12月28日(日)

朝食前に平安神宮を散歩。朝7時さすがに観光客はいない。
 
 ホテルで朝食をすませ、「京都会館美術館前」からバスに乗り三条へ向かう。

午前9時15分、京阪三条バス停前で「高山彦九郎」の出迎えを受ける。

 高山彦九郎は延享4年(1747)に上野国新田郡細谷村、現在の群馬県太田市細谷町に生まれた。江戸時代中期の勤王思想家で、その後の幕末の勤王の志士たちに大きな影響を与えた人物であり、明治維新の先駆者と言われている。この像は、京都の出入りの度に御所の方角を向き、ひれ伏す姿を再現している。
 早朝の三条大橋を渡る。向こうに見える河原が三条河原。
左端の建物あたりが先斗町の入り口であり、三条会所があった。
 慶応2年(1866)9月の三条制礼場事件の現場となったところ。禁門の変の後、三条制札場において、長州藩の罪状を書いた制札が何者かに、度々毀損されため、その取り締まりのため新選組が派遣されていた。三条会所に詰めていた新選組・原田左之助ら30数名と、知らずに現れた土佐系浪人8名とが大乱闘となった。

また、近藤勇の首が晒されたのもここ三条河原である。
三条大橋を渡り、高瀬川沿いに北へ歩く。
まず「吉村寅太郎寓居之址」の碑が見える。

 吉村寅太郎
 土佐藩出身の尊王攘夷派の志士。武市瑞山の勤王党に加盟し脱藩。寺田屋事件で捕らえられ土佐へ送還される。再度脱藩し、天誅組を組織して討幕の旗を上げるが幕軍に破れ戦死。龍馬・武市・中岡とともに土佐の幕末四天王と言われる。
 吉村寅太郎の碑に並ぶように建っているのが「武市瑞山先生寓居之址」の碑である。「金茶寮」という料亭の入り口である。
四国屋跡 中京区木屋町通三条上ル

 池田屋騒動の時、土方隊は「四国屋」を探索していた。四国屋とは「丹虎」とも呼ばれた旅宿であるが、それがこの「金茶寮」である。武市瑞山はこの奥の鴨川沿いの離れ座敷を住まいとしていた。この部屋は現在も残っている。

 武市瑞山
 本名小盾(こだて)、通称半平太。土佐勤王党の党首。坂本龍馬とは遠縁にあたる郷士である。安政3年(1856)、28歳で上京。文久元年(1861) 桜田門外の変の翌年に江戸の土佐藩邸で土佐勤王党を結成、党首となった。しかし瑞山らが唱える尊皇攘夷論は、公武合体論を奉ずる藩主容堂や吉田東洋と対立し、文久2年(1862)吉田東洋を暗殺。しばらくは尊皇攘夷派が勢力を持ち京都を中心に活躍したが、次第に国勢が開国へ向かい、勤王党員は投獄され、瑞山は慶応元年(1865)切腹を命じられた。満35歳。
高瀬川沿いに、美しいシダレヤナギの並木がある。

私たちの「銀座のヤナギ」。一時は姿を消してしまったのだが、
地元の方々のご努力で復活した。
あの銀座のヤナギの親は(京都頂法寺)六角柳といわれている。
この高瀬川沿いの柳は、銀座の柳を復活させた方々が寄付し
平成8年に植樹された。
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