主義、主張

 と言うほど大袈裟な物では有りませんが、当初からの俳句への思いを電脳坩堝の中で顕現させたいので、これだけは、と言う部分をのみ、記します。

新仮名遣いの使用

作品の表記

評文

電脳坩堝の俳句形態

投句

添削

投稿

俳句ギャラリー

横書き俳句の提唱



新仮名遣いの使用

 作品並びに文章、投稿頂くものすべて新仮名遣いを用いて頂きます。戦後まもなく制定された新仮名遣い、幾たびか、何ほどかの試行錯誤は有りましたが、すでに半世紀を過ぎて完全に定着しています。伝統有る俳句だからと言って今更歴史仮名遣いと言うことも有りますまい。第一、ワープロは旧仮名の漢字変換を受け付けてくれません。

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作品の表記

 ギャラリー展示の作品は、活字、手書き・写真・毛筆などのスキャナ取りしたものもすべて左から右方向への横書きに致します。逐次、投句作品から展示して行きます。横書きに就いては後程また述べます。

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評文

 展示された作品に対する評を頂きたいものです。評は創るなり といって自判・自選力を高めます。なお、その際にご注意頂きたいのは、他に対して寛大、己に厳しく、常に謙虚で有りたいと言うことです。電脳坩堝は俳句達者を創る意図は持っていません。何々協会賞とか何とか俳句大会賞とは無縁の場所。そういうものを頂きすぎて飽きた方、また何度挑戦してもダメだこりゃ、とあきらめた方、そしてまったくそういったものに興味のない方々が骨伸ばしをする場所と私は考えているので、とにかく彼我の俳句を楽しむ、ということを基本としてください。 「喫茶室るつぼ」をご利用ください。

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電脳坩堝の俳句形態

 当俳句サロンは俳句の形態を一切問いません。仮名遣い以外は無季・破調・口語・字余り、何でも結構です。私は伝統を重んじています。そして実は、俳句そのものこそが伝統であると考えております。伝統の火を消さないと言うことは、形がどうこうと言うことではなく、俳句を絶やさないと言うことなのです。
 津軽三味線の高橋竹山さんは、弟子に、今の人は今の服装で、と諭したそうです。それを受けて二代目さんはロングドレスにハイヒール姿で内外のいろんな分野の洋楽家達と津軽三味線を駆使してジャムセッションを精力的に行っています。伝統の継続が展開に進みました。素晴らしいことです。
 竹山さんの言葉はそのまま俳句世界にも置き換えられます。今の人は今の言葉・感覚で俳句を詠めば宜しいのです。本来、優しい、心配りの利いた挨拶の性格を持つのが俳句です。時の社会背景や言語を無視しては本当の俳句が成り立ちません。かつて大正時代には教育俳句めいたものがはびこり、昭和に入ってからは終戦直前まで戦意高揚・大政翼賛俳句が幅を利かせました。功罪は兎も角、それが本来の俳句の姿であり、拒否する訳にはいかない歴史なのです。私たちにもそういった歴史を作らねばならぬ責務があるのです。
 俳句に古いも新しいも有りません。極端にいえば巧拙も有りません。有るのは時代だけです。今の私たちは、今の言葉・感覚で、制約に余りとらわれることなく、のびのびと今の俳句を詠めばいいのです。

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投句

 上項を踏まえて、どんなお作品でも結構ですから私に鑑賞させて下さい。投句箱をこ利用願います。

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添削

 添削を希望される方は、投句箱の添削希望をクリックして下さい。

 添削後のお作品の扱いについて申し上げます。
◎ 添削を受けましても作品の骨格、意思は100%作者のものであることは勿論です。 したがって、咀嚼、吸収が有れば自身の作品として句会・結社等に投句されることは自由であり、堂々と振舞って頂いて宜しいものです。
◎ 電脳坩堝ギャラリーには、添削作品を展示させて頂きます。
◎ 添削内容に付いては、ご希望の無い限り公表出来ないものとご承知下さい。

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投稿

 俳句に就いてのさまざまなご意見・疑問、私に対する質問など、多々在ろうかと思います。「喫茶室るつぼ」をご利用下さい。あなたのご意見、あなたへの返答は、「喫茶室るつぼ」に載ります。
 実は、私は発言は常にオリジナルで有りたいと考えており、ために相当耳新しい発言・失言もするかも知れません。それが元で物議を醸す、なんてことになったら面白い、なんて密かに思っています。電脳上にこう言って 密かに は無いでしょうが。大いに楽しい口喧嘩をしようでは有りませんか。

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俳句ギャラリー

 電脳坩堝の目玉、皆さんのお作品の展示室です。逐次、投句箱から移して展示致します。展示要領がちょっと普通と違います。これが実は私の年来の主張であり、電脳坩堝からの提唱なのです。
 見本を作って置きましたので「俳句ギャラリー」をご覧下さい。

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横書き俳句の提唱

 最大の眼目ですのでぜひ目をお通し下さい。

 日本の文化は、折々出土する古代の木翰などから始まって、毛筆縦書きの社会が、さまざまの勝れた芸術をを生み出して来たことは皆さんもご存知の通りです。世界の中で、ほとんど東洋にのみ存在する縦書きの文化は、個人や社会の生活様式にまで浸透して影響を与えている節が多々あるのですがそれは今はおきます。

 日本の毛筆は、中国と並んで世界に類の無い文房具で、とりわけ日本は、ひらがなが考案されたために、薫り高い芸術が庶民の場所にまで降りて来ました。それはそれで大変結構な事なのですが、現実に毛筆が果たしている役割はどうかと言うと、はなはだお寒いものです。私たちの生活の中で、毛筆を必要とすることが有るか、と改めて問えば、無いのです。一生、毛筆を手にすること無くすごす人が大多数でしょう。なぜこうなったのか。明治維新後の急速な西洋化が毛筆を駆逐したと言えますが、何よりも、機能的な筆記具の出現が日本人の毛筆離れの原因です。

 私が子供の頃の硬筆といえば、鉛筆、インクを付けて書くジーペン、そして万年筆でした。今は実に多種多様の筆記具が有ります。取り分けての優れものがボールペンで、手軽な事この上有りません。しかし、そんな素晴らしい筆記具が有りながら、現代人は余り文字を書かない。娘(嫁)や孫は手紙を時々くれますが、息子達からはここ何年、いや20年も手紙を受けた覚えがありません。通信は殆ど電話、そしてEメールなどです。私自身、ついワープロ打ちの手紙を差し出す事の方が多くなっています。(ついでのことに言えば、若い人から頂く手紙は100%近く横書きです。)
 書く事が極端に少なくなっていくであろう現代ですが、私はそれに対して別に危機感は持っていません。その形でとにかく世の中がスムーズに廻っていますし、言語がある限り、文字が無くなる事は無いのですから。

 手軽な硬筆でさえこうですから、毛筆は影も形もありません。私自身は毛筆が好きで、良く手に取った物ですが、それでも、俳句から遠ざかった9年の間、矢張り書くことがなくなりました。世を挙げて硬筆、そして印刷、それも横書きになったのです。そして電脳は、当然の事ながら、時代に相応しいと痛感致しました。
 ホームページを開くに当たり、先輩方のそれを幾つか拝見しました。縦書き文化の最たる俳句を電脳上でどのように扱っておられるかを知りたかったのです。結局、縦書き用の国字を横に並べては趣も何も無い、とだけ感じました。だからと言って縦書きに変換してディスプレーに表示するのは新時代の利器電脳に対して素直では有りません。そこで、横書き進化の時代に合わせて、と言うより、未だ硬筆横書き文化のかけらも見せない今、積極的に、今の俳句を、今の様式で、横書きの文化を創造する方向へ進めようと考えました。

 ギャラリー出展の作品はすべて横書き、それも、何句もだらだらと並べる事はしません。一句を独立した作品として扱い、掲示させて頂きます。これが一つ。
 信濃の俳人一茶は風趣有る一筆画に風趣有る毛筆の句を添え、 絵も一茶 と署名しました。風趣有る一筆画、俳画です。毛筆から生まれた必然です。硬筆からはこんな見事な風趣は生まれないかも知れません。ならば、横書き俳句に、俳画に変わって付くべきものがないか、かねて模索していましたが、ミニ詩を配する事に考えが落ち着きました。ギャラリー展示の見本作品をご覧ください。

 実は友人に訳を話し、ミニ詩を配する実験に協力して貰いました。友人の作品に友人自身と私とが別々にミニ詩を配しました。結構楽しめる結果が出ましたが、私がペンを添えた作品を見て、俺の句が一人歩きしている、と驚いたように友人が呟きました。当然の事ですが、これも一つの発見でした。ミニ詩によって強調もペーソスもユーモアも、自在に発して来ました。試みはまず成功したものと思います。そして私は、このミニ詩に、俳画に対する 俳詞 と名づけました。詩とも言えないちょっとした言葉です。遠慮したい所です。
 誤解があるといけませんので申し上げておきますが、私は俳句をおもちゃにしようとか、冒涜しようとか、一つの分野を打ち立てようなどと言う野心は毛頭持っておりません。電脳上の遊び、その外の何者でもありません。広い世の中には遊びのエキスパートが数多くいらっしゃる筈。そんな方々の気楽な乗りを期待して、当俳句サロン電脳坩堝での楽しい遊びの一時を私に与えて頂きたいのです。共に遊んで頂きたいのです。
  ギャラリー出展の作品に 俳詞 を付けて下さい。俳句を俳画に添える場合は絵柄に付かないという制約がありますが、俳詞 の場合はまったく制約が有りません。自由な発想で、ご自身の俳句作品を遊びに出して下されば宜しいです。勿論、俳詞なしの投句も歓迎いたします。
 申し添えますが、俳詞付きの作品の場合、性格上、俳句は既発表のものでも結構です。

 

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終わりに

 ホームページ 俳句サロン 電脳坩堝 を開設するに当たっては、長男がすべてを仕切ってくれ、私を支配人に据えてくれました。今後も運営に全面的に協力してくれそうなので私は安心しています。と同時に、感謝と信頼を捧げざるを得ません。負うた子に教えられ と言うことわざがありますが、既に子を負う程の体力の無い父親です。素直に子の知力・体力に就いて行くつもりです。
 妻の居ない淋しさは拭うことも出来ませんが、長男・次男一家がこぞって私を大切にしてくれて幸せこの上有りません。この幸せ感を電脳坩堝を通じて皆さんにお分かち出来たらその上の幸いです。

 

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