「私の戦後処理を問う会」《尊厳》日本語訳出版に当たって

)「和解」成立と《尊厳》日本語訳出版の経過。
 1995年6月28日、耿諄ら11名が原告となって鹿島建設に損害賠償請求訴訟を提起。 
 1997年12月10日、東京地方裁判所は原告の請求を棄却、12月12日東京高裁に控訴申し立て。
 1999年9月10日、東京高等裁判所は職権による和解勧告
       12月、中国紅十字会、和解に利害関係人として参加を正式表明
 2000年4月21日、東京高等裁判所、和解勧告書を当事者双方に提示
       4月30日、和解勧告書に原告ら「同意書」を書く
 2000年11月29日、和解成立
          同日、鹿島建設が「花岡事案に関するコメント」を発表
              耿碩宇氏、東京高等裁判所に「緊急声明」を発す
 2000年12月17日、「中国人強制連行を考える会」が「花岡裁判報告会」を開く
 
 2001年1月より、「和解条項」の内容が徐々に翻訳紹介され、中国側各メデイアは「『花岡事件』和解の内幕」として報じた。特に鹿島が「法的責任」を認めず、中国人を酷使、虐待した事実をさえ否定した内容が原告には知らされていなかったと暴露した。
 会発起人である故西村和子氏が早速訪中して原告代表耿諄氏に面会、「和解」前後の経過と中国人原告の意思を聞いた。(内容は《尊厳》訳書巻末に掲載) 「和解勧告書同意書」に原告らは署名している。しかし「和解」には同意していない。


)では、この「和解」とは?
 疑問を持った何人かが各人の「思い」を語り合った。
一般人が裁判に関わる事は殆どないから、例外なく私たちも裁判に対しての知識は絶無だ。しかし、ただ一点、原告は一般人であり、しかも被害国の外国人だということだ。ならば疑問があれば、理解して納得が行くまで説明する責任があるはずだ。理解出来ない法理論の応酬で終わって良いだろうか?
 事前に口頭で原告たちに伝えられ、書いたものは一切(日本語も)見ていないとのことだ。ただ弁護士たちへの信頼から原告たちは署名した。原告の一人が質問したがそれは弁護士に退けられたと聞いている。後に中国語訳を見せられた時の驚きは押して知るべしだろう。
「和解」とは折り合うことだろう?強制連行は今風に言えば「拉致」だが、問題は如何に戦時中であろうとも全面的に非は日本側にあり、中国人は被害者だから折り合うべき対象ではないだろう。しかも、戦争は現在法廷が判決理由にする「公権力の行使」だから一方的な責任も負うべきでは無いと言うのだろうか? 
私たちは納得行く回答を求めて関係者に教えを請い、模索した。


)期待と失望
 私たちは戦後はじめて行われた「侵略戦争」を問う裁判行動を固唾を飲んで期待し、経過を見守った。
 被告は鹿島建設という一企業だが、彼らが「国策に忠実に従った」と言うなら、責任は国策施行者国家の謝罪、反省は当然だろう。しかし、国は行動しようとしない。
 私たちは侵略戦争が企業の意思を代弁した政府の号令によって軍を動かした国家的犯罪であると認識しているし、これが日本のアジアでの孤立する原因だと考えている。「花岡訴訟」が過去の歴史を正すきっかけになると期待したが、結末は被害者原告の日本側への不信を増長させ、中国国内でも賛成派、反対派の摩擦を作り出した。
しかし、私たちは「花岡訴訟」が戦後責任を問う初めての試みであり、日本全国の善意ある民衆を巻き込んだ闘いであったことは画期的であったし、これによって歴史の蔭の部分が解明された事は貴重な体験であったと認めている。このことは高く評価されるべきだと思うし、だからこそ民間の強い力に期待した。
同時に日本政府や司法部門が決して被害者民衆の味方ではなく、常に国家権力の側にあり、その利益を代弁するものだと改めて実感した。


)司法に公正公平な裁判をさせ、権利を国民に取り戻すのは我々一般民衆の歴史認識だ。
 ではかく言う私たちには、全く問題が無かったか?反省の余地がないのか?
 わが会の1,2人を除いて、殆どが傍観者であった。松田解子氏や野添憲治氏の本を読み「強制連行を考える会」のニュースから活動の一端を知っているだけだ。それぞれには抱えている環境があるから、全員が直接関われるものではないが傍観者であることには変わりがない。
 私たちは事実をあまり知らない。
 中国では評価や批判があるが、日本では新聞各社の報道では、「和解」賛同の記事が目立った。ちょうど李旻<リミン>著《尊厳》が出版された。山邉の粗訳を元に中国人から見た「花岡事件、花岡裁判」を見ていこうと一同意見の一致を見た。
 《尊厳》の一章一章に参考資料を加え理解しながら読み進んだ。歴史の事実は一つでも日中では考え方が異なる。この発見に驚きながら、加害国の日本人として是非これを紹介しようとの思いが募った。しかし、私たちの中に学者は居ない。頼りは「知りたい」との思いだけで、約一年、毎週日曜午前中(9:00〜12:00)、特別な事がない限り続けられた。私たち参加者はアルバイト、年金生活者などで誰も金持ちは居ない。でも資料が揃って出版社に交渉し、出版費用を皆で分担した。
 作品は決してすばらしい出来だとは言えないだろうが、一人の脱落者もなく一年間続けられたことは私たちのこの上ない体験であり、誇らしいことだと思う。年齢、体験を越えて、これほどに各人が思いをぶちまけて討議し話し合い、協力した事があっただろうか?


 手元に2000年12月17日、「和解」の報告会のビデオがある。一同が十余年訴訟を支えた報告は簡単に評価出来るものではない。しかし、「反省」「異論」を許さないその場の雰囲気には驚かされる。
 私たちは戦時中を含む長い年月、「お上のおっしゃる通り」「寄らば大樹の元」と戦争にただ黙々と従ってきた。「一億総懺悔」と言われれば「ごもっとも」、これが如何に私たち日本の民主的発展を阻害しただろう。
 今、少なくなった戦争体験者の一人として、自分の意見を持ち、納得できないことは出来るまで討議しようと思う。例え小さな組織でも多数の「異論、反論」はあって当然ではないか?そして問題を討議し、考えを鍛える習慣が無ければ「普通の国へ」の大合唱に、やっと戦後の果実として築き上げた憲法も平和も埋没してしまう。
 《尊厳》日本語訳は、「花岡事件」が過ごした半世紀以上の年月を歩いて、司法も含めて相手を知ることの困難さ、又知る努力が十余年共に裁判闘争を闘いながら出来得ていないと痛感させられた。私たちの努力を一読され、ご感想を寄せて頂ければ幸甚です。




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