真野町竹田
 
 承久の乱に敗れ、佐渡に配流された順徳上皇に供奉し佐渡に渡った北面の武士遠藤佐衛門為盛は、上皇崩御ののち妻の千日尼とともに日蓮に帰依し、日蓮の世話をした。この為盛、のちの「阿仏坊日得」が開いた寺である。したがってこの寺の別名を「阿仏坊」という。もとは別の地にあり、ここは本間氏の雑太城があったが、本間氏滅亡の後この地移された。現在も雑太城空堀跡が残されている。
 山門を入ると右側に、新潟県唯一の五重の塔がそびえる。この塔は1825年に相川町の大工茂三右衛門が棟梁となって建てたものであるが、当時の佐渡の文化水準の高さがうかがわれる。
日野資朝の墓

 日野中納言資朝は、正中の変に連座し、1325年北条高時によって佐渡に流された。7年間幽閉された後、雑太城主本間氏により1332年に斬罪に処せられた。遺体はここで荼毘にふされ、遺骨は高野山に納められたというが、その所在は不明で、佐渡ではこの寺の僧が遺骨をもらいうけここに埋めたと伝えられている。 
本堂と庫裏
本堂内部
庫裏の大黒柱
 庫裏玄関の上り框にある大黒柱は佐渡一といわれ、二尺五寸と尺七寸の赤松である。
阿新丸(くまわかまる)の隠れ松

 境内の西のはずれに隠れ松がある。日野資朝の息子阿新丸は、父を慕って佐渡に渡ったが、父に会わせず父を斬罪に処した本間山城入道を恨み、雑太城に忍び込む。しかし当日山城は城におらず敵を討つことはできなかった。追われた阿新丸は竹を伝って壕を越え、この松の後ろに隠れ難を逃れたという。
日蓮宗