奧の細道二人旅・江戸深川X

江戸深川芭蕉庵界隈X

芭蕉庵跡 江東区常磐1丁目

芭蕉稲荷 

 小名木川に架かる万年橋の北詰に芭蕉稲荷が祀られています。ここが芭蕉庵のあったところ。昭和20年3月東京大空襲で焼失し、35年に再建されたということです。
 江戸の町の中心小田原町から、隅田川を隔てた不便な深川に移り住んだのは延宝8年(1680)37歳の冬。それは俳諧の宗匠=点者として客に迎合しなければならない生活への決別だったのでしょうか。
芭蕉稲荷

芭蕉座像 芭蕉記念館別館 

 芭蕉稲荷の向かいの芭蕉記念館別館の屋上には隅田川を見下ろす小公園があります。平成7年に建てられた芭蕉座像の周りには、芭蕉の名のもとになった芭蕉の株が植えられています。
 芭蕉はもともと「桃青」と号していました。芭蕉庵も最初は泊船堂と名付けられましたが、天和元年(1681)春に門人「李下」から芭蕉の株をもらい庭に植えたところ、夏秋には見事に葉が茂り近所の人々から「芭蕉の庵」と呼ばれるようになりました。桃青もこれが気に入り「芭蕉」を第2の号として好んで用いるようになりました。

 ご存じでしょうが念のため

 芭蕉の句碑などによく見られる「はせを」の文字は、勿論「ばしょう」と読みます。


古池や句碑  芭蕉庵は、芭蕉の第1の門人であり、また芭蕉の理想を理解する重要なスポンサーでもあった杉山杉風(鯉屋市兵衛)から譲り受けたもの。杉風は幕府の魚御用商をつとめており、この深川には魚の生け簀がありました。その生け簀の番小屋がこの芭蕉庵です。ちなみに、この芭蕉庵は天和2年春の江戸の大火で焼失し他に移されましたので、ここに住んだのは足かけ3年ということになります。

 下の写真の句碑は、有名な 古池や蛙飛びこむ水の音 の碑(芭蕉記念館のもの)ですが、この句はこの第1期芭蕉庵ではなく第2期芭蕉庵で詠まれたもののようです。

古池やの碑

 清洲橋

 芭蕉庵跡の南西、隅田川に架かる清洲橋はドイツ・ケルン市のライン川に架かる吊り橋をモデルに造られており、ケルン橋と呼ばれています。この写真はケルン橋が最も美しく見えると言われる、小名木川に架かる萬年橋の北のたもとから撮ったもの。ケルンの眺め碑も立っています。ブルーのアーチがとても印象的です。                            
清洲橋

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