法的責任なき「和解」への欲望

――20年目の鹿島花岡「和解」

石田隆至


 鹿島花岡「和解」の成立から、20年目を迎えた。
 局面の変化はあったものの、その問題性は何も変わっていない。いや、むしろ現在の日本社会で「良心的」とされる人々の間でさえ、鹿島花岡「和解」が意義あるものとして欲望され続けていることに恐ろしさを感じる。
 2020年に発表された3つの文章に触れながら、所感を述べたい。


 (1)田中宏・辛淑玉「対談 在日朝鮮人の人権保障を求め続けて:人として当たり前のことを、無手勝流に」『世界』2020年4月号。

 在日コリアンの人権運動に長年携わってきた田中宏の取り組みを、当事者である辛淑玉が高く評価しながら振り返っている。戦後日本社会が在日コリアンをはじめとする外国人の人権をいかに抑圧し、排他的であり続けたかを思い知らされ、戦慄を覚える。日本政府による国籍差別の酷薄さと、その不当性に向き合ってきた田中と辛の取り組みは、読み手を傍観者にさせてはおかない切迫性を有している。
 他方で、田中は鹿島花岡「和解」支援者の中心人物である。辛は花岡「和解」を一定程度批判的に検証するテレビ番組を2009年に制作した経験がある。そうした経緯を踏まえると、田中に対する辛の次のような評価には、複雑な思いがする。
在日や留学生ら当事者の思いをちゃんと言葉にして日本社会に届けているのが田中さんだと思ったんです。翻訳家みたいに。当事者の言葉はなかなか届かないんです。マジョリティには受けない。そんなときは問題の構造を伝えてくれる人が必要で、その一人が田中さん。
田中へのこうした高い評価はその通りだと思う側面も大きいだけに、「当事者」から耿諄や孫力など、花岡「和解」の受け入れを拒絶した原告=当事者が排除されてしまっているのは、残念でならない。田中の一貫した取り組みの射程を考えれば、「和解」を拒絶した当事者たちの主張こそ、現在も未解決の戦後補償、戦後和解の焦点を見事に突いているからである。それは、歴史的事実とその法的責任を認め、謝罪するのを揺るがせにしないことだった。
 「和解」を受け入れ難いものと感じたのは、耿諄ら原告だけではない。田中を信頼し、田中と共に日本政府の外国人差別と戦ってきた劉彩品ら華僑や、この対談で田中が言及している卓南生教授、当時田中に研究指導を受けていた中国人研究者らも、田中が田中自身を裏切るような姿勢を前にして疑問の声を上げたが、田中らは向き合おうとしてこなかった。こうした人々にとっても、法的責任を抜きにした金銭だけの「和解」は、鹿島のための「和解」としか映らなかったのである。
 「当事者の枠から外されてしまう当事者」とはどんな存在なのか? 面会を拒否して河南省の自宅で過ごしていた最晩年の耿諄をわざわざ訪れながら、一緒に写真を撮って原告と対立していないというイメージを流布しただけで、田中が最後まで「当事者」を直視できなかったのは何故なのか?
 これを、ナショナリティに還元することは適切ではないだろう。国籍差別の熾烈さに苦しんだという辛に対し、田中はこう述べている。
国籍というのは魔物で、無色透明で中立概念みたいに見えるんです。しかし、これほどイデオロギッシュなものはない。しかも議論されることもなく、思考停止になる。
二人とも、単にナショナリティに囚われているだけではなさそうだ。同時に、田中に見えていないものは、辛にも見えていない。ナショナリティ以上に、「無色透明」な何かがある。

 (2)中村一成「『なぜ私を認めてくれない』:元『徴用工』・李春植は語る」『世界』2020年4月号。

 上記の田中・辛対談が企画されたのは、在日コリアンのジャーナリストである中村が田中に関する書籍を刊行したことがきっかけになったようである(『「共生」を求めて:在日とともに歩んだ半世紀』解放出版社、2019年)。その中村が、「徴用工」問題の最後の当事者・原告である李春植氏にインタビューしてまとめた記事である。
 中村もまた、掻き消されがちな「当事者」の声に耳を傾ける必要性を説く。韓国大法院(最高裁に当たる)での「徴用工」判決以降の日本政府およびメディアによる圧倒的な韓国バッシングのなかで、「蔑ろにされているのは、司法に『正義の実現』を賭けた原告だろう」と述べる。そして、その当事者がいかなる正義を求めて提訴したのかについて、聴き取った言葉を記している。

私はもう100歳。まだ生きているうちに、安倍が私に謝罪しないといけない、申し訳ないと言わなければならないのに……。
また、別の原告・金圭洙の言葉も紹介している。
お金じゃない。同じ目に遭いながら語れず亡くなった人たちのため、自分にできることをしたい。何が正しい歴史かを陳述で語り遺し、私たちが強いられた不幸な時代を終わらせたい。隣人と仲良くする土台を作りたいんだ。
当事者が求めているのは、謝罪である。戦時中に人間としての尊厳が徹底的に否定されたこと、戦後もその事実が歪められ続けたことを明らかにし、そして謝ることだった。それができるのは、「当事者」である自分たちだけだ、という強い思いが伝わってくる。「償い」という言葉も出てくるが、あくまで事実を明らかにし、それに謝罪し、そうした先に求められたものだろう。
 中村は、こうした原告たちの訴えにようやく向き合った韓国大法院判決の意義を、80年代末以降の韓国社会の「地殻変動」の文脈に位置づけながら解説している。軍事政権期に蹂躙された人権を何より重視する過程で、揺り戻しや惰性にも屈しない姿勢が貫かれたことの一つの帰結として跡付けている。とりわけ、盧武鉉政権下で、1965年の日韓請求権協定に関して、「日本政府・軍・国家権力が関与した反人道的不法行為については、請求権協定により解決されたものと解することはできず、日本政府の法的責任が残っている」ことを明確に打ち出したことが、その後の大法院判決への道を拓いたと指摘する。つまり、「当事者=戦争被害者」の要求を国家間の戦後処理の中で適切に実現するには、加害主体が法的責任を認めることが不可欠であると的確に指摘していた。
 ところが、同じ文章の後段で、中村はなぜか西松「和解」を引き合いに出す。大法院判決の後、個人請求権に対応する義務はないと日本政府が主張した(「救済なき権利」論)ことに対し、こう述べる。
万歩譲ってその土俵に乗っても、法廷外で原告と企業が和解することは可能だ。中国人強制連行を巡る西松訴訟などではそれが実現してきた。
西松「和解」は、確かに最高裁判決で被害者原告が敗訴した後に、法廷外で結ばれた「和解」だ。大法院判決後、法廷外の和解として西松「和解」や鹿島花岡「和解」を取り上げ、「選択肢」として言及したのは中村だけではなかった。
 しかし、そうした主張において、決して触れられないことがある。西松「和解」の和解条項や同時に結ばれた「確認事項」を読んでいれば、法的責任をめぐっては、最高裁判決の趣旨を超える要素は何一つないことである。つまり、西松「和解」においても、最高裁判決と同様に、企業は法的責任を否定している。「当事者」の基本要求は何も達成されていないのである。
 代わりに、「和解」の基礎として「歴史的責任」なるものが持ち出されている。「歴史的責任」とは何だろうか。強制連行被害者を虐待し、虐殺したのは企業であり、その原因を作ったのは日本政府である。明確な責任主体を抽象的な「歴史」とすることで、西松「和解」は成立している。それでいて、「和解金」が拠出されている。法的責任を認めない以上、それは賠償金でも補償金でもありえない。法的責任は認めないにもかかわらず拠出される性格不明の金銭である。こうした意味で、西松「和解は鹿島花岡「和解の問題性をそのまま継承している。
 法廷で認めなかった法的責任を、加害企業が法廷外で認めるとは考えがたい。「当事者」の求める正義は、こうした責任の取り方だったのだろうか。「謝罪しないといけない」「お金じゃない」という当事者の声は、どのように聴かれたのだろうか。
 李春植・金圭洙ら「当事者」の要求を、人権闘争の歴史的文脈に基づいて適切に位置づけ、寄り添おうとした中村が、法的責任を回避することに終始した「和解」に可能性を見出したのはなぜなのか。西松「和解の和解条項に目を通していないとは考えがたい。西松「和解が鹿島花岡「和解をモデルとしたものであることも、もちろん知っているだろう。だとすれば、鹿島花岡「和解」が法的責任を放棄したことで成立したことを受け入れなかった原告=当事者が複数いた事実を無視したということになるのだろうか。「当事者」の声を聴く者にとって、無視できるはずのないものを無視してしまう(ようにみえる)のは、やはりそこに「無色透明な何かがあるのだろうか。

 ここまでの基本主張は、このHPでも繰り返し主張してきた。
 ここまで来ると、鹿島花岡「和解」で、加害企業は法的責任を認めたのだという弁護団長・新美隆の強弁が思い起こされる。いや、もっと明確に虚偽だったと言うべきだろう。20年後の現在では戦後補償裁判について検討された関連文献等のなかで、鹿島花岡「和解」では企業が法的責任を認めなかったとする記述が見られるようになっている。新美とともに鹿島、西松、さらに三菱マテリアルの和解にも積極的に関与した内田雅敏弁護士(西松「和解」の原告代理人としてサインしたのは内田である)や、その関係者の現在にも触れておきたい。

(3)「『和解』の道程:花岡事件75年/上 前例なき『産みの苦しみ』 戦後補償へ大きな一歩  『了解』解釈で論争呼ぶ /秋田」『毎日新聞』2020年6月29日;「『和解』の道程:花岡事件75年/中 個人への補償の選択肢 類似の解決、教訓生かす 弁護士ら亀裂を糧に /秋田」『毎日新聞』2020年6月30日。

 この記事は、毎日新聞が鹿島花岡「和解」について取り上げた近年の記事の中では、比較的バランスが取れている。「和解」の受け入れを拒否した原告がいたこと、和解条項の但し書きのなかで、法的責任に関する規定が記され、その「解釈」をめぐって「論争」が行われたことに言及している。「論争のもう一方に取材した形跡が読み取れなかったのは残念だが、それはさておく。
 ただ、「了解」の解釈をめぐる論争に触れながら、鹿島花岡「和解」で鹿島が法的責任を認めたのかどうかという基本的な論点については、関係者たちの曖昧で筋違いな言葉が並ぶだけである。

内田弁護士によると、条項の文言は前例のない和解ゆえの「産みの苦しみ」の結果だった。(略)和解後に一部の関係者を刺激するかたちとなった。

「戦後補償ネットワーク」の世話人代表、有光健さん(69)らは原告団内部で信頼関係が醸成されていたため、意思の疎通が厳密でなかった点を指摘した。有光さんは「被害者、支援団体をきめ細かい連絡でまとめられるコーディネーターのような人がいたら反発は起きなかったのかもしれない」と残念がる。

「花岡和解は後味の悪さこそあったが、戦後補償の大きな流れでみれば大きな一歩だった。その後の西松建設や三菱マテリアルの同様の和解につながる足場を作った」と有光さんは語る。
 「一部の関係者を刺激するかたちとなった」のは、「前例のない和解」だったからではない。根本要求だった法的責任を認める和解ではなかったからだ。
 「反発が起き」たのは、「コーディネーターのような人がい」なかったからではない。「和解」では鹿島が法的責任を認めないことを知らされていなかったのみならず、原告の要求を実現したと代理人弁護士から告げられていたからだ。
 「後味の悪さ」を感じたのは、「当事者」の要求に背く「和解」になっていたからだ。それでいて、「大きな一歩だった」と評価できるのは、完全に「当事者=被害者」不在である。当事者は文字通り「足場」にされたが故に、「反発が起き」たのである。
 結局のところ、この記事では、鹿島花岡「和解」で加害企業が法的責任を認めたのかどうかに最後まで触れていない。それでいて、基金が拠出されたことは「画期的」だという弁護団の立場を再度追認している。「お金じゃない」という趣旨の発言は、耿諄ら鹿島花岡「和解」を拒絶した当事者たちも発していた。

 西松「和解」の内容をめぐっても、川口峻記者の評価に小さくない混乱を感じる。

 弁護士間での確認事項には、企業側の法的責任を否定した最高裁判決を客観的事実とした上で、元労働者側がその見解を受け入れておらず、両者間に隔たりが残っていることも盛り込まれた。
西松「和解」が、企業が法的責任を認めないことを前提に成立したことに触れている点では誠実な姿勢とはいえるが、記者はその意味をどう理解しているのだろうか。加害行為の法的責任を認めないというのは、歴史の事実を歪めることであり、謝罪したことにならない。それが、いかなる意味で和解に繋がると考えているのだろうか。
 こうした認識を反映しているのが、「中国人元労働者」という表現だ。労働者とは労働契約に基づく存在だが、強制連行・奴隷労働の被害者であることを知っているなら、こういう表現を用いるのに抵抗を覚えなかったのだろうか。ただ、こうした表現を採用するのは川口記者だけでなく、近年のほぼすべての報道がそうなっている。何より、被害者代理人たちも「元労働者」という表現を用いるようになっている。彼らは、80年代から90年代初期の対鹿島交渉の過程では、鹿島が被害者を「労働者」と扱うことの不当性を明らかにすることを一つの焦点としていた。
 しかし、対鹿島訴訟の中で新美弁護団長が「安全配慮義務違反」という法的根拠を提起して以降、労働者であるかのように扱う流れが生じた。「和解」成立後は、代理人自ら「元労働者」という表現を使うことが増え、西松「和解」を経て三菱マテリアル「和解」に到ると、和解条項において「中国人労働者」という言葉で被害者の対象規定が行われるのを容認している。強制連行・強制労働という戦争犯罪の被害者を、まったく性格の異なる「元労働者」と扱うのは、もはや事実の書き換えであり、歴史修正である。認識においても呼称においても日本政府と変わるところがなく、法的責任を抜きにした「和解」を推進する日本政府や加害企業の姿勢に近似していくのも首肯できる。
 客観中立を謳うメディアの報道に、こうした表現を使うことは誤ったメッセージを社会に送ることになるという批判的問題意識は読み取れない。むしろ、自らもこの歴史修正の一翼を担ってしまっているのではないか。鹿島花岡「和解」から20年後の戦争責任、戦後責任認識は、かえって後退しているのではないか。

 記事のまとめ部分も理解し難い。

企業側の歩み寄りも促しながら、一つの和解文書で言語や法文化が異なる多数の中国人被害者の納得を得ようとした花岡和解の試みは、亀裂を避けられなかった。しかし、戦後の問題に関わる弁護士らはその亀裂から目をそらすことなく、次の和解の糧としてきた。
亀裂は、「言語や法文化」の違いで生じたのではない。法的責任を認めるのかどうかというシンプルな論点をめぐって生まれた。鹿島花岡「和解で否認された法的責任は西松「和解でも、三菱マテリアル「和解でも否認された。何の「糧」にもなっていない。弁護士らは法的責任から「目を逸らし続け」、その代わりになるはずのないものばかり持ち出し、それでも「画期的」な「和解」だと自画自賛してきた。
 メディアもこうした観点を共有するばかりだが、他方で、鹿島花岡だけでなく、西松でも三菱マテリアルの「和解」でも、「和解」の受け入れを拒否した当事者がいることは、日本ではほとんど報じられない(なお、鹿島花岡「和解」の受け入れを拒否している原告は、内田弁護士が言及している2名ではなく、筆者らの確認の範囲では4名である。また、原告以外の被害者・遺族を含めると十数名になる。客観報道を謳うのであれば、きわめて基本的な情報だと思われる)。
 「戦後補償問題を考える弁護士連絡協議会」という弁護士たちのネットワーク組織の中心で、様々な未解決の戦後処理問題に横断的に取り組む高木喜孝弁護士の評価も同趣旨だ。
戦後賠償訴訟は、対中国における日中共同声明など国際政治の大枠で処理され、個人の賠償請求権は無視されてきた。花岡の訴訟を契機に和解が採用すべき選択肢になった。
本当だろうか。先に述べたように、「徴用工」の人権回復を求める韓国の運動においても、また、日本軍性奴隷問題に関する2015年の日韓「合意」を問題視する運動においても、鹿島花岡「和解」とほぼ同じ時期の2000年末に開かれた女性国際戦犯法廷を継承する運動においても、焦点が日本政府の法的責任にあることが明確にされている。道義的責任や歴史的責任で誤魔化すのではなく、法的責任を明確に求めることの重要性を認識したのが、現在の到達点であろう。2007年の西松訴訟最高裁判決以降、戦後補償運動が全面的に敗訴していったが故に、かえって争点が明確になったともいえる。その流れの中で、加害主体の法的責任を認めずに相次いで成立している鹿島花岡モデルの「和解」が本当に選択肢となっているのであれば、それは悪夢でしかない。

 このような事態をどう捉えれば良いのか、率直にいって、途方に暮れている。
 法的責任が焦点であることは理解しているはずなのに、それを外した「和解なき和解」を相次いで成立させてしまう。「当事者」の声に耳を傾けることの重要性を理解しているはずなのに、彼らの求める謝罪や償いの基本条件を欠いた「和解」を選択肢だと考えてしまう。何より、そうした問題性を指摘する「当事者」を排除したり、視野の外に置いてしまう。「見たいものしか見えない」という現象は、一部の極右政治家や言論人だけに見られる現象ではなく、「良心派」とされる人々にも、「無色透明」な「魔物」として取り憑いているのだろうか。「当事者」とは誰のことなのだろうか。(敬称略)


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