1999年

 4月 3日

第4回総会 &小野寺弁護士講演会

 9月19日

高熊飛さん証言集会

 

「七三一部隊・南京大虐殺・無差別爆撃」訴訟結審に向けて(1999年2月16日)

 「七三一部隊・南京大虐殺・無差別爆撃」訴訟が結審し,判決が間近に迫ってきました。私たち「宮城の会」事務局一同も,この訴訟の勝利判決を待ち望んでいます。

 「宮城の会」は,一九九六年二月に発足しましたが,そのきっかけになったのは,前年の十二月に敬蘭芝さん(夫を七三一部隊に殺害された)を仙台に招いて証言集会をしたことでした。その年(一九九五年)の八月に訴訟を提起した敬蘭芝さんのお話を聞いて,私たちはこの裁判を支援しないではおれなくなったのです。それ以来三年が過ぎ,この裁判の判決がいよいよ下されます。私たちもこの間の活動を振り返り,感慨を深くしています。

 「宮城の会」は,ふだんはあまり目立った活動はしていません。しかし事務局メンバーの地道な努力で少しずつ会員を拡大してきました(現在約百五十人)。年に一度は中国人原告の方を招いたり東京から弁護士を招いたりして学習会をもつようにしていますし,また一年に数回東京で開催される運営委員会には必ず顔を出して,常に最新情報を得るよう心がけています。一九九七年十月ごろ劉連仁さんの強制連行訴訟が「結審させられそうだ」という情報で一時緊迫したときは,「裁判長宛てのアピール・ハガキを宮城の会の会員全員から送ろう」という運動に取り組んだことがあります。往復ハガキを準備して,返信用ハガキに裁判長宛てのアピール文を印刷したものを,会員全員に送って呼びかけました。「運動の拡大」という点からは限界があったかも知れませんが,百通に及ぶハガキが裁判長に届けられたのは間違いない,と私たちは考えています。

 今回の「七三一部隊・南京大虐殺・無差別爆撃」訴訟の判決を前にして,いま私たちは東京から提起された署名運動に全力で取り組んでいます。会員それぞれが工夫をこらして署名を集めているはずです。例えば私は知人への年賀状を封書にして,そのすべてに署名用紙を同封しました。数日後から,さっそく記名欄を埋めて送り返してくれる人がいます。嬉しいことです。

 私は「必ず勝つ」と確信しています。たとえ万に一つ裁判で負けるようなことがあっても,「歴史の法廷」があります。権力は,たとえ法に勝つことができても,天に勝つことはできません。


「宮城の会」の活動(1999年6月21日)

 最近の活動の中で特筆すべきことは、四月三日の定期総会の際のアトラクションとして、会員有志十二人による、茨木のり子さんの詩「りゅうりぇんれんの物語」の群読を上演したことでしょうか。この詩は劉連仁さんの数奇な運命を描いた作品として有名で、前号のニュースでもこの詩の朗読劇の企画が紹介されていました。私たち「宮城の会」では、地元の劇作家・演出家の早川寿さんに脚本をお願いしました。年度替わりの忙しい時期でしたが、突然の呼びかけにもかかわらず、予想を越える多数の会員が出演に応じて下さり、また早川さんから直接に朗読の指導を受けることもできて、素晴らしい公演になりました。

 また同日、定期総会に続けて、弁護団幹事長の小野寺利孝弁護士をお招きしての講演会が開催しました。「七三一・南京・空爆訴訟判決の意義と展望」と題する二時間の講演と質疑を通して、私たちは「この裁判は必ず勝てる。いや勝たねばならない。勝たなければ日本の未来はない」との確信を深めることができました。

 残念ながら、裁判長に届ける署名はまだ十分な数を集めることができないでいますが、この日の小野寺弁護士の呼びかけに応えて、もう一度奮発して署名獲得・会員拡大に力を尽くしたいと思っています。


「宮城の会」の活動(1999年8月10日)

 宮城では、六月から七月にかけて再び「七三一・南京・空爆訴訟」の公正判決を求める署名運動に取り組みました。実は昨年末から始まった署名運動に当初は熱心に取り組んだものの、その後少し休止してしまったため十分な数の署名を集めることができないでいたのです。しかしいよいよ「最終の締切」が近づいたこともあり、宮城県教職員組合,宮城県高等学校教職員組合,仙台市教職員組合など教員団体を中心に再度呼びかけました。その結果,七月二十八日現在で計八百五十筆余の署名を集めることができました。「ランキング十位」という目標も達成できて、ひとまずホッとしているところです。署名運動に応えてくださった多数の方々に感謝します。けれども「全国で十万筆」という大きな目標にはまだ到達していません。「勝利判決が出る九月二十二日」までは、なお継続して呼びかけをしていきたいと思います。

 判決直前の九月十九日(日)には,南京大虐殺の生存者である李秀英さんを仙台に招くことになっています。仙台では、さまざまの市民団体による運動の成果として、これまでに中国・韓国・マレーシア・フィリピンなどから多くの戦争被害者を招き,証言集会を開いてきました。しかし李秀英さんを仙台に招くのは実に今回が初めてです。アジア太平洋戦争の象徴的事件である南京大虐殺の貴重な証言に、少しでも多くの人びとが耳を傾けてほしい。私たちは、今そんな気持ちで、着々と準備を進めています。


高熊飛さんの証言集会

 九月十九日(日)午後、高熊飛さんの証言集会が仙台市青葉区のフォレスト仙台ビル(教育会館)で開かれ、約六十人が参加しました。

 午前中に仙台に着いた高さんと奥様は、日中友好協会宮城県連事務局長・渡辺襄氏と、宮城の会代表委員・一戸富士雄氏の案内で、魯迅が学んだ東北大学と、仙台市博物館構内にある魯迅記念碑を見学しました。あとでわかったことですが、高さんが初めて覚えた日本の地方都市の名が、魯迅の作品を読んで知った「仙台」だったそうで、そのためもあったのでしょう、魯迅ゆかりの観光ができたことを高さんはたいへん喜んでいました。

 午後の証言集会は、スライド上映による「永安無差別爆撃に至るまでの歴史的背景」の説明のあと、高さんの証言、山田勝彦弁護士の訴訟報告とつづきました。

 高さんは、ご自身とご母堂の片腕を失った写真を高く掲げ、時おり声を詰まらせながら、無差別爆撃の体験を語って下さいました。その悲痛な体験談に、みんな真剣に聞き入っていました。集会後回収したアンケートでは、多くの参加者が、高さんが長年にわたって永安無差別爆撃の事実を丹念に調査しそれらの資料が裁判でも貴重な証拠となったことを挙げて、その熱意に打たれた(あるいは励まされた)という感想を書いていました。また非常に珍しいことに、取材に訪れた地元新聞社の記者までもが、個人的に大きな影響を受けたためでしょうか、参加者アンケートに感動的なメッセージを残していました。

 高さんの証言に続く山田弁護士の訴訟報告は、「弁護士になって四年目」の若手ということもあって、リラックスした雰囲気での講演となり、四月の宮城の会総会にお招きしたベテランの小野寺利孝弁護士の時とはまた一味違う感動がありました。そして山田弁護士に代表される二十一世紀に活躍する若い世代こそ、「日本が国際法に則って戦争責任をしっかりと果たし,世界に誇れる日本になる」ことを切実に望んでいることを感じました。いずれにしても裁判の争点や双方の主張の中身がよくわかる内容で、たいへん好評でした。今回もきっと、参加者みんなが「今回の判決の勝敗如何にかかわらず、最高裁判決まで続くであろう闘いを、最後まで支援しよう」という気持ちになれただろうと思います。

 講演後の意見交換では、「高さんたちが語ってくれた歴史事実を、教育を通して次の世代に伝えていきたい」という決意表明などが多くの参加者によって次つぎと語られました。

 今回の集会で、東京大空襲など米軍による被害を想起しがちな「無差別爆撃」が実は一九四三年の段階で最初に日本が中国におこなっていたという事実と、その意味でも「日本はまず加害者であって次に被害者なんだ」ということを、高さんに教えられました。「無差別爆撃」の被害者が日本にも(仙台にも)たくさんいるということは、他の戦争被害の場合と違って、それだけ容易に中国の人びとの苦しみを理解できるということでもあります。今回高さんをお招きし、片手を奪われた苦痛を抱え周囲から差別されながらでも懸命に生きてこられた体験を聞くことができたおかげで、あらためて、無差別爆撃が人道的にも許されない戦争犯罪なのだということを感じました。たいへん有意義な一日だったと思います。

 

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