9月19日(火)北京に戻って、友誼促進会へ表敬訪問:

友促会のある建物が狭い道沿いにあり、大型バスが通れないので、バスを降りて途中から歩く。

道路工事中でどろどろした鋪道の雑多なお店の並ぶ中通りから、車一台が通れる幅の道に入ってしばらく行くと、そこだけ、閑静なたたずまいで、少し奥に友促進の建物があった。中に入ると、落ち着ける静かな広い1室に通された。ゆったりしたソファに各自が落ち着け、お茶を頂きながらの和やかな雰囲気で始まった。ここまで歩いてきた雑踏がうそのような静かで平安な空間だった。

中帰連の大河原副会長さんより、友促会に対して、先ず、表敬の挨拶があり、続いて、訪中団員に対して友促会と中帰連の交流の歴史の説明があった。現在50ヶ国と民間交流のある友促会と中帰連との交流は1986年頃から始まったとのことで、かれこれ15年。中帰連の活動が開始したのが1956年で、44年になるが、中帰連会員が55歳あたりから、中国との交流が盛んになっているとのことで、やはり退職された頃から、時間や精神的なゆとりも出来てそうした平和活動に専念できる方が多かったということだろうか。

山陰支部の会員は今回、来訪できなかったが、私達家族が来れたことに対する感謝の意を表された。

友促会での梶村太一郎さん(日独平和フォーラム代表)のメッセージ:人道的な措置により日本人戦犯が人間的な覚醒をした「撫順の奇蹟」を日中友好の「宝」「礎」としたい。右傾化している最近の日本にこの事実を突き付ける。これは緊急課題。両国ともこの「宝」を忘れたら、歴史によって罰せられるだろう。第2次世界大戦に対する「同じ認識」を持つこと。

新聞で読んだり、テレビできいたりして、「ふ〜ん、そうかなぁ」くらいに思っていたが、今回の旅で、ほんとうにそうなんだ、という事をじわじわと感じた。

三重県の渡部さんは、23歳で入隊。軍医として6年、シベリア抑留5年、戦犯管理所に6年、合計17年間、中国にいて、日本に帰還した時は40歳になっていたという。「だから私には30代はないんです」とぽつり。

北京でパスの中で隣り合わせて、盧溝橋の人民抗日戦争記念館いろいろお話して下さった、北海道の山口さんは、3年弱従軍、シベリア抑留5年、戦犯管理所に6年で、帰国時は33歳。20代はなかった、とおっしゃるだろうか。。。

北京で帰国前々日の夜、若者の集いがあった。
メンバーは、熊谷さんを中心として男性のみ10人程度で、女性は私だけだった。自己紹介をして、本題「私達は何が出来るのか?」に入る。具体的には、中帰連の事業とふたつの精神「反戦平和」「日中友好」を受け継ぐ若者の会ということで、「撫順の奇蹟を受け継ぐ会」を結成。具体的には先ずインターネット上でメーリングリストを作ることになった。日中間の今の世代の特権は、個人対個人が対等の立場にあること。ここでも梶村さんが「これからは中国と仲良くやらないと、日本の将来はない」とか、「うまくやれば、中国も本気で日本に協力してくれる」とか「撫順との地道な人間関係、交流関係を続けていくことが大事」とアドバイスされた。リアルタイムの中国はどんな感じ〜?どうなってるのか等のナマの情報交換ができる場も必要。

民衆が違います、と大河原さんも過日おっしゃっていたが、日本の民衆には、確かに自分達で勝ち取った歴史がない。与えられた民主主義。母がいうように「これからの若い人こそ、知ってる以上に知ってないだめだわね〜」っていうのも納得。ほんとに知らないと、アジアから、世界から取り残されそうな感じだ。