厳正に表明する

耿  諄


2003年3月10日付け中国新聞網では、4月2日に 「花岡蜂起の指導者・耿諄を含む河南省の花岡被害者及び遺族20余名が、 それぞれ25万円(約1.6万人民元)の賠償金を鄭州で受け取ることになった」 と報じた。 「花岡事件」の中国人強制労働被害者による賠償訴訟は、 我が国ないし第二次世界大戦におけるアジア被害国の戦後対日訴訟の第一のものである。 平頂山晩報も中国新聞網とほぼ同内容の記事を載せた。 これは、人間性を失い中華民族の尊厳をも顧みず、 ありもしない話をでっち挙げてことの是非を混交し、 人々を惑わす報道をもって、私に和解の受け入れを強要する行為である。
これに対して私、耿諄は厳正に意思を表明する。 私は、依然として屈辱的な和解に反対を表明し、 恥知らずな鹿島の救済金受け取りを拒否する(但し、私本人に限る)。 ただし、花岡の被害者には、各々自分の権利があり、 受け取るか否かは本人の自由である。 如何なる者もこれに干渉する権利はない。

耿諄は「花岡訴訟」の原告団長であるが、 「和解」の正文に署名をしていないのだから、私に対して「和解」は無効である。

以下に「花岡事件」の過程を述べることをもって真相を明らかにしたい。

(一)中国人が強制的に日本に連行されて苦役に従事した過程の概況: 1944年、日本軍は、中国の抗日戦で捕えた軍人、 および抗日根拠地で大掃討を実施した際に八路軍に通じているとの罪名で 捕えた無辜の一般住民のあわせて約千人を、 前後して日本に連行した。 途中で死亡した者を除いて986人が日本に到着し、 秋田県花岡町の鹿島組(現在の鹿島建設株式会社) 事業所に送られて苦役に従事させられた。 鹿島の残酷な処遇により、わずか半年の間に死亡したものは418人に達した。
耿諄と苦難を共にした王敏らは、1989年12月、 鹿島に公開書簡(別紙1)を送って三項目の要求を行った。 (1)被害者に鄭重な謝罪、 (2)日本の大館と中国の北京の二箇所に死亡した人々を悼む記念館を建設、 (3)986人の被害者あるいは遺族に一人500万円の補償を支払い 受難の痛みを癒すこと。 これを受けて、翌90年7月5日、双方は東京の鹿島本社で話しあった。 鹿島の代表者・村上光春は、私たちの要求の第一項目に対して、 その場で深く謝罪を表明した。 第二、第三の項目については、双方が代表を派遣して協議を継続し、 早期の解決を図ることを決定した。 同時に「共同発表」(別紙2)を出したが、 その後思いがけないことに鹿島はこの約束を反古にし、 協議は中断したまま4年が経過した。 そこで、協議には希望をもてないと判断し、 耿諄ら11人が原告団となって986人の利益を代表し、 日本各界の有識者らの支援を得て新美隆を代表とする16人の弁護団に委託し、 95年に東京地方裁判所に鹿島を提訴した。 裁判所はこの案件を受理し、2年半の間に7回開廷されたが、 証拠も取り上げず短時間の審理ですぐ休廷に入り、結局原告敗訴を宣告した。 原告団は、公正さを欠いた判決に接して憤り、 弁護団とともに東京高等裁判所に控訴した。 高等裁判所はこの案件を受理し、 90年の「共同発表」を基礎にして法廷外調停を行うとの提案を99年に行った。

(二)原告団、調停を受け入れる: 新美隆弁護団長は、原告団に対して次のように要求してきた。 いわく、国境を越えた訴訟のため、往復はたいへん面倒だ。 これを受けて原告団は、十分な信頼のもと弁護団に調停をすすめる全権を委託した。

(三)新美弁護団長は、原告団から全権委任を受けて鹿島との和解調停をとりまとめた。 これを受けて2000年11月17日、北京のホテルで原告への報告集会が開かれた。 そこでは、共同発表を基礎として鹿島が改めて謝罪し、 5億円の賠償金を出して中国紅十字会がその管理・運営(配分) を引き受けるという和解条項が報告された。 原告団はこれを受け入れ、特に異議は申し立てなかった。 原告団は、弁護団に対する深い信頼から全く内容に疑いを持たず、 厳密に和解文書の提示まで求めなかった。 会議の雰囲気は和やかで、 田中宏教授が和解成功の祝辞を書いてはどうかと提案したので、 私は求めに応じて次のように揮毫した。 「歴史の公道を取り戻し 人間の尊厳を守ろう 中日の友好を促進し  世界の平和を推進しよう」。 北京からは中国紅十字総会の幹部である張虎も参加していた。

(四)花岡事件が決着をみれば、余生を安らかに過ごせる。 散会のまえに、耿諄は次のように提案した。 新聞などに速やかに被害者を探す記事を載せること、 紅十字会は千人の名簿にもとづいて花岡被害者・遺族がいる地の紅十字会に調査をさせ、 該当者に証明書を持たせて北京で賠償金を受け取らせること、と。
私は、他の985人全員が受け取った後に賠償金を受け取り、 もし一人でも受け取らなければ自分は受け取らない旨を表明した。 また、人生も残りわずかとなり体も極度に衰弱してきたので、 この事件に関する会議や活動にこれ以後は参加しないことも話したが、 これに異議を表明する者はなく、会議は夕刻散会した。

(五)帰宅後しばらくして、 日本から「和解条項」の文書と鹿島のコメントが送られてきた。 それを読んだ私は、怒髪天を衝き、胸がはち切れんばかりとなって朦朧となり、 昏倒して病院に担ぎ込まれた。

(六)花岡訴訟は「和解」で完全に失敗した。 それを思う度に、胸を鋭利な刃物で突き刺されたような痛みを覚える。
「和解」に列挙されている各条項は、 みな被害者に足かせをはめることばかり規定している。 それは、90年の謝罪さえもご破算にするもので、 記念館の建設については、一字も触れてはいない。 僅かに5億円は出すものの、 賠償でも補償の性質を含むものでもないと称している(別紙 3、4)。
気骨のある中国人で、この仕打ちに対して、 この上ない恥辱と悔恨を感じない者がいるだろうか?  私は、和解に断固反対し、金の受け取りを拒否することを誓う。 このような「和解」は、私には無効である。

(七)鹿島は、そのコメントの中で、 中国人強制連行被害者を殺害したことには一言も触れていない。 反対に自らを慈善家と任じて、どうあっても過ちを認めようとはせず、 恥というものを知らない。

(八)いま振り返ってみれば、このような結果になったのは、 私には人を見る目がないため欺かれ、利益を売り渡され、 取り返しのつかない失敗をしてしまったからである。 この責任は私が取らなければならない。 本来、もうこの件には関わらないと決めていたのだが、思いがけず、 民族の尊厳を失わしめる「和解」と恥知らずな鹿島の救済金の受け入れを迫られてきた。 私はこれら脅迫者にはっきりと警告することにした。 私は、90歳の老骨といえども人間性を失ったこれら卑劣な輩には断固として反撃する。

(九)日本各界の賢明な人々が「花岡事件」に一貫して大きな支持を寄せて下さり、 中日間の伝統的な友好に尽力され、中日両国人民の深い友誼を打ち立てた。 私は前後七回の訪日でこのことに深い感銘を受けた。
在日の華僑が祖国を熱愛し「花岡事件」へ力を尽くして支持をくださったことに、 花岡被害者及び遺族は心から感謝している。

                             耿  諄
                      2003年3月14日

別紙:1 鹿島への 公開書簡
   2 共同発表
   3 和解条項
   4  鹿島のコメント


 訳文は正確を期すために再検討し、一部を修正した。 題名も「厳重に抗議する」から、原文に沿って「厳正に表明する」に変更したことをお断りしておく。 (2009.3.12)
                          (山邉悠喜子・張宏波 訳)


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