八木邸 中京区壬生椰ノ宮町24
 前川邸を出て坊城通りを左に折れ、塀沿いに南に下ると「京都鶴屋」という和菓子屋がある。店の前には「新選組屯所遺跡」の石碑。長く続く石畳の奥に長屋門がある。これが八木邸である。
 この八木邸は芹沢鴨ら水戸グループが使用している。文久3年3月16日右門柱に、「松平肥後守御領新選組宿」という新しい表札が掲げられ、ここに新選組が誕生した。文久3年9月18日どしゃ降りの深夜に芹澤鴨、平山五郎ら4人が斬殺された部屋は、右下写真の青い絨毯が引いてある玄関の式台を入った正面の座敷であった。

見学料抹茶と和菓子付き1000円
 新撰組御用達・
  京屋忠兵衛


 看板に刀剣・武具・道具・書籍・諸国物産・飛脚とあります
京都新選組同好会」のメンバーが、壬生に開店した、新選組グッズを販売している店。

左写真の男性がご主人です。
右写真:近藤勇の稽古着の髑髏をプリントしたTシャツ

新徳寺 壬生寺正面
 
 文久3年2月23日に京に入った浪士隊が本陣とした。浪士隊取締役19人、五番隊・六番隊と共に清河八郎が宿泊した。京へ着いた晩に清河は浪士組全員を新徳寺の本堂へ集め、尊攘建白書提出の大演説を行ったという。その本堂は当時のまま残されている。清河が率いる浪士隊は3月13日に江戸へ出立し、京に残った芹沢・近藤など22名は「壬生浪士組」として活動を開始する。

寺内は一般の立ち入りは禁止されている。

壬生寺 中京区壬生梛ノ宮町31番地
市バス 壬生寺道下車 徒歩南へ200m
 
 正暦2年(991)に三井寺の快賢僧都が地蔵尊を安置し壬生の小三井寺と称したのが起こりとされる。地蔵信仰、壬生大仏狂言によって寺運は隆盛したが、昭和37年火災で本堂を焼失。昭和45年に再建され現在に至っている。
 新選組は毎月四と九のつく日を壬生寺境内での兵法訓練の日にしていた。一方沖田総司が境内で子ども達と遊んだり、近藤勇はじめ隊士達が壬生狂言を鑑賞したりしたという。
壬生塚

 山門をくぐってすぐ右に新しいお堂がある。おやなんだろうと入ってみたら、壬生塚の入り口だった。中には阿弥陀様が祀ってある。
 壬生塚に入るには
    100円必要。
 壬生塚で一番目を引くのはなんと言ってもこの近藤勇胸像だろう。絵馬を下げる棚もあり、若い女性の文字が躍っている。そして隣には遺髪塔がある。

 下にある隊士の墓を見ると、ほとんどが芹沢派であり、近藤一派により殺害、あるいは切腹させられている。
 それと、近藤の胸像。激動の時代を感じさせる。

河合耆三郎の墓

 播磨の米問屋に生まれる。文久3年入隊し、勘定方をつとめた。しかし、慶応2年、帳簿の不始末が原因で切腹させられた。
享年29歳。
芹沢鴨と平山五郎の墓

 
芹沢鴨:水戸藩に生まれる。天狗党の出身で、文久3年に幕府浪士組に加わり上洛。新選組を結成し、近藤勇とともに局長を務めた。しかし、隊名を汚す粗暴な行為が目立った為、土方歳三らの手で暗殺された。
享年34歳。
阿比留栄三郎・田中伊織
野口健司・奥沢栄助
安藤早太郎・新田革左江門
葛山武八郎の合同墓碑

奥沢・安藤・新田:
 池田屋事件で死亡。
阿比留:上洛後まもなく病死。
田中:近藤に同意しなかったため殺害される。芹沢派NO2新見錦と同一人物説がある。
野口:芹沢派、芹沢暗殺時不在。後に殺害。切腹説もある。
葛山:永倉らと近藤批判の上書を提出。永倉不在中に切腹。
 三橋 美智也氏の代表歌
 「あゝ新撰組」の歌碑
 平成11年(1999)建立。
100円入れると曲が流れる。

丸 福

 壬生寺の西門を出て、数十メートル西に行ったところにある蕎麦屋。冬休みに入ったばかりで、小学生のお嬢さんがお手伝い。とてもしっかりしていて、可愛くて、お蕎麦の味が一層温かく感じられた。

しっぽく蕎麦
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