譚 綴










      「 嘉門、満腹す 」        九谷 六口








   
                
                       二00六年三月 十六日 

                  






     (一)

「旦那が、すぐ来て欲しいと言ってやすが」
 鬼瓦のような顔をした岡っ引きの徳造が、北町奉行所同心有村
平九郎の言伝を持って来た。
「またか。今度は何だ」
「へぇ、殺しで。女が大川に上がりまして」
「女か……」
 嘉門が顔をしかめた。女がらみの事件は苦手である。それに
腹が減っている。
「嘉門様、如何で?」
「うーん。判った。すぐ行く」
 別に身支度を整える必要などない。刀を腰に差せば出掛けられ
る。徳造は早足で歩き出したが嘉門は力が入らない。自然、ゆっ
くりとした足取りになる。
「嘉門様、急いでくれませんか。旦那が……」
「徳造、旦那旦那と煩いがな、拙者にとって平九郎は上司でも何
でもないのだぞ。拙者は単なる助っ人だ。実入りもない」
「へぇ。しかし、旦那がたまにだが酒を奢っていると自慢げに言
ってやしたが」
「如何にも。だが酒だけだ。その日のうちに腹が減る」
 嘉門の腹が、グ、グーッと鳴った。
「まさか、何も……」
「喰ってない。ところで手下の小吉は何をしている」
「へぇ、大川を上流に向かって聞き込みをやらせています」
 
 紫崎嘉門忠信しばざきかもんただのぶ。上背は五尺八寸で細身の体。剣道で鍛えた体には無駄な肉など付いていない。井戸端で体を拭く姿などは、近所の女房たちの垂涎すいぜんの的である。細面の顔は、ちょっと見、歌舞伎役者を思わせる。月代さかやきは伸ばしているが一応丁寧に刈り込んである。

(1)





 小粋な着流し姿で華のお江戸を飄々と歩けば、そこ此処の女達から声が掛かろうと言うもの……だが、そうはいかない。着物も袴も一張羅。何箇所かに綻びも見え出している。歳は二十八と働き盛りなのだが、住まいはと言えば古びた裏長屋。高々月五百文の店賃にも岌々とする貧乏浪人である。

 二年ほど前であった。風体の良くない連中が老人を小突き回していた。嘉門が割って入ると男たちがドスを振り回した。だが、腕が違う。嘉門は瞬く間に連中を峰打ちにした。老人は、自分が大家をする長屋に嘉門を誘った。老人の名は利平。気の良い大家なのだが、常日頃の吝嗇振りを知る者たちは、利平の長屋を因業長屋と呼んでいる。聞けば嘉門は店賃が払えず長屋を追い出されたばかりだと言う。 
 利平は、よほど嬉しかったとみえ、思いも寄らぬ事を口走った。
「お武家様、お陰で助かりました。どうぞ遠慮なさらずに……。
いえいえ、当分の間、家賃は只で宜しいですよ」
 嘉門を長屋に住まわせた。それには思惑があった。
―― なーに、二、三ヶ月も経てば何か職を探し、店賃を払うようになるだろう。
 だが、この思惑は全く外れてしまった。いつまで経っても嘉門は収入の道を見つけられないでいた。そうでなくとも金には煩い利平。困ったものだと渋い顔。嘉門に対する風当たりも、近頃はかなりきつくなっている。だが、因業爺とは言え、そこは大家である。物の道理はわきまえている。
―― 困ったご仁だが、恩人である事には変わりはない。それにあの腕。住んでいてくれれば、この長屋は安全。ま、用心棒とでも思えば……
 嘉門の剣の腕は凄いもの。追い出す訳にはいかない。

 嘉門は、時たま考えることがある。何故に己は平九郎を手伝うの

(2)





であろうか。金にもならず、下手をすれば命にも関わる助っ人。これが最後、これが最後と思いつつも声が掛かると、いそいそと出掛けて行ってしまう。確かに自分は閑である。既に幾つか平九郎の手伝いをした。実入りはないものの気が紛れることも事実である。良いではないか。酒だけでも呑めれば。これで良しとしようと思いつつも、やはり首を傾げてしまう。
―― 手間賃でも催促してみようか。
 そう考えるたびに、腰の刀が重く感じられる。
―― 侍とは辛いものよ。

 嘉門が平九郎と懇意になったのは、利平の事件が切っ掛けであった。あの時、周りで見ていた者が番所に走り、たまたま居合わせた平九郎と徳造が駆けつけたのだった。平九郎は、だらしなく地べたに転がっている男たちを見た。見事な峰打ち。この男、中々の腕前。事件のあらましを奉行所にて認めねばならない。平九郎は、名前及び仕官する藩を訊いた。
「紫崎嘉門忠信、故あって浪人でござる」
 何の屈託もなく、にこやかに答える嘉門を見て、平九郎は考え込
んでしまった。
―― 拙者は、たまたま同心として跡目を継ぐことができた。とは言え、三十俵二人扶持の下級武士。経済的には実に苦しい。しかし、これ程の腕を持つ者が浪人……。つまりは実入りがないことになる。どのようにして喰っているのであろうか。話をすれば世間づれしていない無垢な男。歳上だが何やら親しみを感じる。喰わせることは出来ないが、拙者は常町廻り同心、広いお江戸を見て廻る。一緒に何かをやっていれば職が見つかるかも知れんし、運が開けるかも知れぬ。
 
 番所への道すがら、徳造が嘉門に訊いた。
「嘉門様、失礼だとは思いやすが…… 何日くらい食事をとって

(3)





ないんで」
「まだ、三日だ」
「えっ、まだ……三日間……。何もでございやすか」
「なんと言う顔をしておる。三日ぐらいで驚いていては岡っ引きは務まらんぞ。ところで徳造、番所に何か喰い物はあるか」
「へ、へぇ、着いたら探してみやす」
 なんとも情けない話だが、嘉門にとっては日常茶飯事である。

 嘉門は、実に困窮した生活を送っている。
 店子連中の代書や子守りなどで何がしかの銭を得ることはある。
たまにだが、大きな商いを抱えた店から用心棒を頼まれる事もある。確かに、これらにより手間賃は入る。だが、僅かな金は一回の食事で消えてしまう。
 長屋に住みだした頃は、利平が笑顔で握り飯などを持ってきてくれたが、今、そのような事は全くない。見かねた長屋の女房たちがお裾分けを持ってくるが、連中にしても余裕がある訳ではない。いくら腹が減ったとしても催促など出来はしない。嘉門がとる手立ては、ただひたすら空腹を我慢することであった。

「徳造、おぬしは仏を調べたのか」
「へぇ、旦那と一緒に」
「話してくれぬか」
 徳造の話は、こうであった。

 昨夜、大川に女が上がった。月番は北町奉行所。真夜中だったが下っ引きの小吉に見張りを頼み、自分は平九郎の所に伝えに行った。平九郎と徳造は大川の現場に向かった。陽が上がるのを待ち、調べを始めたが、現場にはかなりの人だかりがしていた。町人や侍、それに浪人風の男達。女を調べたが、まだ若い。裸のため刺し傷以外の手掛かりはない。

(4)





 ここまで話を聞いた嘉門、急に立ち止まった。振向いた徳造、
「嘉門様、どうしたんで」
「徳造、今、何と申した」
「へぇ、手掛かりはないと……」
「その前に言った言葉だ」
「裸……」
「女は裸で上がったのか」
「へぇ、素っ裸で……」
 嘉門、うーんと唸り、後ろを向いて歩き出してしまった。徳造、嘉門の腕を掴み、
「嘉門様、今更…… 堪忍してくださいよ」
 と体の向きを元に戻した。
「兎に角、話だけは聞いてくださいな。あっしが旦那に叱られやす」
 渋い顔のまま嘉門が頷いた。
 
 刀を突き通した痕。女の体とは言え腕の良い者の仕業と思える。
髪は島田崩しだが、女郎以外は皆同じに結う。これも手掛かりにはならない。腹を押したが水は吐き出さない。つまり溺死ではない。付近には争ったような跡もない。殺した後で川に投げ込んだらしい。どうやら上から流れ着いたようだ。番所にて、これから傷跡などを調べるが、立ち会って欲しい。

「事情は判った。ところで徳造、拙者はただの浪人じゃ。死体検分には立ち会わん方が良いのではないか」
「嘉門様は、女が絡むといつも逃げ腰だと旦那が言ってやしたが」

 嘉門は、愛想をつかされて女房に逃げられている。兎に角、女は苦手である。

(5)





 紫崎家は、淡島藩の剣術指南役であった。流儀は、時雨八双一刀流。嘉門は三代目を継いだのだが、この時、既に美和と結婚しており、息子も一人いた。嘉門の不運だが、跡目を相続した時から始まった。
 先代の淡島藩主、吉直は優れた藩政を敷き、人望も厚い人物だった。ところが病であっけなく死んでしまった。後を継いだ吉和は権力欲だけの男。藩主との名にすがり、我が儘のし放題。己が置かれている立場など全く考えない愚鈍な男であった。家老たちは、再三にわたり藩主とは何たるものなのか、幕府に対する藩主の立場とはどの様なものなのかを説いた。だが、周りの心配をよそに、吉和は全く聞く耳を持たなかった。
 城内では参勤交代の準備をしていた。  
 江戸への出立の日、何と吉和が姿を消してしまった。何処を捜しても見つからない。淡島藩は外様大名である。この卯月に江戸に着かなければならない。藩主にとり参勤は絶対的なものであり、一年の間、幕府の仕事が義務付けられる。参勤が許されるのは、飢饉があったり藩主が病に倒れた時だけである。財政が困窮した場合には延期願いを出すこともできるが、今まさに出立の日、延期願いなど出せる状況ではない。江戸までは四日ほどの距離。一日、二日の遅れであれば、何らかの理由をこじつけて体裁を繕うことも出来るが、家老連中は気を揉むばかり。いずれにしても、このままでは拙い。とは言え如何ともし難く、なす術を見付けられない。
「何がしかの理由を考え、江戸家老に知らせねばならんな」
「理由は、如何致そう?」
「江戸家老にも事実は言えん。兎にも角にも何処に行ってしまったのか、何をしているのかも判らん」
「うーん、敵を欺くには、まず見方からと申すではないか。とりあえず、病だ、病!」

(6)





「そう致そう、そう致そう」
 急ぎ、江戸家老宛に急病にて出府が遅れるとしたため、早飛脚仕立便を立てることにした。折り返し、江戸家老より書状が届いた。
―― 何の病なのか、回復にはどれ位掛るのか、詳細を知らせろ。
 追伸と認められた書状もあった。
―― 病にて出府が遅れると老中に言うのは容易い。だが、容態を訊かれた場合、判らんなどと答えてみろ、顰蹙を買うに決まっているではない。こちらの身にもなってみろ、子供の使いでもあるまいに。仮に命に関わる病であるならば、急ぎ跡継ぎを立て、幕府に知らせなければ淡島藩は終わってしまう。
 江戸家老の言い分は尤もなのだが、所詮、病とは出任せ。詳細と言われても取り繕う手立てがない。不気味な事に、老中や大目付からは何らの打診もない。家老たちは憔悴しきっていたが、半月が過ぎた頃、緩んだ顔の吉和が城に戻ってきた。聞けば、白拍子の一行と懇意になり、幾つかの藩を遊び歩いていたと言う。家老たちは総てを諦めた。参勤を怠るなど前代未聞のこと。
 案の定、何らの問い合わせや取り調べもないままに、幕府から厳しい沙汰が下った。吉和は切腹。淡島藩、お家取り潰し。

 嘉門を見初めたのは美和であった。美和は米問屋の娘。通りを颯爽と歩く嘉門に憧れ、毎日のように道場に顔を出しては、嘉門に笑顔を送った。飯時になれば弁当などを嘉門に渡した。
「私が作りましたの……フフ」
 このようなことが度重なれば、男と女とは懇意になるもの。自然、道場の脇にある庭で二人だけの昼餉を取るようになる。門弟たちは血気盛んな若者、二人を囃し立てるのも当然のこと。美和は、臆面もなく満面に笑みをたたえて彼らに愛想を振り撒いた。

(7)





 だが、侍と商人の娘である。一緒になるには面倒な手続きが必要であった。美和の実家は大店である。父親は金に物を言わせ、知り合いの下級武士に美和を養女にしてくれと頼んだ。
 夫婦になり幾月かは幸せな毎日が続いたが、美和は嘉門と生活を共にして、ある事に気が付いた。
―― 嘉門様は、剣道以外には何も出来ないお方。
 事実、嘉門は剣道以外に生活の術を持っていなかった。家のことは総て美和が仕切った。
 お家取り潰しを聞いた美和、あっさりと嘉門を見限り、三行半を求めた。嘉門は断ることが出来なかった。三行半を受け取った美和は、子供を抱えていそいそと実家に戻ってしまった。
 嘉門は、美和の態度を理解できなかった。言い寄ったのは美和の方ではないか。それに子供も出来たではないか。職を失ったからといって、何も別れることはないだろうに。実家は大店、しかも米屋だ。職を失ったとしても何とか頼み込めば喰っていくことぐらいは何とか……。ところが余りにも無表情に三行半を求めた美和。嘉門は、己の考えが甘いものであり浅薄であったと思い知った。そして別れ際に浴びせられた言葉が、今も耳に残り、深く嘉門を傷つけている。
「貴方は見栄えが良かった。それに藩で随一の剣術遣い。私は、そこに惚れました。でも、お出来になるのは、ヤットーだけ。お話しなさることも剣道だけ。少ないお手当てでの苦しい遣り繰り。内職でもなされば良いのに、裁量もない。何かといえば実家に無心しろとの甲斐性のない姿勢。このような事態が起きなかったとしても、お別れする積りでおりました。では、お達者で……」

「徳造、拙者、女は苦手じゃ」
 何を今更との顔で徳造が言った。
「へぇ、存じておりやす。しかし、旦那が言ってやしたが、呑み

(8)





に行くと嘉門様の傍には、すぐに女が来るとのことですが……」
「……迷惑なだけだ」
「ところが嘉門様は女と一言も口を利かない。勿体ないと、旦那が……」
「あ奴は、女が好きよ。拙者とは違う」
 確かに平九郎も見栄えの良い男ではあるが、見境なく女に声を掛ける癖がある。だからであろうか、真剣に言い寄っても本気と取らえる女はいない。従って二十四歳でありながら今もって独身だ。
 そうこうして話しているうちに番所に着いた。

「嘉門様をお連れいたしやした」
「おう、ご苦労。嘉門、見てくれ。綺麗な女だ。可哀想に」
 筵の上には裸の女が仰向けに寝かされていた。嘉門は目を逸らせた。
「着物は?」
「見つからん。手掛かりもない。これでは北町奉行所同心、有村平九郎清澄とて、どうしようもない」
 嘉門は、見栄を切る平九郎を無視して胸の刺し痕を見た。身幅ほどの痕である。
「平九郎、仏さんをうつ伏せにしてもらえぬか」
「おう、おぬしも手伝え」
「何を言うか。拙者は役人ではないわ」 
 嘉門は女に触れたくなかった。平九郎と徳造が女をうつ伏せにした。背中の痕は身幅の倍以上である。
「この女、背中から刺されているな」  
 刀で刺した場合、切っ先の動きは小さい。従って痕も小さくなる。だが、はばきに近い方の動きは大きいため傷も大きくなる。刺し通した刀を抜く場合も同じだ。平九郎が呟いた。
「 後ろから刺したのか。女を後ろから……」

(9)





 三人とも腕組みをして唸ってばかりいた。手掛かりがない。その時、小吉が濡れた着物を抱え、真っ赤な顔で飛び込んできた。
「見つけましたぜ!」
 見れば矢絣の着物。
「いやー、親分に言われたとおり、まず上流に向かって聞き込みましたんで。だが誰も何も見ていない、そんな事があったのかと逆に聞かれる始末。参りやした。ところが着物を持った老人に逢いまして……。声を掛けたら今から番所にいくところだって言うじゃありませんか」
「おう、それがこの着物か」
「へぇ、そいつが言うには、昨夜、大川で鰻を釣っていたんだそうで。重い手応え。引き上げたら何と着物。しかも矢絣。こりゃ変だと思ったそうで」
 着物を捨てる者などいない。古くなれば古着屋へ、ボロになれば端切れとして使う。
「小吉、良くやった。着物を見せてくれ」
 平九郎が胸と背中の部分を調べている。着物を広げ、死体の横に置いた。
「合うな。ぴったりだ」
 矢絣の着物には二箇所、穴が開いていた。この女のものだ。平
九郎は、袂の中や着物を隅々まで調べている。嘉門は思った。
―― わざわざ裸にしたのは矢絣を隠すため。矢絣と言うことは、腰元か。
「平九郎、何か判ったか」
「何もない。袂にも何も入っておらん。際立った汚れでもと思い調べたが、これまた何もない」
「矢絣。腰元だな。だとすれば大名か旗本の屋敷に奉公していたことになる」
「如何にも」
「腰元が矢絣で外に出ることないはずだが……」

(10)





「如何にも。腰元が外に出るのは薮入りの時だけ。その時は矢絣ではない」   
 薮入りはとうに過ぎている。外に呼び出されたのか。または屋敷内で……。侍が絡む事件かも知れぬ。大名が絡んでいれば老中と大目付。旗本、御家人であれば若年寄と目付が管轄する。何処ぞの家臣であれば、その藩が管轄する。実にややこしい。
「これは、おぬしらの管轄ではないな」 
「うーん、この刺し傷はドスではない、刀だ。だからと言って侍が下手人と決め付ける訳にもいかぬ。浪人ややくざであれば町方の仕事。何処が担当するのか……。嘉門、目を逸らさずに仏さんを良く見ろ」

 嘉門は剣道一筋であった。女遊びもしない。女といえば、別れた妻 、美和だけである。哀しい事に女の裸を見ただけで美和を思い出してしまう。それだけではない、別れ際の言葉がありありと耳に甦ってしまう。目の前に横たわるのは息をしていないとは言え女である。
「平九郎、この女は逃げたのであろう。だが、後ろから刺された。 と言うことは屋敷内で殺されたのではないな。屋敷内を逃げ廻れば誰かが気付く。仮に屋敷内だったとしよう。武家はお家大事だ。外に漏れないように屋敷内に埋めるはず。大名や旗本であれば屋敷も広いからな。それに、わざわざ大川まで運んだりせんだろう。運ぶ途中で誰かに見つかるやも知れぬ」
「つまり外で殺された」
「如何にも。腰元が矢絣で出歩くことはない。と言うことは辻斬りではない。それに……辻斬りであればわざわざ裸になどせん。女は外に連れ出された。いや呼び出されたのかも知れん。そして相手が刀を抜いた。そやつは逃げる女を後ろから刺し、裸にして大川に投げ込んだ」
「で、犯人は誰になる」

(11)





「ば、馬鹿者! それを調べるのはおぬし達であろうが。いずれにしても顔見知りの犯行。まずこの女の身元調べだな。ところで徳造、拙者、腹が減って堪らんのだが……」
 嘉門は、ぼやきながら仰向けに戻された女を見てギョッとした。
「平九郎、女の腹を見ろ」
「おう、綺麗な肌だ。可哀想に……」
 平九郎は気が多いが、女には優しい心を持っている。
「医者を呼んだ方が良いな」
「医者……。ど、どう言うことだ、嘉門!」
「ひょっとすると孕んでいるのかも知れぬ」
 平九郎と徳造は独り者。女の腹は微かに膨らんでいるが二人には判らない。
「旦那、誰を呼んできやす」
「玄斎を呼んできてくれ」
「玄斎ですか。あいつは藪ですぜ」
 医者になるのに免許などいらない。医者と書いた看板を掲げれば誰でも医者である。
「徳造、お前は何を考えているのだ。病人を診てもらうのではない。病人であれば玄斎など呼ばん」

 玄斎は腑開けをしたことがある。病人を治すことは滅多にない。
いや、患者が来ないのである。平九郎は幾度か玄斎を使ったことがあるが、死体検分の経験も多く、また、その見立ては鋭い。
 徳造は、小吉に連れて来いと言った。小吉は行ってきやすと言い残して番所を出て行った。
 嘉門は女から目を逸らしているが、平九郎は女の顔を見ている。
「綺麗だ……可哀想に。まだ若い身空で……」
 しきりに可哀想にとつぶやいている。嘉門は、確かに綺麗な顔立ちの女だとは思うが凝視できないでいる。

(12)





―― 拙者は、このまま女から目を逸らす人生を送るのか……
 などと憂鬱な気持ちになっていたが、
―― しかし、腹が減って堪らん。
「ところで、平九郎、何か喰うものはないのか」
「おぬしの神経はどうなっておるのだ。このような場でよくも喰いものの話など出来るな」
「……」

 玄斎が来た。嘉門が会うのは初めてである。泥鰌髭に酒焼けであろうか赤ら顔。薄くなった白髪混じりの髪を頭の後ろで束ねている。目は赤く濁り、気色の悪い小太りな男である。傍に来たが、昼間だというのにプーンと酒の匂い。どうも良い印象は持てない。
とろんとした目をしていたが、むくろを見た途端、目付きが変わった。
「おうおうまだ若いのになー。ナンマイダ、ナンマイダ」
 手を合わせて死体の横に座った。
「おぬしら、出てくれぬか。見ていて気持ちの良いものではない」
 皆は外に出た。
 戸を閉じて大して経っていないと言うのに中から声があった。
「入って良いぞ!」
 見ると、既に女には筵が掛けられていた。
「詳しく調べることもない。三ヶ月じゃな。ま、これも人生かのう。平九、身元は?」
「一切判らん」
「年の頃は十七、八。力仕事などをした娘ではない。膝、踝、足の甲には薄く胼胝ができている。躾の良い家に育っているな。体に痣や傷はない。つまり抵抗はしていない。後ろから一突き。鋭い突きじゃな。平九、腰元らしいと聞いたが……人相書きでも描いて大店を廻るんじゃな。腰元であれば、まず大店の娘だ」

(13)





 平九郎は懐から財布を出し、渋い顔で玄斎に手間賃を渡した。
―― 三ヶ月……
 嘉門は考えた。
―― 今は水無月。正月の薮入りで孕んだのではない。とすれば屋敷内でと言うことになるが……  
 娘の身元が割れれば芋蔓的に事件を解決できると思った。
 嘉門の腹が、グーグー鳴っている。平九郎もうるさくて堪らない。徳造に人相書きを描くように言い付け、嘉門を外に誘った。流石に町役人ちょうやくにんの食べ残しを差し出す訳にもいかない。嘉門を一膳飯屋に連れて行くことにした。

 小体なたたずまいの飯屋。二人は暖簾を分けて中に入った。
 客はいない。座敷に上がり、腰を落ち着けた。
「この店、良く使うのか?」
「おう、安くて旨い。独り者には重宝されている店だ」
「行灯に…… 紗代とあったが……」
「女将の名前だ。一人で切り盛りしている。実に良い女だ。だがしかし、残念なことに拙者より歳上だ」
 平九郎は常に女を意識している。
 奥から紗代が顔を出した。
 嘉門は、チラッと紗代を見た。瓜実顔で目鼻立ちのはっきりとした顔。唇は、ぽっちゃりと肉厚の感じ……。紗代と目が合いそうになった嘉門、さっと顔をそむけた。
「あら平九様、お早いですね。ところで、こちら様は……」
「おう、拙者の友だ。柴崎嘉門。何でも良い、腹が膨れる物をだしてくれ」
 と言うなり、さっと立ち上がり紗代の袖を引いて座敷の隅に行った。何やら手を合わせて頼み込んでいるようだ。紗代の笑い声が

(14)





聞こえた。
「平九様、いつでも宜しいですよ」
 平九郎が紗代に頭を下げている。

「おぬしツケなのか。済まんな」
「苦しいのじゃ。実にな」
「いや申し訳ない。ねだったようで気が滅入る」
「では出るか」
「そ、それはないだろう」
「冗談じゃ」
 
 朱房の十手を片手に半羽織を風になびかせ、粋な風体で華のお江戸を颯爽と歩く定町廻り同心。だが、懐は実に苦しい。手下への手当てなどは自分の懐から出さねばならない。七十坪の敷地に壊れかかった屋敷。修理する金もない。普通であれば爺などの家人を置くが、平九郎は一人住まいである。庭には草がボウボウと生え、知らぬ者が見たらお化け屋敷と勘違いする。
 しかし実入りは少なくとも、平九郎はそこそこ遊んでいる。世の中とは上手く出来ているものである。平九郎は仕事柄、大店にも顔を出さなければならない。
「亭主、変わりはないか」
「へぇ、お陰様で。お勤めご苦労様で……」
 店を出て袖に手を遣れば、お握りが入っている。高は知れているが、ありがたい銭である。これで何とか遣り繰りが出来る。

「お待ちどうさまでした」
  紗代が箱膳を二つ持ち、二人の前に置いた。
「まだお客さまも来ませんし……、ご一緒して宜しいですか」
 と紗代が二人の傍に座った。

(15)





 嘉門は、紗代の顔を見ることができないでいる。相変わらずだ。三日振りの飯。見れば、鰯の丸干し、大根の漬物、大根の葉の味噌汁……。箸をつけたが旨い! 嘉門は、瞬く間に丼飯を喰い終わってしまった。それを見た紗代が、お櫃から飯を盛った。都合三杯。平九郎は呆れ顔で見ている。
 嘉門を見る紗代の目に薄っすらと涙が溜まった。
―― フフ、あの時の私みたい……
 紗代の頭に昔の自分が甦ってきた。

 紗代が、この店を一人で切り盛りするようになったのは四年前の二十二歳の時。
 紗代は、下級武士の家に一人娘として生まれた。無役であった父親は、ひがみ根性が強く、身の不運を嘆きながら酒に溺れた。
 それでなくとも少ない扶持である。飲まず喰わずの生活。妻との間に諍いが絶えないのも当然。甲斐性なし、刀など売ってしまえと罵倒する母親、武士の魂に何と言うことをと母親に殴る蹴るの乱暴を働く父親。
 紗代は、子供心にも侍の惨めさや男と女の醜さを知った。
 ある日、父親が人相の悪い男を連れてきた。男は紗代を見て父親に金を渡した。紗代が七歳の時である。男に手を引かれて歩いたが、紗代は別に恐いとも思わなかった。それに親と離れ離れになると思ったが、別に寂しくもなかった。連れて行かれたのは岡場所であった。朝早くから夜遅くまで庭の掃除や拭き掃除、洗濯や洗い物をさせられたが、辛いとも苦しいとも思わなかった。いや、むしろ幸せだと思った。お腹を空かせ、ビクビクしながら両親のいがみ合いを見ていた毎日……。今は、黙って言うことを聞き、体を動かせば食事が貰える。
 三年ほど経ったある日、店中が何やら騒がしい。見れば鉢巻、襷掛けの侍たちがドタドタと部屋に入り込んできた。女たちはキャア

(16)





キャア言いながら、縄を掛けられている。威張り散らしていた旦那もペコペコと頭を下げ、挙句の果てには縄を掛けられた。後で知ったのだが、警同けいどうであった。紗代を構う者はいなかった。
 紗代は、江戸の街をフラフラと歩き廻った。不思議な気持ちであった。通り過ぎる人たちは、誰も見向きもしないし何も言わない。紗代は、今、自分は一人きりである事を知った。寂しさなど微塵も感じない。むしろ清々しさを感じていた。
 大勢の人が歩いている。着飾った同い年くらいの娘、腰を振りながら項のほつれ毛に手をやって歩くお姐さん。店にいた姐さんたちとは大違いで爽やかさが漂う。白粉もつけていないのに何で綺麗なんだろう。紗代は、少し離れて後を歩いた。姐さんは、すれ違う何人かと挨拶をした。ちょっと立ち止まり、腿に手を添えて体を軽く横に倒す。紗代も真似をした。
 ―― あのような姐さんになりたい……
 日が暮れてきた。それに何も食べていない。
 紗代は神社の境内にいた。お腹は空いているが、空腹で寝るのには慣れている。社殿の軒下で寝ることにした。
 誰かが肩を叩く。紗代は、ハッとして目を覚ました。朝日が目に入り眩しい。慣れてくると二つの顔が見えてきた。紗代は、ゆっくりと体を起した。そこには心配そうな顔で紗代を見る老夫婦の顔があった。
「家は何処なんだい?」
 紗代は、首を横に振った。
「お父さん、お母さんは?」 
 紗代は、首を横に振った。
「居ないのかい?」
 紗代は、少し考えたが首を縦に振った。二人は顔を見合わせて、まー、と言う顔をした。
「此処で寝てたのかい?」
 紗代は、首を縦に振った。

(17)





「名前は?」
「紗代です」
 紗代のお腹が、ググーッ! と鳴った。二人が笑った。
「連れて行きましょう。これも鎮守様のお引き合わせ……」
「さ、おいで」
 紗代は、手を引かれて二人の家に連れて行かれた。
 二人は一膳飯屋をやっていた。
 鰯の丸干し、大根の漬物、大根の葉の味噌汁……。こんなに旨いご飯を食べたことはない。紗代は、貪るようにして食べた。二人は、嬉しそうに見ている。紗代は、お替りをした。
 二人は、身内の娘として紗代を人別に載せた。紗代の新しい生活が始まった。紗代は笑顔で店を手伝った。
 六年ほど経ったであろうか、二人が紗代に言った。
「紗代、そろそろ嫁ぎ先を……」
「お父さん、お母さん、紗代は何日までも此処にいたいです。嫁ぐ気などありません」
「では…… 婿でも……」
「いえ、このままお二人と一緒にお店を……」
 紗代は夫婦になる気など全くなかった。このような話を聞くだけで、昔の事が蘇る。紗代は、頭を振って辛かった昔を追い出した。
 世の中とは面白いもの、こんな話をした後、幾つもの縁談が飛び込んできた。だが、紗代は首を縦に振らない。二人は、紗代の好きにさせた。二人は何でも紗代に教えた。覚えの良い紗代は、いつしか店を切り盛りするようになっていた。
 店は繁盛した。
 つい四年前、爺さんが大往生した。ひと月も経たないうちに、今度は、婆さんが後を追った。

「お味の方は、如何でしたか?」

(18)





「う、旨かった!」
 嘉門は、一瞬、紗代と目を合わせたが、すぐに逸らせた。不思議なことに別れた妻の顔は出てこない。紗代は、じーっと見ているようで、どうも気になって仕方がない。嘉門は、そっと紗代を見た。何故だか判らぬが、そこには薄っすらと涙を浮かべた静かな眼差しがあった。

「紗代、ツケを頼んでおきながら言い難いのだが……」
 フッと平九郎に目を向けた紗代、
「まぁ、真面目なお顔をなさって。平九様、何なりとおっしゃってくださいな」
「この男だが……生活する術を知らん。まるで野良犬だ。そこで頼みがあるのだが、店の余りもの、そうよな、残飯でも構わん、この男に喰わせてやってはくれぬか」
 歳上の嘉門に対し、平九郎は遠慮ない物言いをする。
「平九郎、言い過ぎじゃ。拙者、身をやつした浪人とはいえ刀を差す身。残飯とは何だ。いい加減にしろ!」
 紗代は、にこにこ笑いながら二人の遣り取りを聞いている。
「ようございますよ。嘉門様でしたね。武士は喰わねどとか申しますが……、背に腹は、とも申します。只でと言うのはお武家様に対して失礼。どうでしょうか、ツケということで」
 嘉門、何となくホッとした。だが、払う当てなど全くない。ままよ、何とかなる。
かたじけない。いずれその時が来たならばご厄介になるやも知れぬ。宜しくな」
 そう言ったは良いが、財布には塵しか入っていない。その時になればご厄介になどと気取ってしまったが、既にその時は来ている。
 紗代は、同情ともつかぬ複雑な面持ちで嘉門を見ていた。

 平九郎は、此度の事件を与力と奉行に報告した。奉行は、老中と

(19)





若年寄に知らせた。だが老中も若年寄も腰元についての噂は聞いていないと言う。そうであれば北町奉行所が担当せざるをえない。
 徳造と小吉は足を棒にして大店を廻ったが、人相書きを見せても皆知らないと言う。
 平九郎も頭を抱えていた。


    (二) 

 因業長屋の自分の部屋で、ごろ寝をしている嘉門。腹は、相変わらず唸り声を上げている。
―― 不思議なものじゃ。飼い主である身共が腹ペコで元気が出ないと言うに、腹の虫は元気に鳴きよる。 
 何やら体中が痒い。蚤であろう。湯屋に行きたいが、そのような銭はない。
―― 夕暮れまで待つことにするか。
 何を待つのであろうか、嘉門が呟いた。

 月明かり…… 昼間の蒸し暑さを忘れさせてくれるに心地良い夜風。柳の枝も優雅にそよぎ、何処からか三味の音が流れてくる。

 そんな風情ある大川の川っ縁を懐手をした侍が歩いている。侍が柳の下で立ち止まり、何やらキョロキョロと辺りを窺がっている。
人影はない。侍がやにわに腰の両刀を鞘ごと抜き土手に置いた。
次に着物を脱ぎだし、褌一丁になった途端、何と大川にザンブと飛び込んだ。
 言うまでもなく嘉門である。
 水練と言えば聴こえは良いが、何てことはない、湯屋の代わりである。多分、褌を洗っているのであろう、立ち泳ぎの時間が長い。

(20)





 気持ち良さそうに土手に上がった嘉門、次には着物と袴を洗いだした。洗った着物と袴を強く搾り、夜風に向かってパンパンと振った後、身に着けた。両刀を掴み、背筋を伸ばし腰に差した。
―― 皺や雫など気にしてはおられん。歩いておれば皺もなくなり自然と乾くもの。

 月明かりの中、何食わぬ顔で颯爽と長屋に向かう嘉門であった。

「あらっ、嘉門様では」
 見れば紗代。手には葱を持っている。
「さ、紗代殿、この様な夜更けに」
「えぇ、葱がなくなりまして……」
「店の方は宜しいのかな。喰い逃げなどされては堪らんだろうに」
「ほほほ、ご安心ください。そのような事をなさるお客さまはおりません」
 嘉門は赤面した。どうも拙者の考え方は浅ましい。
「あら、嘉門様、何やら袴から雫が……。それに御髪おぐしも濡れておりますが。雨……? いえ今日は良いお天気でしたが……」
 嘉門は、さらに赤面した。陽が落ちていて良かった。悟られることはないだろう。
「いや運動不足でな。大川で水練じゃ」
「まぁ、お着物のまま…… でございますか」
 もういけない。嘉門は下を向いてしまった。その時、また腹が唸り声を上げた。
「さっ、ご一緒にお店に」
 嘉門は不思議であった。紗代とはまともに話すことが出来る。
水を滴らせて紗代の後に続いた。

(21)





 店は繁盛していた。紗代は座敷にと言ったが、まだ着物は濡れている。嘉門は、かまちに腰を下ろした。羽織を着た侍、袴姿の浪人、町人…… 飯を喰い、酒を呑んでいる。
 紗代が箱膳を持ってきた。お銚子も一本、乗っている。飯は零れんばかりのてんこ盛り。何やら客たちに見られているようで、流石に気恥ずかしい。とは言え、飯が喰えれば嘉門は幸せであった。飯を半分ほど喰った頃、腹も膨れて余裕が出たのであろうか、 周りの話し声が耳に入ってきた。
「良い仕事だった。たんまりとな」
「しかしなー、大名、旗本とは言え、阿漕なものよ。お家大事か知らぬが」
「構わぬではないか。世の中は、金よ。金が貰えればそれで良い」
 嘉門の耳に大名、旗本、阿漕の言葉が残った。まさかとは思うものの気になる。ガツガツ喰っていたが箸の動きを緩めた。話をしていた浪人二人が席を立ち、紗代に代金を払っている。
 嘉門は飯の残りを一気に口に入れた。頬張ったまま紗代に頭を下げ、二人を追うことにした。紗代は怪訝な顔をしたが、ふっと表情を戻し、客の注文を聞きだした。

 剣の道に長けた者は気配を隠すことが出来る。嘉門にとり、後を追うなど容易いこと。小半時ほど歩いたであろうか、神田浅倉町付近に来ている。見ると二人は大きな屋敷に入っていった。嘉門は、しばし佇んでいたが門に近づき表札を見た。
――栗林……。明日、平九郎に会おう。

(22)





 翌朝、嘉門は早めに起きて長屋を出た。北町は非番月だ。八丁堀の外れにある平九郎の屋敷に向かった。
 何ともみすぼらしいぼろ屋敷。相変わらず手入れなどしていない様子だ。傾いだ門をこじ開けて中に入った。草ボウボウの中に、獣道のような細い道が出来ている。草を掻き分けて玄関に。玄関は半開きであった。
「頼もう。嘉門だっ! 平九郎は居るか」
 奥から足音が聞こえ、半開きの隙間から平九郎の顔が見えた。
「何じゃ、嘉門か。玄関はこれ以上開かん。庭に廻ってくれ」
 庭に出来た獣道に沿って縁側に行った。
「どうしたのだ。おぬしが来るなどと珍しいな」
 嘉門は、草に埋もれた庭を前に話し出した。
「神田浅倉町の栗林とは、どういう家だ」
「おう旗本だ。栗林景樹。まだ若いが家を継いだ。大した禄高ではない。千二百石ほどだ。だが、今は無役。それに、娶っていない。それがどうした」
 嘉門は、昨夜の件を話した。

「確かに気になるな。おぬしの見立てで良いが、その浪人たちの腕はどう思う」
 侍は両刀を差すが刀は重い。鍛錬していない侍が歩くと体の左側が下がる。それに腰がしっかりしていないと、足を進めるたびに刀が無様に揺れる。歩く姿を見ただけで腕を判断することが出来る。
「一人は遣えそうだが、もう一人は鈍らであろう」
「旗本は管轄外だが……まあ良い。栗林については、それとなく探りを入れてみよう」
 平九郎は、何やら眉間に皺を寄せて言った。
「ところで紗代のところには良く行くのか。おぬし、女は苦手で

(23)





はなかったのか」
「いや、あれ以後、初めてだが……。何故にそのような事を訊く」
「ま、歳上でもあり……、別にこれと言った理由はないが……」
「おぬし、いい加減に八方美人は止めろ。見ろこの屋敷を。幽霊も逃げ出すほどの荒れようではないか。嫁でも貰ってまともな生活をしたらどうだ」
「笑止千万。嫁に逃げられたおぬしからそのような話、片腹痛いわ」
 笑い合える二人であった。

 番所に嘉門、平九郎、それに徳造がいた。平九郎は、与力から聞いた栗林の話を、徳造は、栗林を張り込んだ状況を話した。
「なるほど、旗本屋敷で賭場を開いていたのか。平九郎、これはご法度ではないのか」
「如何にも。だが、そうそうお堅いことも言っておれんのが実情。無役の旗本の台所は我々以上に厳しい。禄高に応じた家人を揃えなければならんしな。それに栗林の知行地では不作続き。領民も逃げ出していると言う。何年もの間、火の車状態だ。若年寄もお目溢ししているらしい」

 旗本は、将軍家を守る特別な侍集団であり、将軍にお目身することも出来る。だが戦さがなくなった平和な世。役付き旗本はともかく、無役の旗本は厄介者であり、狼藉を働く旗本もいる。だが、皆、目を瞑っている。

「此度の腰元と栗林の繋がり。どう思う」
「判らん。大店の方だが……、腰元を入れるほどの店であれば定廻りの際、拙者は必ず顔を出している。しかし、どこの店も知らんと言う。それに人相書きを見せても見掛けたことはないと言う」

(24)





「大店以外から腰元を入れることはないのか」
「下級武士の娘を入れることはあるが……余程の美形でないと入れぬな。そこで大店の娘と言うことになる。宜しくお願いしますと、金を払うからな。大店は躾のためと申しておるが実際は店の箔付けよ。そのため、大枚を叩いてまで入れさせようとする。だが、そうそう腰元の空きが出来るわけもない。今は順番待ちの状態よ」
「順番待ちか。しかも金を掛けてまで……。世の中とは判らんものだな」    
「だがな、もし藩主なり旗本が娘に手を出してみろ。子供はご落胤だ。仮に正室に子供がなければ家を継ぐこともある。皆、必死になるわな」
「平九郎、そうまでして入れた娘が殺されたとすれば、親は黙ってはおるまいに。おかしいではないか」
 平九郎が不服そうな顔で言った。
「では、調べた大店の中に該当の店があると言うのか」
「如何にも。つまり隠したい訳があるため、知らぬと言っておるに決まっている」
「うーん」
「それに平九郎、お上もおかしいではないか。腰元が殺されたと言うのに動いているのは町奉行だけ。腰元と言えば大名家か旗本が絡むではないか。しかも、いくら苦しいとは言え、旗本屋敷で賭博。若年寄や目付は何をしているのだ。大目付も同じだ。どうせ何もしていないのだろう」
「おぬしも、よー言うな。では、どうしろと言いたいのじゃ」
「証拠をつき付ければ連中も仕事をするだろう。まずは栗林を突

(25)





付く。賭場を開くのは夜。徳造か小吉を張り込ませ、出てきた町人どもを引っ捕らえれば何か吐くはずだ。それに若年寄も突付いた方が良い。奉行から若年寄に一言言わせれば良いのじゃ。旗本がご法度の賭場を開いておりますとな。どうせ周知の事実であろうが、改めて言われれば動かざるをえんだろう」


    (三)

 嘉門は、相変わらず長屋でごろ寝をしていた。腹を空かせないためには、じっとしているに限る。
―― 表で話し声……
 耳を澄ませると利平の声である。何やら機嫌が良さそうに笑っている。
―― 珍しいこともあるものだ。雨でも降らねば良いが……
「ありがとうございました」
―― ん、女の声……
「何なら私も一緒に……」
「いえ、お部屋が判れば、後は私だけで」
 機嫌の良い笑い声が遠ざかっていく。
―― 何処ぞの家に女の来客であろうか。
「ご免くださいませ」
 嘉門は飛び起きた。
―― 拙者の家か。
「あ、あいや、暫く……」
 土間に降り、引き戸を開けた。そこには、なんと紗代が立っていた。度肝を抜かれたような頓狂な顔で嘉門が言った。
「さ、紗代殿。この様なむさいところに。なに用でござるか?」
「いえね、近頃お越しになりませんので気になりまして……お弁当をお持ちしましたの。入っても宜しいでしょうか」

(26)





 人を入れさせるような部屋ではない。嘉門は、どぎまぎしていたが、紗代は、
「では……」
 と言いながら、さっさと部屋に上がってしまった。実に危険だ。
下手をすればのみたかるかもしれない。
「嘉門様、今日はお願いがあってお邪魔いたしました」
「願い?」
「えぇ。嘉門様、お話の前に、どうぞお召し上がりください」
 紗代が、埃だらけの畳の上でゆっくりと風呂敷を解き、竹の皮を開いた。見れば海苔を巻いた握り飯。嘉門、握り飯を睨んで唸ってしまった。
―― 拙者は弁当に釣られて美和と一緒になった。二度と同じ轍を踏んではいかん。
「お握りはお気に召しませんか」
「いや、いや……、そのような……」
「では、何を躊躇っておいでなのですか?」
 もういけない。嘉門は話の内容も気になったが、手を伸ばしむしゃむしゃと喰いだした。
―― 構わぬ。飯に釣られる男と思われても……。紗代殿は、背に腹はと申したではないか。その通りじゃ、その通り。

 紗代の話は、住み込みの用心棒であった。
一人で店を切り盛りしているが無用心。誰か頼める人はと思い、何人かに声を掛けたが、皆、何やら勘違いをする。貴方様であれば、そのような事はないと思う。店は、それほど儲かってはいない。手当ては払えないが、代わりに三度の食事でお願いできないか、との内容だった。
 嘉門にとっては喉から手が出るほど嬉しい話である。飯が喰えれば、それで良い。しかし、紗代は女だ。やはり女は苦手。それに

(27)





周りから何を言われるか判ったものではない。嘉門は、返事に困ってしまった。どうしたものかと腕を組んで考えていたが、ふと、紗代を見ると落ち着かない素振りをしている。それに微かにだが体を捩ったりしている。
―― いかん、蚤だ。
 とは言え、危険だから部屋から出ろとも言えない。腕を組み、思案に暮れる嘉門。身を捩る紗代……。
 その時、ドタドタドタと外で足音。部屋の戸が勢い良く開いた。
「嘉門様、大至急、あっしと一緒に……」
 と大声で怒鳴りながら徳造が部屋に入ってきた…… が、二人を見て目を見開き硬直した。
「す、済みません。お取り込み中!」
 言うなり戸を閉めて出て行こうとした。焦ったのは嘉門である。
さっと立ち上がり、徳造の腕を掴み、有無を言わせずに徳造を部屋に引きずり込んだ。
「徳造、ま、良いから座れ。良いか、おぬし、勘違いしてはいけ
ない。紗代殿と拙者にはやましいことなど、これっぽっちもない。余計なことを言うものではないぞ。良いな!」
 徳造は何も言っていない。嘉門一人で興奮している。紗代は、噴き出しそうになっている。
「徳造さん、嘉門様に急なご用事でも……」
 嘉門と徳造、ふっと我に返った。
「北海屋与平が首を吊りやした」
 北海屋と言えば乾物を商う大店だ。嘉門は妙に胸騒ぎがした。
―― 腰元の件と何か関係が……
「紗代殿、先ほどの話、いずれお返事いたす」
 と言うなり、紗代をそのままにして徳造と飛び出していった。
 一人残された紗代、掃除でもと思ったが、一日や二日で終わるような代物ではない。日を改めて……と思案しいていたが、何やら先程より体がムズムズする。ここはひとまず退散した方がと腰を上げた。

(28)





 嘉門と徳造は、北海屋に向かった。徳造は走りながら事情を話した。北海屋の丁稚が番所に飛び込んできた。どうやら遺書はないらしい。そして、平九郎からの頼み事を伝えた。
 北海屋の周りには人垣が出来ていた。徳造は、ご免よと人垣を分けて中に入った。嘉門は人込みを見渡した後、店に入った。
 部屋には、番頭たちであろうか平九郎と話をしている。与平は畳に寝かされていた。
「何か判ったか」
「おう嘉門か。済まんな。番頭たちは、なぜ自害したか判らんという。だがな嘉門、与平には由紀という娘がいた。松木藩江戸屋敷に腰元として奉公していた。番頭に人相書きを見せ、事情を話したが驚いておった」
「大名屋敷だったのか。平九郎、松木藩とは?」
「五万石の譜代大名だ」
「譜代大名か……これで大目付も動かなくてはならなくなったな。
ところで……おぬし、与平にも人相書きを見せたはずだが」
「如何にも。与平は知らんと言った。隠したい事があったのじゃな」
「他に何か判ったことはないのか」
「今、帳簿を押収しているところだ。奉行所で調べる。で、おぬしの方はどうであった。人込みの中に例の浪人は居たか」
「居た」
「居たか。ところで気付かれなかったか」
「いや判らん。平九郎、拙者のような浪人者が、お調べ中の家に入るとは……考えてみれば迂闊であったな」
 二人は顔を見合わせた。嘉門の言うとおりであった。
 
 定廻り同心は、与力を通さずに奉行と遣り取りが出来る。平九郎は、与平の娘、由紀が松木藩に腰元として奉公していたことを

(29)





奉行に報告した。
 併せて他の与力、同心と共に北海屋の帳簿を調べた。
 使い道の判らない多額の支払い。それを補う為であろうか、多額の借金。いわゆる十一といちの高利貸からの借金のようだ。番頭からも事情を聴取したが、帳簿は与平が管理していたため内容については全く判らないと言う。多額の借金についても初耳だという。売り上げは、ここ数ヶ月、下がりっぱなしの状態である。
 これについては番頭から話が聞けた。どうやら昆布が不漁のため仕入れ値が高騰。資金繰りが上手く行かず、仕入れることが出来なくなっていたらしい。そのため注文に応じられなくなり、客が離れていったようだ。
 与平が首を吊った理由は、娘由紀の死と借金地獄であろう。しかし、何処に多額の支払いをしていたのか、また、何処から金を借りたのかは判らなかった。 
 徳造は、小吉と交代で栗林の屋敷を張り込むことにした。だが、 事件が起きて後、人の出入りはないと言う。賭場は開かれていないようだ。


     (四)

 老中の高津釆女は、北町奉行より松木藩江戸藩邸の腰元が殺害されたと報告を受けた。単にこれだけの事件であれば松木藩にて処理をすれば済む事であり、何も幕府が動くことはない。ところが旗本屋敷にてご禁制の賭博が開かれ、どうやら此度の事件との絡みがあるらしいとの話。殺された腰元の実家である大店主人の自殺……。大名屋敷の腰元が殺されたとなれば、厭が応にも巷にて噂が広がっていく。瓦版は、与平の自殺や由紀の殺害を恰好のネタとして囃し立てた。
「魚釣らずに己の首を吊ってあの世に北海屋」
「由紀が降ったか松ノ木林裸じゃ寒かろ冷たかろ」

(30)





 こうなれば幕府とて動かぬ訳にはいかない。采女は、まだ若手の大目付、北里源一郎に松木藩を調べるように命じた。

 北里家は、代々大目付を継いでいる。ところが、現当主である源一郎、同じ侍である大名の犯罪を調べる仕事に嫌気が差している。どちらかと言えば学究肌の源一郎である、心密かに書院番頭に替わりたいと思っている。だが、仕事は仕事。早速、松木藩に関する状況を整理し、さらに此処一、二年の情報を集めることにした。
 松木藩主、松木外記宗次は、幕府にて寺社奉行を務めており、温 厚な人柄のためか評判も良い。子供は妻との間に信太郎が一人。他に側女に産ませた数馬がいる。源一郎は、信太郎と顔馴染みであったが、この男、評判は余り良くない。女遊びだけでなく何やら博打にも手を染めていると囁かれている。外記もこの事を知っており、頭を痛めていると聞いた。松木藩の跡取りは信太郎であるが、家老連中は数馬の方が良いのではと話し合っているとの噂もある。
 北町奉行所が認めた調書は、若年寄の手に渡っていたが、源一郎はそれを受け取り、詳細に渡り目を通した。
 報告書には、松木藩だけでなく旗本栗林家も絡んでいると認めてある。栗林の屋敷で賭場が開かれていることは周知の事実。はたして旗本を取り締まる若年寄は、動くのだろうか。いずれにしても汚れた連中を調べなければならない。
 総て遺漏なく事を進めなければならない。源一郎は頭を痛めた。何しろ相手は譜代大名である。外様であれば大名とは言え江戸においては肩身の狭いものである。ややもすれば八千石、九千石の旗本の方が力を持っている。一方、譜代大名は御神君の時代から徳川家の家臣として名を馳せている。何度も出掛けて行って事情を聴取することなど出来ない。仮に松木家に粗相が見つかった場合でも、老中へは確固たる証拠を固めた上で報告しなければならない。手抜かりがあった場合は、大目付とは言え切腹ものである。

(31)





―― さてと、町方の話だが、奉行から……。いや、ここは一つ、有村平九郎なる同心から直接話を聞いてみよう。
 大目付や目付とは、侍にとり煙たい存在であり、いわば嫌われ者である。いや恐れられていると言った方が当たっている。ましてや同心にすれば、雲の上の存在とも言える。
 源一郎は、かつて登城する際に籠の中から平九郎を遠目に見たことがある。なかなか見栄えの良い男であった。供の者の話に依れば、仕事はできるとの噂であり、格式張ったところはなく、どちらかと言えば、お気軽に物事を進めるような男との事であった。さらに、女と見れば誰かれなく軽口を叩く男と供の者は笑って言った。つまり、自分とは正反対の男と思えた。

 定町廻り同心は、北、南併せても十二人しかいない。庶民だけでなく幕閣、大名、旗本などにも顔を覚えられている。他の者には許されないことだが、下級武士でありながら大名行列を横切ることが出来る。これは江戸の治安を最優先にした幕府の考えであり、大名であっても捜査の邪魔をすることは出来ないとの考えに基づいている。因みに医者や産婆も行列を横切ることが出来る。

―― 如何いたそうか。呼びつければ済むことだが……。町方の暮し振りを見るのも一興かも知れぬ。しかし、ベラベラと喋り捲る男に違いない。煩わしい限り……。
 とは言え、源一郎は平九郎の屋敷で話を聞こうと思った。

 平九郎は、徳造に信太郎を洗えと言っておいた。
 松木藩と北海屋は由紀で繋がった。北海屋の金の出入りにも、松木藩が絡んでいると踏んでいるが、栗林との繋がりが判らない。この三つの繋がりが判れば事件を解決できるはず。賭場も絡んでいるに違いないが、栗林で賭場は開かれていない。町方が旗本の屋敷に乗り込むことは出来ない。平九郎にはイライラが募っていた。

(32)





―― この様な時には嘉門に会うに限る。
 平九郎は、因業長屋に足を運んだ。

「平九郎、大店は大枚を叩いて腰元奉公を願うと聞いたが……、北海屋与平も松木に大枚を渡したのであろうか」
「如何にも」
「腰元は身分の高い者の世話をするはずだが、松木であれば誰に当たるのだ。それに誰が腰元を決めるのだ。いまひとつ、誰が金を受け取るか」
「決めるのはご用人。世話する相手は、藩主の外記か……息子の信太郎だな。金は……やはり二人のうち、どちらかが……」
「五万石の藩主が、そのようなせこい金を欲しがるのかのう。ま 、それは良しとして由紀がどちらの世話をしていたかは、大目付を遣えばすぐに判ること。町奉行と大目付は同じ老中の配下であろうが」
「おぬし、何を言いたいのじゃ」
「孕ませたのは信太郎とか申す嫡男に決まっておる。藩主の外記殿は既に歳のはず。信太郎を突付いてみろ」
「徳造に当たらせているが……」
「のんびりしておるな。何をやっているのだ。大目付を使え。大目付を!」
 平九郎のイライラは、さらに募ってしまった。

 ちょうどその時、源一郎が平九郎の屋敷に到着した。勿論、平九郎宅を訪ねるのは初めてである。几帳面な源一郎は屋敷を見てゲンナリしてしまった。全く手入れをした形跡がない。
―― 平九郎とは、思っていた以上にだらしのない男のようだ。
「頼もう。有村殿にお会いしたい」
 驚いたのは平九郎である。だが、慌てたところで屋敷が綺麗になる訳でもなく、また、話なら奉行に聞けとも言えない。ただ、おず

(33)





おずと草を掻き分けながら獣道を案内し、縁側から埃だらけの座敷に通した。
 源一郎は源一郎で屋敷の酷さに驚きはしたものの、肩肘を張らずに済むと捌けた気持ちになった。見れば浪人と岡っ引き風の男。四人は話を始めたが、やはり平九郎は緊張している様子である。 その点、浪人者は気が楽である。嘉門が場を取り持つ形になった。 
 収穫は嘉門と平九郎の方に多かった。信太郎は博打をやる。であれば栗林の賭場にも顔を出したはず。女癖が悪いとの噂も由紀との関係を裏付けるに足る話だ。
 四人は打ち解けていた。源一郎は、平九郎に対する印象を変えていた。
―― 話してみれば、それほど浮ついた男ではない。
 源一郎は、由紀が信太郎の世話係だったかどうかを調べると言った。さらに、ご法度である賭場について、若年寄が目溢ししているのは許せないと立場をわきまえず、本音を言った。
 平九郎は、そのように固いことをと、喉まで言葉が出たが口には出さなかった。確かにご法度はご法度である。
 話を進めていると、親分! と叫ぶ声がした。次いでワサワサと草を掻き分けて男が駆け込んできた。小吉だった。余程急いだのか縁側に突っ伏して喘いでいる。

「お、親分、凄い知らせですぜ!」
 と言ったまま、言葉を続けられないでいる。平九郎は台所から手桶に水を入れて持ってきた。小吉は奪うように手にしたかと思うとガブガブと呑みだした。
「ついに判りやした。栗林が賭場を開きますぜ!」
 皆が、エッ! と声を上げた。
「何日だっ! 小吉、早く言え!」
「三日後です。ご開帳は暮れ六ツ。結構、集まるそうです」

(34)





「良く遣った。しかし……、小吉、どうやって探ったのだ」
「女です」
 場が一瞬、引いたような雰囲気になった。
 小吉が女を使った? 徳造などは首を傾げたままでいる。それはそうである。小吉は、まだ十六歳。ヘラヘラしているが真面目で機敏で夢中になって仕事をやる男だが……女……? 
 小吉が、にやけた顔に戻り話し出した。

 当初は親分と交代だったが、動きがないため自分一人で見張ることになった。昼夜を問わず見張らなければならない。ほしいいや水を用意した。注意を払うのは夕暮れ時から翌朝に掛けて。昼間に仮眠を取ればよい。この日は、不審な出入りはなかった。無駄になるのではと不安になったが続ける他ない。
 朝になると、下女が屋敷の周りを掃除した。後で聞いたのだが、名前は香苗、小吉が見張っていることに気付いていたらしい。広い屋敷の周りを掃除するのは辛いが、あの人も頑張っている。小吉を見て励みになっていたと言う。
 ある朝、香苗が掃除をしていると野良犬が香苗を襲った。小吉は仕事を忘れて助けた。だが、声も掛けずにすぐに張りこみ場所に戻った。
 翌朝早く、周りを気にしながら香苗が来た。まだ湯気が立つ握り飯を小吉に差し出した。香苗は、一日おきに握り飯を持ってきた。 小吉は、思い切って香苗に頼んでみた。
「お前が奉公する家のことだ。嫌なら嫌と言っても良い。だが娘が殺されている。それに旗本が賭場を開くのはご法度」
 香苗は頷いた。

(35)





 香苗によれば栗林家の台所は、かなり苦しいらしい。お茶を運ぶ時に景樹たちの話を聞いてしまった。
「金を貸している大口の客が死んだ。賭場でも開かなければ遣っていけない」
 小吉は、賭場を開く日が判ったら教えてくれと頼んだ。今朝、香苗が教えてくれた。住み込みの浪人が、下女たちに三日後に人が集るから準備をしろと言ったという。

「北里様、急ぎご老中にお知らせ願いたい。これで若年寄殿も動かざるを得ないはずじゃ。だが、この話だけで栗林家に踏み込むのは危険。知らぬ存ぜぬを通されるやも知れませぬ。現場を押さえた方が良いと思いまする。拙者は奉行に知らせることにいたします。嘉門、おぬしも手伝ってくれるな」
 今まで活き活きと話していた小吉だったが急に顔を曇らせた。
「小吉、お前の手柄だ。どうした、その顔は」
「へぇ、香苗はどうなるんで。栗林が取り潰しにでもなれば……。身寄りがないと言ってやしたが」
 確かに栗林が罪を犯していれば、お家がどうなるかは判らない。仮に取り潰しの沙汰でも下れば、香苗は路頭に迷うことになる。小吉の優しさに胸打たれる面々であったが、源一郎を除き、経済的に余裕がない連中である。雇うことなど出来ない。源一郎が 、一人ぐらいは……と口を開こうと思ったその時、嘉門が話し出した。
「何を渋い顔をしているのだ。紗代殿に頼めば、事は簡単に済むではないか。あの店は繁盛している。人手が欲しいはずだ。紗代殿も助かるはず」
 平九郎と徳造が怪訝そうな顔で嘉門を見た。今まで女の話などしたことがない嘉門が、紗代に頼むという。思わず口走ってしまった嘉門。しまったと思ったがもう遅い。ただ赤くなって下を向いた。
 

(36)





 若年寄、俣野芳衛も重い腰を上げざるを得なくなった。配下の目付、後藤左京に栗林を調べるように命じた。左京も旗本である。源一郎と同様に、役目とはいえ旗本が旗本を調べる今の仕事に気乗りがしていない。左京は大柄で鬼のような顔付きをしているが、肝っ玉は至って小さい。
 左京は、大目付詰所で源一郎から詳細を聞いたが、捕り物になると言われた途端、後退りした。この男、剣道は苦手。

 暮六ツ半、捕り手たちが栗林の屋敷に踏み込んだ。大掛かりな捕り物だった。賭場には何人かの侍もいたが、その中に信太郎は居なかった。嘉門は例の浪人を捜した。踏み込んだ時には刀を振り回していたが、捕り物の最中に逃げだしたのか、捕らえた者や死んだ者の中にも見つけることは出来なかった。
 栗林景樹は捕えられ、目付、後藤左京の厳しい取調べを受けた。
捕り物の際、左京は後方から大声を上げているだけだったが、取り調べに関しては有無を言わせぬ迫力があった。ご法度の賭場開き。しかも現場を押さえられているため、景樹は申し開きが出来ない。加えて十一の高利貸し。厳しい沙汰が下されるはずだ。
 左京は、金を貸していた大口の客や賭場に出入りしていた侍について詰問したが、景樹は一切口を割らなかった。
 そして、二日後、景樹は座敷牢で舌を噛み切って死んだ。長く続いた直参旗本、栗林家が消えた。

 賭場を仕切っていたのはチンピラ連中であった。彼らは、北町奉行所のお白州に引き出されると、いとも簡単に口を割った。松木信太郎の名前も出たが、大口客については知らないようだった。
 北町奉行は、老中高津釆女に松木信太郎の名を告げた。

(37)





     (五)

 老中の部屋で釆女と源一郎が話している。
「源一郎、面倒なことになったな。松木殿は優れたお方だ」
「御意」
「己の勤めについては問題ないが、信太郎には困っているとお聞きしたことがある。おぬし、どのように事を進めるつもりじゃ」
「はは、ご老中の仰られるように松木様はご評判の良き寺社奉行殿にございます。北町奉行所同心、有村平九郎、岡っ引き徳造、それに紫崎嘉門殿と今まで調べを進めておりましたが、此度の事件は、腰元殺傷に端を発し、腰元の実家北海屋与平の自害。栗林家での賭場などと問題が広がっております。これら総てには繋がりがあると思われます。つきましては信太郎殿への事情聴取ですが……」
「ちょっと待て。その紫崎とか申す者、何者じゃ」
「はっ、浪人でございます。中々の切れ者ではありますが、剣道以外に仕官の術がないらしく……。ご老中、紫崎殿の件は事件が落ち着いた後にお話いたしますゆえ、此度の件について……」
「う、そうであった。済まぬ」
「私めは、直接、信太郎殿より事情を聴取するのは如何かと思っております。これでは松木殿の面子が立ちませぬ。従いまして……」
「源一郎、判った。総ては言うな。拙者が動こう」

 幕府内における寺社奉行は、老中と同列に位置する要職である。釆女は、自ら寺社奉行詰所に足を運び、詳細に渡って外記に事情を話した。
「松木殿、如何でござるか。我が方で動いても良いが……」
「承知仕った。ご迷惑をお掛けしたようでござるな。信太郎は当
家の恥さらし。賭博なんぞに染まりおって。用人たちを信じてお

(38)





ったが……。それに当家の腰元が殺されていたとは……。全く持って面目次第もござらん」
 外記は、釆女に深々と頭を下げた。幕閣には在りえない行為。これには釆女も面食らってしまった。
「松木殿、どうか、どうかお顔をお上げくだされ。で……」
「当家にて調べまするゆえ、しばしお時間をいただきたい」

 松木外記の動きは素早かった。
 賭場に顔を出していただけであれば、何とか揉み消すことは出来るし大きな問題にはならない。問題は、腰元殺害であった。まず、用人に事情を聞いた。
「由紀という腰元が居なくなったらしいが、調べたのか」
「ははー、由紀殿の失踪につきましては若殿にお伝えいたし、お探し致したいが心当たりはおありかとお訊きいたしました」
「信太郎は、何と言った」
 用人は、頭を畳に付けたまま何も言わない。
「構わぬ、有体に申せ」
「はっ、一切構うなと……」
 用人は不審に思ったが命令に従ったという。
 外記は信太郎を問い詰めたが、信太郎は白を切った。外記は、せめて潔く話して欲しいと思っていた。
「信太郎、自分の世話をしていた腰元が失踪したのにも関わらず、何故、用人に一切構うなと言ったのだ。しかも腰元は殺されていたと言うではないか」
 信太郎は下手な言い繕いをすれば、ぼろが出るとでも思ったのか、知らぬ存ぜぬを繰り返した。
 外記は、これ以上老中に迷惑を掛けたくなかった。信太郎が白状しなければ、さらに捜査を続けなければならない。ややもすれば松木藩に大目付が乗り込んでくるやも知れぬ。藩主として、寺社奉行

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として、そのような事態にでもなれば家名に泥を塗ることになる。いや、それ以上に自分の息子を情けないと思った。武士の風上にも……
「信太郎、素直に白状すれば命は助ける」
 この言葉を聞いた信太郎。ニヤッと笑い、ベラベラと総てを話した。
 これで詳細が判明した。
 正に松木家の恥。外記は煮えくり返る思いであったが、潔く書状に認め、釆女に渡した。書状には信太郎から聞いた内容が詳細に渡り認められていた。外記は、併せて進退伺いを出した。
 老中の間で評議がなされたが、お役継続と決められた。
 その知らせを受けた外記は、すぐさま信太郎に切腹を言い渡した。信太郎は話が違うと外記に詰め寄ったが、外記は信太郎を完全に無視した。さらに信太郎の用人たちを解雇した。
 外記は苦々しげな顔で幕府宛の書状を認めた。嫡子信太郎は急な病にて死亡。数馬を跡取りとしたい。
 幕府の承諾を得ると、今度は体調不良を理由に寺社奉行、お役ご免を申し出た。幕府は受けざるを得なかった。
 国に帰った外記、数馬に家督を相続する旨、幕府に願い、自らは隠居した。数馬が松木藩主に就いた。
 これで、事件は決着を見た。


    (六)
 
 平九郎のお化け屋敷に嘉門、平九郎、源一郎、徳造、そして小吉がいる。
 何も大目付がわざわざと思うが、源一郎は何故かこのボロ屋敷が気に入っていた。
―― これからの事もある。腹蔵なく話した方が良いだろう……

(40)





 源一郎は、外記が認めた書状の詳細を語る事にした。

 発端は信太郎の博打であった。負けが込んだ信太郎は、腰元由紀に目を付けた。与平は金を持っている。由紀、お前が気に入った。いずれ自分は藩主になるが妻にしたいと思っている。乳母日傘で育てられた由紀である。この偽りの誘いに乗ってしまった。信太郎は与平にも同じことを言い、金をせびった。与平は娘可愛さからであろう、必死になって金を貢いだが、その額は半端なものではなかった。折り悪く昆布は不漁。仕入れるための資金繰りも苦しく、商いはじり貧状態。ついに蓄えが底をついてしまった。その話を聞いた信太郎、何と与平に景樹を会わせた。
 ここまでであれば、何も人が死ぬことはなかった。だが、由紀が孕んでしまった。由紀は、早く結婚してくれと信太郎に迫った。信太郎にとり、由紀との事はただの遊びでしかない。腰元と結婚など出来るはずはない。父親の外記に話せば罵倒されるに決まっている。返事を渋る信太郎に業を煮やした由紀。では、お殿様に話しいたますと執拗に結婚を迫った。信太郎は焦った。それでなくとも妾腹である数馬の方が受けが良い。腰元を孕ませたなどと知れれば、藩主どころではない。勘当ものである。小賢しいことには頭は廻るとしても、根は小心者。事の重大さにおののく毎日。己の犯した不手際を取り繕うことが出来ない。
 信太郎は、急ぎの話があると由紀を外に誘い出した。藩邸から程ない草むら。由紀を待っていたのは、例の浪人であった。信太郎は、賭場の用心棒である浪人の腕を見込んだのだった。

「嫌な話だな。愚かなことよ。ところで香苗だが、嘉門、おぬし紗代に頼んだのか」
「い、いや、まだだ」
 嘉門は、まだ紗代の用心棒の申し出に返事をしていない。つまり

(41)





紗代には会えないのである。
「何じゃ、偉そうに言っておったが……。判った。拙者が頼んでみよう」
 嘉門は平九郎に頭を下げ、
「済まぬ。そうしてくれ」
と神妙な顔で言った。
 源一郎が、珍しくもニヤニヤしながら嘉門に言った。
「柴崎殿、老中高津様がお会いしたいと申しておるが如何いたす。どうやら高津藩の剣道指南とお考えのようだが……」
 事件後、嘉門に興味を持った釆女は、源一郎からいろいろと話を聞いた。切れ者だが剣道以外に出来ることがない。釆女は、聞き終わって考えた。
―― 今どき、珍しくも武士もののふの一面を持つ男。会ってみたい。侍は文武両道に通じていなければならない。だが高津藩の剣道修行は生ぬるい。嘉門とやらを使ってみようか。この日、釆女は、やたらと機嫌が良かった。源一郎は、思い切って書院番頭に転属させていただきたいと頼んでみた。
「馬鹿者! 何を言うか! おぬしを若年寄に呉れてやるつもりはないわ!」
 書院番頭は、若年寄の配下にある。どうやら、釆女は源一郎を気に入っているらしい。ははーっと頭を下げた源一郎。
―― まぁ良いか。面倒な取り調べが起これば、嘉門を引っ張り込めば良い。

 嘉門にとっては仕官できるかも知れぬ美味しい話だが、一途な面を持つ嘉門である。先に片付けなければならない事があった。紗代への返事である。今の嘉門にとり、こちらの方が重要であった。嘉門は世渡りが下手。
「ご老中が拙者如き浪人に……。い、いずれお返事いたす。だが別に飯が喰える道が見つかるやも知れません。その時は、ご容赦を」

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「柴崎殿、剣道指南だが何も国元ではなく、江戸藩邸でも構わぬとご老中は申されております。つまり、通いでも良いと……」
 腕を組み、考え込む嘉門。
―― 通いか……。江戸を離れずとも良いのであれば……夜中は用心棒にて飯を喰う。昼間は剣道指南……悪くはない。果たして紗代殿は、何と申すであろうか……


     (七)

 ―― 紗代殿に、どのように……。
 事件決着後、何日も経つというのに嘉門はまだ悩んでいた。剣道指南も頭をよぎるが、己の事となると頭の切れも鈍くなる。律儀な嘉門である、まずは剣道指南の件を頭から振り払い、紗代への返事を考えた。
 ―― 条件は良い。飯が喰える……。部屋には蚤もいないはずである。問題は、紗代が女であることだが……。拙者、いずれ返事をすると約してしまった。
 嘉門は、何が何でも約束は守ることにしている。それに返事をせぬままの状態では飯を喰いには行けない。相変わらず腹は、グーグー騒いでいる。

 夕暮れ時、結論を出せぬまま長屋を出た。如何にすべきか。思案顔で歩く嘉門が掘割に差し掛かった。
 ―― うっ! 付けられている。
 気配は二人。嘉門は、例の浪人を思い出した。
 ―― まず間違えあるまい。何故に今頃。遺恨であろうか。下らん事とは思うが、斬られる訳にはいかない。
 嘉門は、どうするか考えた。一人は腕が立つ。

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 ――果たして二人同時に斬り掛けてくるのであろうか。これは面倒だ。
 辺りを窺ったが、この通りは掘割と塀に挟まれて道幅は狭い。
 ―― 此処であれば二人同時に斬り掛かるのは無理。一人ずつとなれば鈍らの方が先に仕掛けてくるはずだ。だが……刀を交えている隙にもう一人が突いてくる。これも拙い。鈍らを一太刀で倒さなければ危険だ。
 嘉門は、草履を脱ぎ捨てて立ち止まった。二人は、待ち構える嘉門を見ても驚いた様子はなかった。無言のまま刀を抜き、だらっと下げたまま近づいてきた。嘉門は、左手を刀に持っていき鯉口を切った。二間ほどに近づくと一人が口を開いた。
「栗林殿は誠に無念であった。おぬしらが余計なことをしおったお陰じゃ。我ら江戸を離れるが、このままでは腹の虫が収まらん。同じ浪人でありながら小癪なことをしてくれたものよ。出掛けの駄賃としておぬしの命、頂いていく」
 言い終わると同時に、一人が刀を上段に持っていき、物凄い勢いで斬り掛けてきた。鈍らだと思っていたが鋭い切っ先。嘉門は、さっと左膝を地面に付け、居合いにて右上に斬り上げた。重い手応え。と同時に顔に降りかかる血飛沫。
 ―― いかん、左目に入った。
 斬られた男は、声も立てずに掘割に落ちた。
 間髪を入れずにもう一人が斬り掛かってきた。危うかった。身を反らせ、寸でのところで刀を避けた。二人は正面から対峙した。利くのは右目だけ。これでは間合いが取れない。
 ―― こちらから斬り掛けるのは不利。刀を交えれば、片目が利かぬことを気取られてしまう。一太刀で決めなければならない。
 相手は上段に刀を持っていった。
 ―― 小癪な、こやつも一太刀でと考えておる。
 嘉門は、右八双に構えた。
 ―― さぁ、掛かってこい。

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 嘉門は、一瞬の勝負に賭けようと決めた。
 相手は嘉門の腕をあなどっていたようだ。一太刀でと上段に構えたは良いが、嘉門には隙がない。
 時雨八双一刀流は、右八双の静かな構えを基本とする受けの剣術だ。一度、相手が斬り込めば、瞬時に激しい動きに移り相手を袈裟懸けに斬り裂く。静から動への激しい変化。時雨に似ていることからこの名前がついた。
 相手は焦りだしていた。今更、正眼、下段に構えを移すことはできない。隙を見せてしまう。かと言って、このままの上段では腕が痺れてくる。渾身の力を込めて斬り掛かった。
 シャーッ! 奇妙な音がした。相手は、左肩から右腰まで二つに割れていた。

 嘉門は、番所に行き町役人に仔細を伝えた。

 嘉門が、紗代の店の前を行ったり来たりしている。中からは賑やかな話し声が聞こえてくる。どうにも気後れがして入ることが出来ない。
 ふと見ると、店の障子戸が開き、酔った客が出てきた。だが客は嘉門には気付かない。すると後から紗代が顔を出し、またどうぞと客に声を掛けた。
 紗代が嘉門に気付いた。紗代が、あらっと笑顔になり駆け寄ってきたが嘉門を見た途端、カーッと目を見開き、その場に気絶してしまった。驚いた嘉門、紗代を抱きかかえて店に入った。今度は客たちが目を見張った。返り血を浴びた男が紗代を抱いている。中には右脇に置いた刀に手を掛ける侍もいる。その時、商人風の老人が声を掛けた。
「失礼ですが、先日、てんこ盛りの丼飯をガツガツ喰っていたお侍さんではないですか」

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 この老人の一言で、いきり立った客たちの動きが静かになった。

 嘉門は、香苗にも手伝わせ、紗代を二階の部屋に寝かせた。香苗は 平九郎の口利きで住み込みで働いている。
 四半時ほどして紗代が目を開けた。

「紗代殿、驚かせてしまった。侘びを言う」
「嘉門様、お怪我をしたのでは……」  
「拙者は何ともない。実は……お返事をと思ってな」
「で……」
「お受けいたす」
「嘉門様……」
 ニコッと笑った紗代の目には涙があった。         
 


                         (了)






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