Theme━━━━━━━━━━━━俳の行方

自問自答式
 俳の自立宣言

                   宮ア二健

▼ [問] 俳句とは。
    俳人とは。


▽ [答] 俳の句を俳句という。
    俳の人を俳人という。

▼ [問] 俳句は詩ではないのか。
    俳人は詩人ではないのか。

▽ [答] 俳句は詩以前に俳句である。
    俳人は詩人以前に俳人である。

▼ [問] 俳句は詩であるべきでは。
    俳人は詩人であるべきでは。

▽ [答] 俳句は俳であるべき。
    俳人は俳人であるべき。

▼ [問] 俳句に詩性は必要か。
    俳の句など品が乏しいではないか。

▽ [答] 俳句に詩性は肝要。
    詩俳混交佳句。
    品は本筋に非ず。

▼ [問] 詩は俳句の上位の韻文概念ではないか。
    俳句は詩の一形態ではないか。

▽ [答] 俳句は詩の翼下に非ず。
    俳は詩の下位概念に非ず。
    俳句は俳の形態なり。

▼ [問] 俳句は高みや品を得るために詩でありたいのではないか。
    詩に至らない俳句は芸術性が希薄なのではないか。

▽ [答] 俳は雅や詩格の対極にあり。
    人為人智の賢愚は滑稽なり。
    詩や芸術も諧謔対象なり。

▼ [問] 俳句は短詩型ではないのか。
    俳句は詩歌ではないのか。

▽ [答] 型同様なれど詩俳異質。
    俳句型と言うべき。
    詩歌とは俳不在の言葉故、詩俳歌と言うべき。

▼ [問] 川柳は詩か俳か。
    現代俳句・川柳は詩に傾倒したはず。

▽ [答] 川柳も狂句も俳の句なり。
    近・現代柳俳は俳を怠った。

▼ [問] 川柳が俳句だとは短絡だ。
    近・現代の柳俳の詩性を否定するのか。

▽ [答] 川柳は俳句の一形態なり。
    柳俳に詩性は重要。

▼ [問] 川柳と俳句がなぜ同じか。
    詩性を重要とする柳俳は、やはり詩の範疇ではないか。

▽ [答] 川柳も俳句も俳の句なり。
    共に拠り所は俳なり。
    俳句と詩は似て非なり。
    俳句は俳の範疇なり。

▼ [問] 俳人も識者も俳句は詩であることを当然としているが。
    事実上俳句は詩であることに異論はない筈。

▽ [答] 俳人ら自らが俳に無頓着で足元が見えていない。
    人の成すこと故異論あり。

▼ [問] 俳人の足元は、やはり詩ではないのか。
    俳は詩と並べるべくもないのではないか。

▽ [答] 俳人の足元は俳以外の何ものでも非ず。
    俳は詩と比肩しうる。

▼ [問] 俳の表現は作句や論評だけか。
    俳を標榜し、実践している人物はいるか。

▽ [答] 文字表現ばかりでなく、朗読朗詠や身体表現、インターネット表現もある。
    俳は人為の全てに通じる。
    俳諧を始めジャンルは異なるが、
    道化、狂言、落語、舞踏、ストリップ、オペラ、祭、ワザヲギ、ヲコなども
    俳そのものである。
    わが知るところの島田牙城は、俳を標榜し、
    朗読(自称読演)やネット活用の実践をしている。
    氏の言葉を引く。

  <「常識に囚われない、自覚的庶民による低い目線の抵抗精神」を「俳」に見よう>
           □HP「邑書林・俳句の里」 http://www7.ocn.ne.jp/~haisato/

▼ [問] 俳句は詩であるとする有力俳人の文言を挙げて批判せよ。
    俳を言い当てている例はあるか。

▽ [答] 富沢赤黄男の言葉を挙げる。

  <俳句は詩である。といふことは、その本質が詩的であり、その内容が詩的であり、
  その精神が詩的であることを意味する>
  <俳句は「詩
(ポエジー)」の基立に於いて、五七五調の範疇に於て、詩を発現し、
  一般詩
(ポエム)を超過する詩(ポエム)だと言ひ得るであらう>
           □俳誌「旗艦」S10年10月号「俳句は詩である」富沢赤黄男

    〜私流に言い直すなら、
  <俳句は俳である。ということは、その本質が俳的であり、その内容が俳的であり、
  その精神が俳的であることを意味する>
  <俳句は「俳」の基立に於いて、自由俳句型の範疇に於いて、俳を発現し、
  一般の俳を超過する俳だと言い得るであろう>

    〜ということになる。
    俳句は俳であるという一元思考は明快だ。
    赤黄男やその信望者の考えだと、俳句は最早俳句である必要がない。
    詩に身売りしたのだから詩でいいのだ。
    モダニズムだとかいう新しい世界の視野に立ったつもりの、
    ポエムのルビ付き発言なのだろう。
    俳句と言わずに最短定型詩と言えば足りるのだ。
    「五七五調の範疇に於て」などと断ってみても、俳句の本質からは逸脱している。
    季語まで持ち出してこないのが救いだが、肝心の俳は置き忘れてしまっている。
    この疑問を指摘した俳人も識者も、私は知らない。
    かの「未定」が、同人内外の論客を選りすぐり、総力を上げて刊行した
    「未定」第83号〔富沢赤黄男生誕百周年記念特集号・俳句形式の絶巓〕
    (H15年 高原耕治編集・発行)に於いても、この根本問題を問題としていない。

    また、別の書物に興味深い言葉があった。
  <俳句は最短詩型であるかどうかは別にして、その第一の特徴を、短さに置いている
  ことは自明の理である。>
           □『「俳句」百年の問い』H7年刊「編者まえがき」夏石番矢

    〜俳句は最短詩型かどうかに、立ち止まっていることは、一歩前進であるが、
    残念ながら、俳句は短詩型であるという通説通りの前提で書き連ねられている。
    俳句を短詩型に収めてしまう常を変えるためにも、俳句型と言ってほしいものだ。
    第一の特徴に俳の精神や特質を挙げていない。
    句の形が先行するものではないはずだ。
    次につなげる文脈だっただけなのか。
    とは言え同書に纏められた俳句本質論の数々は意義ある編纂記録だ。

    では、共感できる言説はあるかというと、次の一節だ。
  <只一つ思う事は、俳句精神の要処は諧謔である。諧謔の極致は卑俗高邁な
  「茶化し」の品位にあろう、ということだ。その真意は、「茶化し」の秀れた機能を、
  「自他を空
(くう)ずる」境に私自身置いているところに在る。>
           □句集『殺祖』S56年刊「田荷軒雑感」永田耕衣

    〜「俳句精神の要処は諧謔である」と断言しているのは、天晴れだ。
    詩の一言も持ち出さないで「茶化し」に言い及ぶあたり、全くもって俳人の鏡だ。
    正に俳句の本性は諧謔であり滑稽だ。
    自ずから俳言が要となり、詩語も入り混じる。
    卑語、俗語、口語、方言、性差や身分に根ざす言葉など、あらゆる人語が有効だ。
    旧来の季語や夏石番矢提唱のキーワードが核になりえるばかりではない。
    俳句にとって、もっとも本質的な鍵語または中核語は、俳言だ。
    貞門俳諧に先祖返りするようだが、近世の意味合いと違って、
    現代的俳言を考察しなければならない。
    俳言は負の言霊も背負い込む。
    そこが滑稽や諧謔の刃の光るところだ。

                     *

    ついでに言えば、俳句における定型あるいは定型感は、喩として「枷」と捉えたい。
    自由律と言えども限りある文字数の量的枷は免れない。
    定型については、多様な個々の自由定型有りという条件付きで肯える。
    枷をはめられた故の笑いや哀れが俳的表現される。
    現在主流の有季定型は、俳句の全てでも、真髄の形式でもない。
    日本国独自の管理社会で市民権を与えられた普遍形式に過ぎない。

    要点は、
    ・俳と詩は別ものである。
    ・俳句とは俳の句である。
    ・俳句は俳に拠る。
    ・俳句は俳言が中核をなす。
    等々である。

    詩については、万人の承知の通りとしても、
    あえてここでは、俳とは何かについて掘り下げなかった。
    自他共々考えて行きたい。
    以上、書き殴ったように切に思うが、時代の趨勢は現状のままであろう。
    「俳句空間―豈」39号の一つの特集題の「俳の行方」は、
    詩から自立してこそ開ける。




        ※「俳句空間―豈」39号(2004.7.30発行)の編集人・大井恒行氏の世話になって当稿の元が掲載された。
        その初出稿(29字×102行=2.958字)のレイアウトと一部語句を改め、当サイトに掲載した。
2004.8.25
        なお、題の前にに「自問自答式」を付加した。(当稿約2950字)

      「豈」発行人の筑紫磐井のHP↓(更新が滞りぎみなので最新情報は要確認)
                 http://www1.odn.ne.jp/~aau31240/index.html

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