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□伊達政宗の母である義姫(お東の方・保春院)は元和9年(1623)7月19日、76歳で逝去し、遺体は覚範寺で荼毘に付され埋葬された。法号の「保春院殿花窓久栄尼大姉」は虎哉宗乙禅師の諡るところである。
□義姫は天文16年(1547)出羽の大名・最上義守の娘として山形城に生まれ、兄は「暁の驍将」最上義光である。
□義姫が19才のときに宿敵である伊達家へ嫁ぎ、伊達輝宗と結婚し、米沢城の東館に住んだので「お東の方」と呼ばれた。
□永禄10年(1567)8月3日、輝宗との間に男の子が誕生した。のちに独眼竜の異名をもって知られた伊達政宗その人である。
□政宗が5歳の時に疱瘡をわずらい右眼を失明し、かろうじて命だけはとりとめたものの義姫は醜くなってしまった政宗を疎んじ、弟の竺丸(小次郎)を溺愛してゆく。
□天正13年(1585)10月8日、二本松城主・畠山義継の謀略にあい、夫の輝宗が非業の死をとげたときも政宗が輝宗を殺させたのではないかと疑ったという。夫を失ったお東の方は、このとき髪をおろし「保春院」と号した。
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□天正18年(1590)4月5日、豊臣秀吉は北条氏の小田原城を攻め、政宗に参陣するよう再三にわたり使いの者が来たが、なかなか参陣しようとしない政宗に、伊達家の将来を案じた保春院は兄の最上義光と相談し、小次郎に家督を継がせるため、政宗を毒殺しようとしたという。
□命をとりとめた政宗は、母のかわりに小次郎を斬る。母が子を毒殺しようとし、その子は弟を斬ったのである。
□このときの母と子の気持ちはどのようなものであったのであろうか。
□しかし、3年後の文禄2年(1593)の政宗の朝鮮出兵の報せが届いたとき、保春院は和歌一首と三両の金子をそえた手紙を遥か遠い朝鮮まで送っている。
『 あきかぜの たつ唐舟に 帆をあげて 君かえりこん 日のもとの空 』
□政宗もまた、母からの手紙を受けとるやいなや母のためにと朝鮮木綿を添えて「ひとたび拝み申したく念望にて候」と返事かいている。
□はたして毒殺事件はあったのか、なかったのか…
□毒殺事件後の保春院は、伊達家の岩出山転封にしたがい政宗とともに岩出山へ移り、文禄3年(1594)11月に兄のいる最上家へ身を寄せてている。
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□一方の最上家は、小田原に参陣し、関が原の戦いでは徳川家康方について会津の上杉景勝と戦い、その戦功により57万石の大大名となった最上義光であったが、秀次事件で娘の駒姫を失い、慶長19年(1614)正月19日、69歳で死去する。
□義光の死後、家督争いや孫の急逝など家中内紛が絶えず、ついに幕府によって改易されてしまうのである。
□元和2年(1622)政宗は行き場をなくした母・保春院を仙台に呼び戻した。
□政宗56歳。母は75歳になっていた。
□再会をはたした母子は、このとき贈答歌を交わしている。
政宗:年月久しう へたたりける母にあいて
『 あいあいて 心のほとや たらちねの ゆくすゑひさし 千とせふるとも 』
保春院:母ノ返し
『 二はより うへしこまつの 木たかくも えたをかさねて いく千世のやと 』
□母に精一杯の親孝行を勉め、長寿を願う政宗であったが、1年後の元和9年(1623)7月16日永久の別れとなる。
□最上家・伊達家の狭間で両家の安泰を願った波乱の生涯であった。
□京でこの悲報を知った政宗は悲しみの和歌を詠んでいる。
『 鳴く虫の 声をあらそふ 悲しみも 涙の露ぞ 袖にひまなき 』
□寛永6年(1629)7月7日、母・保春院の七回忌の折に政宗は、
『 七夕の 逢瀬(おうせ)ながらも 暁の 別れはいかに 初秋の空 』と詠んでいる。
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□政宗は寛永12年(1635)十三回忌にあたり菩提を弔うため保春院を創建し、翌年の政宗最後の参勤となる江戸出発の2日前の4月18日に落成を祝った。
□母の菩提寺保春院に参詣したあと、杜鵑の初音を聴くために経ヶ峯に立ち寄り、その際、家臣の奥山常良に「死後この辺に墓所を定めるように」と指示し、江戸桜田屋敷にて波乱の生涯をとじる。
□保春院は寺格一門に列し堂塔伽藍広壮であったが、宝暦2年(1757)2月6日の「宝暦の大火」のため灰燼に帰してしまう。その後再建はされたが、政宗が創建した頃には遠く及ばなかった。
□しかし、本堂には政宗が自らつくった母の位牌が今も残されている。
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