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書評:『活学としての東洋思想』

この記事の最終更新日:2006年9月24日
活学としての東洋思想―人はいかに生きるべきか
活学としての東洋思想―人はいかに生きるべきか安岡 正篤

PHP研究所 2002-02

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日本の政財界に大きな影響を与えた安岡正篤の講話の中から、儒教、禅、老荘思想、大学、史記など、東洋思想、中国古典についての講話を集めたものです。生きた学問、現実生活に活かす、活学としての東洋思想講話です。

政治経済はあくまで道義主義、人道主義が主であり、功利主義ではないというのが著者の主張です。人間金だろという反論に、著者はこう答えます。

「こういう人は文章や文学の解らない人で、物には相対的に対照的に強調ということがある。これは表現技術の問題で、何もこれは功利を否定しているのではないのです。どれを中心にするか、どっちを建前にするかというと、道義を建前にする。道義を建前にすれば、功利は自ずからその中に入る。功利を建前にすれば、道義は逃げていってしまう。」(p170)

これは至極現実的な、活学的な教えだと感じました。「徳は元なり、財は末なり」の思想です。

別の箇所では、第一次大戦後、ドイツの経済を復興したシャハトという国立銀行総裁の道徳経済説が紹介されています。

「彼の告白する処によると、自分は金をどうするかとか、利子をどうするとかいうような、そんなけちなことは考えない。経済は矢張り道徳だ、勝れた心の持ち方や美しい感情、情操を養うことが生産を上げ、経済を済うことになる、という道徳経済論をやっている」(p207)

自己の利益か社会の幸福かという対立ではありません。この対立、実は、自己の利益か社会の利益かという対立を暗にあらわしているでしょう。正しくは、自己の利益、社会の利益より、自己および社会の心、感情の修養なのです。

この後には、ケインズのIt is much more important how to be rather than how to do.(如何にするべきかということより、如何にあるべきかということの方が大事だ。)という言葉も紹介されています。

引き続き、道徳経済説について。

「左伝には義は利の本なりと言っている。易には利は義の和なりと書いてある。本当の利益というものは、如何にすることが義であるか、正しいかということを集積してゆくことから生まれる。」(p212)

「『史記』の人物と思想」という講話では、『史記』について熱く語られています。
途中、学問の意義について大変ありがたい説明がされています。

「Cogitation(教科書暗記的知の作用)に当たる頭の単なる機械的働きを(ドイツ語では)Arbeitswissen労働知という。これではひどい場合には疲れるだけで、ねじり鉢巻で試験勉強をやって、済んだら皆忘れてしまったなどというのがよくありますね。それを深めたものが、Bildungswissen創建智、それを通じて、更に深く自分というものを把握し、躍進せしめるまで徹した学問の仕方、頭の働き、これを、Erloezungswissen即ち解脱智という言葉に結びつけて、Heilswissen聖智と申しております。(…)本当に学問するということは、それを自分の身につけて、自分を日に新たに、又日に新たなりという風に解脱向上させてゆく。そこまでゆくと、又普通では想像の出来ない意味や価値が生じて参ります。これは哲学でも科学でも同じでありまして、物質が不滅である如く、精神も亦不滅である。ただ忘れるだけであります。」(pp242-243)


「虎の巻秘語ー六韜(りくとう)三略の近代的解釈」は、兵法書六韜三略についての講話です。中に、武についての非常に興味深い解釈が語られています。いわく、武の字は「戈(ほこ)を止める」という二字からなっているという説がある。東洋人の武に対する考え方は、決して暴力の行使でなく、それを止めることにあったと考えられるとのことです。武についての卓越した考えを述べたのが、徳川時代、静岡の学者、山梨稲川という人です。

「従来は文と武とを対立的に、相対的に考え、武はどちらかというと暴力の行使であり、文は平和の象徴であって、往々にして相容れないものであった。そしてどうも文に流れると文弱になり、武に流れると暴力になる、という両方の持つ弱点を補うために、文武は車の両輪の如く相伴うべきものであるという程度に過ぎなかった。稲川はこれを更に進めて、武はそういうものでなく、人間の現実は色々の邪悪と戦わねばならない。それが人間の避けられない現実の姿である。その邪悪の力と戦って、われわれの生活・理想を一歩一歩作り上げてゆく実践力ーーそれを武と言うのだとしている。
甘い感傷的な空虚な観念に逃げてしまわないで、どんなに骨が折れても何ら誤摩化さず、着々と現実を浄化してゆく。雨雪風雷と戦って若木が伸び、花が咲き、やがて実を成らせるように、現実の中から文化の華を開いてゆく実践力、努力を武と言うのである。だから、武があって始めて文がある、武が本体である。従って本当に文化の華を咲かせるような武でなければ、本当の武ではない、と非常に深く武を解釈している。」(pp305-306)


この武の解釈には、深い感銘を受けました。







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