9月18日(月)

大河原孝一さん(中帰連 副会長)と同じテーブルで朝食。「日本と中国では民衆がちがいますよ。中国ではどんな貧しい人でも政府の政策を支持している。中帰連のような活動をこれから勉強してくれる人が少ないですね」とおっしゃる。勉強させていただきますよー。バスで瀋陽へ。北京でも東北地方でも、ネコを見かけない。アパートばっかりで、一戸建てがない。犬はたま〜に見る。野犬じゃなくて、白い飼い犬の小さな洋犬。なんか不自然。

瀋陽の故宮を見学。又、大河原さんとお話する機会があり、歩きながら、故宮の説明をして下さる。「ここが建立された時代は日本でいえば、徳川家康が亡くなったあたりで、日光東照宮が完成した時期ですね、あ、ここ、ご覧なさい、れんがや組み立ての技術がかなり高度でしょう。1600年代には海運も発達し、日本との交流もあったでしょうからね」とわかりやすいですー。

9・18記念館見学。見学日も今日、9月18日と、合わせてある。そう、すべてはこの日(満州事変)から始まったのだ。カメラはもちろん、カバンも持ち込み禁止。クラウン観光社の長沼さんが、記念館の入り口で、番をして下さり、手ぶらで館内に入る。この記念館は去年オープンしたばかりで、ちょっとアメリカのミュージアムのような印象だ。とにかく展示が立体的というか、自分がその場にいる、ぞっとするような臨場感がある。

兵庫県の町議、友井さん(731部隊の研究所の残留壁を世界文化遺産に、という運動をされている)によると、中国では90年代に入ってようやくこうした戦争記念館が建ちはじめ、戦争問題について、提言があるたびに、日本政府は「歴史のむし返しはやめてくれ」という態度なのだそうだ。これは戦後55年間、渾沌としながらも、高度経済成長を遂げて不況といいつつも安定した日本と、かたや、貧しく、60年代の文化大革命などの時代も経験し、80年代以降、徐々に落ち着いて、あらゆる分野で、建設的な活動をはじめた中国との「時差」皮膚温度の違いというんでしょうか?時代感覚の違いというのもあるんでしょう。中国側にすれば、「むし返し」ではなくて、やっとそう言える、過去を顧みることのできる余裕ができた、ということなのでは。むし返しではない過去から繋がっている「現在」の事柄。この日の夜の記念館前広場の様子をビデオで録画しに行った、伊藤さんに、その模様を見せてもらったが、その人の数!事変が起きた時刻(夜10時過ぎ)には、サイレンが鳴り、最後には、人民解放軍の長い行進。。。彼等には、この日を忘れてはいけない!という決して、遠い過去の事ではないことを実感した。(ビデオでさえ)その広場にいたら(怖そうだけど)もっと、ひしひしとそれを感じられただろう。。。

皇故屯現場へ。行く途中のダウンダウンはハングル文字だらけで、韓国人街があるようだった。皇故屯の列車爆撃現場へ。その事件について全く知らなかったので、現場にて母にきいてみる。最初は日本軍の味方だった張作林が、毛沢東率いる人民軍につこうとしたので、裏切りを感じて怒った日本軍が、張作林の乗る予定の列車をここで爆破したという事件らしい。身近な人に、その人の言葉で説明してもらうと、わかりやすいものだなぁ、と実感。そして、暗殺された張作林の息子の張学良が、蒋介石と周恩来を劇的に和解させた「西安事件」と話は続く。。。しかし、後に蒋介石はこの出来事に怒り、張学良を長く台湾の刑務所に入れた事など。もう90歳ぐらいになる張学良は現在、ハワイに住んでいるらしい。1931年9月18日夜10時過ぎに起きた9.18事変(満州事変)をきっかけにその後15年に渡る日中戦争になるのだが、母にいろいろ、説明をきくうち、中国への侵攻に至る道筋として、日露戦争や日清戦争、実は大失敗だったノモンハン事件(司馬遼太郎さんもこれについて最後までこだわっておられたようだ)など、次々と、もっと知りたい、という思いが湧いてきた。昭和初期から、長野県から多く農民が満州へ移住していて、その時代のその地方の資料を見ると、「ああ野麦峠」の話などが出てくるらしい。昭和の時代でさえ、貧困の為に娘さんが100円くらいで売られたり、過酷な労働環境の下で、肺病等の病気で死ぬ人が多かったり。生活のために、別の土地(満州)へ移らざるをえなかった理由もよくわかった。

もう一度9・18記念館へ行く:ゆっくり見学したかったので、再度行ってみる。ベレー帽の倉田さん:倉田 冨士雄さん。「自由への代償」(かもがわ出版)著者。ーも近くにおられ、日中間の歴史に精通しておられる倉田さんの説明付きで、とても良かった。例えば、八路軍(抗日軍)の上空から見たジオラマが展示されているコーナーで「彼等はね、土地勘があるから、日本軍みたいに、なんでもかんでも、わーっと戦わないんですよ。」答えて母曰く、「いろいろ読んでても、日本軍は直線的なイメージがありますわ」等など。こういう場面でも、中国という国に柳のようなしなやかさを感じる。それにしても、この記念館の臨場感ある立体的な展示は見事だった。例えば、事変の起きた現場の動く模型。煙を上げて、走って来る列車。爆破に近付く効果音の BGM。そして爆発音!模型も夜の雰囲気や、草木までよく出来ている。続いて進むと、日本軍の一群が立っている。実物大より少し大きめの紙一枚のボードで一体一体が出来ているが、自分が街の通りにいて、自分のすぐ近くに、その一群がいる感じで、すご〜く怖い!日本兵の顔は人間ではなく「鬼」に見えるのだ。良く見ると、小柄な人が3人くらいいて、ん?と見ると、後ろ手に縛られて、連行される中国人たちだった。何人かの将校は馬に乗っているので、さらに高くこちらを見下ろしているようで、恐怖を感じる。手前の小さい、でも小熊サイズの「獣」は、軍用犬だった。(全然可愛くない、でもこの犬たちも被害犬なのだ)これが戦時中の日常風景だとしたら、すっごく怖いとしか言えない。ほんとに効果的な展示方法だった。紙一枚で、この効果だから、マネキンとなるとさらに怖い。本物がそこにいるようで、ぎょっとして声が出てしまう。裁判所の法廷内にずらっと並ぶ日本人戦犯たちの1人1人も、どうも実在の人それぞれの顔で作ってあるようだ。そして次は真冬の林の中にいるような淋しい場所。木枯らしが吹いているような、どこからか冷たい風を感じるような、「さぶ〜く」感じる夜の空間。これが八路軍の生活環境だ。そして極め付け、「731部隊の手術現場」これは壁越しにのぞき見るようになっていて、これもこわごわ見るという感じが、とても効果的。

「外国に侵略されたという国の「恥」を忘れるな」「自分達がもっとしっかりしなければ」という毛沢東のメッセージがあるそうだ。戦争記念館の入り口や出口には、こうした毛主席のメッセージが大きく残されていて、同時に「戦争によって、敵国と友人になる」という諺もあるそうだ。ちょっと日本人にはない発想。倉田さん曰く、「日本では毛沢東といえば、文化大革命というひどいイメージが大きいけど、やはり、それまで、一国として統一されたことのない中国という広大な国をひとつにまとめて、建国したことは偉大!建国するまでの革命までは大いに評価されていいと思うんです。ただし、そこから後がまずいけど。。。でも、彼も神ではなく人間。完璧ではなかったんです。、当然、変化して行くし、その時代背景や事情もあるだろうし、いろいろ複雑で、ああいう風になったんでしょう。だから、毛沢東は単に「良かった」、「悪かった」じゃなくて、この部分は良かった、でもこれは間違いだった、という風に評価しないといけないと思うんです。毛沢東の偉業というべき政治改革により人民も解放され、中国が歴史上やっとひとつの新しい国として建国されたという事実はやっぱりすごい!ことですよ」と。文革のひどいイメージしかない私には、「なんで毛沢東の写真が未だにあるのかな?」と思ってたけど、そういう訳なのか。天安門広場で王さんが「ここに来る(いる)ことはみんなのあこがれ」と言ってたのを思い出す。民衆にとってはそのあたりが偉大な人なのだろう。

今回の訪中団に参加されていた方の中には、様々な分野(環境、平和、人権、福祉、国際交流活動など)をされている方が多く新鮮な刺激を受けた。例えば、従軍慰安婦問題に関わって、何度も韓国へ足を運ばれている東北地方の方、冤罪事件での人権問題について活動をされてきた埼玉の方、ピースサイクルという団体でカンボジアの。。。。を支援されてる岡山の若い方々。詩人の井上さんと淵上さん。淵上さんは主に731部隊からの流れで現在に至っている医療関係の問題にフォーカスされているようだった。(これについては季刊「中帰連」の13号と14号に掲載されている)自身の研究や調査を本に著されている倉田冨士雄さん(上記)、北岡信夫さん(小説「永遠に続く祈り」ー死の渕から生還した元日本軍兵士の記録 ISBN:4835505921 文芸社 (2000-09-01出版)本体価:\1,300 筆者は二人の元日本軍兵士から10年の歳月をかけて聞いた戦争体験をもとに、絶対的極限状況の中での人間存在の原点を問う懴悔と鎮魂の書)

瀋陽での夜、ホテルのようなところで、夕食会があった時?:母と山陰支部の方からよくお名前をきいている島根県出身の三木さんを探そうと言って、「三木さんはどこにおられるんかねぇ」と喋りながら、レストランへ入っていくと、すぐ前を歩いておられた方がくるっと、振り向いて「え?私ですか?いや〜、三木さん、三木さんと言っておられるもんだからねぇ」とにこにこしておっしゃった。何となく出雲のお方、という身近なイメージ!いつしか、3人で手をとりあって、テーブルにつき、おしゃべりを始めた。ほんとうに気さくで、楽しく、ほのぼの〜という印象の三木さんだが、お話を伺ううち、やはり、中帰連会員の方だな、という1本筋の通った気骨を三木さんに感じる。みなさん、礼節をそなえておられるというか、爽やかなジェントルマンなのだ。どの方に接してもお1人、お1人がどこかキラリ☆と光っていて、人間的にとても魅力的だ。何かちがう。気持ちがピンシャン!として、聖書の御言葉でいうなら「いつも目をさましている人たち」だろう。「ほんとに人生、紙一重ですよ〜、時たま、オレの人生は何だったのか?と考えますよ。でも、今がほんと、一番幸せ。これからも語らなければ!とがんばってます」と至福の笑みを見せて下さった三木さん、今までもこれからも平和活動に命燃やしてる!、という印象だ。撫順での、歴史上でも無二の体験をされた事は体験者には怒られそうだが、うらやましい気もした。

今回、金沢市から参加の森原さんは、大原管理所の方におられた方で、大原は、日本人戦犯だけでなく、他との混成で、当時の環境は、撫順より劣っていたとのこと。白米は支給されなかった。1日4食で、早朝より作業、学習など予定が組まれてあり、規則正しい生活をされたそうだ。今回は奥様とご一緒に参加されていた。