受け継ぐ会 第1次訪中団に参加して

 どんなところか?何のことか?想像もできなかった、初めて撫順を訪れた一昨年の
訪中。その際の中帰連主催訪中団のお客さん気分参加と違い、今回は受け継ぐ会訪中
団の当事者として、また再訪ということもありいろんな事を冷静に観、感じる事がで
きた8日間だった。尊敬する崔先生、趙先生との感激の再会や管理所新所長や現職員
の皆さんの心ある歓待にも感謝いっぱいだった。

 今回一番楽しみにしていた戦犯管理所での宿泊は本当に素晴らしい体験だった。前
日に旅順監獄の見学もあったので、あらためて管理所は監獄の対極にある清潔で明る
い、希望に満ちた肯定的な人間教育施設であったと理解した。加えてこの戦犯管理所
で!4名の中帰連会員さんからお話を聞く、これは奇跡のような恵みの経験だった。

 また、鄭さん(故金源先生の奥様)宅への訪問では受け継ぐ活動に大いに叱咤激励
いただき目が醒める思いだった。この活動に対して再覚醒させられた。金源先生の精
神は鄭さんの中にいつも共にあり、鄭さんを通して金源先生に再会した思いで本当に
嬉しく感動した。その他、今回は地道戦跡や山西省を体感できたこと、完成途中の「
日本軍罪行記念館」での展示も興味深かった。八路軍や中国農民の抗日活動や当時の
共産党の世界観等、興味は広がるばかりだ。

 滞在中は全国の仲間と交流し情報交換や各地の現状を知ることができる貴重な機会
でもあり、特に関東圏のメンバーと色々な話ができ、会全体の現状を認識。中央メン
バーには支部活動の上に、さらに受け継ぐ会全体としての運営の現実的な煩雑実務が
ある実情を再認識した。反省点の多い今回の訪中団だったと思うが、今後、また次回
の訪中や会全体のイベントに際しては支部からも事前にサポートや打ち合わせなど入
念に準備する必要があると感じた。また、今回は平頂山弁護団訪中団と一緒に行動す
る時間が多く、他の市民団体と交流できたことは視野が広がり互いに大変有益だった
と思う。

 帰れば、日中国交正常化30周年の話題。「反戦平和」や「日中友好」の時代は終
わり、日中関係は次の段階に変わりつつあるとする風潮がある。今や平和共生、仲良
くするのは当然でビジネスの世界なら提携共栄、協力して新しいプロジェクトに臨ん
だり、仲良く競争するご時世のようだ。しかしそうした次のステージに移行出来るの
は中帰連をはじめとする多くの市民団体や活動家の長い地道な友好運動があってこそ
。それに日本人は健全な歴史認識を持って中国やアジアの人々を先ず理解しているか
と思うと「?」だ。中帰連とは、撫順の奇蹟とは、やっぱりその意味は多様で大きく
て、今後も新たな評価も出てくるだろう等、考えればまだまだ理解の途中。今回の訪
中でまた少し撫順の奇蹟の真実に近づけたと思う。そして先生方との再会や新たな友
人も出来、中国がぐっ!と近くに感じられ、私的には今後の活動に向けていろんな面
で一区切り、節目になった大変有意義な旅だった。


9月14日(土)午後 国際線にて大連へ *成田・関西合流!(大連泊)
この旅はつべたい(出雲弁)ソフトクリームーかけじくおじさん(父)の TREAT で
始まった。
いよいよ今日からまた中国へ。スムーズに関空に到着。関西出発は6名。ところが高
知から参加の方の姿が見えず!!ともかく〜、チェックインして荷物を預け、再度集
合場所に戻り、○○さんを探す。いた!!ご本人も安堵し合流。無事搭乗ゲートまで
たどり着きました。早速免税店に寄り姉に頼まれたディオールの669番を。しかし
、これは扱っていないとのこと。。がーん。。特に買い物もなく、早めにゲートまで
行き雑談笑。するといきなり目の前にソフトクリームを差し出す人が。。あ、お父ち
ゃんでした。皆に1本づつ買ってくれ、母も「こんなに食べられんわ」といいつつ「
つべた〜い(出雲弁)なかなかいい甘さだね」と言いつつ、ぺろりといってました。
いきなりのソフトクリームに愛媛からの名田さんも笑顔で味わっておられました。う
ん、お父ちゃんてこういうところがあるんだよね。初対面の人にも自然に振る舞える
っていうか、和やかな雰囲気の旅立ちになりました。・・・そしてCA(中国国際航
空)152便に搭乗。うわっ、すごい音と振動。なんか心地良くないなぁ、と思って
いたら機内食が運ばれてきた。全員に配り終えた雰囲気で、ん?と見るとえ?私のが
ないじゃないの、で、後尾エリアでおしゃべりしてる乗務員のところまで行き「我没
有!」あら、ごめんという表情もなくトレーを渡され、一体これ何やのよ?セルフサ
ービス?と席に戻り、よくみると。。。なんととんちんかんなこのメニュー!?緑色
のお蕎麦らしきヌードルにフォークとナイフ。何故かコショウもついている。ミニ巻
き寿司やいなりもまだ解凍中で凍ってるんだけど。。。悲しい〜。そしてこのフライ
トには日本人常務員がいない。日本語のわかる中国人スタッフもいない。日本語の放
送もない。機内誌をめくっても中国語と英語だけ。あの?半数以上は日本人乗客なの
にこれは何??なんか日本人を無視してるみたい、と言われてもしょうがいないこの
対応。なら徹底していっそハンバーグステーキでも出してくれたらいいのに、ちょこ
っと蕎麦もどきやお菓子のようなお寿司がのっかってて、主張もコンセプトも感じら
れない、あぁもちろんホスピタリティとか笑顔とかサービスとか、そういうのは全然
ありませんでしたー。今回で中国は3回目だけど、こんなの初めて。逆行してるのか
?わけわかめのフライトでありました。そして大連到着。空港を出ると中心にお花畑
!建物も同じ茶色の住宅が整列していてアミューズメントパークみたい。ゆったり大
らかな第一印象。カラフルで洗練された港町。夜の広場へ行ってみると、照明の色が
ヨーロピアンでモニュメントも宇宙的。ユーミンの世界。ホテルの部屋から見おろす
町はシアトルのインターナショナルディストリクトそのもの。近代的なビルもとって
もシアトルのダウンタウンと似てる!あの角を曲がれば日本食材が揃う「UWAJIMAYA
」がありそうな。ゆっくり滞在してぶらぶら歩いてみたい街。路面電車の路線が充実
していて中国にしては自転車で走る姿が少ない。偽満州国時代の日本名「星ヶ浦」海
浜公園。sounds romantic ☆


9月15日(日)旅順見学(日本軍監獄・203高地)列車にて撫順へ 
*成田・関西・福岡・札幌合流
撫順戦犯管理所訪問(見学)歓迎夕食会(撫順泊)
旅順は未解放区。人口21万人のうち中心部に8万人が在住。2万人は海軍の水兵さ
ん。アワビの養殖は世界一。大連に行くなら旅順は must go! 半島の美しい別荘地の
名がある。日本軍監獄内は撮影禁止。暗くてたぶん当時は汚くて、こんなところにい
たら120%絶望的真っ暗な世界であっただろうと身震い。ここに収容された人は自分
の主張がなくなり人の言う通りになる思想麻痺状態にされたという。中帰連の田子仁
郎さんの供述書が展示されていた。1942年から1945年の3年間で700人が絞首刑に
されたという。1945年の8月16日にも共産党員が6名絞首刑にされた。旅順は不凍港
であったため明治時代頃から重要地としてロシアなども注目していた。203高地へ
向かうバスの中で、平頂山弁護団の方が「旅順虐殺」についてわかりやすく解説して
下さり大変勉強になった。これまた、知りませんでした。。。説明をききながら聞き
ながらメモをとっていたら、弁護団の方がさっと資料のコピーを下さった。「旅順虐
殺」も報告しなければ、と思う。203高地は登ってみて確かにわかる、ここからす
べてが一望でき、敵を迎え撃てる。何故ここにこだわったのか、実感。大連から汽車
に乗る。グリーン車クラスでまぁまぁ快適。サービスのBGMがでかくてうるさい。
出発しても5分くらいうるさくてどうしようか、と思ったらぱたりと止んだ。謝謝。
うれしい車内販売もある。ワゴンが来る〜。川崎さんがこれなんでしょ?と果物を。
ほうずきのような素朴な味。「姑娘果」というそうだ。隣の席には鈴木さんと堀口さ
んが。鈴木さんが庭で作られたピーナツを下さる。屈託のない鈴木さんは向かいに座
った中国の若者たちと筆談。和やかそのものの車内。これぞ旅のひとこま。車窓から
コーリャン畑を初めて見た。撫順着。そこからバスで移動。あらら、前回とルートが
違う、道が違う。高速道路が出来たそうです。という間に戦犯管理所着。薄暗い中に
迎えの人影が。「☆◎・’〜!!」といううれしい悲鳴が。それは趙先生でした。私
と母を見つけて、その奥に父がいたので「2人は来ると思ってたけど、お父さんも来
られるとは、、うれしい!!」と抱きついてこられた。感激〜、、にひたる間もなく
あ!崔先生!!4月とお変わりないあの笑顔・・・ただただ感激です。歓迎夕食会の
宴では趙先生が私たちと座りたいと仰り、共に円卓を囲みました。幸福。今夜の宴は
新所長の心遣いが感じられる屋内での和やかなひとときだった。一昨年は庭園でバッ
トにダイナミックに肉のスライスや果物が盛られていたが、今回は女性らしい細やか
な配慮が感じられる宴会だった。

そして戦犯管理所の夜 ☆ 先ずは山口さんのお話をきく。 -- 戦犯と書かれたことに
反発。当時我々にはそんな思想はなかった。ソ連から日本へ帰れると思っていたので
3年間くらいは反感を持っていた。「ここでもう終わりだな」という思想だったが、
生活様式が変わって腹いっぱい食べさせてもらって「これは???」自分たちはコー
リャン飯を食べ、中国の人がしてくれることに納得できなかった。白米をたくさん食
べさせて最後にバッサリ殺られるのでは?と。中国政府は赤ん坊を育てるようにして
くれた。ふとんとかけふとんをかけると高さが 20cm 以上あった。戦争は幸福を与え
ず、残虐なものである、とだんだん罪悪を認識していった。帰る時には「銃を持って
中国に来ないように」と言われた。ほんとにここは思想改造の学校でした。 --  知
っている話だけど、やっぱりご本人の話を表情を見ながら聞く、しかもこの戦犯管理
所で!クオリティタイムの極み。

続いて藤原助男さん  --  私はここでの生活につ
いて話します、この1部屋には17名いた。労働班で学習組長だった。1日は点呼で
始まる。きをつけ!礼、イーアルサンスー、と中国語で点呼。午前は広場で運動。新
品のバスケットボールを買ってもらいました。続いて、リングやネットまで。我々の
ためにどんどん良くしてもらった。鈴木さんは合唱隊だった。関いさおさんはハーモ
ニカでも何でもうまかった。(ちなみにこの関さんは松江のカメラ屋の有名おじさん
で、小学校の時など必ず記念写真を撮りにこられる音楽好きの超楽しいおじさんでし
た。撮る際のジョークが独特。私のアルバムにある関さんの撮った記念写真はすべて
皆どっ!と笑っています。松江でカメラのセキを知らない人はたぶんなくテレビCM
もありました。CMのバックではセキのおじさんが自作の歌を歌っているのです。こ
の人が中帰連の人だったとは!!!!!ビックリマークが止まらないほど、もうほん
とにそれを知った時は声が出ました。でも今は体調もありお会いできないのです。。
。セキのおじさーん!!あの突き抜けた、でもしみじみとした味のある明るさや自由
さ、クリエイティブさは戦犯管理所ではじけたものとしか思えません)
それから文化
室とか野外劇場とか、いたれりつくせりだった。。。お米をのりに、外の砂を乾かし
て、紙を貼って黒と白の碁石を作ったりして遊んだ。先生方はスピーカーを通して講
義されたが、聴かなかった。殺す前にたくさん食べさせられるのだと思った。病気の
状況もわかりました。高価な薬で治してもらって、、認罪が始まって、、認罪が完成
する少し前、1ヶ月くらいの旅行がありました。旅行で地べたに土下座して謝りたく
なりました。毛沢東全集やスターリン、レーニンの本を読みました。赤十字が作った
「人道と覚醒」という写真集にここでの生活の様子があります。ここで、酔っぱらっ
てへべれけの鈴木さん(でも決して我をなくしてはいない)が「話は明瞭簡潔に!そ
んな詳しく話してたらおれの話す時間がなくなるっ!」とからみ始めた。ここで山口
さんが「鈴木さん、藤原さんは初めてここに帰ってきたんだ〜、しゃべることはたく
さんある、しゃべらせてやれよ」と穏やかになだめ、藤原さんも「いや、俺は話すこ
とがある」と対抗し、その様子も今の会員さんのあるがままの姿として、見せてもら
えたのはすごく貴重!良かった場面と思いました。藤原さんは続いて -- 今までも話
したかったけど、共産党という偏見があり話せなかったとも。

さぁ、続いて鈴木さん
の登場です。 -- 私はいつも部屋の右端に寝ていた。陽があたり暖かかった。座骨神
経痛だったから。腰が曲がったきり。外でバレーも出来ず、、寝ていた。医務室の看
護婦さんが来て、精密検査すると梅毒だった。その後遺症だった。淋病も治った。「
あなた、覚えがあるでしょう?」と言われ、「治しましょう」とペニシリンで。血液
検査でマイナスだった。梅毒を治してもらったんですよ!これ、下士官なら2階級落
とされる!兵隊なら昇格出来ないんです!!今、82歳。元気です!!ここは再生の
地だ!第2の故郷!私が病気を移した女性については。。。申し訳なかったと思う。
私にこの病気をくれたのはみさおさんだったけど、でも私は彼女を恨みませんでした
。初恋の彼女は16年間待っていたのですよ、出征前に一晩話しても決まらなくて、
、私は待ってます、と彼女が言ったのでそれなら俺は帰ってくると。山東省にいたけ
ど、中国では激戦はなかった。中国ではすでに負けていた。あきらめたからやりたい
ことはやって死のう、と。性暴力については準治安地区では強姦したら、後で訴えら
れるから被害者は殺された。敵性地区は=開放地区(八路軍の管理下地域)ここでは
何をやっても良いので(被害者は)殺されなかった。敵性地区では部落掃討した。か
っぱらいです。ある村を掃討した時、農家の中に15人くらいの老婆を見つけました
。老婆をけちらしたら、その中に若い女性がいて逃げた。中国の農家にはトイレがな
くてブタ小屋で用を足すんですが、そこにその女性は隠れていた。その時のぶるぶる
震え、ガタガタと、青い顔、青ざめた顔は忘れられない。身にしみて申し訳ない。死
ぬまで反省。。謝罪の人生です。強姦は10人の兵隊のうち7人はやってると思う。
全然証拠がないので泣き寝入り。強姦を坦白した人が完全に認罪したということ。認
罪の最後のステージが「評批運動」鼻高々にしゃべる日本の軍隊。日本軍は世界最低
だ。

--  続いて堀口さんのお話  -- 戦時中は歩兵だった。ともかく、歩け歩け
、、今も歩くのには強い。はじめの頃に全部罪行は暴露した。帰国してからは大工を
している。堀口さんは、ちょっと待ち時間があり立ち話することがあると何度か慰安
婦の話をされた。慰安所では「騙されてきた」と言うのをきいた。「金をたくさんや
ろう」と言うと、余分に払ってもマダムに取られちゃうよ、と言われた。屋根のない
部隊のトラックで女性たちが運ばれるのを見た。北支の59師団にいた。管理所では
舞踊で女形をやった。認罪の時、職員から「よく考えてくれ」とは言われない。自分
は全部暴露したので、暴露や坦白は恐くなかった。覚悟を決めてたので。 --  

最後
に再度、山口さん -- 帰国後初めて1983年に訪中した。北海道からは初めての訪中。
1985年か86年に10名の先生方を招待した。350万円の費用が必要だったが、当時ま
だ会員が多かったし、500万円のカンパが集まった。お土産にテレビ10台を買い、残
りの150万円は貯金した。東北・北海道・仙台で歓迎会をした。関西方面や広島でも
。九州の会員も来た。三重県の陰地さんと交際があった。一度一緒に訪中した。陰地
さんは亡くなられたが、今もかぼちゃやいも、みかん等を送りあって交流している。


鈴木さんは話されている時、参加者でジェンダー関係の研究をされてる女性の先生方
が次々と鋭い質問をされたが、酔っぱらいながらも鈴木さんは誠実に淡々と答えてお
られた。女性国際法廷で証言され、また日頃の楽しい性格の鈴木さんを知っている立
場としては、そこまではっきり質問できない内容を率直に質問する女性陣と鈴木さん
とのやりとりもまた、いろんな視点や考え方が実際にあることを知る上で私たちにと
って良かったと思う。この夜は濃かった〜。
午前0時が近づき、会員さんもお疲れでしょう、と寝ることに。ワーオ!山口さんと
堀口さんに挟まれて寝れるこの幸運!電気を消しても、山口さんも堀口さんも「・・
・だったなぁ」と当時を思い出して寝ながら雑談は続く・・・とはいいつつそのまま
眠りに落ちた・・


9月16日(月)平頂山惨案殉難者70周年記念大会 撫順戦犯管理所訪問(見学・
会議)展示室・謝罪碑見学と会議 希望者体験宿泊 撫順市主催夕食会(撫順泊)


朝6時?ごそごそ、山口さんも堀口さんも起き出している。。きちんと布団を畳んで
・・・素晴らしいほどきっちりと。習慣。管理所が用意して下さったこれまた新品の
洗面器とタオルで洗顔。部屋に戻り、よく眠れましたか?と尋ねると、堀口さん「す
ぐ寝てしまいました」山口さん「3時頃までいろんな事を思い出してなかなか眠れね
かったぁ」
2人ともほんとに笑顔がいいなぁ。その後、皆で元の運動場を観たり(雑草いっぱい
)庭を散歩するうち、何か視線が・・・あぁ〜ぁあ!管理所横の新館?現在の刑務所
の収容者が大勢笑顔で手を振っているっ。明るいですね。
戦犯管理所玄関の屋上まで上らせて戴きました。所内一望でき満足。ここは本当に清
潔で明るい人間教育施設。旅順監獄の対極。


9月17日(火)9・18記念館見学 航空機にて北京へ移動(北京泊)
北京での訪中団最後の夕食会。故金源婦人の鄭英順さんも参加。この宴で藤原さんは
感激極まり涙、涙。「旅行中、カバンを持ってもらったり皆さんに大変お世話になっ
て、、、長生きした甲斐があります」鄭さんは「受け継ぐ、この事業は真実、必ず成
功します!しっかりやって下さい」と我々を大いに励まされた。今度は、家で2、3
日泊まって下さい。こんなにたくさんで来ないで。家に泊まっていろいろゆっくり話
をして。。。私頼みます。」と言われました。


9月18日(水)故金源先生宅訪問 バスで保定へ移動(保定泊)
午前中、鄭さんのお宅訪問。短い訪問予定だったが結局お昼前まで、素晴らしい時間
を戴いた。本当に感謝だった。
「来るなら10人で」という条件付き。これは縁起のためだそうです。ばっちり10
人でタクシー2台に分乗し、無事到着。わー!すごく大きな建物です。ここにお住ま
いなんだね〜、と話ながら中に入ると廊下は真っ暗。「パン」と手を叩くとセンサー
で電気が点く。省エネ的。エレベーターには係りの女の子が。ドアベルを鳴らすと、
しばら〜くして鄭さんが迎えて下さいました。真っ暗な廊下から部屋へ入ると、明る
い!広い!開放的!!遠くまで眺めの良いし、素敵なお住まいです。広いリビングに
は金源先生の遺影が。皆が口々に「金源先生!」と叫び遺影の前に集まりました。
ま〜、ま〜、あなた達、ゆっくりしてね、とアメリカの家庭のようにそれぞれのお部
屋を案内して下さいました。一昨年と同じ!やっぱり鄭さんはスイカを切り分けて、
年長者から配って下さるのです。お父ちゃん、感激しておりました。金源先生の葬儀
の模様や、海に散骨された写真を次々と見せて下さいました。鄭さん、口と手が止ま
りません(笑)。落ちついたところで、鄭さんはいろんなお話をして下さいましたー
ー1954年、20歳の時、共産党に入党。金源さんとは46年間夫婦でした。・・・友誼
促進会の集まりがあっても、だんだん金源さんを知る人が少なくなり出かける気にな
れないこと。また、季刊『中帰連』22号の78ページを指さして怒り始められ、こ
の怒りは英語でいえば 荒れて怒る angry ではなく 怒りに震える furious と感じら
れる真剣な怒りでした。皆、鄭さんの真剣さにシーンとなりました。 そこには「日
中戦争」の語がありました。「これは何っ!?これでは日本と中国が対等に戦ったみ
たいじゃないの?違う!これは日本から侵略してきた、私たちから言えば抗日戦争で
すよ!!これは日本侵略戦争、なんでこの
季刊『中帰連』にこんな表現が載ってるの!?おかしい!!これは良くない!気持ち
悪い!」と1人1人に詰め寄る勢いで、そうだ、こうした「名前」から意識を変えて
いかねばと実感した。身体でわかった、ぎょっとした瞬間だった。
他がどうであれ、季刊『中帰連』にこの表現で掲載すべきでなかった、したとしても
説明を付けるべきだ等、その場が沸いた。平頂山の生存者の話。当時4歳だったその
被害者は、身体に破片が突き刺さっていたが、かぼちゃを薄くスライスしたものを貼
って寝たら、翌朝、破片が全部抜けていた。新井利男さんが亡くなったのは本当に悲
しい。ここで泣かれた。生きていれば61歳。中国国内を85カ所もまわって、その
疲れで亡くなったのが私の結論です。新井さんはすごく良い人。「疲れた」と絶対言
わない。疲れているのに。私は新井さんが可哀想な気がする。ここでまた泣かれる。
この仕事を早くしないと!三尾さん、富永さん、児島さん、土屋さん、、、もういな
いでしょ、当時の事を取材するのは、もう今しかない、早くしないと!こちらの職員
も年とりました。老幹部ですよ、退職してね。主人は去年15回講演して、去年の8
月は4キロ痩せて帰ってきてびっくりした。いつもは病院など全然行かない人なのに
、その日は鄭さんが風邪を引いて病院に行くと言うと、自分も行くと言うので驚いた
。その病院で検査したが、古いので、新しい設備のある北京の病院で検査することに
なった。肺にガンがあった。クマさんがお見舞いに来られた時、見舞金を渡そうとし
たら、主人は「あなた方は新しい組織でお金が必要だから、事務所のお金の足しにし
て」と受け取らなかった。そんな人ですよ。病気だったけど頭はしっかりしていた。
将来の頼み、希望があった。若者のこと、心にあった。中国の職員からの聞き取りを
まとめた本、30人くらい出てくる、あの本、いいですよ。(たぶん「覚醒」)
とにかく受け継ぐ会はビンボーだから〜、とどうしたらいいかと考えます。長女は沈
陽の警察学校に行っているが、「お母さん、受け継ぐ会はお金がないから経費はどう
するの?」ときいてくる。若い時はいいけど、年とってくると病気にもなる。どうし
たら、お金のこと、受け継ぐ会のお金のこと、自分の生活にもお金要るし、、、あま
り疲れないように、、考えて下さい。(そんな事まで心配して下さっている、恐れ入
りました)昔は中国では、仕事に来ても来なくても、まぁ良かった。でも今は厳しい
。女は45歳、男は55歳で退職。昔は60歳だったけど。中国もリストラですよ。
このマンションは 65000元で一番安い方です。(これで?)今年の4月に来日した時
、その後1ヶ月くらい川崎の息子のところにいた。嫁が「ゆっくりして6月頃に帰れ
ば」と言ってくれたけど、金源さんが待っているので帰ります、と帰ってきた。私は
あまり外出もしたくない。家にいたいです。主人がここにいますので、守っているの
です。
-- 素晴らしいご夫婦だと改めて感動 ・・
叱咤激励とはこの事。本気で怒り、心配し、本気で励まして下さった・・人を思いや
るっていうのはこういう事だと心がじ〜んとなる。鄭さんもやっぱり本物を感じさせ
られるお方。鄭さんの中にしっかりと金源先生がおられ、その精神を生きておられた
。この訪問で私たち1人1人、それをしっかりと受けとめたと確信している。



9月19日(木)「地道戦」河北省再庄村・抗日戦争のための地下道見学 石家荘で
昼食 パスで太原へ移動 太原戦犯管理所跡見学(太原泊)

「地道戦」陳列館内部は撮影禁止。全部メモできなかったが、武器を持たない農民達
の対抗策として、地雷や高いところから石を落とすなどいろんな方法が展示してあり
、その知恵のひとつひとつがとても興味深かった。ゆっくり見学したかった。さて、
地道へ。実際歩いてみると、長くかかんで歩く姿勢が続き、そのしんどさを体感!!
あぁ、苦しい、こんなに苦しいとは、、空間がないってすごく生き苦しい。これでは
日本軍が入れたとしても速く追ってくることはできないだろう。地道は広範囲にわた
り、迷ったら、最後北京まで行けるかもというジョークがあるほどだった。関わった
農民は約1万人とも。ところでこの付近の屋台?で売っていたロバ肉サンドは肉自体
に味わいがあってすごく美味しかった!!孫さんが買ったのを「まぁ、食べてみて!
」ってかじらせてくれました。

その後バスで走る途中、日本軍罪行記念館というすごい名前の施設を通り、皆が「こ
こ行きたい!」ということでまだ完成途中のようだったが入場可能とのことでしばし
見学する。マネキンの顔が全部怒って、目つきの鋭い表情。絵画も多かったが、抗日
兵士がマッチョでどれもたくましく描かれていた。すごく頼れる兄貴達、英雄ってい
うイメージだ。こうした施設は教育基地としては無論のこと、中国人の国内旅行も増
える昨今、戦地跡なども観光資源として力を入れているそうだ。石家荘でランチ。何
ともくすんだ街。なんか大気がもやもやしてすっきりしない。高級レストランだった
が、料理もくすんだ味がした?この辺りはいつもこんな感じ?
・・・眠った気・・・保定 石家荘 太原 ・・・河北平原 山西平原 たいこう山脈
父いわく「こんなの初めて見た、初めての体験だったわ!」と、この空一面眠った「
気」は何?風もなくほんとに気が眠ってる状態はこの事か!とえらく感心していた。
出雲地方独特のどんより曇り空なんかとはまた全然違う眠った大気。流石、短歌作る
人の感性はちと違いました。地上、明るい層、眠った気のグレーゾーンと世界が3層
になっているのでした。
河野さんにもらった古い地図を見ながらキョロキョロしていると、直線的で不気味な
建物が・・・旧日本軍司令部でした。お城みたい。写真撮影禁止でした。太原戦犯管
理所跡は今は軍の幼稚園。中には入れず。「こんなんじゃ帰れないよ〜!どう報告す
るねん」と長沼しぇんしょんに嘆願し、市内の書店へ連れて行ってもらう。店員さん
にも尋ねてもらったが、戦犯管理所に関する書籍はなく、山西省と太原市内の地図を
お土産に買う。



大原監獄と呼ばれた建物も現在はこんなにポップな幼稚園になっていました・・・

9月20日(金)パスにて平遥へ移動 世界遺産平遥古城観光 航空機にて北京へ移
動(北京泊)




平遥古城の観光はなかなか面白かった。ここでは珍しく雨だったけど、情緒がありそ
れはそれで良かったかも。何が良かったって、この古城の敷地内に今もたーくさんの
人が今も生活してるっていうこと。お店や食堂、生き物たち!やっぱ生活の場が一番
面白い!ここでは中国ではほんと会うのが珍しい猫ちゃんにも会えたし。平遥では犬
は放してあり、猫は首輪に紐がつけられていて、犬猫逆でした。



紐付きねこ1 柄が可愛すぎる ・・・ 紐付きねこ2 まだ子猫

テレビだけがやけにピカピカの新品?

太原から北京へ戻る国内線は very nice ! 太好了!!乗務員1人1人の紹介から始
まってユニフォームもさっそうと南国風デザインで素敵。月餅のお土産まで戴いて謝
謝。
この夜の夕食会はまた和やかな雰囲気で、最後に神奈川支部長の松山さんの感想がと
てもいいな〜、と心温まりました。それは「今回、鄭さんのお宅を訪問しお会いでき
たのが本当に良かった。中帰連の本等は読んでいるけど、こうして実際に話出来て、
いや、本当に良かったです。その心というか、お金の心配、生活の心配等その思いや
る気持ち。
“日中戦争”という表現にあれだけ怒られた事。私たちがほんとに考えていかなけれ
ばいけないのはそういう事です。あの時間は私の一生の宝のように思います。今回、
何か少しでも中国語をおぼえて来なかったのか、今本当に反省しています。今後の活
動も「力を合わせないと」それが大事と思います。」あまり感情を出されない温厚な
松山さんが、本当に感激して話されたのが忘れられません。いい時間でした。


9月21日(土)北京から大連経由で関西へ帰国
関空に着くと。まだ残暑。でも空はすかっと青く晴れていて、やっぱし日本はええな
〜、とあらためて青い空の有難みに大感謝!



メモ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
●沈陽(人口500万人)と札幌は姉妹都市
●北京の高速道路 (20km) は国内で一番高い 30元
●北京の人口は 1100万人 + 流動人口 300万人
●今は帰化も出来るし、開放されてて、何でもありっていう感じとか(?)
●「地道戦」の村付近でみた甲板「多子多貧」一人っ子政策推進用?
●平頂山グループのある方からの意見「個人的にどなたの証言がということではない
が、証言をきく時、殺す場面になると表情が“いきいき”するのにちょっと反感を感
じる」高揚してるのかも?「笑顔の証言考」同様興味深い意見だと感じた。
●土地は国のもの。家族人数により面積が異なる。
●太原では普通の家は250万円あれば購入できる。
●8階以上の建物はエレベーターを設置する(国の法律)
●水のあまり要らないのはポプラ、えんじゅ、柳の木
●山西省の特産品:お酒 酢(原料はコーリャンやとうもろこし)お酒は20度から
58度まで。飲みやすいのは38度。ぶどうもとれ、ワイン工場もあるとか。コーリ
ャンやとうもろこし、ひまわりの種等、この土地で生きるための充分な食べ物と燃料
は神の配剤。
●山陰中帰連の曽田会長より「人民服務」のスローガンが残っていないか見てきて下
さい、と頼まれ、注意していたけど、全然見かけませんでした。80年代まではあちこ
ちでよく見られたらしい。現在は「・・母のメモをみないとわからない・・」でしょ
うか。太原の空港で見ました。

☆☆☆ 番外編 ☆☆☆ かけじくおじさんの戦時中の奉仕活動
旅行中、1932年(昭和7年生まれ)の父にきいた小学校高学年の時の体験。
小学校5・6年になると授業はなかった。代わりにやらされたのは、
■炭作り
■草を育てて軍馬のえさ作り
■軍服の繊維になる桑やまお(てっぽう草)の皮を剥いでまとめる作業
■食料増産のための稲やさつまいも作り。学校の運動場を耕して栽培した。稲ハデを
建てて稲を干す。
■縄ない。機械で縄をなう。(出雲弁かも。縄を編む意です)雨が降れば縄ない。簑
を作る。
■竹細工 篭作り
■兵隊に出た人(出征兵士の家)に奉仕に行く。田圃を耕してあげたり。御飯を食べ
させてもらえてこの奉仕は楽しみだった。家に食べるものがなかったので。
高等科2年(中学2年)で学校は終わり。当時の家のおかずは漬け物、なめ味噌、梅
干し。
昭和16年〜20年頃まで食べる物がなかった。長男は百日咳・肺炎で亡くなった。(父
は10人兄弟の末っ子)
供出で米を作っていても強制的に出さされる。なければ買ってでも出さないと許され
ない。
小麦 - 馬方(地名)の米突き屋に持って行き麦をついてもらって石臼で粉にして団子
にして食べる(小麦団子)それでも食べるものがない時は小麦の粉のかすを焼いて食
べたりした。
タニシ - 湯がいて身を出して砂糖なしで煮て食べた
米 - おかゆ状にして大根を入れたりして量を増やした
魚 - 配給でふか(さめ)の切り身を食べた
野菜 - かぼちゃ、いもの葉っぱやくきの油炒め
肉 - !(そんなもの)食べてない
果物 - 柿、みかん、あけび
卵 - 当時、売っていたかも。遠足の時の卵焼きくらい。普段は食べれない。
ホテルのビュッフェで、いつも食べきれない程、皿に盛るお父ちゃん。「食べれる量
だけにしーや、お父ちゃん」と言ってもそれは治りません、、こうした食の乏しい生
育歴だから仕方ないのかも。。。苦労したんだね。