Theme━━━━━━━━━「俳句空間」と私
          ドンキホーテの花

                      宮ア二健

〔 投 句 願 望 〕

 俳句を始めて3年。「俳句空間」に出会った。当時は結社系列の句会通いと俳句メディアへの投句に熱中していた。特に表現手段のなかった私は、持てる力以上のものが出せそうな俳句に心酔していた。同好の仲間もいなかったから単独行動が常だった。句会巡りで行き着いた先は「風涛」主宰の原子公平先生の「緑句会」、そして同人となっては「風涛本部句会」だった。両会場は新宿の俳句文学館だった。毎月通った。腕試し用に葉書を束で買いこんで、五大新聞の俳句欄、俳句総合誌、NHKテレビの俳句番組、全国の俳句大会などへ投句した。その成果を切り抜いて整理するのが密かな楽しみだった。入選句を見せびらかすわけにもいかず、自らを励ました。この一人遊びのような自画自賛と自問自答は6年間続いた。その間に3人の子持ちとなった。いつの間にか選者の好みや傾向に迎合して、入選確立を高めようとする作句をしている自分に気付いた。入選句蒐集癖ももはやこれまでと自省した。原子流有季定型上五字余り俳句の含蓄の深さへの傾倒と共に、主流の有季定型句にも標準を合わせるようになった。しかし、俳句とは何かという根本的な疑問が募った。

〔 新 鋭 願 望 〕

 そんな思案に暮れる頃、新宿の紀伊国屋書店で「俳句空間」を見つけた。有季定型に慣れ親しんでいたから、自由奔放な俳句が飛び交っていた同誌が斬新に見えた。白くて斜めなデザインの装幀は現在進行形の若い息吹が感じられた。同誌に携わっていた俳人たちに憧れた。俳句に限らず創作するということは一律であるはずがないので、版元が書肆麒麟から弘栄堂書店に移った「俳句空間」新装の6号・特集「寺山修司の俳句世界」には、徒ならない思い入れをもった。同時代の尖端を駆け抜けた寺山修司が、何ゆえ俳句に拘わり、そして遠ざかったのか気掛かりだった。守旧の俳壇と、常識を覆していく寺山作品のイメージが、あまりにも懸け離れて見えていた。俳壇が寺山のなす表現活動に、ほとんど無縁なほどに安泰で肥大している状況は、俳人のあるべき姿とは思えなかった。そこで「俳句空間」が、その閉塞状況に活路を見出しているのだと思えた。同誌への期待は23号の休刊に至るまで続いた。「俳句空間」の偉業は、マンネリズムの結社や総合誌に任せておけないと感じているであろう編集人の大井恒行と、17号迄の編集協力委員の阿部鬼九男、夏石番矢、林桂ら精鋭の理想と尽力がものをいったのだろう。執筆者は、毎号の新奇な特集のテーマに沿って流派と保革を超えて各方面から集められていた。巻末の投稿作品欄に掲載されるためには、新鋭作品10句という連作で作者の総合的力量と文学的野心が求められた。大方それに見合った選者と投稿者が結実していき、新鋭発掘がなされた。当時の高山れおな、倉阪鬼一郎、守谷茂泰、小生らは「豈」同人として現在に至った。殊に鮮烈な印象をもったのは森山光章の地獄のルビ俳句であった。新形式や新感覚の俳句そのものと、瑞々しい20代青年の積極参加は励みになった。私も試行錯誤して投稿しつつ、自分にとっての新鋭俳句とは何であるかを考えあぐねた。

〔 前 衛 願 望 〕

 あえて前衛という言葉を持ち込めば、私にはそこへたどり着く素養も意識も希薄であった。何のための前衛なのか、その相対するものへの認識自体が怪しいものであるから、前衛のための前衛は成り立たなかった。前衛の何たるやを知りもしないで奇を衒った程度で、それを語るべきではないことは承知せざるをえなかった。しかしラジカルという言葉同様、その言霊の響きが気掛かりだった。私は20代前半に新宿で前衛ジャズというものを聴いて闇雲に感動し、音楽観が変わった経験があった。スタンダード・ジャズの素晴らしさが感じられたのはその後だった。前衛ジャズはフリー・ジャズとも言い、大方は聴き心地は良くないものの、大義名分は“自由”だと解釈した。芸術運動など人為的文化的に創られるものは常に前衛、つまり自由であるべきなのだ。来し方を振り返れば、前衛の旗を掲げたドン・キホーテとして「俳句空間」の門を潜ったのだった。拙句が巻末に掲載されることが、ささやかな目標だった。しかし拘れば、選者小檜山繁子の「短詩型の持つ力を認識して、更に作品を書き進めて欲しい」(7号の句評欄)の俳不在の文言は諾えない。なぜ短詩ではない俳句を俳句と言わないで短詩型と言うのか、俳句型ではだめなのかと今更ながら思う。独り善がりな10句を投稿して、当時の選者の夏石番矢と小檜山繁子の選句眼に適わなかった。当然であった。88年刊の7号は、特集「実験・俳句文体バラエティ」だ。6号と共に同誌ならではの好企画だった。既存の俳句総合誌では整合性や統率がとれないので、食指が動かないであろう俳句形式の総出演だ。俳句の可能性を形式においても広く求めた特集だった。方言、仮名、ルビ、ローマ字、多行等での俳句が試みられた。変わった形式は多々あろうが、既成俳壇には見られない革新的心意気を感じた。しかし作家個人の創作においては、その場限りの試みで終わっているであろう懸念は拭えない。個々の俳人でも冒険を志向し、発展させることが肝要だ。

〔 入 選 願 望 〕

 初入選は、西川徹郎と林桂選の10号での選外秀作抄1句「風よ知るべし奈落なる夜の青田」だった。原子流の句が選ばれて感慨深かった。11号では「お地蔵さんといっしょに霧に食べられた」の口語調。12号は「木がらしに鉄の扉の開閉音」のごく普通の句が採られた。そして、選者が攝津幸彦と池田澄子に代わった13号で「地ノ色ノ清水」と題した片仮名入り当て漢字俳句10句が攝津選で初めて入選した。私はこの時から有季定型以外の俳句形式を模索する意義はあると確信した。14号で「月涼シ」10句が池田選となり、大いに励まされ弾みがついた。15号では選外佳作抄で湾岸戦争を詠んだ当て漢字俳句2句が選ばれた。この連作は練り直して50句に増やし、他の50句と共に「俳句空間」新鋭作家集『燦』(91.12 弘栄堂書店刊)に発表した。16号は「罠ノ星」10句が攝津選。17号で選者が宇多喜代子と四谷龍になり、選外佳作抄で「外サレシ周廃駆
(スパイク)タイヤ退邪黄沙降ル」。18号で「秋江ヤ罵亡流(バブル)ガ包ミ込ム屁泥(ヘドロ)」。19号落選で、20号の5句単位の「俳句空間作品集」の頁に我が当て漢字俳句が載った。21号と22号は奮わず、休刊記念号の23号で「期待の作家」と題した見開き2頁で「尾灯」と題した我が新境地の枕詞入り当て漢字俳句18句と添え物の替え歌が掲載された。最後にドンキホーテの花を咲かせて頂けて感無量だった。

〔 飄 々 願 望 〕

 今振り返ってみると腑に落ちることなのだが、我が脱皮の過程で、いつも上層で飄々と俳句活動の任に携わっていた人物がいた。その過程とは「俳句空間」への投稿と、夏石番矢青年部長時代の「現代俳句協会青年部」活動と、攝津幸彦代表の「豈」(19号―1992.9.3発行)への同人参加だ。それらは遅まきながら俳句の勉学に勤しんだ絶好の媒体や団体だった。そこでの付かず離れずの重鎮は、大井恒行その人だ。惜しまれ、批判されつつ休刊した「俳句空間」と、その編集人は今だときめきを忘れさせずに、我が脳裏と「豈」の中枢に君臨されている。


        ※当稿の初出は豈37号「俳句空間篇」(2003.10.1発行)である。
        その全3022字の散文のレイアウトを改め一部加筆し、当サイトに掲載した。
2004.8.26

        「豈」発行人の筑紫磐井のHP
↓(更新が滞りぎみなので最新情報は要確認)
                 http://www1.odn.ne.jp/~aau31240/index.html

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