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父・輝宗の菩堤寺 「遠山 覚範寺」
遠山覚範寺石柱
伊達政宗の父・伊達輝宗は天正13年(1585)10月8日、二本松城主・畠山義継が和睦のお礼を述べに輝宗が在陣している宮森城を訪れたさい、義継が突然心をひるがえし、輝宗を捕らえて二本松城へ連れ去ろうとしたため、駆けつけた政宗によって鉄砲隊の銃撃により、義継もろとも悲壮な死をとげる。
このとき政宗19歳、輝宗42歳。家督をゆずってから、わずか1年あまりであった。
怒りにふるえる政宗は畠山義継の遺骸を切り刻み、藤つるで再度つなぎ合わせて小浜城まで馬でひきずり、磔刑にしたという。
政宗は母・お東の方に父の無残な姿をみせたくないとして、輝宗の遺骸を福島佐原の寿徳寺で荼毘にふした。
輝宗の法名「覚範寺殿性山受心大居士」は、そのとき導師を勤めた虎哉和尚の諡るところである。
荼毘の炎を隻眼で見つめる政宗の心中はどのようなものであったろうか。
輝宗の遺骨は、駆けつけてきた輝宗の重臣・遠藤基信に渡され、現在の山形県置賜郡夏刈にあった資福寺に葬られた。
山門への階段
父の復讐に燃える政宗は、初七日がすんだ10月15日に小浜城から二本松に出陣し、二本松城を包囲する。
父の弔い合戦である。
一方、畠山勢も政宗に当主・義継を謀殺されたとして、義継の遺児・弱冠12歳の国王丸をたてて二本松城に篭城、頑強な抵抗をみせた。
おりしも大雪となり、仙道きっての要害、堅固な山城の二本松城を政宗はなかなか落とすことはできずに、やむなく小浜に兵を引いた。
この隙を突いて大雪のなか、畠山勢は佐竹氏、芦名氏、相馬氏などに救援を求める使者を送る。
政宗が兵を整え、再度二本松城攻略の作戦を練っている最中の11月10日、常陸の佐竹義重が動いた。
芦名義広、相馬義胤、二階堂輝隆、岩城常隆、石川昭光、白河義親などの諸氏と連合して畠山勢を救援すべく安積表に兵を進めて、伊達方の諸城を落としつつ北上してきたのである。その数、三万…。
遠山覚範寺山門
一方この情勢を知った政宗は二本松城包囲のための手勢を手配りし、11月16日に兵七千をひきつれ本宮城に到着。翌早朝、観音堂山のこだかい丘に布陣する。
「人取り橋の合戦」である。
17日朝に戦端はひらかれた。
数に劣る伊達勢は終始守勢にまわり防戦一方となる。なかでも人取り橋付近と瀬戸川館付近は大激戦となった。
静かなたたずまいをみせる遠山覚範寺
政宗とて4倍の敵を目前にしても、父の弔い合戦の最中に逃げるわけにはいかなかったのである。
政宗も自ら槍をとり、鎧に矢ひとすじ、銃弾五発をうける壮烈な白兵戦となった。
あわや伊達勢総崩れかというところで日没をむかえ、双方兵を引いた。
その夜…翌朝の決戦をひかえて伊達勢の諸将は、みな討ち死を覚悟したという。
しかし奇跡がおきた。
母・保春院の墓所と伊達宗清の碑
翌朝になると眼前の敵は、忽然と姿を消していたのである。その夜のうちに連合軍が撤退したのであった。夢か幻か…
おもわぬ形で生涯最大の危機を脱した政宗は、年が明けた天正14年(1586)年4月の雪も解けた頃に、再び二本松城を包囲したが、なかなか落とすことができなかった。
7月になって相馬義胤の調停により、城を明渡すこと、本丸に火を放つことを条件に畠山氏の降伏をみとめて、ようやく二本松城は政宗の手に落ちたのである。
母・保春院の墓
国王丸と畠山勢は芦名氏をたよって会津へ落ちのび、ここに畠山氏は滅亡。
政宗は8月に米沢に凱旋し資福寺の輝宗の霊前に戦勝を報告し、10月にやっと父の菩提を弔うため米沢郊外に覚範寺を建立したのである。
遠山覚範寺は政宗とともに天正19年(1591)岩出山への転封にともない米沢から岩出山一栗村の興国山天王寺に移り、慶長6年(1601)には仙台の愛宕山に移った。
しかし翌年の慶長7年(1602)3月16日に、仙台城下普請中に小人(足軽よりも身分の低い下級武士のこと)と城下普請奉行の争いが起こり、小人たちが覚範寺の庫裡に逃げこんで抵抗したため、茂庭綱元が鉄砲隊で包囲したのち攻撃したので、小人たちはやむなく庫裡に火を放ち自害してしまった。この小人騒動の火災により覚範寺は焼失してしまい、新たに現在の北山の地に造営建立しなおしたのである。
政宗の三男・伊達宗清の碑
元和9年(1623)7月16日、山形より仙台にもどっていた政宗の母・保春院が逝去し、ここ覚範寺に葬られ政宗が墓標の宝篋印塔を建立した。
そばには政宗の三男で寛永11年(1634)に36歳の若さで死没した伊達宗清の碑と殉死した七人の追福五輪塔が建っている。
寛永13年(1636)5月24日、江戸桜田上屋敷で伊達政宗は逝去した。
政宗の霊柩は江戸を発ち、6月3日父の菩提寺であり母の眠るここ覚範寺に安置され、中陰の法要は営まれた。
その後の覚範寺は寛政2年(1790)の火災により焼失し、翌年に再建されたが明治9年(1876)の山火事により再度焼失してしまう。それ以来ずっと仮堂のままであったが、昭和18年(1943)に本堂が再建された。
母・保春院の墓所の説明板
しかし昭和33年(1958)に悲しくも放火により、またも焼失してしまう。このときの火災で虎哉和尚木像も灰燼に帰してしまった。
昭和42年(1967)に本堂が再建され、昭和57(1982)年に庫裡が再建されて現在にいたっている。
今も風情のある山門への階段を登れば、父の菩提と母の眠る、政宗が死後最後のお別れをした覚範寺の静かなたたずまいをみることができる。
所在地 仙台市青葉区北山1丁目12-7
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