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梵天丸誕生の地 「米沢城」
水面に映る樹影がうつくしい米沢城
水面に映る樹影がうつくしい米沢城
米沢城の歴史をひもといてみると鎌倉時代にさかのぼる。
源頼朝による奥州征伐の軍功により、暦仁元年(1238)に長井荘の地頭として大江広元の次男である大江時広がこの地に下向し館を築いたのが始まりと伝えられている。
大江氏は長井氏を称して八代にわたり約150年間長井荘を治めるが、天授6年(1380)頃、伊達・信夫地方を本拠としていた伊達宗遠の攻撃を受けて滅び、米沢城は伊達氏の治めるところとなった。
天文17年(1548)頃に伊達氏十五代伊達晴宗がそれまでの居城だった伊達郡桑折西山城から伊達氏の本拠を米沢城に移す。

米沢城址にひっそりと建つ「伊達政宗誕生の地」標柱
米沢城址にひっそりと建つ
「伊達政宗誕生の地」標柱
永禄10年(1567)8月3日、ここ米沢城で男の子が誕生した。幼名を梵天丸といい、のちに独眼竜の異名をもって知られた伊達政宗その人である。
父は伊達氏第十六代当主の伊達輝宗。母は輝宗の正室で最上氏山形城主の最上義守の娘、義姫である。このとき輝宗24歳、義姫20歳であった。
それでは、政宗が産まれた永禄10年頃とはどんな年だったのだろうか?
6年前に川中島で熾烈な戦いの中、一騎討ちをくりひろげた武田信玄47歳、上杉謙信38歳。
美濃の斉藤氏を滅ぼし稲葉山城を中国の故事にならい岐阜と改め、天下布武にのりだした織田信長は34歳。
その信長の草履取りから出世して、美濃攻略の際も「墨俣の一夜城」などの活躍で信長のおぼえもめでたい木下藤吉郎、のちの豊臣秀吉は32歳。
「伊達政宗誕生の地」標柱に刻まれたプレート
「伊達政宗誕生の地」標柱に刻まれたプレート
桶狭間で討ち死にした今川義元から独立し、名前を松平元康から家康にあらため、織田信長と同盟を結んだのちの徳川家康は26歳。
戦国時代は、すでに群雄割拠から天下統一へ動き出していたのである。

このような情勢のなかで政宗は、天正19年(1591)9月の秀吉の奥州再仕置きによる岩出山転封までの25年間の多感な時期をここ米沢城で過ごしている。
幼少の頃の政宗は、内気で人前にでることを嫌ったという恥ずかしがりやで、伊達家の世継ぎとして武将の器にあらずと疑問をもたれるほどであった。
5歳の時に疱瘡をわずらい、かろうじて命だけはとりとめたものの右眼を失明(疱瘡とは天然痘のことで、この時代に治療法はなく死亡率は6割近くにもなる)。
NHK番組「堂々日本史」の「独眼竜政宗・母と葛藤をこえて」ロケ現場
NHK番組「堂々日本史」の「独眼竜政宗・母と葛藤をこえて」ロケ現場
片目を失い醜く変わり果てた姿に母である義姫は政宗に対する愛情を失ってゆく。
しかし父の愛情を一身にそそがれ、虎哉宗乙和尚を師として政治に、軍事に、文学に、武将として伊達家の統領を継ぐべく学んでゆくのである。
天正5年(1577)11月15日、11歳のときの元服の儀。天正7年(1579)冬、13歳のときの愛姫との婚姻の儀。天正12年(1584)10月、18歳のときの家督相続の儀。皆ここ米沢城でとりおこなわれた。
伊達政宗の人間性の基礎は、米沢盆地の気候風土のなかで育まれてゆくのである。

しかしながら政宗をとりまく環境は、かなりきびしいものがあった。
1542年(天文11)、曽祖父伊達稙宗と祖父伊達晴宗が家臣と周辺の大名をまきこんで争った天文の乱により伊達家の力は弱まっていたのである。これ以来伊達家では、代々父と息子が争う事態となっていた。
松が岬公園案内板
松が岬公園案内板
また家中も弟小次郎が産まれてからは、家督相続問題で政宗派と小次郎派に別れ内紛を起しかねない状況であった。
さらに周辺諸国を見渡せば北に最上氏、東に相馬氏、南に蘆名氏や佐竹氏などが虎視眈々と奥州制覇をうかがっていた。
仙道には畠山氏、大内氏、田村氏、二階堂氏、石川氏、白川氏、岩城氏などの中小大名が割拠し、周辺の実力ある大名達の力のバランスを巧みに利用しながら、お家存亡をかけて生き残りを摸索していた。
このような状況の中で政宗は、奥州制覇をめざして、あるときは父とともに、あるときは片倉小十郎伊達成実とともに南奥州の原野を疾駆してゆくのである。

上杉神社正門
上杉神社正門
天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めに遅参した政宗は大崎・葛西氏の故地に国替えとなり岩出山城へ移る。米沢は蒲生氏郷の所領となり、その家臣の蒲生郷安が城代として入城した。
慶長3年(1598)、蒲生氏が転封となるや上杉景勝が会津120万石に封じられ、その重臣である直江兼続が米沢30万石という破格の高禄を受けて城代として入城する。
しかし上杉謙信以来の武門の誉れ高き上杉氏も、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦により、会津120万石から米沢30万石に減封され景勝自身が米沢に入城することになる。
静かな上杉神社社殿
静かな上杉神社社殿
以後、元禄事件で15万石に減封されながらも明治維新を迎え、明治2年(1869)に版籍奉還するまでの268年間、代々上杉氏の居城となった。おしくも明治6年に明治新政府により取り壊されてしまう。
現在城跡は松岬公園となっており、本丸跡には上杉謙信をまつる上杉神社や上杉謙信像、上杉鷹山像などがある。
毎年5月には「米沢上杉まつり」が行われるなど上杉文化が色濃くのこる城下町米沢市だが、今もひっそりと伊達の文化もいきづいている。春には桜がうつくしく、冬には白銀の静寂につつまれる。
場所 : 山形県米沢市丸ノ内1-4-13 松ケ崎公園
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