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第2部 縁の糸(4)

 車は横羽線に入っていた。上りは渋滞もなく,待ち合わせの浜松町まで一息である。
 取りあえず目標が出来て,朝里は心のモヤモヤが消え,すっきりした気分になっていた。光代を友達にしておいてよかったと,朝里は思った。
 光代に早く逢おうと,アクセルを踏み出した瞬間に,携帯が鳴りだした。
 朝里は,今度は,あの女からだと確信した。4,5回ベルが鳴るのを放置し,その間にヘッドセットを付け,おもむろに電話をつないだ。
「朝里です」
君からの電話を待っていたんだよ,朝里は心の中で呟いた。少しの間があって,
「朝里さん。由利です。今,お話し続けていいですか」
少し低めの由利の声が聞こえてきた。
「いいですよ。電話がくると思ってましたよ。今,横羽を品川方面に進行中なんですよ。ヘッドセット付けてますから,いくら話しても大丈夫ですよ」
朝里は明るく言った。気分は晴れた。事態はいい方向に進んでいる。
「今,横羽なんですか。偶然ですね。私も横羽を上ってます。今まで横浜に行っていたの」
「横浜?横浜まで足を延ばしたの?横浜に相手が見つかったわけ?」
「そうなの。で,次の相手が渋谷で待っているので,そっちに行くところなの」
由利は先ほどとは打って変わって,打ち解けた雰囲気で話す。
「で,首尾は」
「まあ,最悪ではなかったってところね。ちょっと,こわかった」
「何かトラブルがあったの?」
「いろいろね。話てていい?」
 由利は気分が高揚しているようで,饒舌だった。誰かに経緯を話さないと,落ち着けないという風であった。
「どうぞ。何があったの?」
「ビジネスそのものはOKだったの。お金も頂いたし,問題はなかったの」
「男が問題だったわけだね。どうせ,脂ぎったスケベジジイが相手だったんだろう」
朝里も打ち解けて,軽口を叩いた。
「歳は40位の,渋めの男だったの。細見で,タッパもあって,ルックスもよかったのよ」
「何だよ,それなら何も問題ないじゃないか。分かった。変態だったんだろう」
 朝里は,先ほどよりはるかに親しげに話してくる,由利のテンポに引きすられて,次第に会話が弾んでいくのを楽しんでいた。
「変態だったわ。でも,それだけなら別に大した事はなかったのよ」
由利は,自分の体験をすぐに披瀝するのを惜しむように,小出しに話を継いでくる。
「じらすじゃない。そう勿体ぶらないで,危ない体験とやらを聞かせてくれよ」
「その人ね。薬をやっていたのよ」
由利はポツリと言った。
「薬って?麻薬のこと?」
「なんの薬か分からないけど,中毒だったの。それが,完全に中毒で分けが分からないという状態ではないの」
由利の電話は続いた。
 朝里の紹介した線からは,結局,由利の相手をしてくれる男は探せなかったという。そこで,由利は別のチャンネルを使って,相手を探し出した。それが横浜にいた薬中毒の男であった。由利は男が中毒であることを知らなかった。会ったときも,ごく普通に振る舞っていたという。
「それがね。ときどき,ふっと,自分が分からなくなってしまうようなの。で,また元に戻る。その繰り返しなの。その人も自分が中毒である事は自覚しているし,ときどき自分が分からなくなってしまうという事も知っているの」
由利は,堰が切れたように話し続ける。
「だからね。自分は,今,正常か,何かおかしくはないかって,私に聞くのよ。自分で自分を立て直そうと,必死になっているの」
由利の話は止まらなかった。
「...でも,負けちゃう時間があるの。水風呂みたいに冷たいお風呂に入っても,全然平気なのよ。寒くないって言うの。そうしている内に,突然,声の調子やら何から何まで変わって,人が変わったようになったりするの」
 由利は話すうちに,先ほどの体験を思い出して来て,その内容に恐怖を感じるのか,次第に涙声になっていった。
「大丈夫?路肩に車止めた方がいいんじゃないの」
朝里は,由利が事故でも起こさないかと心配になった。
「話したら,スーとしてきたから。大丈夫よ」
 由利の話はさらに続いた。
 横浜の男は薬のせいか,関係しても,いつまでも射精することもなく,勃起した状態を保っていたという。結局,普通の方法では駄目と言うことになり,アナルセックスや,その他の方法もいろいろ試みたが,ついに,最後まで果てることはなかったという。  男が正気を失っているときは,会話が全く成立せず,このまま帰れないのでは,と感じる場面もあったという。
 一方,正気に戻ると,男は,自分が由利に対して,何かヒドイ事をしたのではないかと気を使い,大変,優しくしてくれたりもするのだそうだ。
「その豹変度合いが,ものすごいのよ。まるで2人の人を相手しているみたいなの。しかも,それがクルクル変わるのよ」
 由利は胸の中に貯まっていたことを,吐き出したためか,いつもの落ち着いた話し方に戻っていた。
「僕がテレビ野球を見ている間に,結構,大変な経験を積んでいたんだね」
朝里は,先ほどまで時間を持て余していた自分と,死ぬか生きるかの体験をしていた由利を比べて,呟いた。由利は強い女だと思った。
「でもね,私が2人分相手をしているみたいで,疲れたって言ったら,彼は2人分お金を払うって言って,6万円くれたのよ。だから怖かった分は,取り戻したのよ」
由利は,もうほとんど元の状態に戻っていた。
「何だ,しっかりしているじゃないの。で,渋谷の客は大丈夫なの」
「それがね,その渋谷の男の人は,薬中毒の紹介なのよ。横浜さんは,渋谷の奴はオレと違って堅気だから,こわいことはないと言ってくれたんだけど,ちょっと,心配なの」
由利は,この商売の秘める恐ろしさを知ってしまったためか,少し神経質になっていた。
「で,どうするの。まさか,俺に付いて来てくれというんじゃないだろうね」
朝里は,由利が自分を頼りにしているのではと感じて,うれしくなった。
「実はそういう事なの。もしよかったら,私が渋谷で男と会っている間,携帯を掛けっぱなしにしておくから,それをウオッチしていて欲しいの」
由利は,生真面目に言った。
「君の秘め事を盗聴してくれというわけ?」
「盗聴とは違うわ。ウオッチよ」
由利は,自分の提案を採用させようと,むきになって言った。
「分かったよ。でも条件があるな。俺ともう一度,逢ってくれ」
朝里は,ここが勝負と思って,たたみかけた。
「そう来ると思ったわ。分かってたわよ。最後の1人に,朝里さんの予約を入れておく」
 由利は,交渉の結末を予測していたかのように,間髪を入れずに返事をした。
 朝里は,思ってもみなかった結末に,大声を出して笑いたかった。
「じゃあ,交渉成立だ。電話は空けておくから,都合のいいときに掛けてきてよ」
朝里はグッとアクセルを踏み込んだ。飛ばせるものなら,200kmでも,300kmでも,出してみたい気分になっていた。


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