U-238)はそうでないということであった。この発見により、核分裂の 生成物が中性子を放出することがマンハッタン計画の突破口となった。核分裂連鎖反応によって、大量のエネルギーが開放されることを公式で示した。

リチャード・フ ェイマン
ニューヨークで生まれのフェイマンは輝かしい物理学者であり 、数学者であった。彼は微積分学を発展させた。彼は物理学を極めるため、MITに在学し、のちにプリンストン大を卒業した。彼が24歳で卒業研究をしているとき、マンハッタン計画に参加するよう求められた。彼は彼のよき指導者であるハンス ・ベスとチームを組んで、爆発を起すに必要な核分裂しやすい材料の量など、鍵となる数学方程式を考え出した。彼の才能の一つは、数式を頭の中で早く解くことができるということであった。フ ェイマンとべスとは三次方程式が早く解ける短絡解法を編み出した。当時ある話として、フェイマンはNASAから1985年にスペースシャトル・チャレンジャーの爆発原因を指摘してくれるよう依頼された。彼はOリングによる失敗だと指摘し、NASAと世界にショックを与えた。

エンリコ ・フエルミ
フエルミはイタリアで物理学研究を始めた。彼は次の重要な発展は原子核の研究からもたらされると信じて原子核分野の研究に切り替えた。彼はノーベル賞を受けた後、ドイツとの間に緊張が高まりつつあったので1938年にイタリアを離れた。フエルミはニューヨークに移り、ここでボアが彼を核分裂研究の発展に眼を向けさせた。フエルミは直ちに中性子放射が連鎖反応の引き金になる可能性があることを見抜き、核分裂の研究を始めた。1942年11月2日、彼は原爆の基礎となる制御可能な連鎖反応 の実証実験に成功した。それから彼はニューメキシコに移り、そこでマンハッタン計画に参加した。

ロバート ・オッペンハイマー
オッペンハイマーはハーバード大を化学の学位を得て卒業し、四年間の博士課程を三年で修了した。彼は卒業研究をケンブリッジ大、キャベンデイシュ研究所で行ったが、神経衰弱のため中止した。オッペンハイマーは1927年にドイツのケンブリッジ大から理論物理分野で博士号を受けた。彼は彼の物理学上の新しい発見を持って米国に移り住んだ。ボアの発見と核分裂のことを聞いて、オッペンハイマーはこの反応で放出されるエネルギーの用途について考えた。1942年の夏、オッペンハイマーはカリフオルニア大のバークレーで会議を開き、ここでトップの物理学者達が原爆の可能性について討議した。1943年、彼はマンハッタン計画の科学部長になった。オッペンハイマーはこの計画のすべての段階に関与した。彼は核武装
コントロールの主唱者になった。

レ スリー ・グローヴズ将軍
1942年初頭、グローヴズは陸軍工兵隊の建設主任で、国防省の建設に従事していた。この建物は世界で最大のオフイスビルであった。グローヴスは次の仕事を海外でやりたいと希望したが、その代わり最高機密の兵器計画の長に任命された。彼は別の仕事に替えてもらおうとしたが、その試みは不成功に終った。しかし、グロー ヴズはその兵器計画に乗り、その仕事をやることを決心した。彼はこの計画を"マンハッタン地区"(のちに短くしてマンハッタン計画)と改名した。計画のリーダーであるジェームズ・マーシャルにちなんで、その本部がある新しい地区の名を付けるのが普通であったからである。マーシャルはこの計画に必要なすべての施設を建設する責任者であった。この計画はそのもとのタイトル"置換材料の開発"が多くの情報をもたらすことから、上のように改名された。グローヴ ズの前向きなマネジメントと決断力とがマンハッタン計画成功の鍵であった。
 

米国が原爆開発に踏み切った後、すべての科学者の心と資源を組織するために マンハッタン計画が作られた。上述のすべての科学者は異なった分野の専門家であるばかりでなく、経歴も異にしていた。この計画はこれらの科学者を使って、原爆開発の過程で出合った障害 に挑戦し、克服して行った。

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