illustratin by Suzuya


   エー、落語には粗忽者が良く登場いたしますが……

 夏の夜空には満月……昼間の暑さを忘れさせるような涼やかな夜風…… 大川、今の隅田川でありますが……大川土手の柳も優雅に揺れております。
 エー、江戸の時代は、今と違いましてコンクリートなんぞはございません。昼間にいくらお天道様が照ったといたしましても、夜になれば涼しいものであります。

 大工の熊五郎…… 股引、筒袖、腹掛け姿で大川に架かる言問橋を歩いております。顔を見れば真っ赤。
「いやー、豪勢な棟上げだったな。酒も旨かったし…… 久しぶりに呑みすぎちゃったよ」
 なんて言いながら、あっちにヨロヨロ、こっちにフラフラ。グデングデンに酔っ払っております。
「何だよ、お月様が歪んでユラユラ揺れてるよ。やだねー、お月様も酔っ払ってるんじゃないの。俺とおんなじだ。お月様〜仲良くしましょうね」
 熊五郎、よしゃーいいのに空を見上げたまま、フラフラと欄干に歩き、もたれようといたします。
 ところが勢い余って大川に、ドッボーン!

 一方、こちらは熊五郎が住む甚平長屋。何やら線香の匂いが漂っております。
 そんな長屋の路地を見ますと、びしょ濡れになった熊五郎が、いそいそと歩いております。
「危ねぇ、危ねぇ、忘れるところだった。今夜は大家んちでお通夜だったよ。婆さんには世話になったしな……。店賃かい。良い良いよ、出来た時で、なんてなー、大家と違って良い婆さんだった。お焼香ぐらいしねぇと、後で大家に何言われるか判ったもんじゃねぇ。しかし、何で、あー大家は、煩せぇのかねぇ」

 エー、甚平の部屋では、床の間の前に布団が敷かれ、顔に布を掛けられた婆さんが寝かされております。
 その前にちょこんと座った甚平。目を瞑り、手を合わせております。
 すると、熊五郎の声、
「大家さん、遅くなっちまった」
「おう、熊さんかい。入っておくれ」
 熊五郎、神妙な顔つきで入ってまいります。
「この度は、ご愁傷様で……」
と甚平に頭を下げます。
「わざわざ済まないねぇ、ありがとよ。良く来てくれた。さ、上がっておくれ」
 熊五郎が部屋にあがってまいります。 
「熊さん、どうしたんだい? あんたびしょ濡れだけど……」
「いやね、酔っ払ったまんまじゃ婆さんに失礼だと思いやして…… ちょっと大川に飛び込んで、酔いを醒ましたんで……」
「そうかい、そうかい。それは殊勝だ」
「へぇ」
と焼香台の前に座ります。
「婆さんも喜ぶ。さ、線香をあげてくださいな」
 熊五郎、婆さんの方に体を向けて手を合わせ、焼香をいたします。
「じゃー、大家さん、あっしは、これで」
「なに言ってるんだい。店子といえば子も同然。お前も婆さんには世話になったんだ。顔も見てあげないなんて仏さんに失礼だろが」
「へぇ……」
 熊五郎、俺はイナセなデークだ、なんていつも粋がっておりますが、根っからの臆病者。恐る恐る布を上げますが、婆さんを見ることが出来ない。顔は床の間の方に向けたまんまでございます。
 床の間を見ますと、短冊掛けに短冊が掛けてあります。熊五郎、
「ミミズが這った痕みてぇだな」
なんて呟きながら見ております。
「熊さん、床の間ばかり見てるじゃないか。婆さんを見るのが怖いのかい。お前も情ない男だね」
「てやんでぇ、こちとら大川で産湯に浸かった江戸っ子よ。今じゃ粋でイナセなデークの熊五郎だ! 恐くなんかねぇよ」
と言いながら、婆さんの顔を見ます。
 婆さんは、真っ白な顔で目を薄っすらと開け、口は半開き。
 これを見た熊五郎、
「ウヘーッ!」
と大声を上げて飛び上がってしまいます。急に手を合わせ、頭を下げまして、
「ナンマンダ、ナンマンダ、いずれ店賃は払います。化けて出ないで下さい。ナンマンダ、ナンマンダ」
 大家は笑いながら見ておりましたが、
「熊さん、どう思うね、婆さんを」
「大家さん、生きてるようだぜ。俺を睨んでる。婆さんは、まだ成仏してねぇんじゃねぇかい」
 甚平、声を上げて笑い出します。
「色、あくまでも白く、半眼半口(はんがんはんく)。これを兜羅面(とろめん)と言ってな、完全成仏した顔だ。滅多にある事じゃない。熊さん、よーく婆さんを見ておくんだよ」
「へー、そうなのかい。完全成仏ねぇ。そう言やー、婆さんは大家と違い、良い人だった」
「余計な事を言うもんじゃない。婆さんはな、三途の川を渡れば、すぐに極楽だ。ありがたいことだ。ナンマンダ、ナンマンダ」
「ちょっと待ってくれ。じゃー、成仏できねぇ時は、黒くなるって言うのかい」
「その通り。生きている間に善行、功徳を積めば、お釈迦様がご褒美をくれる。それが兜羅面ですよ。婆さんは、店子には優しい女だった。あたしには口煩かったけど…… しかし、いなくなると寂しいねぇ」
 大家、目頭を押さえます。さすがの熊五郎も神妙に下を向いてしまいます。
 大家、グスン、グスンと鼻を鳴らしながら熊五郎をジーッと見まして、
「しかし、熊さん、あんたやけに青白い顔をしてるが…… 風邪でも引いたんじゃないのかい。夏風邪は怖いよ。気を付けなくちゃいけない。早く着替えた方が良い」
「へえ。さっきからちょっと寒気がしやすが、大丈夫で…… じゃー、おいらはこの辺で」
と部屋を出て行きます。

 熊五郎、自分の部屋に戻りますが、どうにも床の間に掛っていた短冊が気になります。
「あのミミズみてぇな字…… 何て書いてあるのかね」
 腕を組んで考えますが判ろうはずがありません。
「よっしゃ、大家に訊いてみるか」
ってんで、また部屋を出ていきます。
 路地をヒョコヒョコ歩き、甚平の家の前へ。熊五郎、ドンドンと戸を叩きます。
「大家さん、開けてくれ!」
「お、熊さんか。何か忘れ物かい。心張棒は掛ってない。入りなさい」
 部屋を覗けば、まだ甚平は婆さんの前で手を合わせております。その横に熊五郎が真面目な顔で正座いたします。
「どうしたんだい。さっき婆さんの前で店賃とか言っていたが、やっと払う気になったのかい。店子は、そうでなくっちゃいけない。熊さん、あんた、もう六ヶ月も溜めているよ。月七百文、〆て四貫と二百文。今夜は婆さんのお通夜だ。特別に一両に負けてあげよう」
「そんな話じゃねぇんで。大家さん、あんたはいつも店賃店賃と煩いねぇ。そんな事じゃ、死んだ時には真っ黒だよ」
「何を言う。余計なお世話だ。店賃じゃないとすれば、何の用なんだい?」
「いやね、どうにも気になって眠れそうもないんで……」
 熊五郎、床の間の短冊を指差しまして、
「あのミミズだが、ありゃ何なんだい?」
「おう、これか。よく気が付いたな。これも婆さんのお陰かも知れない。熊さんにも為になるかもしれない」
「で、何なんだい?」
「これはな、親父の辞世の句だ」
「辞世の句? ところで親父って誰の親父なんだい」
「あたしの父親だ」
「へー、大家にも親がいたんだ。こりゃ、不思議なこともあるもんだ」
「馬鹿をお言いでない。私も人の子だ。きちんとお袋の腹からオギャーと生まれてきた」
「そりゃそうだな。今のまんまの皺くちゃな顔で生まれてきた日にゃー、産婆が腰を抜かす」
「馬鹿な事を言うものではない」
「ところで、辞世の句ってぇのは何なんだい」
「なんだ、知らないのかい。世話の焼ける男だ。人間はな、死ぬ前に子供とか世間様に言い残したい事があるもんなんだよ。それを歌に託したものだ」
「ほう。ご丁寧なもんだな。で、何て書いてあるんだい」
「そうだな、聞いて損はない。此処にはな、
  
 独り来て独りで帰る冥土かな釈迦も孔子も我も我が子も

と書いてある」
「なるほどね、ミミズが這った痕じゃねぇんだ。なかなか立派なことが書いてあるじゃねぇか。てえしたもんだな。大家の親父さんには学がある。感心するぜ」
「ほう、意味が判るとは、熊さんも偉いね」
「いや、意味なんて判らねぇよ。何だか有難そうな感じがするじゃねぇか」
「なんだい、相変わらずだな。感じだけじゃなく、どう思ったか言ってごらん。笑ったりしないから」
「そうかい。じゃー、あっしの解釈を言ってみやしょう。まず、釈迦っていやー、あのナンマンダブツ、つまり葬式の事だ。孔子は、まだ会ったことがねえ」
「何を言うのかと思えば……勉強になるから良くお聞きなさい。熊さん、人間は婆さんと同じように、必ず死ぬ」
「そんな事は判りきってらー。もっとも大家は、皺くちゃなまま、死なねぇんじゃねぇかと思っているがな」
「チャチを入れるものではない。お釈迦様や孔子様は人間として生まれてきた。そして、生きている間に皆に教えを説いた。しかし、結局は独りで冥土にお帰りになった」
「そりゃ寂しいね。お連れさんはいねぇってことだ」
「その通り。人間は皆同じだ。だが、その生き様が問題だ。折角、生を受けてこの世に来たのに(ねた)みや(そね)み、争いが絶えない。熊さん、あんたは自分が大切かい」
「そりゃそうよ。饅頭が一個しかなけりゃー俺が喰いてー」
(たと)えが良くないが……皆、幸せになりたいと願っている。自分だけ幸せであれば良いなどと願うようでは成仏は出来ない。イイかい、良ーくお聞き。相手も自分を大切にしたいと思っている。皆、同じだ。であれば、ほんのちょっとでも良い、相手を大切にと思う心があってごらん、世の中から争いはなくなる。つまり、一人一人が幸せになれる」
「確かにそのとおりだ。大家も、たまには良い事を言う」
「私が言ったのではない。孔子様は、自分が好まない事は、他人に押し付けてはいけないと語った」
「成る程、面倒な仕事は誰も遣りたくねぇもんだからな」
「人間はな、自分が遣らなければならない事を知ってるんだ。怠けちゃいけない。面倒でも遣らなくちゃいけない」
「そりゃそうだ。さもなきゃ、家は建たねぇ」
「その通り。熊さんも道理をわきまえている。感心なことだ」
「褒め言葉はいらねぇから、代わりに店賃、いらねぇって言ってくれりゃ〜 助かるが……」
「馬鹿をお言いでない。次に、お釈迦様だが…… お釈迦様は、必要以上にものを(ほっ)するからイザコザが起きると説いた。さらに、()しがらずに相手に与えろと言った。そうすれば極楽に行けるとな」
「さすが、お釈迦様は違う。良い事を言うぜ。可哀想に大家は極楽にはいけねぇな。店賃、店賃と欲してばかりいる」
「熊さん、それとこれとは別の話だ。店賃は、世の中の約束事だ」
「そうは思わねえ。俺は大家とは約束したが、世の中と約束した覚えはねぇ」
「何を言ってるのかね熊さんは。あたしと約束したんだから、ちゃんと払わなくちゃ駄目だろうに」
「へぇ、金は天下の廻り物。いずれあっしの所にも廻ってくるかも知れねぇ。そん時にゃ、考えてもいい」
「なに、見栄を張ってるんだい。ま、そん時には持ってきなさい」
「矢鱈と物分りが良いと思ったら、今日はお通夜だ。毎日、誰かが死んでくれれば店賃を払わねぇで済む」
「好い加減にしなさい。兎に角、約束は約束だ。きちんと払ってもらわなけりゃ困る」
「なんだい、結局、払わなきゃなんねぇのかい。そう言うことじゃ駄目だな。大家が死ねば真っ黒だ。このままじゃ婆さんにも会えねぇ」
「余計なお世話だ」
 熊五郎、急に腕を組んで考え込みます。
「よっしゃ、大家が極楽に行けるように、一肌脱いでやろう」
「何をする積りなんだい。変なことするんじゃないよ」
「大家にきちんと説教しろと、お釈迦様に意見してくらー」
 そう言って、熊五郎が立ち上がります。
「これっ、止めなさい!」
 大家の言葉を無視した熊五郎、部屋を飛び出していきます。 
「あー、行っちまったよ。セッカチな男だ」

 月明かりの中、熊五郎が懐手をして歩いております。
「大家の顔は今も黒い。このままじゃ死んだ時にゃ、もっと黒くなっちゃう。へへ、これも人助けだ」
 なんて言いながら、近所の寺へ。
 当時は蝋燭と言いましても高価でありまして、法事でもなけりゃ真夜中でも灯しません。月明かりが淡く差し込む本堂に、熊五郎が入って参ります。ご本尊の前で手を合わせ、胡坐(あぐら)を掻いて座ります。
「いやー、色々と勉強したたぜ。俺も真っ黒になるのは嫌だ。お釈迦さんに大家の事を頼みゃー、功徳になる。だが、どうやって頼みゃー良いか……」
「熊五郎ーッ!」
 エッ! と言う顔で、熊五郎が辺りを見渡します。
「誰だい! 気安く呼ぶ奴は?」
「私だ。お前の目の前にいる」
「お釈迦様しかいねぇじゃねぇか」
「私は、お釈迦様だ」
「あひゃー、仏像が喋った!」
 ご本尊を見ますと、後光が差してまいります。何とも神々しいお姿。熊五郎、胡坐を掻いておりましたが、きちんと正座をして頭を下げます。
「は、初めまして。熊五郎でやんす」
「名乗らんでも良い。わたしは、お前の名前を知っておる。先ほど熊五郎と呼んだであろうが。熊、甚平は婆さんと同じように極楽に行ける。安心せよ」
「そうですか。そりゃ良かった。ところで、あっしですが、こうやって大家の事を気遣っておりやすが、あっしも死んだ時には極楽に行けますでしょうか?」
「熊、今すぐ、霊岸島に行きなさい」
「な、何で、霊岸島に……?」
「オッチョコチョイが、言問橋から落っこちたのを忘れたのか」
「へぇ、覚えておりますが。それが……」
「お前の(むくろ)は、霊岸島にある」
「エッ! 躯……。てぇ事は、おいらは死んだんで?」
「粗忽者め。このままでは成仏できんぞ。日が昇る前に、自分の体に戻りなさい」
「自分の体……」
「早く行かないと躯が沖に流される。そうなればお前は、この世を彷徨(さまよ)うことになる」
「そうだったのか。何となく寒いと思ったが……。俺は土左衛門か」
 熊五郎、腕を組みシンミリとした顔になります。
「ところでお釈迦様、もう死んでるんだとしたら、あっしは今、兜羅面でやんすか」
「うーん、難しい問い掛けだが、お前も少しは賢くなったし、人を気遣うようになった。だが…… 甚平に店賃を六ヶ月も払っていない。これがマイナスポイントになる」
「へー、お釈迦様は何でも知ってるんですね。こりゃ、たまげた。しかしねぇ、お釈迦様、巷じゃ、そう言うのをお節介焼きって言いやすが……」
「何を言うか。私は、仏だ。何事も、ホットケナイ…… ナンチャッテ」
 なんとお釈迦様が頭を掻きます。これを見た熊五郎、気楽な気持ちになってしまいます。
「酷い洒落、お釈迦様も勉強が足りねぇ。で、あっしはトロ面で……」
「マイナスポイントが気になるが……、そうだなトロ面とは言えんが……」
「お釈迦様、焦らさないで教えてくださいな。お願げぇしますよ」
「そうだな……。ま、トロとは言えんが、中トロと言うところかのう」
「中トロ? お釈迦様、堪忍してくださいよ。あっしはマグロじゃねぇですぜ」
「済まん済まん。ちょっと夏バテでな。暑くて堪らん。お前のように、たまには大川で水浴びでもしたいものだ」
「水浴びしたいとか下手な洒落を言ったり……。いいですかい、皆が、あんたに手を合わせて拝むんだ。少しは、しっかりして貰わないといけないんじゃないですかい。仏像のくせして、そんな事を言うとブツぞう…… なんちゃって!」
「熊、お前も下らん駄洒落を言うものだな。そんな駄洒落で、私に説教しているつもりなのか」
「い、いえ。ただ、あっしの考えを……」
「無駄な事だ」
「な、何で無駄なんで……」
「釈迦に説法と言うだろう」 

 えー、お後が宜しいようで…… 


  * 蛇足ながら「独り来て独りで帰る冥土かな釈迦も孔子も我も我が子も」は、Goecheの祖父の
    辞世の句であります。