黒羽3 玉藻稲荷〜雲厳寺 |
奥の細道二人旅・黒羽3 |
黒羽の館代浄坊寺某(桃雪)の宅を訪ねる。思いがけないもので主人は喜び、毎日毎夜語りつづけて、その弟の桃翠などいうのが、朝夕かかさず訪ね、自分の家にも伴って、親族の屋敷にもまねかれ、日をすごすままに、或日は郊外に逍遙して、犬追物の跡を一見し、那須の篠原を分けて、玉藻の前の古墳を訪う。それから八幡宮に詣でる与一が扇の的を射た時、「別してはわが国の氏神正八幡」と誓ったのも、この神社でありますと聞けば、神仏の感徳が殊にしきりに感じられる。 暮れたから、桃翠宅へ帰る。 修験光明寺というのがある。そこへ招かれて、行者堂を拝する。 夏山に足駄を拝む首途かな 奥の細道には桃翠とあるが実際は翠桃 |
鹿子畑翠桃邸跡と翠桃墓 |
玉藻稲荷 | 芭蕉句碑 | 実朝歌碑 | |
玉藻稲荷 田圃の中の小さなお社ですが、やはり由緒あるものです。社の前に芭蕉の句碑と源実朝の歌碑とありました。 秣負ふ人を枝折の夏野哉 芭蕉 (まぐさおふひとをしおりのなつのかな) |
その他の句碑 | |||
修験光明寺跡句碑 夏山に足駄を拝む首途かな |
明王寺句碑:歌仙による 今日も又朝日を拝む石の上 |
常念寺句碑 野を横に 馬牽きむけよほととぎす |
西教寺:曾良句碑 かさねとは 八重撫子の名成るべし |
雲厳寺 当国[下野]雲厳寺の奥に仏頂和尚山居の跡がある。 竪横の五尺にたらぬ草の庵 結ぶもくやし雨なかりせば と、松の炭で岩に書き付けましたよと、いつぞやお聞かせになった。その跡を見ようと、雲厳寺に杖を曳く(行く)ことにすると、人々は気乗りして誘い合わせ、青年が多く道中うちさわいで、思わぬうちにかの麓に到る。山は深い感じで、谷道ははるかに、松・杉黒く、苔から水がしたたって、卯月の天(陰暦四月・初夏の気候)は今なお寒い。[雲厳寺]十景が尽きる所、橋を渡って山門に入る。 さて、あの跡はどこのあたりかなど、後ろの山によじ登ると、石上の小庵は岩窟に結びつけてある。[そのきびしさ]妙禅師の死関、法雲法師の石室をみるようだ。 啄木も庵は破らず夏木立 きつつきもいほはやぶらずなつこだち と即興一句を柱に残しましたな。 |
雲厳寺橋と山門 |
雲厳寺を訪れました。芭蕉が書いたとおりの橋と山門でした。朱塗りの橋と下を流れる渓谷。そして山門。紅葉の時期ならまた格別な美しさかと思いました。 芭蕉は、江戸深川の臨川寺で仏頂和尚のもとに参禅して以来彼を師と仰いでいます。 「鹿島詣の旅」では鹿島根本寺の住職であった仏頂和尚を訪ねています。 雲厳寺 臨済宗妙心寺派の名刹。禅宗の日本四代道場の一つ。 道場であり観光地ではないので、案内はしないが自由に境内をご覧下さいという主旨の断り書きがしてありました。 右の碑には仏頂和尚の歌と芭蕉の句が並んで刻まれていました。 |
観光やな 那珂川の観光やな漁です。美しい景色、爽快な那珂川の清流、取れたての鮎。美味しくいただきました。 しかし、このページを創っている今(八月末)記録的な大豪雨が黒羽町や那須町、白河市等をを襲っています。テレビでその惨状を見るにつけ、被害がこれ以上広がらないことを祈るのみです。 黒羽の皆さん、那須の皆さん。白河の皆さん。一日も早い復興を祈っています。 |