2001.10.20
 過ぎたるは…… と申しますが。
 
 実に清潔好きな男がおります。いや、「潔癖症」と言った方が宜しいかも知れません。この「症」が付きますと、なにやら病気に近い状態を想像させますが、どちらかと言いいますと、この男の場合は完全に病気ですな。
 「三つ子の魂、百まで」 この言葉も色々な意味を持つようで、使い方によっては、良くも悪くもなります。小さい時に身に付けたことは、大人になっても残っているから、早いうちに芸事などは遣り始めた方が良い、とか、子供の頃に身に付いてしまった悪癖などは、一生消えない、とか…… いずれにしましても、身に付いてしまうことを意味しているようであります。
 本人にとりましては、まだ物事の判断がつかない時分の経験などが残ってしまう訳ですので、なんとも遣り切れないものがございます。

 「だめよ、そんなもの手にしては。バッチイでしょ。あ、それも駄目よ、ほら、泥がついて ますよ」
 「ダメダメ、良く見てごらんなさい。キタナイでしょ。そう言うものは、バッチイからダメ」
 この男が小さい頃の話であります。バッチイ、ダメの連続。教育係は、祖母。つまりバーチャマであります。おばあちゃん子として育ちます。
 バーチャマは、良く散歩に連れていきます。この男も、バーチャマが大好きですから散歩が楽しくてしょうがありません。
 「バーチャマ、お散歩。お散歩」
 本人もバーチャマに散歩をねだります。
 「ヨシ、ヨシ。行こうかね」
 綺麗な花が咲いています。
 「あっ、綺麗だ」
 手にとろうとします。
 「ダメ、ダメ。良く見てごらん。虫がたかってるよ。バッチイでしょ。それに、こっちの花は枯れてきてるでしょ。バッチでしょ。」
 犬が歩いています。撫ぜようとします。
 「ダメダメ! 何処で寝転がっていたか判らないでしょう。バッチイよ!」

 ある日の事、外で遊んでいまと、バーチャマが来ます。
 「さあ、散歩に行きましょうか」
 バーチャマの顔を見ましたが、ビックリします。
 「バーチャマの顔、枯れてる…… バッチイ!」
 この時以来、バーチャマと散歩に行かなくなります。

 この様にして大人になっていきます。
 清潔を徹底的に追求した生活です。まず、外から帰りますと玄関で靴をぬぎ、玄関の隣の部屋に入ります。上着から下着までスッカリ脱いでしまいます。素っ裸になり、隣の殺菌室に入ります。殺菌剤入りのシャワーを浴び、消毒石鹸で体中を洗います。清潔なタオルで体を拭き、消毒剤入り洗剤で洗った下着を着ます。着替えた後、居間に入りますが、部屋は締め切っています。ベランダに空気清浄機を置き、清潔な空気を部屋に取り込んでいます。部屋には、塵ひとつ落ちていません。
 会社勤めですので外出しますが、彼にとって、外はまるでゴミタメです。でも、食べるためには仕方ありません。彼の、食事ですが…… イヤ止めましょう。噺をする私もウンザリしてしまいます。

 結婚も経験しましたが、わずか2ヵ月でした。それは、そうでしょう。同じ生活を強いたのですから。料理を作る時には、マスク、ヘヤーカバー、ゴムの手袋。それに、全身を包む白衣を着せられるのですから。別れましたが、彼は、何かホッとしたのを覚えています。
 「俺は、一人の方が良い。この清潔感を保つには、一人の方が徹底できる」

 五十歳に手がとどこうかと言うある日。居間で静かに一時を楽しんでいます。
 「潔癖か、いい言葉だ。自分にピッタリだ。俺も、そろそろ50だ。これからの人生をさらに充実するためにも、正確な意味を掴んでおこう」
 止せば良いのに辞書を引っぱりだします。
 「どれどれ、わずかな不潔でも許さない性質。正にその通りだ。これで良いのだ」
 ふと、もう一つの意味があるのに気が付きます。
 「えっ、不正なことを激しく嫌う性質? ちょっと待てよ、そんな意味もあったのか」
 急に、考え込んでしまいます。
 「よしっ、自分の中にある、不正なことについても徹底的に排除しよう」

 「不正なこととは、どう言うことか?」
 彼は、座禅を組み、沈思黙考します。
 「判った。別に法律が、どうのこうのではない。他人に対し自分が取った行動の中にも不正はある。自分にとっては良い事でも、相手の立場に立った場合、その行動が迷惑、不愉快を感じさせる事も不正と言える。バーチャマにも、かつての妻に対してとった行動も不正と言える。これは結構、沢山あるぞ」
 何かイキイキとしてきます。真の潔癖さを求めるのですから、不正と言える記憶も排除しなければなりません。しかし、頭に入っていることを排除とは言っても、そう簡単に出来る事ではありません。
 忘れたい思い出などを、忘れようとしても忘れる事はできません。余計、鮮明に思い出されてくるものです。

 彼は、記憶削除装置を開発します。

 エーッ、ここまでは、まともな噺でありましたが、これからは、荒唐無稽、支離滅裂な噺になっていきます。SFだ、などといいますと、SF作家に叱られてしまいますので、私は、何かSFのようなもの、としております。いや、余計なことでした。

 早速、装置に接続されたヘッドギアを被ります。スウィッチ ON。画面には、記憶項目と、その概要が映し出されます。
 一つ一つをチェックしていきます。不正と思われる項目を削除していきます。削除する時には頭がチクッと痛みますが気になりません。なにしろ、潔癖を求めるのですから。
 もう止まりません。寝食を忘れ没頭します。
 ほぼ50年の間に蓄積された記憶は膨大なものです。3ヶ月が経ちましたが、まだ半分しか削除できていません。さらに続けます。もう骨と皮だけの姿になっています。痩せ細った体に、ギラギラ輝く目。まるで、幽鬼の様相です。
 「さあ、もう少しだ。ほとんどの記憶が不正チェックに引っかかるな。しかし、だんだん潔癖に近づいているんだ」

 いよいよ最後の項目です。
 「後1回のクリックで、俺は、名実ともに潔癖だ。こんな幸せなことはない」

 彼は、満足げに微笑み、ゆっくりとクリックします。これが人間としてとった彼の最後の行動でした。
 後に残ったのは、まるで生乾きのミイラような彼の姿でした。まだ心臓は動いていますが、何もしません。表情も全くありません。ただ、ジッと座っているだけです。
 そして、動いていた心臓も静かに止まります。

 エー、過ぎたるは、及ばざるが如し。何事も、ほどほどに、中庸が宜しいようですな。