1994年5月19〜24日、広島県三次にて開催された731部隊展での曽田吉一様の証言記録です。

このホームページでの公開を快諾下さった曽田様に心より感謝いたします。







証言

軍隊は人間を鬼に変えた


中国帰還者連絡会 山陰支部長 曽田 吉一




自己紹介


私が只今ご紹介いただきました中国帰還者連絡会山陰支部の曽田吉一でございます。私の経歴を申し上げますと、私は元軍人で将校として約4年間、中国戦線に参加いたしまして、戦争に負けてから直ぐにソ連へつれて行かれ、其処で5年間強制労働をやらされました。昭和25年に朝鮮戦争が勃発して1ヵ月を過ぎた7月の18日に又中国へ送られてきましたが、今度は捕虜ではなく戦犯として6年間拘禁されておりました。昭和31年8月釈放され、15年ぶりに日本へ帰りました。20歳で軍隊に入ってから35歳まで、私は「負の人生」を歩みました。只今73歳です。私たちの会は、元戦犯だった者が日本に帰ってから、過去の過ちを反省して、日本が再び宣そうの道に入らない様に、自分の体験を通じ、加害者の立場から侵略戦争を告発するために組織した会であります。私たちのお話を聞いてくださる方があれば、何処へでも出かけるつもりで、今日は島根県の出雲市から参りました。


私の知る731部隊

皆さんは731部隊と申しましても初耳の方が多いのではないかと存じます。先程からこの会場をご覧になっておられましたが「まさか、日本人があんなひどい事を・・・」と、直ぐには信用出来なかったのではと思います。しかし、残念ながら731部隊は実在しておりましたし、又あの通りの事をやっていました。だからどんなにむごたらしい事でも、決して目をそらさず、はっきりと瞼の奥にやきつけて戴きたいと思います。私は昭和31年の春、まだ戦犯の身分でありながら、中国の各地を、過去の犯罪を再認識するため、約1ヵ月にわたって旅行させて戴きました。


(イ) ペスト菌のネズミで住民が死滅

場所の記憶がはっきりしませんが、私たちはハルピンの東約20キロメートル位の農村で、たしか阿城付近だったと思いますが、平房からも遠くない農業生産合作社(農協)を訪問しました。沢山の人たちが出迎えてくれました。組合長は私たち戦犯を前にして、農協の概況を説明した後、顔をこわばらせて次のように訴えました。『日本の鬼どもは、戦争に負けて逃げだす直前に、ペスト菌を植え付けたネズミ10万匹を全部放してしまった。ネズミは近くの村むらに駆け込んだ。皆さん見てくれ、あの家も又その向こうの家も、ここにあった家はみんな伝染病で死に絶えてしまった。今、こうして皆さんを迎えている私たちは、その時、日本軍の陣地で塹壕(ざんごう)堀をやらされていました。日本が負けたので私たちは村に帰って見たら、家に残しておいた家族はみんな死んで誰も居なかった。日本の鬼どもの罪行は決して忘れない。』 と声をつまらせました。この悲痛な訴えを、とても顔をあげて聞くことは出来ませんでした。


(ロ) 長春の第100部隊

翌日私たちは長春にある中国第一号の自動車工場を見学しました。そこから目と鼻の先、畑をはさんだ向かい側の稜線上に破壊された工場の残骸と、その中に巨大な煙突が無傷のまま突っ立っていました。長春郊外約20ショウの確か孟家屯(もうかとん)だったと記憶していますが、其処へ案内されました。廃屋のなかに入って見ましたら、煙突の下には洗い場の様な処があって、そこにセメント製の幅70糎位、長さ200糎位で、高さは少し低めの50〜60糎の固定された調理台の様なものが3〜4台あった様に思います。
説明を聞いてびっくりしたのは、ここが731部隊の分家、第100部隊の跡地でした。100部隊では動物実験にあわせて人間の凍傷実験もやっていたそうです。長春市内やその他で捕まえた中国人を使って、氷点下何十度の極寒に立たせ、水をかけ温度と時間の変化で凍傷の症状を実験し、最後にはこの調理台で解剖して殺したというのです。煙突が異常に高いのは、死体を焼く臭いが長春市内に漂い、住民に感づかれない為だったそうです。戦後11年が過ぎていましたが、煙突の根元には骨(人骨?)が無数に散乱して居りました。第100部隊の動かしがたい証拠の前に立って私たちはただ唖然としました。この様な731部隊の残虐非道な罪行も、日本軍国主義が行った、中国を侵略する15年戦争の一コマに過ぎません。皆さんは日中15年戦争と申しましても、ピンと来ないのではないかと思いますが、日本が中国に宣そうを仕掛けたのは昭和6年の満州事変、7年の上海事変、12年の芦溝橋事件という様に途切れ、途切れにやったのではなく、実は昭和6年9月18日、所謂「満州事変」を起こしてから、翌年の上海事変ついで熱河作戦、そして長城作戦、さらに万里の長城を超えて中国本土に迫り、昭和12年芦溝橋事件で日中全面戦争に突入し、昭和20年8月の敗戦まで一日も止む事なく戦争を続けたのであります。日本軍国主義がこの戦争によって中国人民に与えた被害は、1200万人とも1300万人とも言われる尊い生命を奪ったほか、失われた財貨は当時の価値で500億ドルという天文学的数字でありました。そして日本軍による破壊は半世紀を過ぎた今も尚復興のメドは立たない悲惨なものでした。500億ドル(日本円に換算して18兆円)がどれだけ膨大な金額か一つの目安を申し上げますと、新中国が建国した昭和24年の日本の歳出予算は6965億円でしたから、18兆円は日本の国家予算の25年と7ヵ月分でした。又昭和30年代前半、日本が中国と国交回復に積極的でなかったは500億ドルの賠償を要求された場合、とても日本に払える額ではなかったからです。当時の日銀の正価は10億ドルしかなかったのですから、500億ドルは日本の外貨の50年分にもなったのです。




軍隊は人間を鬼に変えた

この15年戦争の中で私自身がこの手で侵した残虐な罪行を告白して、皆さんに侵略戦争の実態と、日本人が中国に対してどのような責任を背負って居るのか(それは親の代祖父の代にやった事だから私は関係がない、と言わないで)を知って戴きたいと思うのであります。過去の忌まわしい犯罪をあばくのはつらい事でありますが、これは被害者に対する私の償いでありますし、歴史の生き証人として私の責任でもあると考えております。


<少年時代>

私が10歳の時、満州事変が始まりました、それは小学校4年生の時でした。これを境に世の中は次第に軍国一色に変わって行きました。学校でも「満州は日本の生命線だあ」とか、「東洋平和の為だ」とか教えられ、戦争に反対する者は「アカだ」「國賊だ」と言って片っ端から捕まえられました。昭和12年。日中全面戦争になってからは、学校教練も厳しくなり、軍隊に行かない者は「非国民」と言われる様になりました。召集につぐ召集、やがて戦死した人の遺骨が次々に白木の箱で帰りました。変わり果てた息子のお骨を抱えた親も、まわりの人たちが「名誉の戦死」「名誉の戦死」と言ってもてはやすので、うっかり他人の前では涙も流せない世の中になりました。そんな中で私も次第に「聖戦」を信じ、どうせ戦争に行くのなら、将校になってお国の為に大きな手柄を立ててやろう、そうすれば親父もきっと喜ぶだろうと思うようになりました。


<新兵教育>

そして昭和16年12月1日、浜田連隊に入りました。入って先ずびっくりしたのは無理矢理に泥棒をやらされた事でした。子どもの時から「他人の物には手をかけるなよ」「ウソつきは泥棒の始まり」といってうるさく躾けられていましたのに、軍隊では逆です。入隊して間もない時、食事当番で食器洗いに行きました。帰って見ると茶碗が一枚足りません。手伝う振りをして他の中隊の者に一枚カッパラわれた(盗まれた)のです。さあ大変、「茶碗を盗んでこい」と怒鳴られる、夕方洗濯物を取り入れて見ると、確かに乾かしたはずのズボン下が無い、又、「盗んで来い」と。こうして先ず泥棒をやらされた。やっと一日が終わって寝床に入ると、いきなり叩き起こされ、「鉄砲に埃が付いておる」と言って顔が腫れ上がるほど殴られました。ある時は、靴の手入れが悪いと言うので、それを口にくわえて廊下を四つ這いで歩かされました。こうなると、もう人間ではなく、まるで犬の様でした。新兵に対する私的制裁は「自転車競争」、「うぐいすの谷渡り」「軍旗護衛」等などいくらでも変わった方法があって、途切れる事はありません。結局、新兵の教育というのは、人間としての人格と良心を一つ一つ剥ぎ取り、只、上官の命令は天皇の命令として、何事に対しても、無批判に盲従する様に人間を作り変える事でした。これが軍隊教育の狙いでございます。 



<試し斬り>

3ヶ月の教育が終わると、当時、広島は中国侵略の基地でございましたから、私たちも広島に集結して、宇品港から船で上海へ、そして、揚子江をのぼり、最前線の湖北省荊門に駐屯しておりました、第39師団に転属しました。部隊に到着して一週間くらい経った時、私は幹部候補生に採用され、間もなく南京の予備士官学校に入りました。半年後の11月末には早くも卒業です、私は11月生まれですから21歳になったばかりでもう見習士官になり、あの頃の歩兵の花形といわれておりました重機関銃隊の小隊長を命ぜられました。そして子どもの頃から「長い剣を吊って、馬に乗って」と夢にまで見て憧れておりました、立派な乗馬と二人の当番兵まで付けて貰いました。あまりにとんとん拍子に行くので、これで行くので、これで良いのかと、有頂天の中にも不安がありました。見習士官という階級は長い軍刀を吊って居ても、所詮、実際に戦闘をやった経験がありませんから全く頼りなく、部下の兵士には馬鹿にされがちでした。その頃は私の連隊でも「試し斬り」といって軍刀で生きた人間の首を斬らないと将校の仲間入りが出来ませんでした。私もなんとか早く一人斬って古い兵隊になめられまいと思っていました。その矢先、昭和18年の2月、或る日突然、大隊本部から呼び出しがありました。急いで駆け付けると、其処には25〜6歳のどう見ても農民らしい純朴そうな若い男が後手に縛られ、うずくまっていました。情報主任の鵜野少尉は私の顔を見るなり、「曽田見習い士官、こいつをやるから斬れや」とまるで犬か猫でも捨てるように私にほうりだしてくれました。私は本部の裏山に穴を掘らせ、若者をそのふちに座らせました。若者は殺されることがもうわかっていて観念した様子でしたが、私が軍刀を抜いて後に回ろうとしましたら、若者は急に「斬るのは止めて、拳銃で撃ってくれ」と言い出しました。中国人は首を斬られると死ぬが、弾丸があたったのは生き返ると信じている様でした。私はこっそり拳銃から弾を抜き取り、正面から狙って引き金を引きました。「カチッ」「カチッ」と何回やっても弾丸は出ません。「オイ、この拳銃はこわれているから諦めろ」といって、背後に回り、サッと軍刀を抜き取りました。はじめて人を斬るのですから、矢張り膝がガクガク小刻みに震えて止まりませんでした。そばに居る兵士に気付かれない様に下腹に力を入れ、グッと踏張って夢中で斬りつけました。私は軍刀術が下手なので首は半分しか斬れませんでした。瞬間若者はスウッと腰を浮かす様にして、前のめりに穴に落ち、仰向けになったその顔に、吹き出した血が注ぎ、見るもおそろしい形相で私をにらみつけました。私はとっさに穴の中に飛び下り無我夢中で、滅多突きにして息の根を止めました。返り血を浴びて正気に戻った時、「ああ、これで俺も将校の仲間入りが出来るんだ・・・」という喜びと、「とうとう人を殺してしまったか・・・」と思う後味の悪いものが入り乱れておりました。しかし、被害者の恨みも、肉親の嘆きも全く念頭にはありませんでした。私は、この時を境にもう人間ではなくなっておりました。それから3ヶ月後、5月26日、今度は私が自分の手で捕虜を捕まえ、同じ様にして二人目を斬った時には、もう全く良心の呵責も受けない『鬼』そのものになり果てて居りました。私がもし、中国ではなく南方戦線で戦犯になっておりましたら、国際法に違反して捕虜の首を斬った、この事だけで死刑は免れられないところでありました。


<刺突訓練>

昭和19年6月、私は日本からやってきた新兵の教官をしておりました。6ヶ月の基本教育も最後の段階に近づき、私は新兵に度胸をつけてやろうと思い、生きた人間を標的にして、それを実際に突き殺す訓練をやりました。当時、この訓練はどの中隊でも殆ど正規の科目の様にみんなやっておりました。度胸を付けるとは人間を鬼にする事です。それは日差しのきつい正午前でした。大隊本部から連れて来てくれたのは、35〜6歳、色白で一見学校の先生かと思われる中国人でした。素性は判りませんでしたが、私には只生きた人間でさえあればよかったのです。私は人目につきにくい林の木陰に一本の杭を立てさせ、それに男を目隠しして縛りつけました。準備が出来たところで、新兵に向かって、「突きたい奴は一列に並べ」と命じ、30余人が先を争って並びました。ところが一人だけオズオズして最後尾にくっつこうとする新兵が居りました。私は目ざとくそれを見つけると、すかさず「廻れ右」と号令をかけ、一番臆病者を先頭にしました。班長は私の指示にしたがって、真っ青になったその新兵にどなりつけ「前へ、前へ、突け」と号令をかけました。新兵は「ワア−」と悲鳴の様にわめいて駆出し、目をつぶって一気に突き刺しました。それに続いて30余人の新兵、全員をけしかけ、胸、腹、腰所構わず滅多突きにして惨殺しました。軍隊というところは、どんなに優しかったお兄さんも、学校の先生も又仏様につかえるお坊さんでも、新兵教育という、この「ルツボ」の中で、その人の良心のかけらまで剥ぎとり、ほんとうの鬼に変えてしまうのであります。これが新兵教育の目的であり、最後の目標でした。私たちの事を、中国に人々は憎しみを込めて『日本鬼子』(リ−ベンクイズ)と呼びました。「日の丸」を立てた、この鬼どもの集団が皇軍、つまり天皇の軍隊でありました。




鬼は中国で何をしたか

 〜三光作戦〜

<天宝山の三光>

中国の人々は、日本軍の侵略の実体を『三光政策』と呼びました。三つの光、中国語で「光」とは「根こそぎ」という意味があります。三光とは、殺光(殺しつくす)、焼光(焼きつくす)、そして掠光(奪いつくす)の三つであります。この天皇の軍隊が、どういう事を戦場でやって居たのか、一つ、二つ例を挙げて私が実際にやった事を申し上げます。昭和18年の4月下旬、私は小隊長になってはじめて「天宝山付近の戦闘」に参加しました。天宝山一帯の山々は一ヶ月前に私の連隊が、まんまと敵の計画にはまり、袋叩きにされ、、全滅したところでした。だから、戦友の仇討ち、という意味と、ここが再び敵の拠点として使われない為に陣地は勿論民家も全部焼き払う作戦でした。夜明け前に、天宝山のふもとに辿りついた私は、岩の陰に隠れていた農民の一家、年寄り、子どもを含めて6人を捕らえました。その中には5歳くらいの男の子も居りました。恐れおののく6人を追い立てて、山腹に待っていた大隊本部の情報班にそれを引き渡しました。其処にはもう30人ばかり集められておりました。ここへ来るまで途中の家々は全部火焔放射器で焼き払ってきました。情報主任の鵜野少尉は引き取った中国人を連れて歩くのが面倒になり、いきなりそばにあったトーチカ(山腹に横穴を掘って作った陣地で10〜20人位入れる)に閉じ込め入り口を塞いでしまいました。銃眼を通して、中の怒号と悲鳴が地鳴りの様に響いておりましたが、工兵隊は素早く爆薬を仕掛け、30余人を生きたまま木っ端微塵に吹き飛ばしてしまいました。この人たちが何を悪いことをしたというのでしょう。昨日まで田圃を耕していたお百姓さんです。中には私が捕まえた5歳くらいな男の子。そんなあどけない子どもまで全部殺しました。私の一番下の孫は4歳です。この4月から幼稚園に通います。孫が可愛ければ可愛いほど、あの時を思い出して胸が締め付けられます。もし人間の良心が爪のアカほどでも残っておれば、犬や猫の子でさえこんな酷い殺し方は出来なかった筈であります。正に鬼でなければ出来ない事をやってしまいました。


<救護すべき負傷兵までみな殺した>

昭和18年11月の終わりの事でした。常徳作戦といって、揚子江の南岸で二ヶ月間戦闘をしたときの事ですが、撤退して行く中国軍を追いかけて高い山岳の盆地に出た所、稲を刈った後の乾いた田圃の中で、傷ついた中国軍の兵士、およそ80人位が担架の上で休んでいるのを見つけました。赤十字のマークを付けた救護隊には攻撃を仕掛けないのが国際法の常識だったはずであります。しかし、当時昇進間近で、手柄が欲しくてしょうがなかった私どもの大隊長安藤大尉は、その負傷兵たちに護衛の部隊が守っていない事を確かめると、直ぐに手元の大隊本部の兵士に攻撃を命じました。それも「弾丸は使うな!斬るか、突いて殺せ!」と。立って歩くことも出来ない負傷兵、本来ならば薬を与えて介護をしなければならない負傷兵80余名を悉く殺してしまいました。大隊長は早速、師団指令部に電報で「敵の遺棄死体80、我が方、損害なし」と誇らしげに報告をしました。この様に自分の立身出世のためなら、人道も国際法も全く念頭にはなかったのが日の丸をかざした皇軍の実体でありました。私がここで告白しました罪行は3年半のうちのほんの一部に過ぎません。私は中国人民にとって、それこそ八つ裂きにしても足りない仇敵であって、当然極刑にされねばならない鬼でありました。



鬼から再び人間に

 -人道主義と寛大政策-

<罪を憎んで人を憎まず>

私たちは敗戦の直前、昭和20年7月末に旧満州へ来ておりましたので、そのままソ連に引っ張られて行かれました。そして中央アジアとシベリアで5年程、強制労働をやらされました。先程申し上げました様に昭和25年7月再び中国へ。今度は戦争犯罪人として送られ撫順戦犯管理所といって、昔日本軍が中国の愛国者を監禁しておりました撫順第二監獄の鉄格子の中に入れられました。ソ連とは戦争をしていなかったので怖いものは何一つありませんでした。だから大胆不敵といいましょうか、強制労働の最中に5回も10回もストライキを起こし、それを指揮しました。しかし、中国では違います。私たちは戦争中に何をしたかをまだ覚えておりました。だから先ず、只では済まされないだろうと思いました。その反面「戦争中だったから」「命令でやったのだから」とか、又何故俺たちの様な下っぱを戦犯にするのか、と言って、当分は事毎に反抗しました。ところが、中国側の取り扱いは全く違っておりました。私たち戦犯に対して「罪を憎んで人を憎まず」という人道主義の真髄とでも申しましょうか、良心のカケラさえ持ち合わせない、けだものの様な私たちを人間として取り扱ってくれました。私たちを管理する職員は全員が人民解放軍の将校や下士官の中から選ばれた優秀な人ばかりでありました。3年前1991年秋に当時看守として私たちの世話をして戴いた5人の人を広島にご招待しましたが、、その中の徐澤さんと言う方は祖父を日本軍に殺された被害者でした。職員の中には背中を銃剣で突かれ背中がまがってしまった人や、家族8人のうち7人が殺され、日本人に仇を討つために解放軍に入った人などみんな直接、間接の被害者ばかりでありました。だから、職員にとっては、とても私たちを世話するどころか顔を見るだけでも吐きけがし殴り付けたいのが本当の胸の内だったと思います。ずっと後になって、日本に帰って30年も過ぎてやっと知った事ですが、当時中国政府と党は戦犯の管理にあたって「殴ったり、罵ってはいけない」「病人を出してはいけない」「逃がしてはいけない」という三つの厳しい指示を出していたそうです。だから、最初の頃、看守の人たちは煮え返る胸のうちを押さえて、いくら戦犯に親切にしてやっても、わがままを言ったり、反抗する囚人にさえも「なぐるな」「けるな」「ののしるな」では我慢にも限界があります。夜ひそかに涙を出して悔しがる者、職場の配転を願い出る者、或いは「志願軍に入れて朝鮮の戦場へ出してくれ」という者や、又ある人は「我々の両親をやったと同じ様に、戦犯を原っぱに放り出し、機関銃で打ち殺せばいいのではないか」という者まであったそうです。それ等に対して所長は「獣の様な戦犯でも、我々の努力で、戦争に反対し平和の為に働こうという人間に生まれ変わらせる事が出来たら、それこそ今の仕事は光栄ある任務とはいえないだろうか、私も勉強するから一緒に頑張ろうではないか!」と諭したそうです。一昨年中国で発刊された『世界を震撼(おどろか)させた奇蹟』(日本語訳本は改題して来年3月発行)を見ますと、この所長自身も叔母が、日本人がしかけた軍用犬に噛み殺されており、所長就任の時に随分悩んだという事でありました。職員はこうして人道主義の理想を貫くために耐えがたい個人の感情を押さえ、あの6年間私たちは一度も罵られる事もなく、それこそ親身になって世話をしてくれました。私は戦争中、手当たり次第に中国人民を捕まえて荷物を担がせたり、牛馬の様にこき使い、怪我をしたり病気になれば、まるで雑巾の様に投げ捨てて、又代わりを捕まえて使いました。そして一度だってまともな食事を与えたことはありませんでした。それなのに、私たちは毎日三食、まばゆいばかりの白米飯を腹一杯食べさせてくれました。タイ米は嫌いだ、外米はまずい等といっている日本の皆さんにはとても判ってもらえないと思いますが、ソ連の五年間、一回も米の飯を見ず、一回も満腹を感ずることなしに、絶えずお腹の皮が背中にくっつく思いで重労働に耐えてきた私どもにとって、この感激はとても忘れることは出来ません。清潔な衣類、暖房の完備、親切な医療、すべて行き届いた取り扱いでありました。


<反省>

こうした至れりつくせりの待遇を受けておりますとね、どんなへそ曲がりでも、又私の様な頑固者でも、矢張り過去自分が中国人にやってきた事が人間の道に外れて居って、今受けている中国人民の取り扱いこそが人道的であること、人間は本来、この様にしなければいけなかったのか、という事が少しづつ判って来ました。それまでには3年〜4年もかかりました。自分のやった事の過ちを認め、間違った思想を直そうとする事は、決して生半可な決意では出来るものではありませんでした。私たちに反省の兆しが見えはじめてからは職員の表情にも明るさが増し、親身になって来ました。そのうちお互いの間に信頼関感も芽生えてきました。その間に色々な書物も自由に読める様になり、「日本資本主義発達史」「帝国主義論」を学習するうちに「戦争が何故起きるのか」も理解する様になりました。なかでも、私の人生を狂わせた日本軍国主義の思想本質は一体何であるかを真剣に考えました。そして日本軍国主義思想を形づくる三つの柱を見つけた時は私の考え方の大きな転機となりました。この事から、私が青春の情熱すべてを捧げて戦った「聖戦」が実は侵略戦争であり、中国人民に対する取り返しのつかない犯罪だったと判ったときは口惜しくて、口惜しくて・・・若し少年時代に一回でもいい一人でもいい良い先生に巡り合えて、世の中の本当の事を教えてもらっていたら・・・とつくづく思いました。自分の愚かさに腹を立てながらも、やり場のない口惜しさから、学校の恩師までも恨んでしまいました。良心が甦ると共に、次第に自分の犯した罪行を申し訳なく思う様になりました。そして、私のやった罪行を一つも洩らさず中国当局に告白するために昭和17年3月4日、上海に侵略の第一歩を踏んでから敗戦まで、3年半の罪行カレンダーを作る事にし、約1年をかけて1260日全部の日々を埋め尽くしました。更に一つ一つの罪行を深く掘り下げて行くうちに、それまでは只表面的にあそこでは「一人を突いた」「二人を斬った」と思っていたのが、立場を変えて被害者の側からその家族の身になって考えて行くと、一家の大黒柱を失った家族には計り知れない犠牲が襲いかかり、結局奪い去った生命は一人ではなく二人、三人にも及ぶ事を気づきました。又戦場で撃ち合うのは五分五分だからと余り罪を重く意識しておりませんでしたが、よく考えて見ると、中国軍人は、私たち日本軍が侵略して行かなかったら、平和な農民でした。なのに、いきなり、泥靴で押し掛け家族を殺し、家を焼き、女を犯すので止むなく鍬を鉄砲に持ちかえて家族民族を守った人たちでした。それは五分と五分ではありません。更にもう一歩進んで考えますと、平時の殺人が重い罪になるのに、どうしてそれより、もっと計画的、組織的、大規模で、しかも残虐な戦時の人殺しが罪にならないというのか、何故その罪が軽いというのか?そんなはずは絶対にありえないと思い当たりました。そうなると、昭和18年5月26日、江南作戦の時、石門で、私が中国の大軍を一挙に500人も撃ち殺した、当時大殊勲だと言われて居った「手柄」が実はその正反対に、とてつもない大犯罪である事に気付きました。この様に私の罪は考えれば考える程に、大きく、又重くなって遂に自分の罪に耐えられなくなりました。そして、この上は中国当局に一切を申し上げ中国人民の正義の裁きを受けようと決心をしました。私の3年有半に亘るすべての罪状を洩らさず書面で告白しました。それから間もなく昭和31年8月、私は中国政府の極めて寛大なとりはからいによって、特に起訴を免除され釈放されました。日本の軍国主義によって鬼に変えられた私は、皮肉にも、その被害者である中国人民に救われ、再び人間に立ち帰らせて戴きました。撫順戦犯管理所は、世界にただ一つしかない『人間改造の学校』だったと今も心から感謝しております。私が中国人民に犯した罪はどんなに謝っても許してもらえるものではなく一生背負い続けねばなりません。これからも私は歴史の証人として、一人でも多くの方に侵略戦争の罪悪と平和の有難さを知って戴き、一緒になって、平和と日中の真の友好に役立ちたいと思っております。




今、日本がなすべき事は何か 

〜戦後処理、そしてアジアとの和解〜

この間、永野法務大臣がとんでもない暴言を吐きました。あの南京大虐殺は紛れもない歴史の事実でございまして、かつて連合国の厳正な極東軍事裁判はA級戦争犯罪人松井石根大将を、南京大虐殺の責任者として死刑にしました。永野法相の発言は、この冷厳な国際的歴史事実を否定するものでございますから、あれは失言ではなく確信犯の暴言であって、アジアの人の心情を逆撫でするものでありました。之に対する反響は、日本の国内では私たち中国帰還者連絡会をはじめ若干の平和団体が首相官邸に抗議をかけたくらいで、全般には意外に静かだったように思います。それに引き替え、アジア諸国特に中国、韓国をはじめとして、その反響の早さと抗議の厳しさは、先に土井衆院議長が言われた通り、日本が未だアジア諸国民との間に和解を手にして居らない事、しかもその和解が程遠い事をはっきりと見せ付けられました。


<ドイツと日本は此処が違う>

第二次大戦で日本と同じく、ヨーロッパの火付け役だったドイツは既に周辺国との和解を遂げ、国際社会に受け入れられていると聞いておりますのに、何故、日本はいつまで経っても和解が出来ないのでしょうか、それは両国の戦後処理のやり方に違いがあると思います、主な問題を2〜3比べてみますと、


第一に 戦犯の追及について 

ドイツは、ニュールンベルグの国際裁判が終わった後も、その裁判の精神を受け継いでドイツ人自身の手でナチ戦犯の追及をつづけ、既に死刑を13人、終身刑180人を処分し尚、戦犯には時効を認めないで今も追及が続けられております。それに対し、日本では自らの手では戦犯の追及を全く行わず、逆に極東裁判で死刑にした者を靖国神社に合祀してその罪を免罪し、A級戦犯を釈放して首相や法相にしました。

第二に 謝罪と反省について 

ドイツは被害国に対して誠意を以て謝罪をしました。例えば一昨年10月に亡くなられたブラント元首相は、就任すると直ぐにポーランドのワルシャワに赴き、ナチスに殺された600万人ユダヤ人の霊を追悼し、土下座をして謝罪をされました。戦争中はナチスに反対して投獄された居ったブラント氏が、ドイツ民族として謝罪する姿は映像を以て報道され全世界に強い感銘を与え、同時に被害者の心を柔らげました。ワインゼッガー大統領は「過去に目を閉じる人は現代が見えなくなり、再び新たな過ち犯す」と戒め、毎年5月8日(ドイツ降伏の日)を被害者に思いを致し、追悼謝罪し反省する「想起の日」と定め、特に若い世代には戦争の教訓をつよく教えているそうです。それに対して、日本は8月15日を「敗戦の日」といわず「終戦の日」といってぼやかしています。敗戦と終戦ではその意味するものが大違いであります。その日には全国戦没者慰霊祭を行って、侵略戦争を実行した者の死を弔いますが、被害者を追悼する言葉を聞いたことがありません。現在123億の巨費を投じて建設が進められている「戦没者追悼平和記念館」にもアジアの被害者を追悼する配慮は全くありません。もっと悪い事は、戦後半世紀にわたって、教科書を統制して、次の世代を担う若者に侵略戦争の実体も、日本の加害責任も一切教える事を禁止している事であります。その結果、日本国民の大部分はアジアの人々に対する日本の戦争責任も、又彼らが今尚どれだけ戦争被害に苦しんでおるのかも判らない、国際孤児にされてしまいました。  

第三は、国家賠償と個人補償について 

ドイツは国家賠償も誠意を以て、こたえ、既に7兆円を支払ったといわれていますが、ドイツ統合によって今後も東ドイツの責任分が更に2兆円位の加算になるといわれております。しかし、日本は国家賠償すら大部分(四ヶ国を除く)は「資金協力」という名目の投資ですませました。そして個人に対する補償は国家賠償に含まれており、相手国の国内問題であって、日本は法的に一切解決済みという立場を取っております。果たして、それが国際的に通用するものでしょうか。韓国の場合を例に考えて見ますと、韓国には3億ドルの賠償を支払いました。若し、これで従軍慰安婦20万人、強制連行された150万人に補償するとしますと、いくらになるでしょうか、なんと一人あたり176ドル、当時のレートで63.360円が一生涯の代償という馬鹿げた金額になるのであります。実際に韓国政府が被害者個人に支払ったのは手続きが面倒でわずか7000人弱だったと聞いています。アメリカが大戦中、日系人を一時収容所に隔離をした補償として支払ったのが2万ドルでした、それに比べて176ドルを皆さん妥当とお考えになるでしょうか?今日本はアジア諸国から、ご存じの通りに従軍慰安婦、強制連行、軍票、未払い賃金、郵便貯金等など九ヶ国から26項目の個人補償の要求が突き付けられておりますが全く進展致しておりません。何故ドイツと日本で戦後処理にこれだけの違いが出来てしまったのか?その答は、ドイツではナチス侵略に反対した勢力が戦後の政権を担当しましたが、日本は戦前、戦中を指導した政権基盤がそのまま居座っている事にあると考えます。政府は最近、口を開けば「国際貢献」を叫びますが、私には「国際貢献」がかつての「東洋平和」や「大東亜共栄圏」のスローガンと同じ響きを以て聞こえてきます。政府はPKFの凍結解除や国連常任理事国入りに熱中する前に、先ずアジア諸国民との和解を手にする為に、誠意を以て戦後処理を解決して先ず信頼を回復し友人になる事が先決だと思うのであります。其の事を皆様方と共に声を揃えて叫びたいと思います。最後にもう一つ、近づくアジア大会を前にして、御当地広島県の皆様に特にお願いしたい事は、「被害者は過去の痛手を決して忘れない」という事。殴られた人が覚えているのに、殴った本人が知らないでは真の友好は出来ないのであります。本日、この会場でお気付きになりました日本人の加害責任を、どうか心の中に留めて、アジアのお客様をお迎え願いたいと思います。アジアとの和解を一日早める事になると確信して居ります。どうも御静聴有難う御座いました。