B-29超空の要塞
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2003.6.19改定

第314爆撃団(グアム駐留)第330爆撃群所属B-29

目    次

1

XB-29技術試験機

2

YB-29実用試験機

3

B-29量産機

4

B-29A改良型

5

B-29B改良型

6

その他の改良型

7

マッターホルン作戦

8

マリアナからの日本爆撃

9

ツポレフ Tu-4

10

(訳注)ルメイ司令官

11

(訳注)B-29エンジン


B-29の開発過程から、日本本土爆撃に至るまでを一貫して記述した下記資料の翻訳です:
 Joseph F. Baugher "Boeing B-29 Superfortress"
  http://home.att.net/~jbaugher2/b29_1.html
その他参考資料:
 John M. Campbell "Boeing B-29 Superfuortress"
 Jacob Vander Meulen "Building the B-29" (Smithsonian Institute Press)
 Rex Alan Smith and Gerald A. Meehl "Pacific Legacy" (Abbeville Press) 

 第二次世界大戦ブックス4"B-29"(サンケイ新聞社出版局)

太平洋戦争後期、最初のB-29部隊として編成された第58爆撃団が前進基地の成都から長駆、九州や満州を爆撃しました。この時、燃料が欠乏してウラジオストックに着陸を求めて飛来したB-29をソ連が没収し、これをもとにTu-4というコピー機を製造しました。
第二次大戦後、Tu-4が逆に米本土にたいする脅威になり、米軍はこれに対抗するため早期警戒レーダー網、ナイキ地対空ミサイル及びジェット要撃戦闘機など非常に高価な対空防御システムを開発せざるを得なくなったのは皮肉なことです。

なお、上記資料は文章のみで構成されており、ここに掲載するB-29等の写真はメーリングリスト"B-29Superfortress"等から選んで掲載しました。

1.XB-29技術試験機  

(1) 自社研究の開始

B-29の起源は、ボーイング社のモデル316プロジェクトにさかのぼる。この航空機は1934年のXB-15から直接由来する。XB-15と異なる主な点は、主翼の位置を胴体の下から上に移したことと、前脚に降着装置を取り付けたことである。XB-15はパワー不足であったため、モデル316は四基の2,000馬力ライトR-3350二重遠心式18気筒空冷エンジンに換装した。このエンジンはそれまでに無かったものである。

次の段階は1938年3月のボーイングモデル322で、三輪降着装置を持つB-17を与圧化する要求を陸軍から受けて設計された。ボーイングは最初の与圧旅客機として商用化されたモデル1307ストラトライナー旅客機を作っていたので与圧航空機には経験があった。モデル322は、幾つかの点でストラトライナーに似ており、標準のB-17主翼と尾翼、そして新しい大きな直径の胴体を持っていた。モデル322は前脚降着装置と四基のプラットアンドホイットニーR-2180軸流エンジンを搭載した。最高速度は高度25,000フイートで時速307マイル、最大爆弾搭載量は9,920ポンドであった。当時、陸軍はこの計画を進める予算がなく、ボーイングが勇気をもって自社開発することにした。

更に研究を進めて、1938年末にモデル333Aができた。この機体は四基のアリソンV-1710 12気筒液冷エンジンが直列に並んだエンジンを搭載した。しかし、客室全部を与圧することは、弾倉を高空飛行中に開けなければならないので実際的ではなかった。従って、乗員が搭乗している頭部と中央部のみ与圧することにした。頭部と中央部の与圧乗員区は弾倉上部をまたぐ与圧トンネルで結び、飛行中に乗員が移動できるようにした。この方法はその後、すべてのボーイング長距離爆撃機の設計提案に採用された。

アリソン液冷エンジンの高空性能が劣るため、新たにライトアンドプラット・ホイットニー遠心式エンジンを搭載する案が出た。1939年2月、これがモデル333Bになった。このモデルは四基のライトエンジンを厚い翼の中に埋め込むものであった。重量52,180ポンド、最高速度は20,000フイートで毎時364マイルになるはずであった。航続距離は2,000ポンドの爆弾を搭載して2,500マイルと予想された。

1939年3月モデル344が提案された。航続距離を4,500マイルに延伸する燃料を搭載するために翼幅を120フイートに伸ばした。プラットアンドホイットニー遠心式エンジンは翼の中に埋め込んだままであった。尾部兵装を搭載するため、方向舵付双尾翼とした。機体重量66,000ポンド、最大爆弾搭載量7,830ポンドであった。

1939年7月ボーイングは更に設計を変更し、モデル344Aが生まれた。モデル344の埋め込みエンジンを止め、四基の通常搭載型ライトR-3350軸流式エンジンと単尾翼に置き換えた。高い縦横比で翼幅135フイートの翼が採用された。このボーイングの提案が最終的なスーパーフオートレスの形状として認められるようになった。

1939年12月ボーイングは自己資金でこの爆撃機の設計を行い、木型模型を作った。その翼面荷重は1平方フイートあたり64ポンドで、乗員数11名と爆弾2,000ポンドを搭載して、5,000マイル以上を飛ぶことができた。写真:最終形状に近いモデル341

(2) 公式要求書

その間、陸軍航空部長のヘンリー H.アーノルド大将は、ヨーロッパで起きつつある戦雲と中国への日本軍の進出に不安を抱いていた。彼は、W.G.キルナー准将を委員長とする特別委を設立し、陸軍航空隊に対する長期的なニーズについて勧告をさせた。有名な飛行家チャールス・リンドバーグも委員になった。それ以前、リンドバーグはドイツの航空機工場を視察し、ドイツは敵と思われるヨーロッパ諸国より先を行っていると確信していた。1939年6月にまとめられた報告書で、キルナー委員会は何種類かの長距離中型重爆を開発すべきであると勧告した。

1939年9月3日のヨーロッパでの戦争の勃発による新しい危機にせかされて、アーノルド大将は将来のどの戦争もアメリカ沿岸より遠く離れたところで出来るような超長距離(VLR)爆撃機の研究を主要な航空機製造会社に委託するよう求めた。これは12月2日に承認され、ライト飛行場にある空軍補給司令部のドナルド L.プットの下で米国陸軍航空隊技術士官が仕様書の作成を始めた。

1940年1月、陸軍はVLR"超爆撃機"対する公式要求書を発行した。この要求書は速度毎時400マイル、距離5,333マイル、そしてその半分の距離で投下できる爆弾搭載量を2,000ポンドとしている。これが、データR-40B及び仕様書XC-218の要求書の基礎になった。

1940年1月29日、戦時政府はVLR"超爆撃機"データR-40Bを発行し、ボーイング、コンソリデーテッド、ダグラス及びロッキードに送付した。この公式仕様書は初期のヨーロッパ戦で学んだ戦訓と、より防御能力に優れた兵装、装甲及びセルフシーリング燃料タンクの要求を新しく盛り込んで4月に改定された。

ボーイング社はこの要求書と同じ道筋に沿って研究を進めてきたので、この指名競争に参加したのは当然だった。

1939年4月、ボーイングはモデル341計画を始めていた。その機体の主翼は翼幅124フイート7インチの高縦横比で、新しい高揚力装置付であった。モデル341は25,000フイートで最高速度毎時405マイル、四基の2,000馬力プラットアンドホイットニーR-2800星型エンジンを搭載し、機体重量85,672ポンドで爆弾を1トン搭載して7,000マイルを飛ぶ。距離が短いと、爆弾を最大10,000ポンドまで搭載できる。

データR-40Bを満たすため、ボーイングはモデル341の設計を変更しモデル345とした。モデル345は与圧式で、モデル341のR-2800の替りに四基のライトR-3350を搭載し、乗員12名、ダブルタイヤの三軸降着装置を前計画のように翼の中に横に引き込むのでなくエンジンナセル内に引き込むようにし、二連装0.5インチ機関銃を搭載する四個の砲塔と二連装の機関銃及び20ミリキャノンを搭載する尾部砲塔を持つ。引き込み可能なスペリーの砲塔は乗員が潜望鏡を通して視界を見ながら遠隔操作できる。モデル345は巡航速度毎時290マイルで、要求の5,333マイル以上を爆弾1トンを搭載して飛行できる。最大見積速度は25,000フイートで毎時382マイル、機体重量は97,700ポンドであった。

写真:中部胴体透視図(胴体上部:与圧トンネル、主翼付根前後:爆弾倉)

(3) 開発開始

モデル345の設計書が1940年5月11日にボーイングから正式に陸軍へ提出された。陸軍はこれに興味を示し、6月17日にボーイングに追加の研究と風洞試験を委託し、6月27日にその資金を与えた。
1940年6月27日、陸軍は選択の対象にした四社、ボーイングXB-29、ロッキードXB-30、ダグラスXB-31及びコンソリデーデッドXB-32、に対し"超爆撃機"の基本設計データを求める契約をした。ロッキードとダグラスは競争に不利と見て、詳細設計完了前に競争から撤退した。
1940年8月24日、陸軍はボーイングにXB-29の名で2機の飛行試験機と1機の静強度試験機体を発注した。コンソリデーデッドにも2機のXB-32を発注したが、これはXB-29が万一失敗したときのバックアップ用であり、契約は9月6日に行われた。
11月末に、陸軍はXB-29の実大木型模型を審査して非常に印象深くしたので、12月14日3機目の試験機を追加した。

その他の会社の木型模型審査は1941年5月に始まった。米国に戦争の気配が高まりつつあったので、B-29プロジェクトは更にせかされるようになり、実用試験機YB-29型14機が発注された。
1941年5月17日、陸軍はB-29量産機250機を発注したと発表した。この機体は政府所有の新しいカンサス州ウイチタ工場をB-29生産用にボーイングにリースして作ることになり、1941年9月に発注された。真珠湾が奇襲され米国が参戦した後の1942年2月に機数は500機に増えた。

1942年3月には1,000機以上のB-29が発注され、陸軍はボーイング以外の三社、即ち
  ベル航空機がジョージア州マリエッタの新工場
  ノースアメリカン航空機がミゾリー州カンサス市の新工場
  ジェネラル・モータースのフイッシャー機体部門がオハイオ州クリーブランドの自社工場
でB-29の生産に参加することになった。未だ飛んだことのない"ペーパー"航空機に対する発注であり、過去のB-26マラデール発注時と同じであった。

現実に生産が始まる前、カンサス市のノースアメリカンはB-25ミッチェルに集中することとなり、そこに予定されていたB-29置場はワシントン州レントンにあるボーイング社の他の工場に移された。このボーイング・レントン工場は最初海軍が双発パトロール爆撃用水上機であるボーイングPBB-1シーレンジャーの生産用として建設された。その後海軍と陸軍航空隊との間のトレードでPBB-1プロジェクトをキャンセルし、B-25ミッチェルやB-24リベレータのような陸上を基地とする爆撃機を海軍に引き渡す代わりにレントン工場をB-29の生産に引き当てることとなった。

後に、フイッシャーもP-75護衛戦闘機に集中することとなり、そのB-29生産プールはネブラスカ州オマハの自社工場でB-29を生産する契約を得たグレン L.マーチン社に代わった。
これら機体組立を行う主要四社に加えて、B-29の主な構成品や子組立を作る複雑な従契約体制が全米を通じて設定された。クライスラー、ハドソン、グッドイヤー、ブサッグス、ムレー及びセスナが主要な機体構成品を製造する会社として選ばれた。

円形断面の胴体の中央に配置された高縦横比の主翼が特徴のモデル345は、、フエアチャイルド社PT−9A練習機(シリアル番号41-20531)の翼をB-29主翼のモックアップの4分の1に置き換えて飛行試験が行われた。B-29の翼面荷重は非常に高く設計されていたので、着陸速度がどうにもならないくらい速くなり、これを防ぐために特別な対策が必要になった。フアウラー型フラップがこの翼の揚力係数を増やしてくれる見通しがついたので問題は解決した。このフラップを伸張すると全主翼面積が20%増加した。内側のエンジンナセルの後部はフラップの特性を改善するために変更された主翼後縁の後方まで延長された。設計の際、前部胴体は93フイートから98フイート2インチに延び、頭部は流線型で透明な天蓋になった。垂直尾翼には大きな前部ドーサル延長部が加わり、非対称飛行時の操縦性を改善した。

人が乗る砲塔はB-29の運用高度では実用的でないとして退けられ、遠隔制御兵装システムがモデル345に採用された。2連装0.50インチ機関砲を搭載した砲塔四個、胴体の上面に二個、下面に二個、が搭載された。五番目の砲塔は尾部に搭載され、尾部射撃手が直接操作する。この砲塔は2連装0.50インチ機関銃と20ミリ砲を搭載する。ベンデイックス、ジェネラルエレクトリック、スペリー及びウエスチングハウスの四社がこの兵装システムを開発する契約を争った。引き込める砲塔を潜望鏡で照準するスペリーのシステムが初期の契約を得た。

爆弾は、二区画に分けられ、それぞれが扉を持つ弾倉に搭載される。爆弾は機体のバランスを保つため、インターバロメーターによって制御されつつ前後の弾倉の間で交互に投下される。

B-29のエンジンは全く新しい2200馬力ライトR-3350デユプレックスサイクロン二重18気筒空冷星型である。高空で最大出力を得るため、このエンジンは通常一個のところ二個のスーパーチャージャーを備えている。ミネアポリスハネウエルの電気システムにより自動制御されるジェネラルエレクトリック社のB-11スーパーチャージャーである。このエンジンは三枚羽根の直径17フイートプロペラを駆動する。プロペラはエンジンクランク軸100回転あたり35回転になるようギアダウンされる。ナセルの設計は、特に空気抵抗を減らすよう工夫された。

B-29の構造は全くありふれた設計で、全金属製だが操舵翼のスキンは織物で出来ている。各降着装置は単輪から双輪に替えられた(写真:プロペラは三枚羽根)。

乗員は10人から14人と考えられたが、通常は12人である。その内訳はパイロット2人、航法手、爆撃手、飛行エンジニア、通信手、レーダー手及び射撃手5人である。爆撃手は頭部に座り、爆撃照準器と機関銃照準器を操作する。パイロットと副パイロットとは装甲板の後に防弾眼鏡をかけて並んで座る。飛行エンジニア、通信手及び航法手はパイロットのコックピットのすぐ後方に乗る。後方の与圧室には射撃手4人とレーダー手が乗る。全員は装甲隔壁で防護される。尾部射撃手は最後尾の独立し、与圧された部屋に乗る。彼は与圧せずに飛行するときのみ、その部屋を出入りできる。

(4) 飛行試験

1942年9月21日、最初のXB-29(41-0002)がボーイング飛行場でボーイングの主任パイロット エドムンド T."エデイ"アレンの操縦で初飛行した。この時点までに1664機のB-29が発注されていた。最初、兵装は搭載していなかった。

エンジンは、17フイート三枚羽根プロペラ付R-3350-12四基であった。不幸にも、初期のR-3350エンジンは絶え間なくオーバーヒートを起こし、特にほんのちょっとしたことで発火する傾向があった。12月までにアレンは23回の試験飛行のうち、27時間しか飛行出来なかった。エンジンは16個交換し、排気系は19回再検査し、気化器は22個交換せねばならなかった。ガバナーにも問題があった。

12月28日、試験機のR-3350エンジン一基が飛行試験中に出火したので、アレンはすぐにボーイング飛行場に引き返した。エンジン問題を除いては、B-29の性能と操縦性は素晴らしいことがわかった。このB-29初号機は戦争中、試験機として使用された。

12月30日、二番目のXB-29(41-0003)が初飛行したが、エンジン出火のために打ち切られ、エンジンを交換するまで以後の試験は中止された。1943年2月18日、XB-29の第一エンジンを取り外し第二エンジンを搭載して二回目の飛行を行った。しかし、8分後に消火不能のエンジン出火が起り、緊急着陸しようとした。ボーイング飛行場に着陸する時、火が主翼の主桁を伝って燃え広がり主翼が折れ曲がった。焔に包まれたXB-29は近くのフライ肉類出荷工場に墜落し、パイロットのエデイと乗員及び地上にいた労働者約20人が死亡した。

この事故は、B-29計画の遅延にいつも不機嫌であったルーズベルト・フランクリン大統領に至る一連の司令部に波紋を投げかけた。ルーズベルトは1943年末までにB-29をインドに送り、日本爆撃を開始したいとしていた。防衛調達の不正な代価要求やその他の違反を摘発するハリー・トルーマン上院議員の国防問題調査特別委がB-29計画を調査して、ライト航空機が標準以下又は欠陥のあるエンジンを出荷したことに問題があると結論した。また、米陸軍航空隊にもライト社にエンジン出荷を早めるために、余りにも強い圧力をかけたことにも非難の一部が浴びせられた。

三機目の試験機(41-18335)は1943年6月に初飛行した。この機体は最初の二機で得た経験をもとに十分改良したエンジンと装備品を搭載し、生産ライン確立のためウイチタへ送られた。そして武装と飛行試験を早めるため、直ちに米陸軍航空隊に引き渡された。この機体もまた墜落したが、基本的な設計の可能性を立証したあとのことであった。

2.YB-29実用試験機 

YB-29実用試験機14機はカンサス州ウイチタのボーイング工場で製造された。最初のYB-29(41-36954)がウイチタの組立ラインで完成したのは1943年4月15日、初飛行は1943年6月26日、エンジンはR-3350-21四基で三枚翅プロペラのままであった。

1943年6月1日、最初のB-29戦闘部隊・第58(Very Heavy)爆撃団が、最初のB-29の出荷に先立ってジョージア州マリエッタで編成された。7月までに7機のYB-29が米陸軍航空隊に納入され、その新大隊に配備された。

(1)火器管制システム

潜望鏡の方向に砲身を向けられ、かつ引き込み可能な砲塔はB-17フライイングフオートレス、B-24リベレータ及びB-25ミッチェルの初期バージョンに採用された。しかし、実戦では全く不成功で、あるものは飛行場で取り外された。最初のXB-29三機にスペリー社の引き込み可能な砲塔と潜望鏡を搭載して試験の後スペリーとの契約は破棄され、ジェネラル・エレクトリック社に代わった。そのシステムは固定砲塔で、射撃手がコンピュータ付のガンサイトを操作して砲を遠隔制御する。砲塔は五ヶ所ある:上前方、上後方、下前方、下後方及び尾部。各砲塔は二連装0.50インチ機関砲を、尾部のみ更に弾薬100発付20ミリキャノンを搭載する。尾部以外のすべての砲は一団の射撃手により遠隔照準し射撃できる。射撃手が照準できる位置は爆撃手が操作する頭部最前方と、後方与圧室内の三箇所、合わせて四箇所である。

四箇所の射撃手照準位置には反射式ガンサイトが置かれている。各ガンサイトは電気系統につながり、ガンサイトの方向に砲を向け発射する電気指令を砲に送る。射撃手はサイトの両側にある二つの丸いノブを握って、砲の向きを変える。この照準器は、手首を前後方にねじると支持台の上で水平方向に、上部は仰角方向に回転する。照準機構には、視界の内側からレンズを通して上方に点の模様を投射する白熱光源がある。この模様の中央に点があり、その周りを点が円状になって一枚のガラス上に焦点を結ぶ。射撃手が右手のサイドノブを前や後にねじると、点で作られた円が縮んだり拡がったりする。サイトの背後にある一個のダイヤルで敵機の翼幅を設定できる。コンピュータを立ち上げると、目標を滑らかに追尾するようになる。ジャイロが敵機の翼端をスキャンし、これらの電気信号が砲塔に送られ、距離を補償して砲を上げ目標に向ける。右方のノブには30度に開くようスプリング負荷がかかった金属製の上げ蓋に"dead-man"スイッチがついている。このノブを手のひらで押さえつけると砲塔は作動状態に入る。

砲塔は通常、上前方を爆撃手が、上後方を上部射撃手が、そして下前方と下後方は二人の側方射撃手が操作する。爆撃手と尾部射撃手以外の射撃手は二個の砲塔を同時に照準・射撃できる。中央火器管制(上部)射撃手は二人の側方射撃手席の間の上段にある中央射撃部の席に座る。彼が戦闘状況の全景を最もよく見ることができるので、マスター射撃盤を操作してどの射撃手がどの砲塔を制御すべきか、そして敵機をよりよく見える射撃手に目標を指定して必要な火力を集中できる。尾部砲塔は尾部射撃手のみ操作でき、敵機を他の射撃手に引き渡すことは出来ない(写真)。

この機銃システムにより、砲塔射撃手を一人減らして乗員を11人にできた。こうして乗員は、パイロット(機長)、副パイロット、爆撃手、航法手、飛行エンジニア、通信手、レーダー手、中央火器管制射撃手、左射撃手、右射撃手及び尾部射撃手となった。

この新しい遠隔制御兵装システムは最初、XB-29の三番機に搭載された。ところがこのシステムは大電力を必要としたので、特別仕様の発電機を数台増設せねばならなくなった。これがB-29の生産開始を一層遅らせ、機体重量を105,000ポンド以上に増やす結果になった。

(2)液冷エンジン

実用試験中、三枚翅のプロペラをハミルトン・スタンダード社の四枚翅に置き換えた。

YB-24の一番機(41-36954)はジェネラル・モータースに引き渡され、液冷アリソンV-3420エンジンを搭載して引続き試験に供された。この変更機体は後に、XB-39と改称された。V-3420エンジンは基本的にはアリソンV-1710 12気筒液冷エンジンをV型に配置して、一本のプロペラ軸につないだものである。公称出力は25,000フイートで2100馬力であった。機速は35,000フイートで毎時405マイルに増加したが、生産に入るほどの著しい性能向上ではないとされた。

3.B-29量産機

B-29スーパーフオートレス量産型は全部で2,513機作られた。
内訳は:
ボーイングのカンサス州ウイチタ工場で1,620機
マーチンのネブラスカ州オマハ工場で536機
ベルのジョージア州マリエッタ工場で357機

(1)仕様の変遷

このB-29は直径16フイート7インチの、完全にフエザーできる四枚翅のプロペラを装備している点がそれまでの試験機と異なる。エンジンは、戦時緊急定格2,300馬力のライトR-3350-23である。ウイチタで作られた初期の機体はオリーブ淡褐色/灰色のカムフラージュ塗装であったが、その後は無塗装になった。

1943年9月、最初のB-29量産機がボーイング・ウイチタの生産ラインを離れた。1944年2月、ベル・マリエッタの生産ラインから最初のB-29が姿を現した。マーチン・オマハのB-29は1944年中頃から出荷されるようになった。ボーイングの新しいレントン工場はB-29Aだけを作った。

B-29の乗員は、パイロット、副パイロット、爆撃手、航法手、飛行エンジニア、通信手、レーダー手、中央火器管制射撃手、左射撃手、右射撃手及び尾部射撃手の11人である。最初の6人は前部与圧室に、後の4人は後部与圧室に乗る。尾部射撃手は尾部の別の与圧室に乗る。戦争末期、乗員の数はたまに、レーダーと電子妨害装置を操作するために2人のレーダー/通信手を加えて、13人が搭乗したこともあった。

燃料は最大容量8,168USガロンのタンク(外翼に14個、内翼に8個及び弾倉に4個)に搭載された。初期の改良で、中央翼に4個のタンクが追加され、全燃料容量は9,438USガロンとなった。

初期のB-29は、フイルコAN/APN-4ロラン(Long RANge)定ビーム航法支援装置を搭載したが、第二次大戦の終りにはより進んだRCA AN/APN-9システムに置き換えられた。

B-29はAN/APQ-13レーダー爆撃/航法支援装置を搭載した。この装置はベルテレホン研究所とマサチュセッツ工科大学が共同開発し、これを当時ベルシステムの製造部門であったウエスタン・エレクトリックが製造した。この装置用のレーダーアンテナは両弾倉の間にある30インチの半球型で引込めるレドームに収納され、引き出すと胴下に数フイート突き出る。
戦争末期には、AN/APQ-7イーグル・レーダー装置が用いられるようになった。イーグル用アンテナは翼の形をしたレドームに納められ、前部胴体の下面に装着された。この装置もまたベル研とMITが発明し、ウエスタン・エレクトリックが製造した。

(2)生産区分

生産区分には多くの変遷があり、ボーイング・ウイチタは5機ごとに区分番号100に、マーチンとベルはそれぞれ60と65に達した。

初期の戦闘教訓により、B-29は前方からの敵機の攻撃に対し防御を強化する必要があった。そのため、上前方砲塔の火器はボーイング・ウイチタ区分番号40から四連装0.50インチ機関砲になった。

初期のB-29では燃料を、外翼に14個、内翼に8個、弾倉に4個のタンクに最大容量8,168USガロン搭載できた。初期の改良によって中央翼に4個のタンクを追加し、全燃料容量は9,438USガロンになった。この容量増はボーイング・ウイチタで区分25から、ベルで区分5から、マーチンで最初から適用された。

R-3350-41エンジンはボーイングでは区分50から、マーチンとベルでは区分20から適用された。このエンジンには冷却能力向上のため、バッフルと潤滑油バイパス管が追加された。

尾部の20ミリキャノンから発射される砲弾の弾道は、0.50インチ機関砲の弾丸のそれとは全く異なるため、戦闘時には照準が困難であった。結局、20ミリキャノンはボーイング・ウイチタでは生産区分55、ベルでは区分25及びマーチンでは区分25から取り外された。

生産終了までに三社すべてがR-3350-57エンジンを使い始めた。

遠隔制御兵装システムの効果を疑問視する人達が、有人砲塔付のB-29-25-BW(42-2444)を生んだ。この機体は、人力操作上部砲塔と二個の人力操作腹部砲塔を持ち、それぞれ二連装0.50インチ機関銃を装備した。また、両側にそれぞれ0.50インチ機関銃を、また更に頭部両側の張り出し部に二基の0.50インチ機関銃を装備した。これと比較して、標準のB-29に搭載した遠隔制御兵装システムは妥当であることが立証されたのでこの兵器計画はそれで終了した。

最後のB-29はボーイング・ウイチタでは1945年10月に納入された。ベルからは1945年1月に、マーチン1945年9月に納入されたのが最後であった。

(3)ボーイングB-29スーパーフオートレスの仕様:
推進
ライトR-3350-23デユプレックスサイクロン18気筒空冷星型エンジン四基。
各エンジンはジェネラル・エレクトリック社ターボチャージャーを二個装備。
離昇時2,200馬力、緊急定格は25,000フイートで2,300馬力。
性能
最大速度:30,000フイートで、毎秒357マイル 
     海面上で、毎秒306マイル
最大連続巡航速度:30,000フイートで、毎時342マイル
経済巡航速度:25,000フイートで、毎時220マイル
初期上昇率:戦闘重量で、毎分900フイート
上昇時間:20,000フイートへ、38分
実用上昇限:33,600フイート
最大距離:5,000ポンド爆弾搭載、25,000フイートで3,250マイル
実用行動半径:1,600-1,800マイル
最大飛行距離:5,600マイル、予備燃料を搭載して6,000マイル
重量
空虚時  : 74,500ポンド
正規搭載時:120,000ポンド
最大負荷時:135,000ポンド
寸度
翼幅:141フイート3インチ
全長: 99フイート0インチ
全高: 27フイート9インチ
翼面積:1,736平方フイート
兵装
0.050インチ機関銃:12丁を遠隔制御砲塔四基、胴体上部に二基、下部に二基、及び尾部に各1,000発の弾薬を装填して装備
20ミリM2タイプBキャノン:尾部に弾薬100発を装填して装備
爆弾:短距離、低高度で最大20,000ポンド
   5,000ポンド搭載時の行動半径は高高空で1,600マイル
   12,000ポンド搭載時は中高度で1,800マイル以上

4.B-29A改良型

B-29Aはスーパーフオートレスの改良型で、海軍のレントン工場でボーイングが製造した。この機体は基本的にはB-29と同じで、異なる点は主に主翼構造にある。B-29では二枚の主翼を翼の中心線でボルト結合し、胴体を貫通して一部品として組立てられ、エンジンナセルを懸架する。一方、B-29Aは中央部を短い切株式とし、それが胴体の両側に少し突き出ている。エンジンナセルを懸架した短い外翼はB-29と同じ位置で取り付けられる。この変更によって、B-29AはB-29に比べて更に翼幅を増やせるようになった。

B-29Aは四基のR-3350-57エンジンを搭載する。1119機のB-29Aが生産され、区分番号は75に達した。区分20で、20ミリキャノンを尾部砲塔から取り外したほか、上前方砲塔に前方から攻撃してくる戦闘機から防御する能力を増やすため一対の0.50インチ機関銃を追加した。

エンジンナセルは変更され試験の後、後期のB-29Aに適用された。このエンジンナセルはオイルクーラーとインタークーラーを後方に移したので、"あごのない"外観になった。このナセルはその当時の有名な漫画キャラクターの名をとって"アンデイ・グアム"というあだ名がついた。

初期の数機のB−29Aには、1秒以内にスナップショットする空気圧式弾倉扉が用いられた。通常の油圧式扉では閉まるのに7秒もかかった。

B-29はその重量のわりに、パワー不足という問題が常時つきまとった。出力を増やすため、B-29A一機(42-93845)をプラット・アンド・ホイットニ−に引き渡し、4列28気筒プラット・アンド・ホイットニーR-4360空冷星型エンジンの試験機にした。この機体は後にKB-44と呼ばれ、新しいエンジンを搭載していることと、オイルクーラーの空気取入口がナセル下部の更に後方に引下げられたことから、容易に識別することが出来た。この機体は、始めB-29Dとして生産命令が下ったが、戦争終結によりすべての契約は破棄された。このB-29D計画は、のちにB-50Aとして復活した。
写真:B-29コックピット(グリーン・ルーム) 

5.B-29B改良型

B-29Bはスーパーフオートレスの軽量化型で、すべてベル・アトランタで作られた。この機体は尾部砲塔のみ残して、その他の砲塔はすべて取り外した。何故ならそれまでの戦いで、後方から攻撃してくる敵戦闘機からB-29を守ることが大切であることが経験上、明らかになったからである。

尾部砲塔は、接近してくる敵機を探知し、要撃計算をするAN/APQ-15Bレーダーによって、自動的に発砲する。

砲塔と、それに関連するジェネラル・エレクトリック社のコンピュータ制御システムを取り外したため、スーパーフオートレスの最高速度は25,000フイートで時速364マイルに増加したので、護衛なしでヒットエンドラン爆撃や写真撮影を行うに適した機体になった。防護兵器を取り外すことによって削減できた重量のほとんどを爆弾を余分に積み込むのにふり向けることができた。B-29Bの乗員は通常、7から8人である。右及び左の射撃手は搭乗せず、中央火器管制射撃手は時には観測手になり、爆撃手の仕事はレーダー手が勤めた。

B-29Bは一つの大きなバッチではなく、B-29-BA(訳注:ベル・アトランタ)生産ラインに小さなバッチ(時には一機だけ)に分けて発注された。このB-29Bと、1945年ルメイ将軍の日本にたいする焼野原作戦に際し重量軽減のために機関銃を取り外した"通常の"B-29とを見分けることは困難であった。B-29Bはそのシリアル番号と、最後尾に搭載された外部レーダーアンテナによって、B-29と識別できた。

1945年1月から9月の間に合計311機のB-29Bが生産され、そのほとんどは1945年中にマリアナの第315爆撃団に送られた。

戦後、"Pacusan Dreamboat"(44-84061)と名付けられたB-29B一機が長距離飛行用に転換された。この機体は、もとは後期のB-29Aモデル用とされた"アンデイ・グアム"ナセルの改良型と、R-3350-CA-2燃料噴射エンジン及び特別設計の三枚羽根パドル型プロペラを装備した。そして1945年11月、グアムからワシントンD.C.への7,916マイルの無着陸飛行記録を含む幾つかの記録を更新する長距離飛行を達成した。

(訳注)B-29の機種別、工場別数量は下記の通りである:
機 種

シアトル

ウイチタ

マリエッタ

オマハ

レントン

アトランタ

合 計

XB-29

3

         

3

YB-29

 

14

       

14

B-29

 

1,620

357

536

   

2,513

B-29A

       

1,119

 

1,119

B-29B

         

311

311

合 計

3

1,634

357

536

1,119

311

3,960

6.その他の改良型

(1)B-29C

B-29Cという名称は、改良されたR-3350エンジンに換装されたB-29に対して与えられた。しかし、製造に入る前にこの計画は取り消された。

(2)B-29D/XB-44

ライト社のエンジンで推進されるB-29は常にその重量のわりに出力がやや低く、もし得られるならもっと大きなエンジン出力を必要とすることは明らかであった。この目標を追求するために、一機のB-29A(42-93845)が定格出力3500馬力の新しい四列28気筒プラットアンドホイットニーR-4360ワスプメジャー空冷星型エンジンのテストベッドに転換するためにプラットアンドホイットニー社に引き渡された。

この機体はのちにXB-44と改称され、オイルクーラーの空気取入口がナセル下部のずっと後方に移ったので、新型エンジンを搭載したことを容易に見分けることができた。

1945年7月、B-29Dという呼称で200機ほどが発注されたが日本に勝利した後、ただの50機に削減された。1945年12月、B-29Dという呼称をB-50Aに変えた。これは、すでに大規模に取り消された現存モデルや倉庫に放り込まれた多くの現存モデルの単なる後期モデルと考えるであろう調達側に理解を得るための計略であった。公式には、新しいB-50という呼称は、B-29Dに導入された変更が非常に多く、基本的には完全に新しい航空機であるという理屈であった。この計略は功を奏し、B-50は戦後の空軍の重要な戦力として生き残った。

(3)F-13

B-29-BW(訳注:ボーイング・ウイチタ)の一機(42-6412)は写真偵察任務用に特殊カメラを搭載し、F-13と改称された。Fは写真偵察シリーズを意味する。標準の爆撃装置と防御兵装はそのまま搭載された。

さらに117機のB-29-BW及びB-29Aが同様の改修を施されて、それぞれK-17B三個、K-22二個及びK-18一個のカメラを搭載すると共に、他の予備カメラが搭載できる装備をして、F-13及びF-13Aと称された。

1948年にこれらF-13は、RB-29及びRB-29Aと改称された。
写真:F-13(42-24877)、後胴下部に3個、左右両側面に1個宛カメラ撮影窓を有す。

7.マッターホルン作戦

(1)用途の変遷

B-29計画は当初、地球の半分を防衛するとの構想から始った。この爆撃機は、米国内の基地から発進して作戦を行い、将来のどんな敵とも米国の沿岸から遠く隔たった彼方で戦えるようにしようとするものであった。しかし1940年、戦時省は、有事には24群のB-29/B-32爆撃機を英国及び北アフリカの基地からドイツを爆撃する計画に変更した。

真珠湾の奇襲が起るまでは、支那の指導者・蒋介石総統を軍事援助してきたフランクリン・ルーズベルト大統領は日本軍の支那諸都市への空爆に報復しようと考えてきた。ルーズベルトは1940年12月のできるだけ早い時期に、米空軍のB-17を支那に移して日本都市の爆撃に使用しようとしたが、そのニーズにB-17でさえ適合しないことがわかったのでその計画は放棄された。支那はその代わりとして、戦闘機100機で満足せざるを得なかった。

真珠湾の後、連合国は枢軸国のうち先ず欧州諸国の打倒に重点を置きその後、日本に全力を投入することとした。しかし、1943年1月のカサブランカ会談の後、ルーズベルトは日本が支那を全部占領してしまわぬうちに、全力で支那を支援することを蒋介石総統に伝える決心をした。これを実行するため、ルーズベルトは数百機の重爆を送り、日本本土を攻撃させたいと考えた。B-17もB-24もこんな任務を果し得ず、ただB-29のみが可能であった。

その時点まではB-29の任務についておぼろげな提案しかなかった。B-29をドイツに対して使用すべきだとする幾つかの計画はあった。それは数群のB-29を北アイルランドとエジプトに駐留させようというものであったが、実際にはその基地は建設されなかった。蒋はB-29を直ちに支那に送り、日本を空から攻撃することを希望した。ジョセフ W.スチルウエル将軍とクレール L.チェノール将軍はこの提案を支持し、大統領にこの計画を発動するよう強く働きかけた。

日本軍が支那への陸路であるビルマ路とリド路を遮断したので、この計画は完全に空からの支援だけとなった。ジョージ C.マーシャル将軍はこの計画には莫大な補給が必要であることを十分わきまえていたし、すべての戦力を日本にふり向ける前にヨーロッパでの戦いに勝利したいという判断があったので、ヨーロッパ戦域から戦力をふり向けるについては用心深かった。にもかかわらず大統領は蒋の援助にこだわり、支那に300機の爆撃機を派遣せよと命じた。

1943年8月のケベック四頭会談でより決定的になった。そのとき、ヘンリー H.アーノルド将軍は一つの計画を提示した。それは新しく編成された第58爆撃団(Very Heavy)を1943年中にCBI(訳注:China/Burma/India)戦域に派遣し、支那の基地から飛び立って日本の目標を攻撃する、というものであった。その爆撃団はケネス B.ウオルフ将軍が指揮するB-29四群で構成する予定であった。ひとたび十二分のB-29を持つようになると、日本は六ヶ月以内に自国の兵器産業が破壊され戦争を続けられなくなり、日本本土を海上から侵攻するという金のかかる作戦は不要になると思われた。日本を1945年の中頃までに降伏させられるであろうと考えられた。

この特別なB-29計画はウオルフェ将軍のもとで人員及び資材の両面でマンハッタン計画に次ぐ最優先課題に位置付けられた。将軍はハーマン大佐を副官に、ラベルヌ サンダース将軍をB-29乗員訓練計画の責任者に選んだ。

アーノルドの原計画では、B-29を支那の南中央にある成都周辺の基地に常駐させることになっていた。燃料、弾薬、爆弾及び補給品はハンプ(訳注:ヒマラヤ山脈)を越えてインドから空輸する。統合作戦委員会と統合補給委員会とはアーノルド計画を作戦上非現実的であると退けたが、ルーズベルトはこのアイデアに非常に熱心で、蒋介石の幕僚であったスチルウエル中将にこれを回覧した。スチルウエルはすべてのB-29作戦を支那で行うことは補給路の長さから実際的ではないと指摘した上で、B-29を東インドの基地に置き、日本空襲の途中に成都を経由する計画を示した。この計画ならば、もしB-29自身を成都に臨時弾薬補給所を作りあげるに必要な爆弾や燃料を運搬する業務に使用すれば支那に複雑な基地設備を必要とせず、補給問題が簡単になる。統合参謀本部はこのアイデアに懐疑的であったが、ルーズベルトは引き続きこれに固執したので進めざるを得なくなった。

英国もこの計画に参加し11月10日、B-29作戦基地をカルカッタ周辺に置くことに同意した。同時に蒋介石も新しい五つの航空基地を成都周辺に建設することに同意した。

1943年6月1日、ベルのスーパーフオートレス工場に近いジョージア州マリエッタで第58爆撃団(Very Heavy)が編成された。1943年9月15日、第58爆撃団の司令部がウイチタ工場近くにいた幾つかの爆撃群と共にカンサス州サリナに移動した。この最初のスーパーフオートレス爆撃団は最初、五群(第40、444、462、468及び472群)で計画された。うち第472爆撃群はサリナのスモーキーヒル飛行場に実戦訓練隊として残り、他の部隊(写真はその尾翼標識)がインドに派遣されることになった。

(2)カンサスの戦い

ルーズベルト大統領はB-29の日本空爆を1944年1月までに実行したいとした。しかし計画が遅延したのでアーノルド将軍は大統領に、日本に対する爆撃戦闘は最も早くて1944年5月まで始められないことを認めさせざるを得なかった。B-29の乗員は他の複雑でない航空機の乗員には要らない特殊技能の訓練が必要であった。通常、パイロットを一人訓練するのに27週間、航法士に15週間、射撃手に12週間を要する。B-29は複雑なため、戦闘展開前に乗員を統合するという過程が必要である。1943年11月末までに、ただの73人のB-29パイロットが養成され、僅かな乗員が完全なチームになっただけであった。

1944年の初めまでに97機のB-29が完成したが、うち飛行可能なのはただの16機であった。その他の機体のほとんどが、ベル・マリエッタ、マーチン・オマハ及びカンサスの航空基地付近にあった陸軍航空隊の改修センターに居て、ヨーロッパでの航空戦で得られた戦訓で必要とされた一連の改修や変更を行っていた。その当時、スーパーフオートレスの装備品や構成品の多くは未だ不完全であり、改修を盛り込み新しい装備品を搭載するために組立ラインが停止し生産を遅延させていた。これに代わって、最初の量産機をウイチタラインから戦闘装備しないまま引き取り、米陸軍航空隊・改修センターに運び込んで戦闘標準機に仕上げることになった。

エンジン出火も未だB-29計画を遅らせる要因であった。この出火問題の幾つかは、原型のR-3350-13エンジンをR-3350-21に交換して解決した。しかしこのエンジンは出火問題を根本から解決したのではなく、出火がアルミニウム 外板の主翼に拡がっていくリスクを軽減しただけであった。R-3350-23は機体が生産ラインをロールアウトしたときに合わせて搭載することが出来ず、改修センターで搭載せざるを得なかった。

その上、B-29に装備するはずのAN/APQ-13爆撃・航法支援装置は複雑な装置の集合体で、埃や振動に弱く、飛行の度毎に注意深い点検が必要であった。この新しいレーダー装置を操作する乗員を訓練するために、ハーバード、MIT及びフロリダ州ボカラトンに特別な学校を置かねばならなかった。

1943年11月27日、アーノルド将軍は実戦に適当な数のスーパーフオートレスを配備するには遅れがひどすぎる、との通告を受けた。そこで彼はスーパーフオートレス部隊の全体を統制する責任ある新しい組織を立ち上げた。これがウオル フェ将軍指揮するXX爆撃機軍団である。この軍団に、第58爆撃団(その司令官はウオルフェから彼の副官レオナルド<ジェーク>ハルモンに移った)が所属した。この爆撃団は最初、五群(第40、444、462、468及び472爆撃群)であった。同時に、トーマス H.チャップマン大佐率いる新しい第73爆撃団が第20爆撃機軍団に加わった。この爆撃団は四群で構成され、第二バッチのスーパーフオートレス150機が配備されることになっていた(写真はその尾翼標識)。

軍団司令部はカンサス州ウイチタのB-29工場に隣接して設置された。乗員訓練の責任者に第二航空団のサウンダース大佐が任命された。カンサス州の四飛行場(スモーキーヒル、プラット、グレートベンド及びウオーカー)がその任務に当たった。

この乗員訓練がB-29計画のより難しい側面の一つであった。B-29航空機は複雑だから戦闘任務を始める前に乗員の統合という長い過程が必要であった。寄せ集めから始めたのでは時間がないので、ヨーロッパや北アフリカから帰ってきたB-24の乗員から志願兵を募った。乗員達が1943年11月にカンサスの基地に到着し始めたが、彼らを受け入れ得る爆撃機の数は非常に僅かであった。その当時、フオートレス一機に12人ずつ搭乗するのに、ほとんどの乗員はマーチンB-26マラウダー又はボーイングB-17フオートレスに乗って訓練を受けねばならなかった。12月の終りまでに、唯の67人のパイロットが何とかB-29を飛ばし得ただけだし、非常に少数の乗員が完全なチームとして一体になっただけであった。多くの射撃手は1944年の始めまで彼らの最初のB-29にお目にかかれなかった。

B-29をドイツに使用せず、日本にのみ使用するという決定が最後に下されたのは、1943年12月以前のことである。しかし、1944年初頭には、B-29は未だルーズベルトの約束である日本への攻撃が出来る状態ではなかった。ほとんどのB-29は改修センターに居り、完全戦闘準備への改造を待っていた。1944年3月までに、B-29改修計画は完全に混乱状態にあり、戦闘準備が完了したといえるのは一機もなかった。天候が悪化する中で野外作業になることもあったし、必要な工具や支援機材の入手遅れもあり、米陸軍航空隊のB-29の経験不足などがこの計画の足を引っ張った。

アーノルド大将はこの状況に驚き、彼の副官のB. E.メイヤー少将に個人的に全改修計画を引き受けるよう指示した。その結果起った1944年3月10日から4月13日の間の爆発的な活動が"カンサスの戦い"である。3月中旬からウイチタやシアトル工場から専門技術者や技能者が改修センターに派遣され、B-29を戦闘準備状態に仕上げるため、絶え間なく働いた。機械工達は格納庫が小さくB-29が収納できなかったので、しばしば野外の凍りつく気候の中で働かねばならなかった。関係者の超人間的努力により、150機のB-29が1944年4月15日までに第20爆撃軍団司令部に引き渡された。

(3)マッターホルン作戦

ウオルフェ大将は最初のB-29を第58爆撃団所属の大隊に配属し、直ちにインドに派遣した。マラケシ、カイロ及びカルカッタを経由する11,530マイルの 長い旅であった。B-29をヨーロッパ戦域で使用する計画は全くなかったが、どの戦域で使用するか関心を持つ枢軸国を撹乱するため1944年5月、一機が英国に立ち寄った。ドイツばかりでなく日本もこの策略に騙された。日本は 以前から、スーパーフオートレスがインドに駐留し、支那の基地から本土を攻撃すると予想して来たからである。

1944年3月28日、XX爆撃機軍団司令部がウオルフェ大将指揮のもと、インドのクアランプルに置かれた。1944年4月2日、最初のB-29がインドの基地に到着した。クアランプル、チャクリア及びダッカンジにある既存の飛行場がB-29用に転換された。これらの基地はすべて南ベンガルのカルカッタの港湾施設に近 く、1942-43年にB-24リベレータ用に建設されたものである。基地の状況は貧弱で、最初のB-29が着陸したときは滑走路の延長工事のさなかであった。

1944年4月2日、第58爆撃団の司令部は第40爆撃群の四大隊(第25、44、45及び395)と共に、最初の飛行機が到着したチャクリア飛行場に駐留した。4月23日、この司令部はクアランプルに移動した。4月11日、第444爆撃群(第676、677、678及び679大隊)が到着してチャラへ 移動した。4月7日、第462爆撃群(第768、769、770及び771大隊)が到着してピアルドバへ、4月13日、第468爆撃群(第792、793、794及び795大隊)がクアランプルに到着した。第444爆撃群はのちにダッカンジに移 ってここを常用基地とし、チャラはこの作戦を支援するC-87とC-46の輸送基地になった。

1944年4月4日、日本空襲を実行する特別の戦略司令部・第20航空軍団が設立された。これはウオルフェ大将自身の主張によるもので、チェノール中将とスチルウエル大将のようなCBI戦域司令官の圧力によってB-29が戦術任務にふり向けられるのを避けるためである。第20航空軍団はアーノルド大将自身が統合参謀本部レベルで指揮し、完全に自律的で他の命令系統から独立してもっぱら日本の戦略目標にのみ努力を傾注できることになった。1944年4月10日、初めてB-29の日本攻撃を"マッターホルン作戦"と命名され、統合参謀本部は非公式にこれを承認した。実行部隊はXX爆撃機軍団の第58爆撃団(Very Heavy)であった。

第58爆撃団の司令官は、米国から展開するときハルモンからサウンダースに交代した。

4月15-22日の週に5機のB-29がカラチ付近(カルカッタへの経由地)で、エンジン過熱のために墜落した。全B-29飛行隊は原因が分るまで、飛行停止になった。原因追求の結果、R-3350エンジンの設計は地上温度が華氏115度(摂氏45.1度)以上では保障していなかったが、カラチでは通常これを 超過していることが分った。ライトの技術者達は後列シリンダーの排気バルブが熱と圧力とで溶解していることを知り、その付近に冷却空気を導入する新しいエンジン邪魔板を設計した。彼らはまた前後列の上部5個のシリンダー排気部に空気取入口から分岐した油管を取り付けることにより、後列のシリンダーへの潤滑油の流れを改良した。カウルフラップも改修せねばならなかった。これらの改修の後、B-29のインドへの飛行が続けられた。

1944年5月8日までに、130機のB-29がインドのそれぞれの基地に到着した。四群は翌月に2,867時間飛行した。うち、2,378時間(83%)は輸送業務、50時間は雑業務で、ただの439時間が訓練に宛てられただけで、それは240人の乗員一人当たり平均2時間以下であった。

支那の成都(Chengtu)付近でB-29作戦に指定された四基地はKwanghan、Kiunglai、Hsinching及びPengshanで、これらの基地の建設作業は1943年11月初旬に始まったが、多くは手作業 だったため作業が遅れた。5月までに四基地が使用可能になったが、状態は理想とかけ離れていた。

マッターホルン計画の主な欠点は、支那の前進基地を支援するに必要な燃料、爆弾及び修理部品をすべてハンプ(Hamp)越えでインドから送り込まねばならなかったことである。支那沿岸の海域を日本軍が支配していたため、海上から輸送することは不可能であった。この作戦を支援するため 、B-24リベレータ(C-87)を輸送任務につかせ、これををC-109の呼称で特殊な燃料輸送任務に転換させる計画が練られた。B-29がインドから支那へ飛行するハンプ経路は飛行する度に非常に危険かつ困難であったため戦争任務とされ、その飛行機の機首にラクダの絵が描かれた。

1944年5月8日、148機のB-29がマラケシに到着し、インドのB-29は230機になった。第58爆撃団の四爆撃群の基地が指定された。

1944年4月26日、B-29は始めて戦闘を行った。チャールス・ハンセン少佐が燃料を支那に輸送していたとき、彼の飛行機が6機のキ41隼戦闘機に攻撃された。敵は一蹴されたが乗員が一人負傷した。

1944年6月5日、最初のB-29作戦が行われた。サウンダース大将指揮する98機のB-29が東インドの各基地から出撃して、タイのバンコックの鉄道駅構内を爆撃した。この攻撃は往復2,261マイルで 、この戦争の間試みられたことのない最長の爆撃任務であった。B-29のエンジンはまだ問題を残し、14機のB-29がエンジン故障のため任務を放棄した。目標は悪天候で視認しにくく、レーダー爆撃を必要とした。編隊は混乱し、爆弾を計画の22-25,000フイートでなく17-27,000フイートで投下した。目標域内に落下した爆弾は18個だけであった。任務終了後着陸時に5機のB-29が墜落し、42機が燃料不足のため他の飛行場に変更せざるを得なかった。敵の攻撃で爆撃機を失うことはなかったが、この出撃は幸先の悪いスタートとなった。

6月6日、ウオルフェ将軍はワシントンから緊急電報を受けた。電文に、統合参謀本部は耐え切れなくなっており直ちに日本を攻撃することを望む、とあった。この攻撃は東支那でのクレール・チェノー将軍の第14空軍航空基地への日本軍の圧力を和らげるために必要であり、のちにサイパン侵攻で明らかになるように太平洋でのある"重要な作戦"を支援するものであった。ウオルフェ将軍はこの命令に釘付けにされ、より戦力を増強し支那の前進基地により多量の補給を蓄積する6月下旬まで任務を遅らせようとした。しかし、ワシントンは6月15日までに最小限70機のB-29を日本空襲に派遣するよう要求した。問題は日本への長距離飛行に必要な弾倉タンクを装備しているB-29は86機しかいないことと、うち20機以上が過去の経験からおそらくエンジン出火及びその他の機械的不具合のために離陸できない、または出撃途中で各種の問題に遭遇して目標に到達できないだろうと予想された。しかし、命令には従わねばならなかった。

6月中旬には支那の前進基地に日本への一出撃分の資材が備蓄された。1944年6月14/15日夜、九州八幡の帝国製鉄所に対する攻撃が行われた。この工場は日本国内の製鉄産業の中で最も重要な単一目標であり、以前から 第一優先で攻撃すべきと考えられてきた。情報によれば、この工場の鋼板の年間生産高は225万トンで日本全体の24%を占める。第2目標は粘結炭、マンガン及び燐酸鉱物を多量に船積みするラオヤン港であった。長距離(3,200マイル)のため、ワシントンは夜間任務で 各機個別に爆撃するよう命令した。爆撃高度は、8,000-10,000フイートと14,000-18,000フイートの二段階で行うこととされた。各群から2機宛の先導機が目標に火 を付ける。目標上空に夜間に到着するように、離陸は1944年6月15日16時30分(現地時間)に予定された。

この作戦の支那の前進基地への進出は1944年6月13日から始まり、6月15日H時間直前までに完了した。これらのB-29は爆弾を満載してインドを出発し、支那の前進基地ではただ燃料を補給するだけであった。各航空機は、直撃または 爆風によって壊れやすい高炉を瓦解させるに十分威力があると考えられる500ポンド汎用爆弾を2トン宛搭載した。インドを飛び立った92機のうち、実際に支那に到着したのは79機で、一機は途中で墜落した。支那の前進基地からの離陸は夕方(16時16分)に始まり、2群はほぼ予定通り約2分間隔で離陸したが、他の2群の離陸は緩慢であった。

75機のB-29のうち、機械的不具合のために一機が墜落し、4機が基地に引き返した。23時38分(支那時間)、最初のB-29が目標上空に達し爆弾を投下した。支那を出撃した68機のうち、47機だけが意図した目標を攻撃した。1機が支那で墜落(原因不明)し、6機が機械的故障により爆弾を投棄した。2機が第2目標に、5機が臨機目標に投弾した。

不幸にも、日本は空襲が近いことを予告されており、八幡市は灯火管制が敷かれた上、もやや煙が目標を見にくくしていた。15機が目視爆撃しただけで、32機がレーダーを用いて爆撃した。狙った目標付近の何処かに真に命中したのはただ1発だけで、製鉄所は無傷のままであった。1機を敵砲火で、6機 を各種事故で失 った。

非常に僅かな成果であったが、米国の新聞は八幡空襲を大勝利だと歓迎した。1942年のドーリットル空襲以来、米国の航空機が日本本土を叩いた最初だったからである。

(訳注)写真の説明:

前進基地

現在の地名 駐留部隊 現  況

広漢(Kwanghan)

广汊

第444群

跡形なし(近隣に古蜀王地跡あり)

彭山(Hsinching)

彭鎮

 第40群

軍用飛行場(見学不可)

新津(Pengshan)

新津

第468群

同上

邛崍(Kiunglai)

崇州?

第462群

跡形なし(岷江西岸にあった)

(参考) 第444爆撃群ホームページ:http://www.seanachas.com/

(4)ルメイ将軍の登場

ウオルフェ将軍は、成都基地に燃料と爆弾が不足しようと爆撃を続けよと命ぜられた。彼はお偉方に、現状では日本への攻撃を続けることは不可能だと報告した。ワシントンは進展しない責めを誰かに負わせねばならず、ウオルフェ将軍がその最適候補であった。7月4日、将軍はワシントンへ呼び戻され、昇進して配置転換された。彼の後は命令を遂行してくれる司令官が見つかるまで、一時的にラベルヌ G.サウンダース准将が勤めることとなった。

7月7日、サウンダース将軍の一時的指揮のもと、18機のB-29が佐世保、長崎、大村及び八幡を爆撃したが成果はなかった。7月9日、72機のB-29が満州の奉天(Mukuden) の製鉄地域を攻撃した。奉天を攻撃した72機のうち、1機が離陸時に墜落、11機が往路で機械的不具合を起し引き返さざるを得なかった。4機を失い、成果は貧弱であった。8月10〜11日夜、56機のB-29は英国のセイロン(スリランカ)の航空基地を中継地として、今日のインドネシアのパレンバンにある油貯蔵施設を攻撃した。この攻撃はセイロンからスマトラまで4,030マイル、19時間の任務であり、この戦争を通じて米軍の空襲作戦の中で最も長距離であった。他のB-29はモエシ川に機雷を敷設した。3組目のB-29は長崎を攻撃した。これらの攻撃はすべて作戦統制を欠き、戦闘技量が不適切で、中心になる計画なしで目標から目標へと成り行き任せで全く効果がなかった。

支那とインドに進出したB-29を悩ませた事故の多くはエンジン出火である。これを解決するのに膨大な努力を重ねたにもかかわらず、未だ問題が残っていた。シリンダーヘッドの温度計は危険ラインを摂氏270度に設定されていた。地上温度が非常に高い(摂氏37.8〜46.1度)のとエンジンの冷却系が不適当なため、離陸中と離陸直後にヘッド温度が摂氏310度を超えてしまう。この高温がしばしばバルブの柄の潤滑油を蒸発させ、バルブが破損する。壊れたバルブからシリンダー内のガスが噴出し、必然的に発火する。

乗員はシリンダーヘッドの温度を許容限界内に保つ鍵は、離陸時に出来るだけ機速を上げておくことだということをすぐに学んだ。離陸時、全滑走路を使い十分に頭を低くしつつ毎時140〜145マイルに増速し、空中に浮かぶ。離陸後上昇せず、幾分長時間低空を飛行する。こうして、上昇速度の毎時200マイルに到達する。速度が上ると、機関士は大きなカウルフラップを絞る。ヘッド温度を制御する鍵である機速が上がると、開いた状態のカウリングフラップは冷却するより空気抵抗を増やすからである。

ウオルフェ将軍の後任はカーチスE.ルメイ中将で、8月29日インドに着任した。ルメイ中将は38歳、陸軍では最年少の中将であった。彼はヨーロッパでB-17空軍師団の司令官として名声を博した。彼は筋金入りのパットン型司令官で、重荷を引き受けるという評判があった。最初に彼はB-29の作戦頻度を上げ、かつ戦闘乗員の訓練を強化した。彼は4機のダイアモンド型編隊を、防御陣中に12機を一まとめにした編隊に置き換えた。彼は目標を見つけ出し、印をつける責任を負った先導乗員の概念を導入した。爆撃手とレーダー手が共に爆撃行程を統制し、投下の瞬間には目標を見つけたどちらかが爆弾を投下 できる態勢にした。同時に、第58爆撃団は組織変更され、各群の年少大隊(第395、679、771及び795)は解隊された。各群は一大隊あたりB-29を10機持つ三大隊で構成された。

これらの対策が効果をあらわすには時間を必要とした。9月26日、満州鞍山(Anshan)攻撃はこの対策後に行われた。10月25日、九州大村航空機工場攻撃では高性能爆弾と焼夷弾を1対2で混合して使用するという方法が良い結果を生んだ。11月11日、南京市攻撃が行われた。南京は1937年から日本軍が占領していた。補給問題と航空機の事故は未だ戦力の足を引っ張り続けた。逆に、日本側の防御努力が効果を上げつつあった。11月21日、大村攻撃では6機のB-29が日本機により撃墜された。12月7日、奉天(訳注:今日の瀋陽)の満州航空機会社空襲での損失率はそれとほぼ同じであった。事故による、敵の要撃による、そして成都前進基地への日本軍の空からの攻撃によるB-29の損失はもはや見過ごし得ず、1944年の終りには147機に達した。

1944年の終りまでに、成都の基地から出撃して日本を攻撃するB-29作戦は人員と資材の面で非常に高価につくので、中止すべきであるということが明らかになった。1944年12月、統合参謀本部はマッターホルン作戦を中止し、第58爆撃団のB-29は中部太平洋のマリアナに新しく確保した基地に移動させることに決めた。

1945年1月15日、台湾に対して行われたのが支那からの最後の攻撃になった。第58爆撃団はインドの基地に引き揚げ、2月にマリアナに移動展開した。

マッターホルン作戦では49回の作戦任務を実施し、航空機の出動数は3,058ソーテイであったが投下した爆弾はただの11,477トンであった。この作戦に膨大な努力を傾けたわりに、日本の目標に与えた損害は僅かであった。

振り返ると、マッターホルン作戦は失敗であった。補給問題を解決できず、支那の成都基地は遠く西方にあり、日本本土に達するまでに支那の日本占領地帯の上空を長く長く飛行せざるを得なかった。それでも九州の最南端の島がB-29の行動半径に入るだけだった。にもかかわらず、マッターホルン作戦は、マリアナの非常に便利な基地から行うB-29作戦での価値ある経験になった。

8.マリアナからの日本爆撃

サイパン、テニアン、グアム等よりなるマリアナ列島は、日本に向けてB-29を発進させる理想的な基地と考えられた。この島々は東京から約1,500マイルで、B-29が丁度往復できる距離にあった。 米国から海路で直接補給できるのも重要な利点であった。

1943年迄、マリアナは日本の強固な勢力下にあった。1943年5月ごろ、ワシントンでの米英トライデント会議でアーネスト・キング海軍大将がマリアナ占領計画を提示したが、その当時米国は更に南方のソロモンとニューギニアで苦しい戦いに釘付けになっていたため、ほとんど何もできなかった。マリアナを日本攻撃のB-29基地として十分可能性があると認識しはじめたのは 、1943年9月以降のことであった。1943年10月4日、ヘンリー H.アーノルド将軍は、マリアナをB-29の基地としてできるだけ早く手に入れる提案を持って統合参謀本部に申し入れた。その後二年間、太平洋で行われた戦闘のほとんどは、日本に接近してB-29の基地を手に入れることが主な目的になった。

1943年12月、カイロ会議でこの計画は正式に認められた。チェスター・ニミッツ海軍大将がこの作戦の統合司令長官に補された。先ず、サイパンを攻撃することになり1944年6月11日、艦砲射撃と空爆が四日間行われ15日、海兵隊が海岸に殺到しその翌日、陸軍部隊がこれに続いた。数週間に及ぶ激しい戦闘で、3,000人以上の米兵と24,000人以上の日本人の命が失われた。7月9日、この島を占領したと宣言した。今や米軍は航空基地を手に入れることが出来たのだ。

戦闘が継続中、サイパンにB-29飛行場の建設が始まった。最初の建設作業はアスリートと呼ばれた前の日本軍の滑走路で始まった。この飛行場は海軍司令官ロバート H.イセリーにちなんで、イスレー飛行場と呼ばれた(不幸にも、彼の名は綴りを間違えられて正しくないままになった)。
(訳注)写真は、1945年当時のサイパン南部の空中写真。中央がイスレー飛行場で、長さ8,500ft(2,590m)の滑走路が平行して二本ある。その周囲にB-29駐機場、隊員宿舎等が散在。南側はオブジャンビーチ。西南側に戦闘機用コブラー飛行場。

XXI爆撃軍団がマリアナ基地から出撃するB-29作戦の全責任を負った。XXI爆撃軍団は1944年3月1日、スモーキーヒルで編成された。8月、ヘイウッド S.ハンセルJrがその総指揮をとることになった。サイパンの飛行場は第73爆撃団(第497、498、499及び500爆撃群よりなる)の基地になった。第73爆撃団は1943年11月28日、カンサス州サリナで編成され、最初の司令官はトーマス H.チャップマン大佐であった。3月にはチャップマン大佐はエメット・オドンネル准将と交代した。

第73爆撃団はCBI戦域ではなく、マリアナに向うよう命令された。サイパンに最初のB-29が到着したのは1944年10月22日であった。この飛行機はハンセル将軍自身が操縦し、100機のB-29を引率してサイパンに到着した。XXI爆撃軍団は日本の航空機工場を高空から昼間に精密爆撃で破壊するよう命ぜられた。しかし、ハンセル将軍は乗員達がそんな任務を実行するに必要 な経験に欠けていることを十分承知していた。10月の終りと11月の始めに、乗員の訓練実習を行うための一連の戦術空襲を行った。10月27日、18機のB-29がトラック島の日本施設を攻撃した。この時、4機のスーパーフオートレスが例のエンジン問題で任務を放棄し、戦闘編隊はぼろぼろであった。10月30日と11月2日、B-29は再びトラック島を攻撃した。

硫黄島にいた日本の航空機は、新しい脅威が出現したことを知り11月2日、イセリー飛行場を低空攻撃し、地上にいたB-29数機に被害を与えた。11月5日と11日、硫黄島へ報復攻撃を行ったが、結果は貧弱であった。マッターホルン作戦と同様、B-29は作戦任務で消耗してしまい、成功したといえるものは全くないとさえ言える危機に陥った。

アーノルド将軍はハンセルに、早く日本を攻撃せよと圧力をかけた。1944年11月24日、最初の日本攻撃が行われ、目標は東京郊外にある中島航空機の武蔵野発動機工場であった。この東京攻撃は二年前のドーリットル攻撃以来である。"ドントレス ドッテイ"に搭乗したオドンネル准将が指揮するB-29が111機離陸した。うち17機が例のエンジン不良の多発によって任務を放棄した。その他は高度27〜32,000フイートで目標に接近した。B-29は初めてジェット気流に遭遇した。この気流は、爆撃機の飛行高度を西方から時速200マイルで吹いていた。そのため、爆撃機は編隊を組むことも、正確な爆撃をすることも不可能であった。その上、中島航空機はその時、切れ切れの雲に覆われ、24機のB-29だけが大雑把に正しいと思われる所に爆弾を投下した。目標はほとんど被害がなく、B-29一機が日本戦闘機に衝突されて墜落した。良くない門出であった。

次の数週間、武蔵野工場を10回攻撃したが、結果は失望そのもので爆撃による損害は、工場敷地の10%に過ぎなかった。この11回の空襲で失った爆撃機は40機で、その多くはエンジン故障によるものであった。

12月には名古屋の三菱発動機工場に一連の空襲を行った。この施設の約17%が破壊されたが、日本側の防御がより効果的になったので敵との戦闘による損失は一作戦任務あたり4〜5%に近づきつつあった。

マリアナ作戦はマッターホルン作戦と同じ運命を辿りつつあった。わが方の損失は増え、敵に与えた損害はいまいちであった。 アーノルド将軍は予想したほど進展がないので、ハンセル将軍を召還しルメイ将軍をインドから呼び寄せXXI爆撃軍団の司令官に任命した。ルメイは1945年1月20日にマリアナに到着した。

ハンセル将軍は離任前に永続効果のある改革を行っていた。1945年1月中旬まで、エンジン故障による任務放棄率は一作戦任務あたり23%にも達していた。任務放棄率を減らすため、ハンセルは重量軽減計画を指令した。それは燃料タンク一個取り外すこと、および0.050インチ機関銃の弾薬量を減らすことで、各航空機の重量を6,000ポンド以上軽減しようというものであった。また、各爆撃団が 機体をそれぞれ別個に整備せず、本部に集中して実施することにした。この変更の結果、B-29の耐久性が上がり始めエンジン寿命は200時間から750時間に延び、任務放棄率も下がり始め、1945年7月までに一作戦任務当り7%以下に低下した。

1945年1月、第313爆撃団(第6、9、50及び505爆撃群)が、ジョン H.デービス准将指揮のもと、テニアンに新しく建設された北飛行場に到着した。この爆撃団は2月4日、神戸高空昼間空襲に参加した。
(訳注)写真は作戦任務のブリーフイング風景。掲示されている地図から見て、爆撃目標は名古屋。

ルメイは日本空襲を一旦中断し、B-29を硫黄島攻撃にふり向けた。硫黄島は、本土の目標とマリアナの中間に位置しB-29の緊急飛行場としてだけでなく、日本までB-29を護衛する戦闘機の基地にも使用できるので、B-29作戦に必須と考えられていた。

2月19日、ルメイ将軍は新しい指示を出した。それは、日本に再び立ち上がれない打撃を与えるべきB-29が抱える屈辱的な欠陥を根本から是正するものであった。彼は日本経済の構造を分析し、それが大企業に近い、都会の中にいる家内工業に重く依存していると考えた。 これらの下請企業を破壊すれば、大企業への重要工製品の流れが遅くなり、日本に必要欠くべからざる兵器生産が瓦解する。彼は高性能爆弾だけ使用するよりむしろ、焼夷弾を用いてこれを実行する決心をした。焼夷弾によって東京や名古屋のような大都市に大火災を起し、それがより重要な目標にまで拡がっていくことが期待 される。

ルメイは、B-29空襲が日本の軍需産業に被害を与えられなかったのは、ジェット気流があったこと、目標が雲に覆われていたこと及び作戦高度が高かったことなどによると考えた。初期の日本空襲は、高射砲火の射程と迎撃戦闘機が有効な高度の更に高空を飛行したのである。

更にルメイは高空昼間攻撃を止め、代わり夜間低空で焼夷弾を高密度投下する作戦を取ることにした。また、各航空機は個々に攻撃を行うこととした。ということは作戦任務の最初から基地上空で集合したり、出撃途中でに集合したりする必要はないということを意味する。その結果、航空機は基地から直接目標に行きそして帰ることができるので燃料を大幅に節約でき 、その代わり爆弾搭載量を増やし得る。彼はすべてのB-29から尾部の銃だけ残して、ジェネラル・エレクトリック社製の防御用銃座を取り外すよう命じた。この乗員、兵装及び弾薬の削減によって、6乃至8トンのM69焼夷弾を余分に搭載できるようになった。この戦術により、B-29はジェット気流の影響から逃れ、 大抵は雲の下から爆撃できる。B-29は30,000フイートまで上昇する必要がなく燃料を節約でき、エンジンの磨耗を減らすことができる。日本の夜間戦闘機の戦力は比較的弱いが、一方では高射砲による損失は相当あるだろうと思われた。

この新しい技法を用いた最初の空襲は3月9〜10日夜、東京に対し行われた。新しく第314爆撃団(第19、29、39及び330爆撃団)がトーマス S.パワー准将に指揮されてマリアナに到着し、グアムの北飛行場に駐留した。302機のB-29がこの空襲に参加し、うち279機が目標上空に到達した。この空襲は中心になる照準点にマークをつける特別の先導乗員に引率された。空襲は二時間続いた。この空襲はルメイ将軍の期待を上回る成功であった。爆撃により発生した個々の火災は合体してフアイアーストームとして知られる大火災になった。鎮火したとき、都心の16平方マイルが焼失し、84,000人近くが死亡した。B-29は14機失ったが、やっと本来の威力を発揮し始めた。

3月11〜12日夜、B-29は再び出動し、名古屋に向った。この時、分散した火災はフアイアーストームを作らず、市内の2平方マイルを破壊しただけであった。3月13〜14日夜、大阪の8平方マイルが炎に包まれた。3月16〜17日、神戸の3平方マイルを破壊し、そして3月19〜20日に再び名古屋に戻り、更に3平方マイルを破壊した。この戦闘が行われた週には、B-29をたった20機失っただけで120,000人の日本市民が死亡した。戦略的爆撃の有効性は遂に立証された。

3月20日までにXXI爆撃軍団の焼夷弾の備蓄が尽き、一時休止せざるを得なくなった。新たな焼夷弾が貯蔵される迄、ルメイは沖縄侵攻を支援するため、B-29を九州の作戦任務に専念させた。飛行場とその支援施設が主な目標で、この空襲は5月上旬まで続いた。

1945年4月、ルメイ将軍は更なる焼夷弾爆撃の新しい命令を下した。この時、武蔵野と名古屋の航空発動機工場が爆撃され、東京、名古屋、大阪、川崎、神戸及び横浜の市街も 再度爆撃を受けた。4月7日、153機のB-29が名古屋の航空機・発動機産業集合地帯を爆撃し、工場の約90%を破壊した。

4月中旬、XXI爆撃軍団はCBI戦域にあったXX爆撃軍団から移動してきた第58爆撃団をテニアンの西飛行場に受け入れた。

5月14日、472機のB-29が名古屋の三菱発動機工場とその周辺を攻撃した。二晩の後、更に名古屋を攻撃し4平方マイルを焦土にした。5月23日と25日、東京が再度攻撃を受けた。この二回の東京空襲で43機のB-29を失ったが、東京の50%以上が破壊された。

B-29の損害が増加したので、戦術の変更が指令された。敵の防衛を混乱させ、日本戦闘機を撃滅する空中戦に誘い込むために、高空昼間攻撃を一時的に再開した。5月29日、454機のB-29が横浜上空に現れたが、この時は硫黄島からP-51ムスタングに護衛され ていた。空中戦の結果、26機の日本戦闘機を撃墜し、4機のB-29と3機のP-51を失った。その後、日本は避けがたい侵攻勢力に対する最後の抗戦のために生き残りの戦闘機を温存し、各都市の防空の優先度を低くした。1945年6月までに、日本の要撃機は目立って少なくなり、B-29は日本の上空 を全く自由に支配した。

6月15日、B-29は神戸を攻撃し、この都市はこれ以上の攻撃が不要なくらい効果を上げた。この月の終りまでに、ルメイのリストに載っていた六つの大都市がすべて効果的に破壊され 尽くした。

第315爆撃軍団(第16、331、510及び502爆撃群)は、全機B-29Bを装備してグアムの北西飛行場に到着した。この機体形式はジョージア州マリエッタのベル飛行機で製造され、重量軽減のためジェネラル・エレクトリック社の機銃システムを取り外した。 この爆撃団は低空夜間先導任務の訓練を受けてきた。6月26日から8月10日の間、彼らは一連の製油施設を攻撃し、日本製油工業を壊滅させた。

1945年3月末から、第313爆撃団は日本の港に対する一連の機雷敷設作戦を始めた。13,000個に近い音響及び磁気機雷を西海域から狭い下関海峡と内海そして広島、呉、東京、名古屋、徳山、安芸及び野田港に設置した。5月に 、商船が機雷の敷設線を突破せよと命令され、このため85隻が爆沈した。この機雷作戦は戦後の戦略爆撃調査で、戦時中に日本が失った船舶の9.3%がB-29によるという 成果を挙げた。

6月中旬までに、日本の大都市はほとんど破壊されたので、ルメイは58の小都市の焼夷爆撃を命じた。いまや、B-29の爆撃に日本の戦闘機は反撃できなくなった。6月の終りには、B-29の乗員は市民に来るべき攻撃を予告するビラをまき始めるくらい、十分の自信を持ち始めた。その予告とは、三日後に指定した市街地を空襲により壊滅する、というものであった。

1945年7月、XX及びXXI爆撃軍団はカール A.スパッツ将軍率いる米戦略空軍太平洋軍団に統合された。

7月末までに、市民の間にパニックの兆候が見え始め、帝国内閣は初めて終戦の交渉を考えるようになった。しかしそれでも、日本軍はより苦い終末に向け、断固として戦争を続ける決意 をしていた。

マリアナ作戦では、航空機が合計25,500ソーテイ飛行し、通常爆弾170,000トンを投下し、合計371機の爆撃機を失った。

(訳注)XXI爆撃機軍団の構成
爆撃団 航空基地

初出撃(年/月/日)

大 隊

尾翼標識

備    考

58

テニアン西
8,500ft×2
 

広海軍航空廠
1945/5/5

62

768

769

770

Triangular-U

CBI戦域より転戦

40

25

44

45

Triangular-S

444

676

677

678

Triangular-N

468

792

793

794

Triangular-I

73

サイパンイスレー
8,500ft×2

トラック群島潜水艦泊地
1944/10/28

497

869

870

871

Plain-A

 

498

873

874

875

Plain-T

 

499

877

878

879

Plain-V

 

500

881

882

883

Plain-Z

 

313

テニアン北
8,500ft×4

 

パガン島滑走路
1945/1/16

6

24

39

40

Circle-R

 

9

1

5

99

Circle-X

 

504

398

421

680

Circle-E

 

505

482

483

484

Circle-W

 

日本各地 1945/7/20

509 393

Forward Arrow

原爆作戦用混成群

314

グアム北
8,500ft×2

東京市街地
1945/2/25

19

28

30

93

Square-M

 

39

60

61

62

Square-P

 

29

6

43

52

Square-O

 

330

457

458

459

Square-K

 

315

グアム北西
8,500ft×2

四日市第二海軍燃料廠
1945/6/26

16

15

16

17

Diamond-B

B-29B

331

355

356

357

Diamond-L

501

21

41

483

Diamond-Y

502

402

411

430

Diamond-H

偵察

各基地

 

1

3

Plain-F

F-13

9. ツポレフ Tu-4

1944年7月29日、ハワード ジャレル大尉が指揮するB-29(42-6256)は、満州鞍山の昭和製鋼所を攻撃したとき、高射砲に撃たれた。支那の成都付近の基地に戻れず、乗員たちはソ連のウラジオストックに向った。当時、ソ連は日本と戦争状態になく、航空機と乗員は抑留された。

1944年8月20日、成都から出撃したB-29A-1-BN 42-93829は八幡を空襲後、ソ連に向わざるを得なかった。この機体は乗員が脱出したあと、ハバロフスク東のシクホテ アリン山脈の麓に墜落し、乗員は抑留された。

1944年11月10-11日、B-29(42-6365)が九州大村空襲の際、損害を受けウラジオストックに向い、11月21日にも繰り返された。乗員と機体はまたもや抑留された。

こうしてソ連は三機の無傷のB-29と四組のB-29乗員を手中にした。1945年1月、ソ連の手配によってこれら四組の乗員はテヘラン経由で西側に"脱出"したが、機体は残された。

第二次世界大戦が終って一年少し経って、ベルリンの新聞"Der Kurier"はソ連がB-29の急造のコピーをウラル山脈中の一連の工場で造っていると報道した。この報道は、当時ソ連がB-29のような大型で高級な航空機を製造する能力がないと思われていたので、広く信じられなかった。しかし、何人かのソ連の手先がB-29のタイア、車輪及びブレーキ組立を米国内で買おうとしたことが明らかになったことから、この報道は 俄に信憑性を増してきた。

1947年8月3日、モスクワのツシノ飛行場で航空記念日パレードが行われたとき、明らかにB-29らしい四発航空機が低空飛行を行った。最初、この三機はソ連の手にある三機のB-29ではないかと思われたが、四機目の航空機が明らかにB-29の輸送機への改造型であることが明らかになり、B-29がソ連内で製造されているという報道が全く正し いことが裏付けられた。この輸送機はTu-70と命名されていたが、後に爆撃機はTu-4という名であることが明らかになった。

大愛国戦争のとき、ジョセフ・スターリンは戦略爆撃機の開発に最高の優先権を与えた。完全な三機のB-29のソ連への贈物は思ってもいなかった偶然であった。何故なら、今やソ連の航空機産業は戦略爆撃機の開発上の膨大な技術問題を、最初から国産の設計を始めるに必要な時間のうちのほんの一部で克服できるからである。スターリンはB-29のコピーを直ちに開発せよと命じた。アンドレ N.ツポレフの設計局が機体を担当し、アルカデイ B.スベチョフのエンジン局がライトR-3350二重サイクロンエンジンのコピーを担当した。このB-29のソ連バージョンはTu-4と呼ばれた。ライト二重サイクロンのスベチョフバージョンはAsh-73TKという名で知られている。

米陸軍航空隊の二機のB-29は細部を評価するため分解され、他の一機はそのまま飛行試験に供された。このTu-4計画は1944年の終りまでに発令され、1945年の第1四半期までに軌道に乗っていた。ボルガ河に面したある工場は試験・評価用航空機を20機製作する任務を、ウラル山脈の 東側の二工場が量産する任務を与えられた。

戦争が終結した後も、ソ連のTu-4計画は慎重に進められた。最初のTu-4試験機は1946年夏の終りまでに完成した。飛行試験の最初に電気式降着装置に問題が起き、数個の車輪を上げたまま着陸せざるを得なかった。更に、プロペラが抜け落ちる事故が頻発した。テストパイロットの多くは、頭部に広範囲にわたって嵌められたガラスを通した視界が歪むことに不満を漏らした。

1947年8月3日、航空記念日パレードにTu-4が初舞台を踏んでから最初の長距離飛行試験が始まった。Tu-4システムとスベチョフAsh-73TKエンジンには多くの産みの苦しみが未解決のまま残った。1948年、Tu-4はVoennovosdushniye Sily (V-VS、ソ連空軍)に真の戦略爆撃能力を与えるため、Dalnaya Aviatsiya (DA、ソ連戦略爆撃軍)に配備された。Tu-4の量産は遠隔制御防御兵装システムと乗員与圧システムの絶え間ない故障に悩まされた。Ash-73TKターボスーパーチャージャーエンジンの信頼性には未だ改良べきことがたくさん残 っていた。製造工場の品質管理をより厳重にしなければならず、重大な欠陥の修正に1949年初頭までかかった。DAのTu-4が完全な運用状態に入ったのは1949年中頃のことであった。1949年の終りまでに約300機のTu-4がDAで運用に入った。更に数機のTu-4がAviatsiya Voenno-Morskovo Flota (AV-MF、海軍飛行隊)の長距離パトロール機として運用された。

Tu-4にBullというNATOコードネームが付けられた。
Tu-4が運用に入ったことは米空軍をパニックに陥れた。Tu-4は"片道自殺"任務で相当な積荷を搭載して、シカゴ、ロスアンゼルス及びニューヨークを攻撃するに十分な飛行距離を持っているからである。アイスランドで奪取した飛行場から、ソ連のTu-4はニューイングランド、ニューヨーク、ペンシルバニア及びオハイオを、またグリーンランドの基地からニューオリンズあるいはデンバーまでの目標を攻撃できる。ソ連が北アメリカを攻撃できる兵器を手に入れた上は、今や米政府は地上レーダー施設、地上観測部隊、レーダー哨戒機、ナイキ地対空ミサイル及びジェット要撃戦闘機隊など極端に高価な対空要撃能力を開発せざるを得なくなった。1949年、
ソ連の原爆開発完了により米国自身が核攻撃の危機にも曝され、緊急に防空計画を進めねばならなくなった。

ソ連は約1,200機のTu-4を製造し、1950年代の終りに数機が支那に引き渡されたと信ぜられる。1950年代の終りにはTu-4はDAから少しずつ引退し、より進歩した形式に置き換えられた。これらの機体はVoenno-Trnsportnaya Aviatsiya(空輸隊)の短距離Li-2及びIl-14の補充用 に転換された。アントノフAn-12ターボプロップ輸送機の運用が始まると、Tu-4は少しずつ空輸業務からも引退して行った。1960年代の始めまで、Tu-4は沿岸に基地を置く海上哨戒隊の目録からも完全に消えた。少数のTu-4が 中国に引き渡され、最小限の爆撃戦力を得た。うち数機は1968年現在、中国で運用が続いていると伝えられる(写真)。

Tu-4諸元:

エンジン
Shvetsov Ash-73TK18気筒空冷スーパーチャージ星型
公称2200馬力(離昇時)、2400馬力(緊急時)

性能
最大速度:毎時261マイル(海面上)、354マイル(32,808フイート)、224マイル(巡航速度)
最大距離:平均巡航速度時1,927マイル(毎時310マイル、25,590フイート、11,023ポンド爆弾)、
     長距離巡航時3,107マイル(9,9845フイート、11023ポンド爆弾)、4,100マイル(6614ポンド爆弾及び武器、弾倉増倉)

重量
最大離陸重量:135,584ポンド

10.(訳注)ルメイ司令官

(1)無差別爆撃の張本人

Curtis Emerson LeMay将軍は1965年、空軍長官を退くまでは第二次世界大戦での戦闘経験と戦略空軍を創立したときの功績により、米国の航空戦力の象徴的存在であった。

ルメイ将軍は1906年11月5日、コロンバスに生まれ、その街のパブリックスクールを経て、オハイオ州立大学を土木工学の学位を得て卒業した。その後、航空士官候補生として軍務に入り、テキサス州のケリー飛行場でパイロットの訓練を受け、1929年に航空予備隊の少尉に任官した。

ルメイ将軍は最初、ミシガンの第27追跡大隊に奉職し、ここで1937年に爆撃機に替わるまで戦闘機の用法に関するいろいろな課題に貢献した。翌年、将軍はB-17フライングフォートレスの南アフリカへの最初の集団飛行を行った。この時第二爆撃群は航法に関する顕著な功績を収め、マッケイ優勝杯を得た。米国が第二次大戦に加わる前に、ルメイは南大西洋からアフリカへそして北大西洋から英国への航空ルートを開拓した。1942年までに、ルメイ大佐は第305爆撃群を組織し訓練しヨーロッパ戦域での戦争に参加した。後にB-29スーパーフォートレスの太平洋戦域での編隊技法を開発した。

英国の第3爆撃師団の総司令官として、彼はドイツ奥深くの有名なレーゲンスブルグ爆撃や、アフリカ爆撃を指揮した。1944年7月、将軍は太平洋に移り、支那・ビルマ・インド戦域のB-29の活動を指揮し、最初は第21爆撃団司令部の司令官、後に第20航空団の総司令官となった。

戦争が終ったとき、将軍はB-29を操縦して日本からシカゴまでノンストップ飛行を行い、劇的な帰還を果たした。米国に帰ってから、ペンタゴンで最初の研究開発担当・航空幕僚副長官に任命された。

1947年10月、ルメイ将軍はヨーロッパの米空軍司令官に任命され、ベルリン空輸作戦を指揮した。一年以内に米国に戻り、将来の全世界爆撃機・ミサイル戦力の神経中枢であるネブラスカ州オファット空軍基地に新しく創設された戦略空軍司令部(SAC)の司令官を委ねられた。SACの指導者としての9年間 、第二次世界大戦の残存部隊をかき集めてオールジェット爆撃機部隊を創設した。そして、彼の指導で大陸間弾道弾の開発計画が進められた。

1957年7月、ルメイ将軍は米空軍副長官に指名され、長官になるまで四年間、その職にあった。パイロット司令とジェット機操縦者として、将軍は政府及び外国から多くの賞を受けた。

1945年3月9日、サイパン・テニアン及びグアムから出撃した325機のB-29が東京市街地を夜間低高度焼夷弾爆撃し、16.8平方マイルを破壊又は損害を与えた。これが、ルメイ将軍の対日戦略爆撃の方法を一変させた最初で、11日の名古屋、13日の大阪、16日の神戸、そして再び18日の名古屋と連続して5回の無差別都市爆撃となった。そして、彼の指揮下にあった第509混成群のB-29が原爆を8月6日と9日、広島、長崎に投下する。

太平洋戦争の早期終結に貢献したとはいえ、日本の一般市民を大量虐殺したルメイ将軍に1964年12月7日、日本政府(佐藤栄作首相)より勲一等旭日大綬章を授与したのは、納得しがたいことである。

(2)毀誉褒貶

9.11直後、ルメイ将軍に関する話題が米国のB29メーリングリストに掲載されたので、うち代表的と思われるものを翻訳し以下に掲載する。米空軍の退役軍人を中心とした集まりだから軍人気質が濃厚で、将軍を賞賛する記事が多い。

01年9月24日付ウォールストリートジャーナルは、"無骨で葉巻を噛むカーチス・ルメイは平和時に我々を怖がらせたが、戦時に我々は彼なしでは勝てなかっただろう。"と報じている。(Francis Clifton 2002年9月25日)

私は戦略空軍司令部(SAC)で彼に仕えてきた。彼とは不仲ではなかった。もし君が君の仕事をやり責任を全うするなら君に何の問題はない、というのが彼の持論であった。彼は航空仲間ではよく知られた人物だった。彼は戦略空軍司令部のために最良のものを予算要求し、そしてそれを入手した。彼が他の司令部から多くのやっかみを受けたことを私は知っている。彼の努力によりB36爆撃機に予算が付いたが 、海軍の超航空母艦"United States keel"は落ちた。ルメイ将軍は勝ち、超航空母艦は中止になった。
ヨーロッパ戦線で第8航空団に勤務した後、彼は日本と戦うため太平洋に転じた。彼は日本に対し危険な低高度爆撃を主張したのに対し、新聞記者の間に多くの否定的な感情が生まれたのは事実である。戦争はきれいごとではないし、今でも私は何人かの新聞記者に多少許しがたい気持ちを覚えている。ブッシュ大統領は軍事に関する限り、彼らに何も教えようとはしないのに私は全く賛成だ。
これは私の個人的見解である。(James S. Peters 9月25日)

ルメイ将軍の愉快な想い出:
搭乗員仲間の通信手が数年前、次の話をしてくれた。
エド・オルドンはオクラホマ市に住み、ジェネラルエレクトリックの装備品を油田会社に販売する仕事に携っていた。
西海岸に商用で旅行しジェネラルエレクトリックの社員と昼食を共にしていたとき、エドはその街の電話帳を調べカーチス・ルメイの名を見出した。食後、エドは車でその住所を尋ね ドアをノックした。上品な初老の婦人が応じた。エドは、貴女はルメイ将軍の家政婦ですかと聞いた。彼女は、いいえ私は彼の妻ですと答えた。エドは、私はサイパンで将軍に仕えたもので、ご挨拶をしたくて伺ったといった。その時、ルメイが"そいつをここへつれておいで。話がしたいんだ"と大声を上げた。
エドは約二時間戦争の話をして大変楽しい時を過ごした、と語った。エドは彼に何故我々の親睦会に姿を見せてくれないかと問うた。彼は、"もし一つの会に出席したら 、全部に出なければならなくなり、私にそんなエネルギーはない"と語った。エドはよくあちこちに行きこの物語を好んで話すし、私も彼の話すことは真実だと信じている。
(Lee Florence 9月25日)

勝つために唯一の道だと確信しつつ毎日、兵士を死に送り出さねばならなかった。疑いもなく、重荷の地獄だった。人に迷惑をかけることを好まず、国のために自ら死のうとはしない周囲の馬鹿どもの反対にじっと耐えるのは容易でなかっただろう。我が国の現状を見るに軍人はいつも死を覚悟しているが、米国民は本土攻撃に精神的に耐えうるか疑問に思う。国家を攻撃される都度、報復をためらえば敵の勝ちである。ニューヨークの死者は確かに悲劇だが、アルコール関連の自動車事故で毎年四万人もの死者を出している ことを思えば、我々はすでに死を受け入れているのだ。
ルメイとパットンは今どこにいるのか、我々は今君達を必要としている。(William Banks 9月26日)

ルメイ将軍が若い頃、ベルの中風を患っていたことを知る人はあまりいないだろう。顔の右半分を冒す一種の顔面中風である。それは或る神経の炎症によって起り 、その神経が固着すると、腫れて血流を止める。或る期間、彼の右目のまぶたが垂れ下り、口が人目につくほど曲がった。この状態が数年間続き、彼が笑うのを妨げた。そのために彼は以前より強情で頑固に見え 、部下が彼に恐れを抱く状況を作った。彼はパイプと葉巻でこの苦悩を覆い隠したのだ。
(Ray 10月06日)

11.(訳注)B-29エンジン

(1)三ヶ根山

三ヶ根山は愛知県幡豆町にあり、三河湾に面する標高310mの独立峰である。形原温泉から有料道路を通って山頂に上ると、「比島観音」と「殉国七士の墓」がある。ここから南方を望むと、三河湾の向うに渥美半島が長々と横たわり、その先に遠州灘が広がる。

昭和20年4月7日、B-29編隊が熊野灘から侵入して琵琶湖付近で東進し、正午ごろ三菱名古屋発動機工場を爆撃した後、次々と進路を南に変え三ヶ根山上空から三河湾を経て遠州灘に抜けて行った。(写真:航路図、実線と点線)
来襲したB-29は、名古屋周辺に配備された高射砲や、各地の飛行場から飛び立った局地戦闘機の攻撃を受け、254機中5機を失った。一方、鐘馗、飛燕、零戦、隼、月光、雷電等日本戦闘機21機を撃墜したと言う。

同年8月7日、広島に原爆が投下された翌日、B-29編隊が熊野灘から紀伊半島東南沿岸に沿って北上し、松阪付近で経路を東北東に変え、知多半島先端で豊川に向け爆撃態勢に入った。B29は10機ほどの編隊が12のグループに分かれ、P51ムスタング戦闘機の護衛のもと三ヶ根山上空を経て午前10時過ぎ、次々と豊川海軍工廠に殺到した。
この時、御津町大恩寺山上に陣取った海軍高角砲の正確な射撃を受けて被害が続出したのに動揺してか、一部のB-29は目標遥か手前の御油(現愛知御津)駅付近などに500ポンド爆弾を撒き散らした。日本側は来るべき本土決戦に備えて航空戦力の温存に努め、三河湾に造成された豊橋海軍航空基地など周辺の飛行場からの要撃は行わなかった。

三ヶ根山頂には、遠州灘から引き揚げられた航空機エンジンの残骸が展示され、往時の熾烈な航空戦闘の一端が偲ばれる。

(2)零戦用エンジン

三ヶ根山頂に比島観音が安置されている:
由来
この比島観音は太平洋戦争においてフイリッピン方面全域の戦没者50余万人の戦友と同胞の御霊ご供養と永遠の平和を祈念して、全国の遺族戦友6千余名の浄財により昭和47年4月2日ここ三ヶ根観音境内に建立す。

その一隅に、太平洋戦争当時の航空機用星型エンジンの残骸が展示され、次の説明がある:
ゼロ戦について
気筒数
14
馬力 
1,000
製造 三菱重工業名古屋製作所

このプロペラとエンジンは、第二次大戦中に勇名を轟かせた海軍の零式艦上戦闘機のものです。昭和
52年春豊橋市高塚町沖約800mの遠州灘で底引き網の漁中に蒲郡市西浦町鈴木勝氏が見つけて比島観音奉賛会に奉納された貴重な資料であります。昭和5342
比島観音奉賛会

このエンジンは14気筒複列で、気筒口径は140mmである。零戦用エンジンはよく知られている中島製14気筒複列「栄」であり、その口径は130mmであるから、ここに展示されているものは、明らかに零戦用ではない。 

我国の空冷星型エンジンは中島飛行機と三菱発動機が製造していた。
中島は「栄
(14気筒複列、口径130mm、行程150mm)と「誉(18気筒複列、口径130mm、行程150mm)が主力機種であり、三菱は14気筒複列の「瑞星」(口径140mm、行程130mm)、「金星(口径140mm、行程150mm)および「火星(口径150mm、行程170mm)の三種に重点を置いていた。

展示されているエンジンの口径が140mmであると言うことは、「瑞星」か「金星」のうちいずれかの公算が高い。瑞星を搭載した機体は94式水偵」、「屠龍」等で、零戦はこれを試作二機に採用しただけであった。金星を搭載した機体は「零式水偵」、96式陸攻」、99式艦爆」、「彗星」、「5式戦」等と多岐に亘っている。以上のうち屠龍、彗星5式戦は東海軍管区内に侵入したB-29と交戦し、なかには遠州灘まで追尾して行ったものもいたかもしれない。

展示されているエンジンの機種を特定するには、これを更に詳細に調査し残されている図面と照合する必要があろう。

(3)B-29用エンジン

殉国七士の墓の境内に18気筒複列エンジンの残骸が展示され、次の説明があった:
この航空機エンジンはかっての大東亜戦争中(昭和20年頃)米軍航空隊による日本本土空襲による最大の爆撃機B29四発機のエンジンであります。日本の迎撃機により遠州灘上空で撃墜され、渥美半島沖で海中より当地の漁船が航海中に網にかかり拾い上げたものです。
戦後30有余年海中に没したまま最近まで太平洋の海底に眠っておりました。まだ、日本軍米軍の航空機の残壊が海中に没していることと思われます。日本軍、米軍を問わず戦死者の御冥福をお祈り申し上げます。
殉国七士奉賛会

このエンジンの気筒口径の測定値は148mmであった。文献(注参照)によれば、B-29用R3350エンジン(18気筒複列、離昇馬力2,100ps、 エンジン1基当りの総排気量54.860L)は口径155.6mm、行程160.2mmとあり、これが正しいとすれば残骸の口径は8mmも小さいことになる。これでは、残骸がR3350だと 言えない。
(注)JA2TKO & B29 MUSEUM: http://www.sun-inet.or.jp/~ja2tko/jap/ok_b29.museum.html

B-29は、日本軍の高射砲や戦闘機の攻撃に遭い、本土上空を離脱したものの力尽きて本土からマリアナ間の洋上に多数墜落または不時着した。洋上に放り出された搭乗員達が運良く救助航空機に発見された場合、救命ボートを投下してもらい、これに乗り移って潜水艦や救助艇が急行して来るのを待つしかない。

R3350以外に、R2800(18気筒複列、2,400ps、45.9L:F4U用)の可能性も考えられる。チャンスボートF4Uコルセアは零戦の対抗馬としてソロモン戦線に投入され、本土攻撃にも使用されたた艦載機である。残念ながら、その口径値が不明のため確かめようがない。

2010年9月、両エンジンの身元が判明した。旧三菱名古屋発動機製作所で製造されたものである。
身元確定に至る経緯は、下記Webに記されている:
三ヶ根山のエンジン: http://www48.tok2.com/home/yamabiko/sangane.engine/sangane.engine.html

(4)殉国七士の墓

殉国七士の墓の脇に下記を記した碑が立っている:
米国の原子爆弾使用、ソ連の不可侵条約破棄、物資の不足などにより敗戦のやむなきに至った日本の行為を米中英ソ濠加佛蘭新蘭印 比11ヶ国は極東国際軍事裁判を開き事後法によりて審判し票決により昭和23年12月23日未明、土肥原賢二、松井岩根、東條英機、武藤章、板垣征四郎、廣田弘毅、木村兵太郎七士の絞首刑を執行した。
横浜市久保山火葬場よりその遺骨を取得して熱海市伊豆山に安置していた三文字正平弁護士は幡豆町の好意によりこれを三ヶ根山頂に埋葬し遺族の同意と清瀬一郎、菅原裕両弁護士等多数有志の賛同とを得て墓石を建立した。
遥かに遠く目を海の彼方にやりながら太平洋戦争の真因を探求して恒久平和の確立に努めたいものである。

勝者が敗者を裁いたと言われた極東軍事裁判の正当性はともかく、A級戦犯七名を絞首刑に処すことを当時、多くの国民が諒とした。処刑後、その霊は戦没軍人として靖国神社に合祀された。それを知った中国は、日本は過去の侵略の歴史を反省していないと合祀に反対し続けている。

処刑後の取扱いについて連合国側からは何の指示もなく、日本側に一任されたとするのが常識であろう。我国は、「罪を悪んで人を悪まず」とする日本人の心情に沿って、罪を贖った人に対する礼節を重んじた処置をとったに過ぎない。中国の言い分は行過ぎた干渉であろう。

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