奥の細道二人旅・憧れの松島
白石から名取へ・白石 宮城県白石市
鐙摺鐙摺の遺跡  鐙摺・白石の城を通り過ぎて笠島郡に入ったから、藤中将実方の塚はどのあたりだろうと人に尋ねてみると、「ここから遥か右に見える山の際にある里を箕輪・笠島と言い、道祖神の社や、形見のすすきが今も残っています。」と教えてくれた。このごろの五月雨のために道がたいそうわるく、体も疲れきっていたので、離れたところから眺めて通り過ぎながら、箕輪や笠島の地名も、五月雨の季節にちょうど合った地名であることよと、一句詠んだ。
 笠嶋はいづこさ月のぬかり道

笠島はどの辺りなのだろうか。五月の雨でぬかるんだ道なので尋ねることもできない。
 

 この「白石」から「名取」までの段は、いささか困ったことが起こりました。というのも「おくのほそ道」では、「白石」「名取」「岩沼」の順に記述されているのですが、仙台に向かうのなら「岩沼」「名取」の順に行かねばならないのです。また、曽良の随行記によれば、やはり芭蕉は「岩沼」「名取」の順に歩いています。芭蕉お得意の虚構の部分なのでした。よって私たちも実際の道順を歩くことにしました。
 東北自動車道を走ること4時間。途中SAで御握りを購入し、走りながら朝食兼昼食。11時に白石ICに到着しました。芭蕉は白石城下をさりげなく素通りしたようですが、せっかくここまで来たのですから、お城に登り武家屋敷なども見学しましょう。

白石城
 天正19年(1591年)豊臣秀吉は、伊達氏の支配下にあったこの地方を没収し、会津若松城とともに蒲生氏郷に与えた。蒲生氏家臣蒲生源左衛門郷成は、白石城を築城し城主となった。慶長3年(1598年)上杉領となるや上杉氏家臣、甘糟備後守清長は白石城の再構築を行い居城した。
 慶長5年(1600)関ケ原合戦の直前、伊達政宗は白石城を攻撃し、この地方は再び伊達領となり、伊達氏家臣片倉小十郎によって大改修がなされ、以後明治維新まで260余年間片倉氏の居城となった。
         (白石城パンフレットより)

現在の白石城は、平成7年(1995年)に復元されたものである。
白石城
野面積み石垣 白石城下
野面積みの店主閣石組み 天守閣から見た「白石城下町」

芭蕉句碑  武家屋敷
芭蕉句碑














益岡公園(白石城跡公園)の西側の二の丸跡の公園の遊歩道に添って、建てられた碑

かげろうふの我肩に立かみこかな
武家屋敷


享保15年に建築された片倉家中の中級武士の屋敷。

復元されたばかりの城らしく、大変きれいなものでした。武家屋敷もきちんと整備され、町並みも当時を偲ばせる住宅街となっていました。城跡にある「歴史探訪ミュージアム」もなかなか充実しています。ここで上映される「鬼小十郎帰るに及ばず」は3Dで迫力がありました。
  白石城天守閣・ミュージアム・武家屋敷
    開館時間  9:00〜17:00(4月〜10月)  9;00〜16:00(11月〜3月)
    入館料   共通券 700円
    休館日   12月28日〜12月31日

韮神山・芭蕉句碑
岩沼に向かう途中国道沿いに句碑を発見。
芭蕉がこの奥州街道・韮神山の裾を通ったことから、弘化三年(1846)この地・大河原の俳人「村井江三」が碑を建てたとか。

鶯の笠おとしたる椿かな

また、平安時代には「憚りの関」があったとか。
そこで、藤原実方の
やすらはで おもい立ちにし みちのくに
       ありけるものを 憚の関

の、歌碑も並んでいました。
韮神山石碑群
奥の細道道標 芭蕉句碑

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