マンハッタン計画
上へ キーパーソン 訳 注 何故マンハッタン計画と呼ばれたか ポール ティベッツ インタビュー Paul W. Tibetts Carles D. Albury 長 崎 原 爆 原爆に対する米国の反応 相互確証妄想

2003.8.28改定


1945年7月16日、人類最初の原爆が炸裂
目  次
A

緒論

B

計画の背景

C

ウランとプルトニウムの精製

D

核分裂

E

原爆の設計

F

トリニティ実験場

G

原爆の使用に関する倫理的論議

H

原爆を使用すべきとの意見

I

原爆の使用に反対する意見

J

決定とその結果

K

付録:マンハッタン計画の鍵となった人達

訳注:

L

核分裂と核融合

M

水爆の父・テラー

N

ニューメキシコ紀行

O

重巡インディアナポリス

本章は、下記論文の邦訳である:
 "The History and Ethics Behind The Manhattan Project"

          http://www.me.utexas.edu/~uer/manhattan/
  Miguel A. Bracchini
  Mechanical Engineering Department, The University of Texas at Austin
  30 April 1997

著者は文中で“広島と長崎の罪のない人たちを殺したことは弁明の余地がない”と述べているように、米国人、特に退役軍人、の間で原爆投下によって数十万もの米国兵士の死が救われたとする自己弁護とは異なる見解を展開しており、その特異性に注目して訳文を掲載することにした(訳者)。

摘 要

1945年7月16日、最初の原爆の炸裂により世界は核時代に入った。この日は後に広島、長崎に落された原爆共々、人類に永久に記憶されるであろう。これまで、マンハッタン計画の歴史は長年秘密に付されてきた。この論文は、この計画がどうして始まったか、原爆の使用を決める際にどんな政治的、倫理的議論が起ったかを検証する。

A.緒論

歴史は我々が成功したことや、失敗したことを記録してくれる。 他方、より重要なことだが、数々の失策事例を学ばせてくれる。このマンハッタン計画がその代表例である。この計画によって、米国は原子の神秘を知る一方、人類が経験した中で最も破壊的な戦争形態を創り出した。50年以上経過した今も、核兵器が議論の的になっている。私はこの計画の中で最も重要で、最も公にされていない二つの疑問を探求した。第一の疑問は、戦争を革新し、そして永遠に人間の歴史を変えた新しい発見を巻き込んだ原爆 がどのようにして製造されたかと言うことである。第二の疑問は、この原爆の使用可否について科学界にどんな倫理上の論争が巻き起こったかである。この第二の論争について、テキサス大学オースティン校歴史教授のミカエル・ストッフは次のように記している:
“マンハッタン計画の中心で、原子の内部構造を貫通する研究をしている科学者達がいる。その研究中、彼らは魅惑的な美を見出したが、そのエネルギーが解き放たれたとき、研究熱心だった彼らはその爆弾の途方もない破壊力 に向き合って畏縮した”

マンハッタン計画は、第二次世界大戦中に米国が行った原爆製造研究のコードネームである。この計画は主にニューメキシコ州で行われたが、初期研究の多くがニューヨーク市に本拠を置く米陸軍工兵隊のマンハッタン工兵地区で行われたので、その名をとって命名された。この計画は1942年から1946年まで4年間続き、そのコストは約18億ドルであった。この額を今日に換算すると200億ドル以上に相当する。この計画は兵器の優位性を獲得しようとする代表的な軍事計画以上のものであった。マンハッタン計画は科学の突破作戦であり、生きるか死ぬかの気違いじみた競争であり、また戦争の革命でもあった。この計画と、その論争は人類の歴史の中で最悪の戦争をしている間、地球的規模で行われた。それは、我々の生活に相当な衝撃を与えたので、我々はその歴史を無視せず、それを研究しそれから学ばねばならない。

この計画で三個の原爆が作られた。第一の爆弾は、“Gadget”(写真)と呼ばれ試験に供され、第二の爆弾“Little boy”は広島上空で、第三の爆弾“Fat man”は長崎上空で炸裂した。マンハッタン計画は、その効率の良さ、秘密が良く守られたこと及び民間人と軍人が良く協調したことなどから理想的な計画であった。

この計画は核兵器と科学上の発見に関する新世紀の幕開けになった。マンハッタン計画の歴史と倫理的論争を正しく検討するために、このプロジェクトの鍵になる人物と彼らの経歴を付録に示す。多くの科学者は移民で、アドルフ・ヒットラーの抑圧に虐げられる経験をし、原子力研究に飢えていた。

最初に私はなぜこの計画が始まったか、主な挑戦は何であったか、そして何を発見したかを説明する。この爆弾の背景にある科学を理解した後、二種類の原爆の説明をする。その歴史と科学を説明した後 、倫理的論争の解説をする。最後に、この爆弾を投下する決心をしたことと将来の科学計画に関する私の政治的所見を述べる。

B.計画の背景

この命題に入る前に、広島・長崎爆撃に至る舞台をセットアップしよう。歴史的に米国は常に太平洋での出来事に関心を寄せて来た。米国がフイリッピンに影響を及ぼすと、日本は彼らの東洋における帝国主義的妄想の中で、多分米国を脅威と見たであろう。日本は第二次世界大戦の主導権を握り、太平洋での勢力拡大を追及し始めた。1941年12月7日、日本は隠密作戦による真珠湾爆撃で米国の脅威に応じた。そして、米国は連合国と共に第二次世界大戦を戦い、太平洋では優勢であった日本との戦いを終結させた。

マンハッタン計画が最初に直面した大きな課題は、原爆用燃料を必要なだけ豊富に供給できるかどうかということであった。ネイル・ボーアはウラン235同位元素(U-235)が不安定で連鎖反応を起しやすいから、またグレン・シーボーグはプルトニウム239同位元素(P-239)も燃料としうると言った。しかし、これらの元素の入手法が非常に困難な課題であった。第二の課題は、核分裂連鎖反応を持続させ原爆としての威力を発揮させることであった。核分裂と連鎖反応に関する物理的原理については後で言及する。
写真:トリニテイ実験でプルトニウム原爆が炸裂した瞬間

C.ウランとプルトニウムの精製

この計画の最大の問題はボーアが理論付けしたU-235を大量に入手することが難しいことにあった。U-235はウラン鉱石、すなわちこの元素を含有する自然石から抽出される。ウラン鉱石は各種のウラン同位元素を抽出するために、処理される。ウランのような元素の同位元素は基本的に同じ原子構造をもっているが、その原子核に一個の中性子を加えるか、または核から差し引くかによって重量が少し重いか軽いかの違いがある。核は原子の中央部にあって、陽子と中性子より成り、これが原子の重量の殆どを占めている。ウラン鉱石から二種の同位元素が抽出される:一つはU-235でウラン鉱石の約1%を占め、他の一つはU-238で99%を占める。U-238は原爆製造に不要だが、U-235は連鎖反応、互いにドミノ落しのような全体の効果に導くか或いはそれを引き起こす一連の現象、が期待できることから爆弾に利用できる。U-235同位元素を分離し、精製するに必要な幾つかの新しい技術が開発された。

二種のウラン同位元素を分離する命題は、科学者にとって非常に難しいことが明らかになった。同位元素を分離するために利用できそうな第一の方法は電磁分離法と呼ばれる。この製法はカリフオルニア大のバークレー研究所でエルンストO.ローレンスが発明したサイクロトロンにより可能になった。電磁分離は次のようにして行われる。電荷を持った四塩化ウランの混合物が、磁場を180°回って通り抜ける。その時、軽いU-235は磁場の内側を通って回収され、重いU-238は外側を通って処分される。しかし、この製法には大きな欠点があった。多くの弧状トラック(競技場)に油を含んだ汚い粒子が付着し、トラックの銀バンドが錆付いた。磁石は製造元に返送され、清浄化された。この遅れによってウラン製造が遅延した。数百万ドルを投じてサイクロトロンを建設したものの、僅か1グラムほどのU-235しか得られなかった。後にローレンス研究所はこの装置を放射線研究のセンターとして用いた。
(傍注)ローレンスはオッペンハイマーがこの計画の兵器局長に指名され、新たに設立されたロスアラモス研究所の所長になってバークレー研究所に代る兵器開発を行うことになったのに立腹したといわれる。

第二の分離方法が開発された。1942年、レ スリー・グロ− ヴズ将軍はウラン分離施設を建設するため、テキサス州オークリッジの一地域を購入した。この施設で気体拡散法を用いてウラン同位元素を分離した。まず、ウラン鉱石に弗素を噴霧し6弗化ウランガスを作る。このガスを多孔質のフイルタ列に注入する。このフイルタは非常に細かいマトリックスになっており、軽いU-235がより早くそこを通過する。幾つかのフイルタを通すと、6弗化ウランガスの中でU-235が高度に濃縮される。これが必要なU-235を効率よく製造する効果的な方法であった。

同位元素を分離する第三の方法は遠心分離法である。この工法で、軽いU-235をより重いU-238から分離するのに遠心力を用いる。不幸にもこの工法は効率が悪く、更なる開発が必要であった。ドイツとの原子力実用化競争に時間の余裕がなく、この工法は早々に見捨てられた。

U−235以外に新しい原爆用燃料が発見された。1941年、グレン・シーボーグが原子番号94(プルトニウム)を発見した。シーボーグは、P-239同位元素は彼が発見した同位元素P-238より不安定であることを知った。シーボーグはこの同位元素が原爆に必要な核分裂を起こす理想的な燃料になるであろうと考えた。また、シーボーグはU-238を原子炉内に長時間放置すると、P-239に変ることを発見した。原子炉の中でU-238は高い放射能のために余分の粒子、特に中性子、を取り込む。1942年に、エンリコ・フエルミはシカゴ大学のスカッシュコートの地下に小型の原子炉を建設した。彼はまた、彼の研究室に最初の制御できる連鎖反応炉を作った。フエルミの原子炉はその後に作られた5基の製造用原子炉の原型になった。グローブス将軍は直ちにこの新しい製造設備の判定表を作った。この原子炉は小さすぎることと、あらゆる放射能物質を作り出すので危険なことから、他の場所に移さねばならなかった。グローブ ズ将軍はこれをオークリッジに移したくなかった。というのは、“そこがノックスビルに近く、大きな原子炉で連鎖反応を起すと、どういうことになるか誰にも分からない”からであった。グローブ ズ将軍は、もし事故が起こるとウラン設備も破壊し、“その地域の人命を失い、健康を損なう”、そして“この計画がすべて吹飛んでしまう”と思った。こうして、人里離れ誰にも分らない場所としてワシントン州ハンフォードが選ばれた。

原爆を製造するに必要な二種類の燃料が得られるようになった今、本物の爆弾の設計、試験及び製造をする段階に入った。だが、必要なウランとプルトニウムの量が足らないという問題が持ち上がった。また、プルトニウムがウランほど核分裂しにくいということも分ってきた。これらの問題は、やがてこの計画を遂行しようとする人達の崇高な精神力によって克服された。爆弾の設計に入る前に、核分裂の問題を述べておこう。
図:核分裂の基本を示す模式図

(訳注)使用済燃料の再処理:
多くの原子力発電所が使用している軽水炉は主にU-235を燃料としている。U-235が放出した中性子をU-238が吸収すると、U-238の一部がプルトニウムに変る。このプルトニウムと燃え残りのU-235を再処理して取り出し、新しい燃料とする。
U-238が中性子を吸収すると、先ずU-239に変る。次に、U-239は二度のベータ崩壊(ベータ<電子>線を出して原子核が別の核に変換すること)して、P-239に変る。 即ち、最初のベータ崩壊でネプツニウム239が、二度目のベータ崩壊でP-239が生成する。
この時、核分裂生成物の一つとしてクリプトン85ができる。クリプトン85は半減期10.76年の放射性不活性ガスで、再処理の初期の工程の一つである燃料せん断や燃料の溶解の際にほとんど全量空中に放出され、環境汚染の問題になっている。また、空中でクリプトン85が検出されれば、その地域で使用済燃料の再処理が行われプルトニウムが抽出されている疑いがある。
他に核分裂生成物に、トリチウム、セレン、ストロンチウム、ヨウ素、キセノン、セシウム等の放射性同位元素がある。

D.核分裂

その当時、原子を爆発させるには二つの形式が知られていた。一つは一般に水爆として知られる核融合爆弾に用いられた方法である。核融合爆発は核分裂反応から始まり、数個の水素同位元素の原子核が融合してヘリウム原子核を作るとき、エネルギーを放出する。この水爆はマンハッタン計画と第二次世界大戦終了後、開発された。
右図:重水素(D)と三重水素(T)とが核融合して、ヘリウム(He)と中性子(n)になる。

この論文では、核武装時代の始まりであるマンハッタン計画と原爆に焦点を絞ることとする。原爆がこんなに威力があり、破壊力に優れているのは、核分裂という連鎖反応による。ネイル ・ボーアは彼の原子研究の過程で核が分裂する現象を発見した。核分裂は原子の中心部、すなわち原子核が二個の同じ破片に分かれるときから始まる。一個の中性子がウラン原子を破壊すると出来た破片が別の中性子を放出し、それがより多くの原子を分裂させ、この連鎖が継続して行く。

連鎖反応は、数百万分の一秒の速さで起る。この間に放出されるエネルギーの量は数億ボルトで、これが爆発と同時に放出される。U-235が核分裂すると大量の熱と放射線を放出する。放出される放射線はガンマ線と呼ばれ、人間にとっては致死的である。P-239もまた、この恐ろしい連鎖反応を起す。プルトニウムとウランの原子構造の違いによって爆弾の設計が異なる。

E.原爆の設計

マンハッタン計画で三個の原爆が作られた。第一の原爆はガゼットである。このプルトニウム爆弾は、設計がウラン爆弾より複雑だったため、その妥当性を確認するための供試体になった。次の原爆はウラン爆弾のリトルボーイで、広島上空で爆発した。このウラン爆弾の供試体がないのは、その設計が非常に単純であったことと、二個の爆弾を作るに十分なウランがなかったためである。最後の原爆は長崎上空で爆発したフ ァットマンある。この爆弾はガゼットと同じ設計である。以下にリトルボーイとファットマンの機能を説明する。 右の写真は戦争に使用された二個の原爆である。

リトルボーイ(ウラン爆弾)

ウランはたいへん核分裂しやすい同位元素であるため、爆弾の設計はプルトニウム爆弾より簡単であった。フェイマンが臨界質量を達成するに必要なウラン量を計算した。臨界質量とは連鎖反応が始まるに必要なウランの量である。もし質量が反応を始めるに必要な量以上であれば、反応は指数関数的に速くなる。フェイマンはその量を純ウラン50kg(110lb)と計算した。しかし、得られたウランは純粋ではなく、従ってより多量を必要とした。ロバート・オッペンハイマーは必要な臨界質量はほぼ100kg(220lb)だと言った。ウラン資源は稀少なので、爆弾は構造が単純でしかも確実に作動せねばならない。ましてや、試験供試体を作ろうなどという贅沢は許されなかった。

ウランは核分裂しやすいので、爆弾は砲撃形式を基本にした。基本的にウラン部が左右にある形とした。一方のウランを他方に向けて加速するために通常爆薬を用いた。この爆弾は、いわゆる高度計爆弾である。高度計は空気圧を感知して、地表からの高さを測定する。爆心直下の地表を爆心地と呼ぶ。この爆弾によって破壊された地域については後述 する。

ファットマン(プルトニウム爆弾)

プルトニウムはウランより核分裂しにくいので、その使い方はもっと難しかった。この爆弾を設計する上での第一の主要な障害は、プルトニウムの超臨界質量がどれくらいか分らないということであった。リチャード・フェイマンとハンス・ベスは、臨界質量は約16kg(22lb)であると計算した。また、もしプルトニウムがU-238同位元素で取り囲まれていると、臨界質量を10kg(22lb)に減らせることが分った。この結果は、プルトニウムの量が限られており、一方U-238はそうでないことから、大きな朗報であった。

連鎖反応を始めるには、放射能源が中性子を放射している間にプルトニウを核分裂させねばならない。中性子を放射するベリリウム・ポロニウム化合物を球の中央に置く設計法が採られた。この球の内側は一様な間隔を置いた成形されたプルトニウム部で作られた。この球はサッカーボールによく似ている。この爆弾が炸裂すると、球は内部に向かって壊れ、すべてのプルトニウムが融合して超臨界質量に達し、連鎖反応を起こす。この爆縮(インプロージョン)現象を起こす最初の爆発 には通常爆薬を用いる。この爆弾もまた高度計爆弾で、両爆弾ともこれを投下する乗員の安全ばかりでなく、確実な炸裂を保証する多くの安全策が採り入れられた。

両爆弾に共通の安全策

両爆弾には、鉛の遮蔽、信管及び中性子偏向装置などの安全装置を備える。鉛の遮蔽は、基本的にウランとプルトニウムが出す放射能から人体と爆弾の機構を保護する。放射能は爆弾の電子装置を簡単に短絡させるし、爆弾の周囲にいる人に害を与える。信管は、核物質と通常爆薬が過早発するのを防ぐために複数個用いられた。これらの信管は爆弾を発射する数分前に装着される。中性子偏向板はU-238で出来ている。この偏向板の目的は二つある。ウラン爆弾の場合、この偏向板は中央部から漏洩してくる中性子を本体質量から横へそれさせる。もしこの偏向板がないと、臨界質量に達する恐れがある。プルトニウム爆弾の場合、この偏向板はプルトニウムの部分(サッカーボール の殻)から出た中性子のうち横道へそれたものを反射して元へ戻す働きをする。こうして中性子の散逸を防ぐ。U-238は核分裂せず中性子をよく反射する上、大量に入手できる。

プルトニウム爆弾については、すべての理論計算と設計を終えたところで未解決の問題が多く残った。この爆弾の爆縮部分の設計は今まで試みられたことはなく、どんな賢明な人でもその成功を保証できなかった。プルトニウム爆弾が作動するか否かは 実験してみるしかなかった。
(訳注)臨界質量:
1945年、長崎に投下されたファットマン原爆は6.2kgのP-239を用い、その爆発力はTNT火薬21-23キロトン相当であった。DOE(米エネルギー庁)は1994年1月までは、小型の核兵器を作るには8kgが必要だと言って来たが、それ以降は4kgとしている。 なお、米国のある科学者は1kgで十分だと言う。

F.トリニティ実験場

数年間熱心に理論計算を続けてきた後、科学者達はその爆弾が作動するかどうか確かめる段階に来た。彼らは、ウラン爆弾は作動する確信があったが、プルトニウム爆弾には未知の事柄が多く残っていた。最大の懸念は本当に作動するのか、ひょっとすると不発に終わるのではないかという点であった。ケネス・T・バイングリッジが試験の主任に指名され、実験計画を 八ヶ月前に立て始めた。第一段階は適当な実験場探しで、多くの場所を検討した結果、彼はニューメキシコ州アラモゴード付近の人里離れた場所を選んだ。そこはリオグランテ川とシェラオスクラ山脈の間にある谷で、ヨルナダ・デル・ムエルトと呼ぶ。オッペンハイマーはこの実験の暗号名をトリニティとした。実験前、大きな論争を巻き起こした幾つかの出来事があった。一つは、四月にルーズベルト大統領が亡くなり、トルーマン大統領が後を継ぎ新体制になったことである。この計画は極秘に進められてきたので、トルーマンは大統領の宣誓をするまではその存在を知らなかった。実験に影響したもう一つの出来事は、 五月のドイツ降伏であった。依然、日本との戦争が続いていたが、科学者達はこの爆弾を日本に転用してもよいものかという疑念を抱いた。

科学者達は技術的な問題に忙殺されていたので、このような哲学上の問題を顧みる余裕はなかった。実験は予定通り進められた。グローヴス将軍は、トルーマン大統領が結果を持ってスターリンとチャーチルとのポツダム会談に出席できるよう実験を実行することとした。実験場に至る山野は大きな障害物であった。でこぼこの多い道、さそりやがらがら蛇は問題だとしても最も些細なものであった。だれも本当にどれ位放射能が放出されるか知らなかった。百トンのTNTと適量の放射性物質を用いて、放射能等の測定装置の校正のための予備実験が行われた。もし爆発が失敗した場合に備えて、農場を疎開させるために軍隊が派遣された。また、グロー ヴス将軍はもしこの実験が不成功の場合、高価で価値のあるプルトニウムが無駄になるのを恐れた。プルトニウムはウランより多く備蓄していたが、その製造は非常に難しかった。実験は完璧であって欲しかった。

陸軍気象担当官の勧告を無視して、ジャック・ハバードとグローブズ将軍は実験日を1945年7月16日とした。前夜の雷雨のため、試験が数時間延期されたので心配は極限に達した。フェルミは、この気象条件で爆弾が誘爆するのではないか気に病んで、実験を強行したグロー ヴズ将軍に腹を立てた、と記している。午前4時、科学者達は計測装置に戻り始めた。爆心から10,000ヤード北にいた観測者達は床に顔を伏せるよう命じられていたが、皆それを無視した。爆発を観測するため、保護用に溶接眼鏡と日焼止めローションを用いた。10万枚以上の写真が爆発の報告書に添付するために撮影された。

爆発時、フェルミは数枚の紙を引き裂いて空中に放り上げた。衝撃波判定に熱中していたので、爆発の大音響は全く聞こえなかったという。爆発のすぐあと、フェルミは重し綱のついた戦車のところに出かけて行って、損傷の程度を検査した。爆発は彼が予想していたよりずっと強力であった。爆発の 規模はTNT換算で約20キロトン相当であった。
写真:"トリニティ実験場−1945年7月16日、ここで世界最初の原子爆弾が炸裂した"と記されている。

爆発地点の周りの土地は、破壊の度合によって分類された。爆心から半径0.5マイルをまでを蒸発点(死亡率98%、死体は行方不明または識別できないまでに焼けこげる)と呼んだ。この領域では、すべてが破壊された。温度は爆発と同時に3,000℃から4,000℃に上昇した。半径1マイルまでを全破壊帯(死亡率90%)と呼んだ。すべての建物が破壊された。半径1.75マイルまでを苛酷な爆風損害地域(死亡率65%、負傷率30%)と呼んだ。大きな建物は壊れ、損害は橋や道路に及んだ。川の流れが逆流した。半径2.5マイルまでを苛酷な熱損害地域(死亡率50%、負傷率50%)と呼んだ。この地域のすべてのものは一種の火傷を負う。死亡した人の殆どは火災により酸素が欠乏したための窒息死であった。半径3マイルまでは苛酷な火災と風による被害地域(死亡率15%、負傷率50%)である。家庭やその他の家は被害を受ける。人々はあたりに吹き飛ばされ、もし生きていても二度三度火傷を負う。この爆弾の威力は非人間的で、それを使用することは疑わしい。次章でこの二つの爆弾が戦争に使われた結果を検証する。

G.原爆の使用に関する倫理的論議

マンハッタン計画が進むにつれ各地に工場を建設するため、また秘密の基地を置くために出費が重なって行った。開発の初期段階では相応の成功と幸運に出会い、政治家はこの計画を進める決断を下した。その後、議会の中に違法な支出に対する疑問の声が上がり始めた。米戦争長官ヘンリー・スチムソンはルーズベルト大統領にマンハッタン計画に従事する主要な二つの会社の反トラスト違反の告発をある期間、差止めるべきであると進言した。これらの出来事、この爆弾の開発に係わる巨額の支出、ある種の執行部の決定等すべてが議会と米国民から秘密にされているという事実が、大統領と高級官僚を政治的な苦境にさらされることになりはしないかと危惧したのである。これは1945年3月3日に大統領に提出された戦争動員局長ジェームズ・ビルネスの覚書で彼が“もしこの計画が失敗に終った場合、無情な取調べと非難にさらされるであろう”、そして“不利な判決によってこの計画の責任者達を更に弁明させることが必要になるであろう”と警告していることから推測できる。この厄介な取調べを避けるには、マンハッタン計画を成功させねばならなかったし、爆弾は使用すべきだとの結論に導かねばならなかった。ドイツが1945年5月に降伏したことを考慮すると、爆弾はその二ヶ月前に使用すべきであった。原爆の使用を認めるか否かの議論を、戦時中になされた決定と結果を追求しながら検討することとする。
写真:リトルボーイの透視図

H.爆弾を使用すべきとの意見

原爆を使用すべきとの意見は、英国そして米国のソビエトへの不信に由来する。英国の不信は1943年7月22日、米英両国の会合でウインストン・チャーチルが語った次の言葉で明確である。すなわち、“国際間のゆすりに使えるものを手に入れる競争でドイツまたはロシアに負けてはならない。”両国は、ソビエトが核戦力を持ちその影響力を拡張するのを望まず、戦後の交渉でその優位性を失わせようとした。ソビエトの領土拡張にたいする心配は1945年7月23日付スチムソン日記が言及し、ソビエトが太平洋と今日既に支配権を拡張した東欧諸国に関心を抱いていると記している。更に、原爆はそれが戦争を短縮する結果となれば、ソビエトを太平洋から締め出すことになりうるというのである。

1945年まで、米国は日本軍を追撃してきた。1945年7月18日、大統領と統合幕僚幹部との会談で日本侵攻計画が議論された。この会合で、日本の狂信的な抵抗について論議され、11月1日に予定された侵攻開始までこの作戦を進め、日本の反応を見ようということになった。米国の指導者達はいつ日本が降伏するかの見通しは立たないが、降伏以外に選択の余地がないという点で全員が一致した。米国は1945年7月16日、“日本が平和への道を探っている”ことを知り、日本にポッダム会議の宣言条項を示し無条件降伏せよと要求した。日本は天皇を失うことを欲せず、これをその降伏条項に盛り込むことを要求した。事実、多くの日本の指導者たちは1945年の5月までに戦争を終らせる決定をし、日本軍の指導者達にそれを納得させる努力をし、彼らから降伏の条件を出させようとしていた。不幸にもラジオ東京は1945年7月28日、日本は降伏せず戦い抜くと宣言し連合国の降伏条項に回答しなかった。

米国は政治的理由からこの戦争をなるべく早く終らせたいと考えていたので、原爆投下を遅らせる積りはなかった。1945年8月6日、little Boyが広島上空1,750から1,900フイートで爆発した。目標の相生橋から550フイート外れた。1945年8月9日、Fat Manが長崎上空約1,650フイートで爆発した。この爆弾は目標から1マイル以上外れたが、それでも長崎市の半分を破壊した。1945年8月11日、日本は天皇制維持を条件にして降伏を決めた。日本はスイス政府を通じてこのメッセージを米国に伝えた。第三者を巻き込んだ議論の末、日本は1945年8月15日正式に降伏した。
写真:広島原爆のキノコ雲

I.爆弾の使用に反対する意見

第二の重要な異議申立はこの爆弾を作った科学者達から起った。今や彼らはこの爆弾を使用してはならないと主張したのだ。多くの科学者は倫理的理由からこの爆弾を使うべきでないとの結論に達した。彼らはまた、第二次世界大戦後に始まった軍備拡張競争についても警告した。1945年6月11日付のフランクレポートに多種の意見が寄せられている。そこにはグレン・シーボーグ(ノーベル賞を受賞し、元素名にその名を残す唯一の生存者)およびレオナルド・ジラードが含まれている。だが、政治家はそれに耳をかそうとしなかった。ビルネスは科学者達により強力な水爆を開発させる決定を下した。1945年9月11日付のスチムソンから大統領に宛てた手紙と覚書の中でスチムソンは“ソビエト側がこの爆弾の開発に熱中することは事実上、手のつけられない性格の秘密軍拡競争につながるであろう。もうすでにそれが始まっているということを示す証拠がある。”と述べている。こうして、科学者達がロシアを信用しないという風潮を引きずって冷戦が始まった。

日本のオブザーバーが最初にこの爆弾の威力を確認出来るデモンストレーションなしに使用してはならない、とトルーマン大統領に勧告するフランクリンレポートの内容について論争が始まった。これは一方では日本列島に爆弾を使用せずに降伏させる機会を与えたようなものだった。フランクリンレポートはJ.フランク、G.T.シーボーグ、L.シラード他により支持された。不幸にもマンハッタン計画は今や科学者の手を離れ、軍事問題となっていた。インタビューの中でシーボーグは、米国がこの爆弾のデモを行わない理由はより多くの爆弾を作るに十分なウランとプルトニウムを持っていないからであろうといった。 シラードはアインシュタインと共にこの計画を始めた責任者である。そのアインシュタインは“私は一生のうちで最大の失敗をした。私が原爆を造るべきだと勧告するルーズベルト大統領への手紙にサインしたとき、ある判断があった。−それはドイツがそれを作る危険性があったからだ。”といっている。 シラードはマンハッタン計画の中心になった冶金研究所(MetLab)から、そこの69人の研究者と共にトルーマン大統領宛に原爆使用に反対する手紙を送った。不幸にもこの手紙は用をなさず、トルーマン大統領は爆撃を支持し続けた。 シラードとその他の人たちは原爆使用に反対し続けたが成功しなかった。1962年、シラードは住み良い世界評議会というワシントンロビーグループを設立し、核軍縮とそれとは異分野の政策に巻き込まれていった。1946年、彼も原子力委員会のシビリアンコントロールの確立に加わっている。

すべての科学者が原爆使用に反対したわけではなかった。A.H.コンプトン、E.O.ローレンス、J.R.オッペンハイマー及びE.フエルミの報告書“核兵器を直ちに使用することについての勧告”のなかでオッペンハイマーは委員に対し、“我々は戦争を終結に導くことができる技術的なデモンストレーションをなし得ず、軍用に供し得る別の容認できる手段を持たない。”と書いた。多くの科学者は、米国は日本を攻撃したわけではなく、米国を最初に攻撃した国から自分自身を守る(リメンバーパールハーバー)のが原爆であると考えた。しかし、これら科学者の多くは第二の爆弾をかくも早く使用することについては反対であった。彼らは、米国は日本が降伏するのを待ち続けるべきだと考えた。

戦後、マンハッタン計画が終了した後、オッペンハイマーは核兵器を発明したことを悔いるようになった。というのは、彼の主要なライバルのエドワード・テラーが水爆を開発し始めたからである。水爆は核融合の原理を用い、核分裂より強力である。マンハッタン計画の間中、オッペンハイマーは後悔し続けた。トリニティテスト後、オッペンハイマーは技術者達に向き直って、真面目な口調で“私は破滅、世界の破壊者、を迎えた。”といった。傍の同僚はオッペンハイマーに向って“今や我々は同じ穴のむじなだ。”といった。1946年までに原子力委員会がシビリアンコントロールのもとで設立され、オッペンハイマーは総諮問委員会の長になった。この委員会は技術的な助言はもとより、その決定に多くの影響を与えた。オッペンハイマーは、国連が核開発により統制力が発揮できるよう遠慮なく発言した。軍事政策に興味を抱く多くの人たちはそんな発言をするオッペンハイマーに恐れを抱くようになった。

1952年、オッペンハイマーは共産主義者に同情的だとして、グレーボード公聴会に告発された。このオッペンハイマー公聴会は誰よりも共産主義者を恐れたジョセフ・マッカーシーの時代に行われた。オッペンハイマーは自分の安全保障を失った。以下は、原子力委員会へオッペンハイマーの安全保障の取り消しを通告した手紙の該当部分である:
原子力委員会
ワシントンD.C. 25
1953年12月23日
J.ロバート・オッペンハイマー博士が制限されたデータ及びその他機密の防衛情報に接近することを停止する。現在のところ、彼の認可が取り消されたことをも機密とする。

オッペンハイマーは彼が核兵器統制に反対を唱えたため、機密閲覧許可を取り消されたのだ。

ネイル・ボーアはこの新たに発見されたエネルギーの平和利用の主導者になった。1950年、ボーアは米政府に送った書簡集を出版した。その中で彼は核兵器のない世界を主張している。彼はその後の人生を核開発の邪悪な利用について語りかけることに費やした。
写真:長崎原爆のキノコ雲

J.決定とその結果

第二次世界大戦中、トルーマン大統領は二個の原爆の投下を命じた。この小節ではこの爆撃が日本国民にどんな影響と衝撃を与えたか公平に評価する余裕がない。私は以下で、原爆の破壊力の今後を見通すことにしたいと思う。

1945年8月6日 、エノラゲイと命名された一機のB-29“空の要塞”が広島市に“リトルボーイ”として知られるウラン爆弾を投下した。この爆弾は標的の相生橋から550フイート外れた。その威力はTNTの18キロトン相当であった。この爆弾が標的を外れても 、爆発力はその橋はもちろん市街を広く破壊した。瞬時に66,000人が死亡し、69,000人が負傷した。物語はこれで終らなかった。放射性降下物のために、もっと多くの人が死んだ。1945年の終りまでに広島で140,000が原爆によって死んだ。1945年以降は放射線が主要な死亡要因になった。1946年から1951年の間に、60,000人以上が放射線による病気で死んだ。不幸にも 、米国はその三日後、第二の爆弾の投下を決めたのだ。
写真:2003年8月、スミソニアン航空博物館に展示されたエノラゲイ

1945年8月9日、ボックスカーと命名された第二のB-29“空の要塞”が“ファットマン”というプルトニウム爆弾を長崎に投下した。この作戦は幾つかの問題に悩まされた。この航空機は小型増槽を積んで離陸した。長崎上空には雲があり目標標準が困難であった。燃料が残り少なく、雲の切れ目から爆弾を投下する決心をした。爆弾は標的より1マイル以上外れた。それでもこの爆弾は山間の町ばかりでなく市の半分を破壊した。このプルトニウム爆弾はウラン爆弾より、より強力であったが爆弾が外れたため、被害は少なかった。瞬時に 、39,000人が死亡し、25,000人が負傷した。しかし、放射能の毒性による被害はそれからであった。1945年末までに、この原爆により長崎市民70,000人が死亡した。

最後に、原爆の使用とその開発の決定とは双刃の剣だと言いたい。私はストッフの著書にある1945年11月1日までには日本が降伏したであろうとのコメントに同意する。終戦後 、ソビエトに太平洋で影響力を持たせてはならないのだ。日本は資源の少ない島国で、海上封鎖により絞め上げられている。原爆によってソビエトの影響力が戦後、直ちにしかも大々的に及ぶのを避けられたかもしれないが 、それでも数ヶ国が共産主義に転向しソビエトの傘の下に入った。原爆開発はドイツが同じことをやっていたから必要であった。だが、核の脅威国ドイツは1945年5月に降伏した。日本は核兵器を持っていなかったのから 、この国に原爆を使用する必然性は全くなかったのだ。

広島と長崎の罪のない人たちを殺したことは全く弁明の余地がない。戦場で戦う兵士や成人を殺すのは理解するにしても、子供まで殺すことは正当化できない。トルーマン大統領は、日本に原爆を落すというすべての計画を中止せよという彼の命令に関する1945年8月10日付の彼のコメントに見られるように上述の考え方に同意している。中止する理由は“彼は特にこれら子供のすべてを殺す考え方は好ましくない”と考えたからであった。こういった殺人は米国のイメージを汚した。和平の努力はすでに日本側で進められ、原爆投下以前に米国側で十分注目されていたのだから 、日本に機会を与えてやるべきであった。スチムソンのメモや、彼が1945年7月2日に大統領に出した手紙の中で日本の現状を述べ、“日本は、我が国の一般の報道機関やその他の一般のコメントに示されているよりはるかに危機に敏感である。”と述べている。米国は原爆を投下したことでスチムソンがこの手紙で述べているように 、日本へのモラルの優位性を喪ってしてしまったのである。

第二次世界大戦後に起った冷戦で両国は資源を大量浪費した。これらの浪費は防衛産業に多くのブームを生み、そこから革新的な新しい製品が発明された。我々はソ連が滅びるのを見てきたし、封じ込め政策が機能して米国が勝ったことを実感したが 、それが長崎や広島で民間人や子供を殺しただけの価値があっただろうか?私は否といいたい。

次の二つの引用文は科学と無責任さに係わる問題を最もよく総括している。最初にマンハッタン計画の科学指導者であったロバート・オッペンハイマーの次の言葉を紹介する:
“科学の深層はそれらが価値があるが故に見出されず、それらを見出すことができるが故に見出される、ということは深遠で必然的な真理である。”
科学者たちは自分たちがどんなことをできるか自分自身に問いかけるのに繁忙で、自分たちがそれをすべきか否かを問いかけることを忘れることを私はよく承知している。科学者がいる限り、クローン羊 、牛そして多分人間について今日行われている論争のような倫理的論議が絶えないであろう。科学者たちは自らの行動に責任を持たねばならない。

引用の第二は、1948年に米陸軍参謀長オマール N.ブラッドレーが述べた:
“我々には科学者は大勢いるが、神となる人は少数しかいない。我々は原子の神秘を手に入れたが、山上の垂訓を拒絶した。世界は英知なしで繁栄を、良心なしで権力を得た。我々は核の巨人と倫理の幼児の世界にいる。我々は我々が平和について知っている以上に戦争について知っており、生きていくことを知っている以上に殺すことを知っている。”

マンハッタン計画は我々の人生の総てを変えた。それは人類の歴史と文化を変えた。我々が学んだ究極の教訓は科学者、そして結局は市民、がその行動に責任を持つべきだということである。科学は我々の生活の改善に用いられこそすれ我々の破壊に用いてはならないのだ。(以上)

(訳注)山上の垂訓の一節:
まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国にはいれません。昔の人々に「人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。 」と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者はだれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって 「能なし」と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、「ばか者」と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。(マタイ伝5章:20〜22)
 

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