(たん) (こう)










      「 伊代の涙 」        九谷 六口








                
                     二〇〇四年十一月十五日
                     二〇〇六年 二月十四日(改)
 







 伊代は、二十歳になったというのに隼人(はやと)との約束を忘れることが出来なかった。

「伊代は、虎千代さんのお嫁さんになる」
 それは小さな声だったが、虎千代の耳にはっきりと届いた。虎千代は、当然のように答えた。
「よし、約束だ。吉次(きちじ)、お前が証人だ」
 吉次郎は証人と言われたが、この言葉が何を意味するのか判らなかった。だが、二人が何か大切な約束をしたことは理解できた。
 虎千代は勝山藩江戸家老長田(おさだ)家の嫡子。伊代は飾り職人伊造(いぞう)の一人娘だった。

 勝山藩の江戸(かみ)屋敷は、神田橋御門の近くにある。(しも)屋敷は大川に架かる新大橋の(たもと)……。ほとんどの大名は、山の手に下屋敷を持つが、わざわざ下町に下屋敷を造ったのは、隼人の父である長田右衛門(うえもん)であった。
 長田家は、代々勝山藩の家老職を継いでいる。右衛門は次男として生まれた。歳の離れた長兄は威丈夫であり、良く武芸に励んだが右衛門が五歳の時、運悪く落馬が元で呆気(あっけ)なく死んでしまった。
 この時、兄はまだ元服を終えていなかった。当然の事として、長田家の跡取りは右衛門になった。右衛門は丈夫ではなかった。どうにも食が細く、無理に食べさせると戻したりした。親は医者にも診せたが、医者は何処といって悪い所はないと言う。父親の佐門(さもん)は、右衛門に木刀を握らせてみた。 筋は悪くない。しかし、余りにも弱々しい太刀捌(たちさば)き。徳川も六代将軍家宣(いえのぶ)の世、戦いなどは起こり得ないとは思うが侍は侍である。佐門は、心許ない思いを抱きながらも右衛門に武芸を続けさせた。
 右衛門は利発な子供であった。
 ――この子は物覚えが早い。それに子供のくせに物の道理を理解するが、屁理屈を言うような口先だけの男にはなって欲しくない。

(1)





 佐門の心配をよそに、右衛門は学問に力を入れ、楽しそうに藩の学問所に通った。ところが十歳を過ぎた頃、学問所では物足りないと言いだした。まさか、小生意気な人間になってしまったのでは……。 佐門は師範に訊いてみた。
「元服前だと言うのに、習得すべき事柄は、すでに身に付けていますよ。師範代を頼もうかと思っていたところです」
 好奇心旺盛な右衛門は、人を教えるのも良いが、もっと勉強をしたいと言った。
 佐門は考えた。右衛門は、いずれ家老職を継ぐ身である。まだ早いのではと躊躇したが思い切って何人かの奉行に頼んでみた。
「どうであろうか、見習いとして使ってみてはくれないか」
 明るい性格が幸いしたのか、右衛門は勉強と称して幾つもの奉行所に出掛けた。前髪を落とす頃になると、役方(やくかた)の仕事内容については、その殆どを理解していた。それに右衛門は、人当たりが良かった。
 右衛門は元服後も相変わらず頼りない体をしていた。剣道にも精進したが丈夫にはならなかった。だが才気に満ち溢れている。佐門は藩の将来を考えた。
 ――これからは刀ではない。如何に藩を豊かにするか。如何に幕府との和を保つか。これが藩の将来を決める。右衛門を表に出した方が良い。
 佐門は右衛門が十八歳になった時に家督を譲った。早すぎる家督相続である。
 ちょうど同じ頃、まだ若い勝山隆典(たかのり)が藩主になった。隆典は右衛門より三歳ほど上である。
「右衛門、先代は堅実な藩主だった。余も見習おうと思っている。だがな、人の命は何日何時、終わってしまうか、誰にも判らん。(おのれ)のみを考えれば、流れに身を任せ、在るがままで居れば良い。しかし、余は藩主。藩の行く末を考えねばならん」
「ははー」

(2)





「物心付いた頃、藩主を継ぐ身であることを知った。面倒だとは思ったが致し方ない。余は、己の喜びだけでなく、この藩の者たちの喜びも考えなければならない」
「ははー」
「では、どうすれば良いか……」
「ははー」
「右衛門…… おぬしは、ははーしか言えんのか」
「ははー」
「馬鹿者! 何か言え!」
「恐れながら……」
「恐れんでも良い。藩主である己、家老であるおぬしだが、幼き頃より、何やかやと口出ししおったではないか。何か良策を言ってみよ」
「良策? さて…… 何に対する……」
「気に喰わんな。その(ほう)けた顔」
「殿、この顔は親に貰ったもの。今更……」
戯言(ざれごと)は、もう良い。藩のこれからじゃ」
「簡単でございます。殖産と幕府……」
「……」
遠江(とうとうみ)は気候にも恵まれ、我々の力で殖産を進めることが出来まするが、しかし……」
「右衛門、確かに余は藩主で、おぬしは家老だ。余は、おぬしの命を奪う事も出来る。だがな、この様な場で言い淀むこともあるまいに」
 右衛門の表情が変わった。
「しからば申し上げまする。要は幕府。これのみにございます」
「……」
「理不尽なるは幕府。世の中に戦さが無くなりしは徳川様のお陰。しかし、万民を思っての徳川様、つまり幕府とは思えませぬ」
「幕府が理不尽とな」

(3)





「如何にも。お家大事、これのみにございます。徳川様、および譜代、外様、各大名にても同じ。いえ、勝山藩においても」
「家を守るためには、他を(おもんぱか)ったりせん。考えるは、己の事のみと言うことか」
「御意。如何にして幕府と上手く付き合っていくか」

 隆典は右衛門に江戸家老を命じた。
 若くして江戸屋敷に入った右衛門は、江戸中を歩き廻った。右衛門が気に入ったのは、活気ある下町の雰囲気であった。
 当時、勝山藩は上屋敷しか持っていなかった。だが、右衛門は下屋敷を造りたいと隆典に具申した。具申書を読んだ隆典は呆れてしまった。書状にはこうあった。
元和(げんな)に定められし武家諸法度(ぶけしょはっと)が改定され、国々所々において、万事江戸法度に遵行(じゅんぎょう)すべき事となった。これは、各藩も江戸の如くあれとのお達しである。幕府における役方、番方(ばんかた)の仕事内容は言うに及ばず、江戸庶民の暮らし振りまでをも知ることが肝要と心得る。特に、大川沿いにおけるそれは、江戸を知る恰好な場所と言える。当処に下屋敷を構え、状況を把握したく思う。この具申は、あくまでも藩のためを考えたものである」
 隆典は苦笑いをした。
「何を今更、武家諸法度などを引き合いに出しおって。改めて言われなくとも知っておるわ。右衛門め、下町に居を構えたいのであろう。まー良い」
 隆典は、これを許した。
 右衛門は、日本橋に五百坪ほどの狭い敷地に下屋敷を造った。大川沿いであり、本所、深川にも近い。

 隼人は、江戸で生まれた。幼名は虎千代。右衛門は、妻の久代(ひさよ)に虎千代と共に下屋敷で暮らすように言った。だが、久代は、下町は騒々しいので厭だと言った。

(4)





 右衛門と久代…… 夫婦仲は良くなかった。
 久代は城代の娘。嫁に貰ってくれと言ったのは城代であった。別に好きな女子(おなご)もいなかった右衛門は、快く娶ったが、当初から二人は馬が合わなかった。久代は城代(じょうだい)の娘であることを鼻に掛け、事ある毎に右衛門を見下し、何かと言うと家柄の違いを口にした。家柄だけではない、右衛門が(たくま)しい男でないことにも不満を言った。
 一緒になり数ヶ月が過ぎた頃であったか、城代の用人である佐々木要之助が心配そうな顔で右衛門に言った。
「長田様、如何でございますか。仲良く……お遣りでございましょうか」
 右衛門は、まあ、それなりにと答えたが、何故、その様な事を訊くのかが気になった。
「ご親切なお言葉だが、何故にまた、そのような事を……」
 佐々木は、近々家督を譲り隠居する身であった。だからであろうか、他言は困りますがと前置きして話した。
「ご城代もお困りになっておられました。気位のお高いお姫様で……」
 右衛門は城代にしてやられたと思ったが、ま、娶った以上、文句は言うまいと苦笑いをした。
 右衛門は子供が出来れば久代は変わると思っていた。それに自分で育てると言って欲しかった。だが、久代は泣き声がうるさい、乳母を雇って欲しいと言った。
 右衛門は、用人の佐伯伊之助に急いで乳母を捜すように言った。翌日、佐伯が菊という女を連れてきた。右衛門は菊に会ったが、どうにも元気がない女だった。どうしたものかと悩んだが、虎千代は乳を欲しがっている。雇うかどうかを考えている場合ではない。とにかく虎千代を菊に預けることにした。菊が抱くと、虎千代は貪るように乳を飲んだ。右衛門はその様子を見ていた。どうした事か、菊の顔が見る見るうちに明るくなっていった。
 右衛門は菊に訊いた。

(5)





「菊、おぬしの子供は幾つなのだ」
 菊は答えずに、涙して出て行ってしまった。
 後日、佐伯が言った。
「菊は、足軽後藤吉之助と所帯を持ち、すぐに子供が出来ましたが可哀想なことに、赤子は生まれて五日ほど経つと息をしなくなってしまいました」
 右衛門は、吉之助に菊を乳母にしたいと言った。
「ありがたきお話でございます。菊を見ていますと可哀想で。喜んでご奉公させていただきます」

 久代は虎千代を抱こうともせず、菊に任せっきりであった。久代は別に遊びに耽ることも無かったが、自室で腰元たちを捉まえ、不満ばかりを言う毎日を送っていた。江戸も嫌い、今の生活も詰まらない。総てに対して不満を言った。
 右衛門はこの事に気付いていた。我が子が出来たというのに、益々不機嫌な顔を見せる久代。屋敷内の空気も(よど)みがちになる。
 そう言えば、腰元たちの笑い声も聴かなくなっている。右衛門は、久代の腰元に訊いてみた。
「どうしたのじゃ。顔が強張っておるが」
 腰元は、いえ、何も変わったことはございませんと答えたが、顔は曇っている。
「構わぬ。有体に申してみよ」
 腰元は躊躇(ためら)っていたが、重い口を開けて話した。
「お殿様、奥方様は、満足することがございません。かと言って、何をお遣りになりたいとも申されません。どうすれば宜しいのでしょうか」
 訊かれた右衛門にも答えようがなかった。

 虎千代は、よく泣いた。赤子は泣くことが仕事だが、久代はうるさいと(しか)め面をした。屋敷は広く、いくら虎千代が泣くからといっ

(6)





て、久代の部屋にまで泣き声は届かない。だが、久代は聴こえると菊に小言を言った。今度は、菊が困ってしまった。
「お殿様、如何致しましょう」
 右衛門は、虎千代と菊を下屋敷に住まわせることにした。不思議なことに下屋敷に住むようになった途端、虎千代は余り泣かなくなった。
「お殿様、お陰様でお坊ちゃまは、いつもにこにこしていらっしゃいます。下屋敷の方がお好きなようです」
 右衛門は、まさか久代から離れたためではあるまいなとは思ったが口には出せなかった。右衛門は吉之助夫婦を下屋敷に住まわせ、一切を任せた。菊は、自分の子供のように虎千代を可愛がった。
 その数日後だった。久代が国に戻りたいと言い出した。江戸は肌に合わない。このままでは気鬱になってしまう。右衛門は好きにさせようと思った。久代付きの腰元は三人いた。二人は江戸で雇ったのだが、閑を出さざるを得ない。用人の佐伯に言わせれば済むことなのだが、右衛門は二人に気を遣い、自分で伝えることにした。泣かれでもしたら困ると思っていたが、二人は笑顔で実家に戻った。
 大店(おおだな)は、娘を大名屋敷に腰元として奉公させたがる。店と娘の箔付けになるからだ。そのためには金を積むこともある。右衛門は、閑を出されたのにも関わらず、喜んで家に帰る娘を見て複雑な思いに駆られてしまった。
 ところが困ったことが起きてしまった。国から連れてきた腰元が閑をくれと言い出したのだ。国元までは六日ほど掛かる。今辞められては、道中の世話をする者がいなくなってしまう。右衛門は国に戻るまでは勤めを続けてくれと頼んだが、腰元はご勘弁をと言う。仕方なく手当てを弾むと言わざるを得なかった。
 久代が姿を消すと江戸屋敷に笑いが戻ってきた。右衛門は遣り切れない気持ちになったが、久代と別れようとは思わなかった。今さら波風を立てることもあるまい。子供は虎千代だけだが、もう久代との間に子供は出来ないと思った。佐伯も周りの者たちも同じよう

(7)





に考えたのか、右衛門に側女(そばめ)を勧めた。だが、右衛門は持つ気はないと言った。
 菊は、虎千代が歩けるようになると、近くにある鎮守の杜や大川に連れて行った。虎千代は川の流れを見るのが好きなのか、帰りましょうと言うと駄々をこねたりした。

 菊が乳母になって五年が経った。右衛門の部屋に吉之助と菊が畏まって座った。
「お殿様、赤子が出来ました」
「おう、それは目出度い。菊、体を労われな。ところで男か女か」
「そ、それは産まれてみないことには……」
 右衛門は、理由もなく男だと思った。菊が言った。
「つきましては、このまま虎千代様の乳母としてお勤めいたしても宜しいのでしょうか」
「何か都合の悪いことでもあるのか」
「いえ、ございません。ですが……出産とは手間が掛かるものでございます。虎千代様のお世話が手薄になるのではと」
 右衛門は笑って言った。
「菊、勤めと思うな。虎千代も不憫な子供じゃ。実の母親の顔も良く知らない。虎千代にとってはおぬしが母親。赤子が産まれれば実の弟と思うであろう。今まで通りに頼む」
 二人は嬉しそうに頭を下げた。ところが顔を上げた二人が同時に口を開いた。
「お殿様、まだ、男とは……」
 心地良い笑いが起こった。

 伊代の父親伊造は、飾り職人として良い腕を持っていた。金や銀などを使った(かんざし)(こうがい)(くし)を得意としたが、頼まれれば(つば)目貫(めぬき)なども作った。微細にわたり丁寧に細工が施された飾り物は評判であった。浮き彫りや透かし…… 凝り性である伊造は、根を詰めて

(8)





仕事をした。夜遅くまで小刀や(のみ)(たがね)を使う伊造を、妻の絹代は心配した。
「おまいさん、たまには休んでくださいな。体を壊しでもしたら元も子もありませんよ」
 伊造は、判ってるよと言いながらも手を休めなかった。客は、伊造に直接注文することが多かったが、大店の小間物屋も良く顔を出した。小間物屋では、紅や白粉、袋物などと共に飾り物を売る。番頭たちは伊造の作った物を売りたいと思っているが、いつ来ても伊造は注文品を作っている。そのような伊造の姿を見ると、強くは言えない。
「伊造さん、たまには(うち)にも卸してもらえませんか」
「へぇ、その積もりでおりやすが、ご覧の通りで……」
 気に入るまで飾り物に手を掛ける伊造は、注文を捌ききれないでいた。番頭は、弟子を取ったらどうなんだいと言ったが、伊造は、
「気が散っていけねぇです」
 と取り合わなかった。
 評判とは恐ろしいもので、伊造の飾り物を求めて大名の奥方や娘までもが長屋に来るようになっていた。その度に、絹代は気を遣った。今では、表長屋に住んでいるから良いが裏長屋の時には大変であった。客が来ても座る所がない。茶を出したいが、まさか立ったままの客に出す訳にもいかない。その度に、お茶も出せずにと頭を下げた。
 今は間口二間、奥行き二間半の長屋である。土間も広く、(かまち)まであった。客は上がり框に腰を下ろし、絹代がたてた茶を飲む。框の奥が仕事場で四畳半の広さだ。壁には道具類が綺麗に整理されている。襖を隔てて八畳間がある。台所は裏庭に面しており、(かまど)で飯を炊いていても客には迷惑が掛からない。長屋は、新大橋に近い本所にあった。
 真面目に仕事をする伊造である。暮らしぶりは良かった。
 伊代が生まれると、伊造は益々仕事に精を出すようになった。仕


(9)





事の合間を見つけては伊代をあやしたりした。だが、絹代は伊造の体が心配であった。座りっぱなしなのである。当初、伊造は御徒町の材料屋まで自分で買い付けに行った。大した距離ではないが、往復には一刻(いっとき)以上掛かる。歩くのであるから、これでも体のためには良い。だが、今は材料屋が注文を聞きに来るようになっていた。持って来た材料が気に入らないこともある。材料屋は、その度に往復するのが面倒であるため、最近は一つの注文に幾つかの材料を持って来るようになっている。
 伊造は、たまにだが鼈甲(べっこう)細工を頼まれることがある。以前は、生地取りから遣ったが、今は手間を掛けられないため生地を買った。()なしの細工物の注文であれば、大きさを言って持って来てもらえば事は済むが、斑がある場合は大変である。予め、模様と大きさを添えて注文するのだが、そう簡単に注文どおりの生地が出来るものではない。我慢する以外になかったが、伊造は鼈甲細工も好きであった。
 伊代が歩けるようになると、伊造と絹代は伊代の手をつなぎ、大川縁をよく散歩した。絹代は、休みを取らずに働く伊造を心配していたが、散歩を始めたのでホッとしていた。
「伊代、夕焼けだ。綺麗だな」
 そう言いながら、伊造は伊代を抱き上げ高い高いをした。その度に伊代はケラケラと笑った。二人は幸せであった。

 右衛門が思っていたとおり、菊は男の子を産んだ。二人の喜びようは端で見ていても呆れるほどのものであった。しかも丸々と太った赤子。死んだ子供が忘れられないと、名前は吉次郎(きちじろう)と付けた。
 虎千代は賢い子供だった。吉次郎が産まれた時には六歳になっていたが菊は乳母であり自分の母親は別の所にいることを理解した。だからと言って、菊に対する態度は変わらなかった。それに、吉次郎を可愛がった。吉次郎は乳を良く飲んだ。
「吉之助、吉次は丈夫な子供になるな」

(10)





「はい、お陰様で兄貴の分まで飲んでいるようでございます」
「まだ、長子(ちょうし)のことは忘れられんのか」
「忘れるなんて、それは無理でございます。あの悲しみは、一生消えないと思います」
 赤子のまま死ぬなど珍しいことではない。死んだ子を何日(いつ)までも悲しむ親がいるかと思えば、自分の子供に目もくれない親もいる。右衛門は、虎千代が不憫であった。だからではないが、右衛門は努めて下屋敷にいるようにした。佐伯は、若殿を上屋敷にお連れすればと言うが、元服するまでは下町で自由に遊ばせて遣りたいと思った。
 水無月が近付いた。藩主隆典が参勤で出府する。勝山藩は遠江にある六万五千石の譜代大名である。表に対し、内高(うちだか)は十万石に近く、また魚介類も豊富で蜜柑なども良く採れた。従って藩財政は潤っていた。幕府からの課役は少なかったが、これは右衛門の働きといえた。内高が十万石もあれば余裕も出来る。だが、右衛門は持ち前の人当たりの良さを武器に、常に幕閣に訴えた。
「勝山藩は、御神君にお仕えし頃より、身を粉にして働いて参りました。今の世にあっても、当時の心持ちは藩民を含め変わっておりませぬ。徳川様のお役に立ちたく、日夜、頭を巡らせております。しかし、ご満足いただけるお勤めまでには至っておりませぬ。藩主隆典も、この事を気に病んでおりまするが何分にも小藩ゆえ……」
 勝山藩の石高を持ってすれば、小藩とは言えない。このことは老中や勘定奉行たちも判っている。だが、懸命に話す右衛門を見ていると、では他藩に頼むかと言わざるを得なくなってしまう。
 右衛門は、隆典にも言う。
「殿、我が藩は貧乏藩にございます」
戯言(ざれごと)を申すな。そちを含め、家老たちは我が藩は潤ってと報告しているではないか。藩民を見ても、皆活き活きしておる」
 隆典は気さくなところがあり、藩内を見廻るのが好きだった。
「如何にも。殿、世の中には表と裏がございます」

(11)





 隆典は右衛門の働きを認めているし、何を言いたいのかは判っていた。
 幕府は、参勤交代における従者の数を禄高に応じて定めている。だが、藩主たちは見栄を張りたがった。他藩より良く見られたい。自然、人数は多くなり行列は華美になる。しかし勝山藩は違った。幕府の定めたとおりの人数であり、しかも地味な行列であった。面白いもので、(きら)びやかな行列に比べ、勝山藩の行列は返って目立った。質実剛健。江戸庶民の間にも、このような評判が流れていた。
 世の中を治めるのは侍であるが生活の糧を生み出すのは、農民であり庶民だ。侍は支配者ではあるが、庶民から浮き上がってはいけない。庶民を知ることにより、藩を無難に治めることが出来る。右衛門が下屋敷を下町に置いた理由も此処にあった。右衛門は、出来得れば虎千代に家老職を継いで貰いたいと思っていた。
 勝山藩は譜代大名であり石高も五万石を越えている。欲を持てば老中にもなれる家柄であるが、隆典は遠江が好きであり、江戸での暮らしには余り興味を持っていなかった。だからであろうか、幕府内での仕事は真面目にこなしたが当たらず触らずの姿勢で臨んでいた。老中たちの評判は悪くはない。だが、むしろ右衛門の方が話題に上る。
「隆典殿、長田殿には参りますな。あのように低い姿勢で来られますと、どうにもお役を言い難くなりましてな」
「歳は私の方が上なのですが、何やかやと口煩い家老でして。国元にも引っ切りなしに書状が届きます。どちらが藩主なのか。困ったものです」
 隆典はこれで良かった。
 気さくな隆典は、下屋敷にも顔を出す。
「右衛門、虎千代は武芸、学問を始める歳であろう。きちんとしているか」
「ははー」
「ははーでは判らん。何じゃ、まだのようだな。虎千代を此処に呼

(12)





べ」
 陽に焼けた顔の虎千代が来た。
「毎日、何を遣っているのだ」
「はい。魚釣り、虫捕り、凧揚げ、陣地取り、独楽回し、それに喧嘩……」
「遊びばかりじゃな。他にはないのか」
「吉次のお守り」
「吉次……。右衛門、誰じゃ」
「はっ、足軽後藤吉之助の息子でして。女房の菊は虎千代の乳母でございます」
「おう、そうであったか。おぬしの嫁は国元であったな。まあ、このことは良い。今おるのか」
「はっ?」
「その者たちじゃ」
 吉之助たちは初めて隆典に会う。このままの恰好ではと、菊などは尻込みをしたが断れるものではない。吉之助、菊、そして菊に抱かれた吉次郎が庭に座った。
「おぬしたちが、この屋敷を守っているそうだな。大儀じゃ」
「ははー」
「元気そうな子供だ。強くなりそうだな」
「ははー」
「虎千代のことも頼むぞ」
「ははー」
「右衛門、この者たちは口を利けんのか。ははーとしか言わんな」
「殿のお話し方が悪うございます。拙者であっても、ははーしか言えませぬ」
「そうか。では、虎千代に遊びを教えたのは、どちらじゃ」
「はっ? 遊びでございますか」
「そうじゃ。虎千代は遊んでばかりいるようだが」
 菊が口を開いた。

(13)





「お虎様は、利発なお子でございます。お一人で何処にでもお出か掛けいたします。町人の子らとも良くお遊びで……。多分、その子らに教わったのではないかと」
「そうか。虎、おぬしはガキ大将なのか」
「違います。遊ぶのは歳上の人たちです。いろんな事を教えてくれます」
「悪いこともか」
 悪いことと言われても、虎千代には意味が通じない。右衛門の顔を見た。
「殿、まだ六つでございます。良し悪しの判断はまだ付きませぬ」
「そうだな。虎、悪いこととはな、人を悲しませたり、約束を破ることじゃ。判ったな」
 虎千代は、この時、隆典の顔をじーっと見ていた。
「右衛門、そろそろ虎千代にも侍としての修行をな。いずれ、吉次にも同じ場を与えて遣れ」
「ははー」
「虎、木刀を持ったことはあるか」
 そう言うと隆典は立ち上がり、吉之助に木刀を持って来いと言った。吉之助は、短い木刀を二本持ってきた。
「虎、さー庭に降りろ」
 二人は向き合った。隆典が打ち込んで良いぞと言った。虎千代は笑顔でいたが、そう言われた途端、木刀を正眼に構え、隆典目掛けて突っ込んでいった。幾つか木刀のぶつかり合う音が響いたが、虎千代の木刀が空高く舞い上げられた。
「虎、口惜しいか」
「はい」
「強くなれ」

 この日以来、虎千代に剣術と学問の時間が与えられた。
 剣術は江戸勤番の脇坂兵衛(わきざかひょうえ)、学問の方は下屋敷近くで寺子屋を

(14)





営む佐藤正巳(まさみ)であった。二人とも二十歳を過ぎたばかりで若い。虎千代は真面目に取り組んだが、それ以外の時間は、相変わらず外で遊びまわっていた。

 虎千代は十歳、吉次郎は五歳になっていた。虎千代は良く学び、そして良く遊んだ。兵衛は、虎千代にいつも言った。
「お虎、おまえは剣道と喧嘩の区別がつかないのか。剣道とは心技体と言ってな、自分を研鑽するものだ。刀はな、人を斬るものではない。身を守るものだ。武士の魂と言うだろう。それはな、いつも清らかに潔くあれとの意味だ。誇りや名誉を汚されることもある。自らが正しいと思えば相手を討っても構わん。だが、身から出た錆と思えば自らを滅する。それが刀だ」
「判っておりまする。しかし、勝負の場においては勝たねばなりません」
「その通り。いざ勝負となれば、勝たねばならん。だからこそ心技体を研鑽しなければならない。どれ一つが欠けても勝つことは出来ん。己対相手だ。刀で勝つのではないぞ。刀を持たなくとも勝つことは出来る。対峙した相手を呑む」
 正巳は楽であった。読み書き算盤。虎千代は事もなく吸収した。ただ、態度が悪い。
「虎千代、何だその姿勢は。書を読む時には目を逸らすな。それに庭を見たり体を掻いたりするな」
「このようにした方が頭に入ります。先生のようにすると逆に気が散ります」
 正巳は、どうしようもなかった。

 虎千代は遊びには必ず吉次郎を連れていった。吉次郎は鼻を垂らしながら虎千代の後にくっ付いていった。虎千代は遊んでいる最中に着物が汚れることなど気にしなかった。二人は、侍の息子には見えなかった。

(15)





 伊代が住む長屋と長田の屋敷は大川を挟んで向かい合っていた。
 伊造の職人技は江戸界隈に広まっていた。弟子になりたい、息子を弟子にと幾つもの話しがあったが、伊造は相変わらず一人で作っていた。従って、数はこなせない。注文を断ることも多々あった。細工物の値は次第に上がっていく。こうなると、客も大店とか武家だけになってしまう。伊造は、自分が作った物が客に喜ばれればそれで良かったが、絹代は残念な気持ちを持っていた。
「おまいさん、街を歩いていて思うんだけどねぇ」
「ん、何だ」
「いえね、綺麗な娘さんが歩いているんだよ。あたしは、ふと考えるんだけど、あの娘の髪に、おまいさんの簪が揺れてたりしたら良いなぁってね」
「何だ、そんなことか。じゃー買ってもらえば良いじゃないか」
「なに言ってんのさ、おまいさんの作った物は高いんだよ。手が出せやしないよ」
 自分の作った物が江戸の町を揺れ歩く。悪くねぇな。だが、伊造はもっと良い物をと上を見る性分である。絹代の言いたいことは判るが、どうしようもなかった。

 伊代は、七つになっていた。すでに稽古事も始めていたが、近所の女の子たちとも良く遊んだ。絹代は、伊代の身なりには気を遣った。身を飾る物を作っているのだ。別に贅沢な着物ではないが汚れた物は着せたくなかった。
 下町には商人や職人が多く住む。連中は、江戸っ子を気取っていた。宵越しの銭は持たねぇ。事実、安定した平和な世の中であり、日銭を稼げば蓄えなどなくとも楽しく暮らしていける。だが、これは一日には、一日分の稼ぎしか出来ないとも言えることである。棒手振りから大店を構えた者もいるが、それはほんの限られた者でしかない。彼らは何事にも倹約し金を貯めた。その習慣は、大店を持ってからも変わらない。近郊の農民は、下肥(しもごえ)にするために府内に

(16)





糞尿を買いに来るが、大店の糞尿よりも長屋の方が値が張る。これは長屋の連中の方が良い物を喰っているからだ。
 とは言え、下町の連中は子供の身なりなどに気を遣う余裕などない。着物が汚れても余程でない限り放ったらかしである。そんな中で伊代は目立っていた。
 男の子は、可愛い子や綺麗な子に興味を持つと、取る態度は二通りである。一つは遠くからじーっと眺めているだけ。もう一つは、(いじ)めである。苛めとは言ってもからかったりするだけなのだが、お調子に乗ると徐々に小突いたりするようになる。相手が本気で怒れば頭でも掻いて苛めは終わるが、メソメソ泣いたりすると面白がって続けてしまう。
 伊代は苛められる方だった。苛められると、すぐに泣いた。一緒に遊んでいた女の子たちは少し離れて見ているだけ。いじめっ子がいなくなると、大丈夫などと言って寄ってくるが、伊代は泣き止まなかった。そうなると女の子たちは慰めるのが面倒になり行ってしまう。だが、伊代は泣き顔で家に帰ることはなかった。親に心配を掛けたくなかったのだ。近所の鎮守様の境内で自分が泣き止むのを待った。

 ある日、同じようなことが起こっていた。伊代は大川の川縁で四人の女の子と遊んでいた。そこに、いつものいじめっ子が五人、ガキ大将を先頭にやって来た。
「伊代、綺麗なおベベだな。皆と違ってちゃ恥ずかしいだろ。どうだ、俺たちと同じにしてやるよ」
 そう言いながら泥だらけの手を擦り付けてきた。他の女の子たちは急いで離れてしまった。伊代は、ただ立ちすくしているだけ。男の子たちは、いい気になって泥を擦り付けている。伊代が泣き出した。
 虎千代と吉次郎がこの光景を少しはなれた所で見ていた。だが、伊代が泣き出すと同時に走り寄った。

(17)





「おいっ、もう良いだろう。女の子を苛めて何になる」
 子供たちは、ギクッとして振り返った。見れば自分たちと同じように泥だらけの恰好をしている。相手は一人。もう一人は物の数ではない。連中は虎千代を取り囲んだ。
「女に味方するのか。お前は女男だな」
 虎千代は黙っていた。ガキ大将が虎千代の胸倉を掴もうとした。だが、その手は胸に届く前に虎千代に握られてしまった。
「いててっ、手を離せ」
「今後、この子を苛めないと約束しろ」
「わ、判った」
 悪ガキたちは走り去った。
「さあ、もう大丈夫だ」
 虎千代は伊代の着物に付いた泥を払ってやった。だが、湿った泥は簡単には落ちない。
「ありがとう。もう平気です」
 伊代は鎮守様の方に歩き出した。すると、吉次郎が伊代の手を握り、一緒に歩き出してしまった。仕方がない。虎千代も一緒に歩き出した。鎮守様に着くと、伊代は手水舎(ちょうずや)で手を洗い、大きな石に座った。吉次郎も真似た。
「名前は、何と言うのだ」
「伊代です」
「伊代か。虎千代だ。こっちは吉次郎。一人で帰れるか」
「大丈夫です。涙が乾いたら帰ります」
 そろそろ剣道が始まる時刻だ。帰らなければならない。だが、何故か虎千代は伊代と一緒にいたかった。

 翌日、八つ半に習字が終わった。虎千代は急いで屋敷を出ようとしたが、いつものように吉次郎がくっ付いて来た。
「吉次、虎は一人で行く。お前は家にいろ」
 吉次郎は膨れっ面をしたが、門の中に入って行った。

(18)





 虎千代は鎮守の杜に走った。伊代は来ているだろうか。鳥居をくぐると昨日の悪ガキたちがいた。虎千代は伸びをして連中の後ろを見た。伊代がいた。伊代は泣いていた。だが虎千代は嬉しかった。来ていたんだ。
「やっぱり来たな。女の味方だからな」
 連中は棒っ切れを持っていた。虎千代が近寄ると五人が取り囲んだ。ガキ大将が、ツッと棒っ切れを突いてきた。虎千代の動きは早かった。さっと、その棒を掴み、思いっきり引っ張った。ガキ大将は思わず手を離してしまった。一人がガキ大将に棒を渡した。喧嘩が始まった。だが、幾ら五人で掛かったとしても、剣道を遣っている虎千代に敵う訳がない。瞬く間に五人は頭を押さえてへたり込んでしまった。
「約束したはずだが」
「……」
「約束を破るとは男でないな」
 悪ガキたちは頭を押さえながら逃げて行った。虎千代は伊代の涙を拭いてやったが、その間、伊代はじっとしていた。
「吉次郎ちゃんは、どうしたの?」
 お礼を言われると思っていた虎千代は、少しがっかりした。何で吉次郎のことを訊くのだろうか。
「吉次は置いてきた」
 この言葉を聞いた伊代は、にこっと笑った。
「一人で寂しくないのかな。でも、今日は二人きりね」
「そうだ。二人きりだ」
 虎千代は、何だか胸がドキドキしてきた。自分は伊代と二人きりになりたかったのだ。しかし、何故だか判らなかった。
「明日は……」
「あ、明日は、吉次と一緒だ。一人じゃ可哀相だからな」
「そうね。二人の時と三人の時があるなんて楽しいわ。今日は、何して遊ぶの」

(19)





 虎千代は何も考えていなかった。どうしよう。吉次郎と二人の時は川原で石投げをしたりする。でも伊代は女の子だ。そんな事をしても詰まらないのではないか。釣りとも思ったが、釣り竿を持ってきていない。独楽もない。伊代は女だ、相撲なんかは出来ない。このまま黙っていては伊代が帰ってしまうかも知れない。
「川原で石投げをしないか」
「えっ! 石投げ……」
 しまった。やはり女の子は石投げなんかしないんだ。困った。すると伊代が言った。
「幾つ続けられるの」
 伊代が訊いたのは石跳ねだ。これは得意だ。虎千代は、ホッとした。
「調子が良ければ、十も二十も跳ねる」
「本当。伊代、見てみたい。ねぇ、伊代にも教えてくれる」
 虎千代と伊代は川原に走った。虎千代は嬉しかった。川原に着くと石を投げた。だが、二回跳ねただけで沈んでしまった。どうも普段と違う。今度は落ち着いて投げた。石は、ピョンピョンと跳ねてくれた。
「凄ーい。こんなの初めて見たわ。ねぇ、伊代にも教えて」
 虎千代は得意満面であった。今日は、剣道の稽古はない。だが、余り遅くまで遊んでいてはいけないと思った。
「そろそろ帰った方が良い。家まで送ろう」
 伊代が頷いた。二人は並んで歩いたが、虎千代にとって女の子と一緒に歩くのは初めてのことだった。人と擦れ違うと何だか恥ずかしい。伊代を見ると別にそんな風もない。伊代と目が合った。伊代がニコッと笑った。虎千代は、可愛いと思った。いや、綺麗だと思った。
 伊代の家は新大橋の近くだった。自分の家にも近い。

「今日は、ありがとう。明日は何刻頃(いつごろ)遊ぶの」

(20)





 明日は勉強も剣道もない。
「午だ。お天道様が天辺(てっぺん)に来たら会おう。そうだ釣りをしよう。夏だから暑いが、大丈夫か」
 伊代がニコッと笑った。
 虎千代は帰ろうと思ったが、伊代が、あのーと声を掛けた。
「お侍さんなの」
「そうだ」
「じゃー、虎千代様って呼ばないと……」
 そんな風には呼ばれたくない。だが、どうすれば良いのだろう。自分の方が歳上のはず。虎では可笑しいし、お虎ではもっと変だ。
「様なんて付けなくて良い。虎千代で良い」
「駄目、お侍さんなんだから。虎千代さんにする」
 虎千代は、新大橋を渡り屋敷に向かって歩いたが、いろいろな事が頭に浮かんできた。伊代を吉次郎と同じように守ってやらなければと思った。でもそれだけではなかった。一緒にいると気持ちがわくわくしてくるのだ。虎千代は、伊代が女の子だからだと思った。そして、何故か屋敷では伊代のことを話すのを止めようと思った。女の子と遊んでは駄目だと言われるかも知れない。吉次郎にも内緒だぞと言うことにした。

 翌日は、あいにく朝から雨だった。
 吉次郎に伊代のことは黙っていろと話したが、うんと言っただけで心許(こころもと)なかった。釣り竿を二本用意した。虎千代は、雨でも行くつもりだった。伊代は女の子だから、もしかしたら来ないかも知れない。虎千代はそれでも良かった。菊が、
「あら、釣りですか」
 と側に来た。菊は、釣り竿が二本あるのに気が付いた。
「まだ、吉次に釣りは無理ですよ。それに今日は雨。吉次は外に出しません。風邪でも引いたら事ですから。虎千代様も表に出ない方が良いですよ」

(21)





 そうか。吉次は外に出られないのか。虎千代は、早く午になって欲しいと思った。ふと思い出した。伊代には、お天道様が天辺にくる時刻と言った。雨だからお天道様は顔を見せないかも知れない。今日は伊代に会えないかなと思った。だが、少し早めに鎮守様に行くことにした。
 虎千代は、番傘を差し、釣り竿を持って出掛けた。
 大した雨ではない。外は明るかった。木々の葉っぱが雨に濡れて綺麗だ。道には水溜りが出来ている。雨粒が落ちるとピチャピチャと音を立て、飛沫(しぶき)が上がる。普段、こんなことに気付くことはなかった。
 水嵩が増していれば川っ縁に下りることはできない。だが、大川の流れは普段とそれほど変わってはいなかった。新大橋を渡った。(みの)を羽織った人たちが世話しなく歩いていく。女の人は着物の裾を持ち上げて歩いている。
 鎮守様の鳥居に来た。虎千代は、ちょっと心配になってきた。伊代は来ていないのではないか。背伸びをして境内を見たが誰もいない。まだ早いのかも知れない。境内で待っていれば……。石の側で待つことにした。
 蝉も元気に鳴いている。多分、蝉は葉っぱの裏で雨宿りしながら鳴いているのだろうと思った。
 お天道様が見えないので時刻が判らない。もう半刻ほど経ったはずだ。今日は別にやる事はない。雨の中に立っていても寒くはなかったが、自分は何時まで此処で待つのだろう。聴こえるのは蝉の声と雨の音。木々の葉っぱから落ちた大粒の雫が番傘に響く。
 虎千代は鳥居の方に目を凝らしていた。だが伊代はまだ来ない。今日は来ないのだろうか。であれば、もう帰った方が良いのかも知れない。いや待て、自分が帰った後でもし伊代が来たら……。虎千代は動けなかった。よし、暗くなるまで待とう。
 虎千代は伊代のことを考えていた。姉弟はいるのだろうか。家には飾り物伊造と看板が掛かっていた。どんな親なんだろう。どんな

(22)





物を作っているのだろうか。職人の娘だ。伊代も手伝うのかな。いや職人は頑固だと聞いた。手伝わせたりしないな。そんな事を考えていたが、ふとある事が頭を過ぎった。
 自分は伊代が好きだが、伊代は自分のことを好いているのだろうか。可愛いし綺麗だ。伊代は、どうなのだろう。まだ二回しか会っていない。女の子は、そんなに直ぐに人を好きにはならないのではないか。虎千代は不安になってきた。それと同時に何故だか番傘が重くなってきた。
 自分のことも考えた。剣道も学問も真面目に遣っている。脇坂兵衛は、小うるさいが容赦ない稽古をしてくれる。とても気持ちが良い。佐藤正巳はいつも笑顔で優しいが、一端怒り出すと始末に終えない。謝まれば直ぐ元に戻るが意地を張っていると不機嫌な顔のままでいる。虎千代は、正巳の顔を思い出してニヤッと笑った。今度は絵を描こうと言っている。自分に絵など描けるのだろうか。雨などはどうやって描くのだろう。
 虎千代は俯いていた顔を上げて鳥居の方を見た。赤い文様の蛇の目が見えた。伊代だ、伊代に決まっている。しかし、姿が二つあった。二人が近付いてきた。一人は伊代だが、もう一人の大人は誰だろう。
「虎千代様ですか。伊代の母、絹代です」
 伊代は絹代と手をつないでいた。
「虎千代です」
 絹代は、じーっと虎千代を見ていたが、笑顔になって言った。
「伊代が外に出ようとするんで、止めたんですよ。雨が降っていますからね。でも、どうしても行くって言うんです。理由を聞いたら友だちに会うって……。どんな友だちなのって聞いても、なかなか言わないんです。その内に泣き出す始末」
 伊代は照れているのか顔を赤くしていた。
「やっと教えてくれました。貴方様と会うって。お侍さんの子供だっていうじゃーありませんか。ねぇ、こちらは職人の娘ですよ」

(23)





 絹代は、このような話をしても虎千代には判らないだろうと思った。
 絹代は、余りにも伊代が会いに行くと言うので一緒に来たのだが相手は侍の子。本心は、もう会うのは止めなさいと言う積りであった。だが、虎千代を見て考えが変わってしまった。しっかりした子供だ。変に偉ぶったところもない。それに子供同士ではないか、いずれ別の世界に入る。
「虎千代様、伊代は泣き虫。一緒にいても、うるさいだけですよ」
 伊代が、むきになって言った。
「伊代は、もう泣かない!」
 絹代は虎千代が釣り竿を持っているのに気が付いた。そうか、晴れていれば二人で釣りをする積りだったんだ。雨は降っているけれど約束だから持って来たのね。絹代は二人とも良い子だと思った。
「虎千代様、今日は雨ですから早めに帰りましょうね」
 絹代は伊代と一緒に帰る積りだったので、伊代の傘は持ってきていない。絹代は、伊代を虎千代の傘に入れた。
「では、伊代を宜しくね」
「判りました」
 帰ろうかと思ったが虎千代を見ると何か言いたそうである。
「虎千代様、何かあれば言っても良いのよ」
「歳上の方から様を付けて呼ばれるのは厭です。虎と呼んでください」
 絹代は、あらまぁと思った。どのような(しつけ)を受けているのであろうか。何故かほのぼのとした気持ちになった。絹代は、もう一度、宜しくね。でも、今日は釣りをするのは無理よ、と言って立ち去った。
 虎千代は伊代を宜しくねと言われ、自分が大人になったように思った。
 大きな番傘だったが、やはり子供二人であっても濡れてしまう。虎千代は伊代が濡れないようにした。

(24)





「虎千代さん、濡れてる」
 伊代は、そう言って虎千代にぴったりと寄り添った。雨に濡れた伊代の髪や着物から良い匂いがした。
「釣りは無理だな。橋に行って大川を見ないか」
 二人は楽しかった。欄干にもたれたかったが濡れている。二人は欄干に手を置いて大川の流れを見ていた。
「伊代、さっき、もう泣かないって言ってたけど、本当か」
「伊代は泣き虫を止めたの。もう泣かない」
 虎千代は笑っているだけだ。伊代は、むきになって言った。
「本気にしないんなら…… 伊代、約束する」
 伊代が約束すると言ったのは、これが初めてだった。虎千代は、伊代の顔を見て頷いた。
「飾り物伊造とあったが、お父上は何を作っているのだ」
 伊代は家族のことを話したが、考えてみれば自分の家族について人に話すのは初めてだった。話していると普段は何とも感じないことが大切なことのように思えてくる。伊代は不思議だなと思った。
 次は、虎千代が話す番だ。だが、絹代の言葉を思い出した。雨はまだ降っている。早く帰した方が良い。
「伊代、今日は雨が降ったが、明日は晴れると思う。明日は釣りが出来る」
「教えてくれる」
 伊代は、そう言って大きな目で虎千代の顔を見た。虎千代の中から垣根がなくなり、急に普段の自分に戻ってしまった。
「勿論さ。俺は、釣りが上手いぞ」
「本当。伊代は、お手玉が上手いのよ」

 家の前に着くと、虎千代は釣り竿を伊代に渡した。
「これは伊代の釣り竿だ。女の子が釣り竿を持って歩くのは可笑しいかも知れないけど、明日は自分で持って来な」
「うん」

(25)





 二人は川原で良く遊んだ。そして側にはいつも吉次郎がいた。伊代は、吉次、吉次と言って可愛がった。まるで三人は兄妹のようだった。
 吉次郎は、屋敷で伊代のことを話していないようだ。虎千代は、吉次郎を男として認め出していた。

 冬、雪が川原を綺麗に覆った。
 三人は、雪を丸めて大川に投げていた。雪礫(ゆきつぶて)を上手く投げると、一度沈んだ後にまた浮かび上がり、川を流れていく。三人は競い合った。伊代もなかなか上手い。
 吉次郎が雪礫を投げずに土手の上を見ている。虎千代と伊代も見上げた。それは嫁入りの行列だった。白無垢の花嫁衣裳。綺麗だ。側に立つ男が大きな傘をかざしている。
「雪は止んでいるのに、何故、傘を差しているのかな」
 伊代は、何も言わずにじーっと見ていたが、独り言のように呟いた。
「伊代は、虎千代さんのお嫁さんになる」
 それは小さな声だったが、虎千代の耳にはっきりと届いた。虎千代は当然のように答えた。
「よし、約束だ。吉次、お前は証人だ」
 吉次郎は証人と言われたが、この言葉が何を意味するのか判らなかった。だが、二人が何か大切な約束をしたことは理解できた。

 虎千代は十五歳になり元服を控えていた。伊代とはここ一年会っていない。勘定奉行所の江戸勤番見習いの仕事が忙しいからだ。虎千代は前髪を付けたまま働いた。これは右衛門の考えであった。何も元服を待つことはない。仕事は早く覚えた方が良い。事実、虎千代は良く仕事をこなした。
 右衛門は元服とは言っても大袈裟なことは考えていなかった。烏帽子名(えぼしな)を付け、前髪を剃るだけで良い。烏帽子親は脇坂兵衛に頼

(26)





むつもりでいた。
 ところが、何と隆典が烏帽子親をやると言い出した。普通であれば藩主には元服後にお目見するだけである。右衛門は嬉しく思ったが、隆典に書状を送った。身に余る光栄。しかしながら、他の藩士の手前もありまする。隆典は、江戸藩邸であれば大袈裟なことにはならない。余が出府するまで、元服の儀を行うことは許さんと言ってきた。藩主の指示である。右衛門は、仕方なく待つことにした。隆典の参勤は一ヵ月後であった。

 水無月の良く晴れた日、隆典の部屋に裃を着た右衛門がいた。虎千代も神妙な顔で座っている。隆典は虎千代に逞しくなったなと声を掛け、始終嬉しそうな顔をしていた。
 前髪を落とした虎千代は凛々しい若侍であった。烏帽子名は、隼人茂典(しげのり)。隆典は実名に自分の一字を贈った。
 右衛門は隼人を自分の名代(みょうだい)として使い出した。若くから体が弱い右衛門は、隼人の成長を待ち隠居する積りでいた。
 右衛門はやたらと顔が広い。しかも自藩を貧乏藩と吹聴し、課役を逃れる術に長けた江戸家老である。武器である人当たりの良さ、機に敏な対応など、隼人は改めて自分の親を見直す毎日であった。隼人は必死になって仕事をした。父を越えたいと思った。
 吉次郎は足軽の身分であるが、右衛門は隼人と共に文武を学ばせていた。逞しさは隼人よりも上である。
 正巳は二人に堅苦しい読み書き算盤だけでなく、絵や歌なども教えた。隼人はそれらを幅広く吸収したが、吉次郎は苦手なようだった。吉次郎が得意なのは剣道と算盤であった。右衛門は、それでも良いと思っていた。いずれ役に立つことがあるだろう。
 元服後も隼人は時間を見つけては剣道に励んだ。吉次郎を上屋敷に呼び付けて稽古をすることもあった。隼人の方が五つ歳上であったが、勝負は互角だった。

(27)






 隼人が十八歳になると隆典は遠江に呼び寄せた。勝山藩の総てを把握させるのが目的であった。

 伊代と伊造、絹代が夕食をとっていた。
 絹代が伊代を気遣いながら言った。
「隼人様だけど……お国に行かれたそうよ」
「おう、俺も聞いた。家老職見習いらしい」
「伊代は、知ってたの?」
 伊代は顔色こそ変えなかったが、目の前が暗くなるような気持ちになっていた。
「いえ。お勤めがお忙しいと……。ここ一、二年、お会いしていなかったので……」
 絹代が辛そうな顔で言った。
「隼人様は、もう十八歳……。お国で奥方様をお決めになるんじゃないかねぇ」
 伊造も辛そうに言った。
「そうだなー、俺たちとは身分が違う。ご大身のお姫様をお貰いになる事だろうよ。お、そうだ。簪でもお作りしよう。よし、善は急げだ。伊代、出来上がったら隼人様の奥方様に届けてくれるか」
 伊代が、寂しげに頷いた。

 伊代が十五歳の時であった。両親は流行り病で呆気なく死んでしまった。
 伊造は余りにも職人過ぎた。絹代は、身上にも余裕が出来たし、注文を選べるようになったのだから少しは休めと口を酸っぱくして言った。だが、伊造は聞かなかった。伊代が小さい時にはよく散歩をしたが、伊代が一人で歩き廻るようになると散歩もしなくなってしまった。その上、根を詰めた仕事振り。いや、伊造にとっては金を稼ぐのが目的ではなくなっていたのだ。もっと良いものを、もっと自分が気に入ったものをと取り付かれたように鑿や鏨を握った。

(28)





 流行り病は風邪であった。風邪は死に至るほどのものではなかったが、体力が落ちた伊造は、肺炎をこじらせてしまった。医者が回復の見込みはないと言った。絹代は、そんなことはないと医者の言葉を信じなかった。絹代は寝ずの看病を続けた。伊代は、私が看病するから寝ろと言ったが、風邪がうつるから来てはいけないと、八畳間にも入れなかった。長屋の者も心配し、代わりに看ると言っても絹代は聞かなかった。
 絹代に、風邪がうつった。伊代が医者を呼んできたが、絹代は、藪医者は帰れと看させようともしなかった。伊代は辛かったが、どうして良いか判らなかった。精が付くようにと卵を買ってきて雑炊を作った。絹代は食べたが、伊造は咳が酷く、それどころではなかった。
 ある夜、八畳間が静かなので伊代は襖を開けて部屋に入った。見ると絹代が伊造の上に覆いかぶさるようにして寝ていた。伊代は絹代を揺さぶった。だが絹代は動かなかった。伊代は大声を上げた。長屋の連中が来てくれた。だが、すでに二人は死んでいた。
 伊代は悲しかったが、涙ひとつ零さずにいた。長屋の者たちは、私たちがいるから涙を堪えているのだと言った。伊代さんは気丈な娘だねぇ。さ、一人にしてあげよう。
 伊代は、通夜の間も涙を流さなかった。死んでしまいたいくらいに哀しいのに我慢した。もう泣かないと隼人と約束したからだ。伊代は、自分を馬鹿だなと思った。子供の頃の、それにもう会えないかも知れない人との約束を必死になって守るなんて……。
 伊代の手には、伊造が作った簪があった。
「隼人様がお戻りになったら、奥方様にお渡ししなければ……」
 伊代は、(てのひら)においた簪をじーっと見ていた。

 この長屋は表長屋であり、店賃は千五百文と高かった。蓄えはあったが、伊代はこのまま住んでいる訳にも行かなかった。大家も何かと相談にのってくれたし、このまま居て欲しいと思った。だが、

(29)





伊代のこれからの生活を考えると店賃の安い長屋に引っ越した方が良いと言わざるを得なかった。
 長屋は大家が捜してくれた。亀戸天神の近くだと言う。二間九尺の棟割(むねわり)長屋で、店賃は月六百文。大家は、私が身元引受けになりましょうと言ってくれた。伊代は、ほっと胸を撫で下ろし、頭を下げた。伊造の道具類を売り、長屋に引っ越すことになった。
 引っ越す前の日に伊代は鎮守様の杜に行った。もう何年経ったのだろう。隼人に会いたかった。
 引越しには大家も付き合ってくれた。此処の大家に会うと詳しく事情を話してくれた。大家は、伊造の評判を聞いていた。
「そうですか。伊造さんの娘さんですか。伊造さんは残念なことをした。私は伊造さんの飾り物を幾つか見たことがあるんですよ。まるで神業だと思いましたよ。でも伊造さんは自分を削っていたんですね」
 先の大家は、暮々も伊代を頼みますよと頭を下げてくれた。
 長屋の連中に挨拶をして廻ったが、皆、頑張りなさいねと優しい言葉を掛けてくれた。気の良い人たちだ。
 伊代は仕事を探さなければならなかった。井戸端で米を研いでいると、一軒離れた部屋に住む鶴がお釜を持ってやって来た。
「ねぇ、伊代さん、あんた、(つくろ)いは出来るかい。洗い張りも出来れば良いんだけどね」
 絹代は、女の(たしな)みと伊代に教えていた。
「出来ます。伸子(しんし)や張り板も揃えます。でも裏庭がないから……」
「なに言ってるのよ。此処でいいのよ。お稲荷さんの前なら邪魔にならないよ。いえね、あたしが賄いで通っている大店さんが良い人いないかって訊くもんだから」
「お鶴さん、お願いします。一所懸命やりますから」
「そうかい、良かった。でも最初のうちは、手間賃が安いと思うけど、構わないかい」
「はい。わたし、粗相のないようにきちんとやります」

(30)





「ふふ、これであたしも番頭さんに少しは大きな顔が出来るってもんだよ」
 伊造の血が流れているからであろうか、伊代は手を抜かず丁寧に仕事をした。口コミとは恐ろしいものだ。先の大店だけでなく、幾つかのお得意先が出来た。鶴も機嫌が良い。店では賄いの手伝いだけだったが、最近は女中頭になったらしい。
「伊代さん、あんたのお陰だよ。ところがね、番頭さんが住み込みで遣ってくれなんて言い出しちゃってね。亭主に言ったら怒鳴られちゃったよ」
「まぁ、熊吉さんは優しい方なのに」
「フフ、亭主ったら、俺は大工の脇棟梁だ。手間賃だって悪くはない。俺の稼ぎじゃ満足しねぇのか。それに住み込みなんて許さねぇってね。あんな鬼瓦みたいな顔してるけど、一人になるのが寂しいんだよ」
 この夫婦には子供がいない。何かというと伊代の世話を焼く。だが、伊代は惚気(のろけ)話も聞かされる。
「この前、雨が降っただろう。傘は一つ。あの人は傘に入らないんだよ。馬鹿だね。びしょ濡れになって歩いてる。そしたらね、おめぇと相合傘なんて洒落臭せぇだってさ」
 伊代は、こんな話しを聞くといつも隼人の顔が浮かんでしまう。
「伊代さん、亭主がねぇ、良い大工がいるって言うんだけど、あんた会ってみないかい」
 縁談である。
 大家もそれとなく縁談を持ってくる。良い話もあったが、伊代の胸から隼人の面影が消えない。

 この長屋に来て三年ほどが経っていた。繕い物を納めに行った帰りだった。伊代は、ふいに声を掛けられた。
「伊代姉さんではないですか」
 声の主を見たが、誰だか判らない。前髪を付けているが逞しい体

(31)





付きの侍だ。伊代は怪訝そうな顔をしたのだろうか、侍が言った。
「吉次郎です」
 伊代は、びっくりしてしまった。あの洟垂(はなた)れ小僧が。こんなにも……。
 二人は歩きながら話しをした。吉次郎は、伊代の両親が死んだことを知っていた。お悔やみの言葉を貰った。だが、やはり話題は隼人のことになってしまう。吉次郎によれば、隼人はすでに藩では重要な人間であり、いずれ家老職に就くだろうとのことだった。
 伊代は嬉しかったが、隼人は益々手の届かない所に行ってしまったと思った。伊代は、隼人が奥方様を貰ったのか聞きたかったが、はしたないのではと訊くのを止めた。
 伊代は、ふと吉次郎が自分を気遣っているように思えた。まさか隼人とのあの約束を気にしているのでは。そう思うと、言い様のない寂しさが込み上げてきた。吉次郎は、またお会いしたいですと別の道に歩いていった。
 一人になった途端、伊代は何故か涙が出そうになった。
 ――約束…… フフ、私はまだ気にしている。泣きたければ泣けば良いのに。それに、あの約束は子供の頃の約束ではないか。もうお嫁さんなんてありえない。
 そう思いながらも、伊代の心の中には常に隼人がいた。

 伊代は、このまま一人で暮らしていこうと思った。
 丁寧な仕事をする伊代は、繕いだけでなく仕立ても受けるようになっていた。手間賃も悪くはなかった。伊代は、これで何とか独り立ちしていけると思った。

 隆典は隼人に勘定奉行を遣らせた。
 隼人は勝山藩を隈なく歩き廻った。海、山、平野。気候も温暖で風光も明媚である。それに殖産の余地も充分にある。隼人は、遠江を気に入っていた。山では蜜柑が作られているし、楢、椚、椎など

(32)





の常緑樹や落葉樹も多い。椎茸栽培などに適している。平野には、まだ開墾されていない土地も多い。隼人は、もっと内高を増やせると思った。
 隼人は、この事を隆典に話した。隆典が殖産に関する計画を作れと言った。隼人は、郡奉行や山奉行、作事奉行を集めて計画を作り上げた。隆典が満足げな表情で言った。
「良く遣った。ところで何年位掛かると踏んでいるのだ」
「はっ、安定した事業とするためには、三、四年ほど必要かと存じます」
「判った。その期間、新たな奉行所を設けよう」
 隼人は奉行を任じられると思っていたが、隆典は別の者を奉行とした。隼人は腑に落ちなかった。これを見た隆典が笑いながら言った。
「何て顔をしておる。不満そうじゃな」
「め、滅相もございません」
「そうか。では良いな」
 藩主が決めたことである。従わざるを得なかった。
 隆典は、隼人に次々と指示を出した。
「隼人、株仲間だが今のままで良いのかのう。余には良く判らん」
 そう言われれば調べなければならない。隼人は、問屋や運送業の寄り合いに顔を出して内情を調べた。冥加金(みょうがきん)は問屋と藩にとって妥当なのか。問屋だけでは片手落ちと職人たちとも話しをする。調べてみれば船具問屋や素麺問屋が株仲間になっていない。それに藩の財政は豊かであるのに、運上金(うんじょうきん)を義務付けられている株仲間があったりする。隼人は、これらをまとめて報告した。
「そうか。これらは勘定奉行の仕事だ。遺漏なく遣るように。ところで、隼人、人間は犬畜生とは違う。人間には読み書き算盤は必要と思わんか」
「御意。侍だけでなく、農民、商人そして職人にとっても必要なことと考えまする。学問は藩の発展に良き影響を与えます」

(33)





「なるほど。我が藩民はどうなのじゃ。どうも庶民と寺子屋の割合が気になるのだが。江戸に比べ、我が藩は少ないのではないか。隼人、おぬしは、どのように考えているのだ」
 寺子屋の数など知る訳がない。ましてや勘定奉行の仕事とは思えない。
「恐れながら、寺子屋等に関してましては勘定奉行の任とは思えませぬが」
「誰も勘定奉行の仕事だとは言っておらん。隼人が調べたくないというのであれば、他の者に回すが」
 こう言われれば受けざるを得ない。調べてみれば確かに寺子屋は少なかった。それに算盤はともかく、読み書きができない藩民が多かった。これではいけない。
 隼人は町奉行や郡奉行を呼び、意見を聞いた。彼らは寺子屋を作るのは良いが、寺子が集るかどうか判らん。銭にならなければ教えようと名乗り出る者もいないはず。藩の援助が必要だと異口同音に言った。費えをどうするかは勘定奉行の仕事である。
「殿、新たに三つの寺子屋が必要に思います。学問奨励の意味で、現在ある寺子屋を含め、総てを藩が運営し、さらに、二年間は月謝を無料にすべきかと」
「師匠の手当てはどうするのじゃ」
「それも藩が持ちまする」
「おぬし、勘定奉行でありながら随分と気前良く金を使うな」
「はっ? では…… 藩が半分を援助すると致しましょうか」
「必要だと思ったから、具申したのであろうが。大事なことにケチケチするようではいかん。以後、気を付けよ」
 何とも遣り切れない隼人であった。

 隼人が遠江に来てから、瞬く間に五年の歳月が流れた。
 二十三歳になった隼人は、藩政の中枢を担うようになっていた。殖産も順調に進み、藩財政はさらに確固たるものになっていた。

(34)





 ある夏の日、隼人は隆典に呼ばれた。
「右衛門から願い状が届いたぞ。隼人も何か書状を受け取っておるか」
「いえ、何も」
「そうか。さてと、隼人には江戸家老を遣ってもらおう」
「はっ?」
「右衛門は、おぬしに家督を譲り隠居したいと言ってきた。右衛門は藩のために良く励んでくれた」
「しかし、隠居する歳ではございませんが」
「聞いておらんのか。右衛門は体調が優れんらしい。生命には別条ないらしいが、倒れたと書いてある。余としても、これ以上の無理は言えん。おぬし、準備をして江戸に行け。おう、忘れるところであった。家督を継ぐのじゃからな、嫁を貰え。どうせ好きな女子など居ないのであろう。朴念仁が。急ぎ探せ。良いな」
 
 慌しく準備をしたが、出立は二ヶ月後になりそうだった。隼人と右衛門の間で頻繁に早飛脚の遣り取りが行なわれた。

 二十歳になった今も、伊代は隼人を忘れることが出来なかった。
 暮し振りは贅沢は出来ないまでも落ち着いたものになっていた。長屋の連中が気になるのは、やはり所帯であった。
「伊代さん、あんた、もう二十歳だよ。子供を作るにしても歳を考えなくちゃね。あたしは授からなかったけど…… 早く所帯を持った方が良いよ」
 辛気臭い顔で鶴が言う。
「心配ばかり掛けちゃって済みません。でも……私はこのままが良いんです」
「このままって言ったって勿体ないじゃないか。器量も良くてしっかりしている。良いお嫁さんになれるのに。あんた……好きな人でもいるのかい」

(35)





 伊代は返事もせずに、ただ笑っているだけであった。
 鶴は気が付いた。今まで男が遊びに来たこともなければ、浮いた話を聞いたこともない。そうだったのか。好きな人がいるんだ。でも変だね。伊代さんは、もう二十歳。判った。伊代は好きだけど一緒になれないんだ。ひょっとしたら相手の男は、もう所帯を持っているのかも知れない。
 鶴は伊代の顔を見ながら考えたが、急に伊代をいじらしく思ってしまった。見る見るうちに鶴の目に涙が溜まった。
「お鶴さん、どうしたの。泣いたりして」
 鶴は袖で涙を拭きながら、家に入ってしまった。

 夏が来ると冬物の洗い張りが忙しくなる。伊代は浴衣の注文を幾つか残していたが、その他の夏物の仕立ては一段落していた。
 伊代は今日も(たすき)を掛けて井戸端で解いた布地を洗っていた。傍では女房連中も洗濯をしている。まだ朝方だというのに、陽の光が眩しい。賑やかな井戸端であった。

「ちょいと聞きてぇんだが」
 大声を上げて男が飛び込んできた。見れば町飛脚が汗だくになって突っ立ている。
「以前、新大橋の近くに飾り職人の伊造ってぇのが住んでいたらしいが……。娘の名前は伊代だ。伊代宛に手紙を預かっている。この辺にいるって聞いたんだが知らねぇかい」
 何が起こったのかと女房たちは顔を見合わせた。この飛脚、一人で捲し上げているが、この長屋に飛脚が来ることなど滅多にない。皆、呆気に取られている。
「知らねぇんなら……他を当たらなきゃならねぇ。こちとら……仕立て便で受け取ってるんだ。朝方に届けなきゃー俺たちの面子に関わる。おいっ、何とか言ってくれよ。忙しいんだからよう」
 伊代が前に進んだ。

(36)





「あんたが、伊代さんかい」
 町飛脚は状箱(じょうばこ)を開け、伊代に書状を渡した。

 書状は隼人からだった。女房連中が伊代を取り巻いた。伊代は、部屋でと思ったが早く読みたかった。
 書状には、たった一行しか認めてなかった。

 ひと月後に出府する。急ぎ江戸藩邸に行ってくれ。

 伊代は、
「江戸藩邸に来い……」
 と呟いた。鶴たちが聞いた。
「ねぇ、江戸藩邸って何処の藩なんだい」
「誰からの手紙なの。他には何て書いてあるの?」
 伊代の耳には誰の言葉も入ってこなかった。隼人から受け取った初めての手紙……。どういう事なのだろう。伊代には訳が判らなかった。伊代は、ふらふらと家に戻った。
 伊代は部屋に入ると箪笥の奥に仕舞っておいた簪を取り出した。伊造が、隼人の奥方へと丹精込めて作ったものだ。簪は伊代の手の中で、まるで何かを喜ぶようにきらきらと輝いている。
 ――お屋敷にお届けしよう。直接、隼人様にはお渡しできないかも知れないけど……
 絹は、大切そうに簪を胸に入れた。

 女房連中が、どういうことなのかねぇと話し込んでいると、伊代が出てきた。
「私、洗濯物を放っぽり出したままだったわ」
 そう言いながら伊代が(たらい)の中の洗濯物を絞りだした。
「ねぇ、何だか判らないけどさ、急いだ方が良いんじゃないかい。仕立て便だったんだろう。後は、あたしたちが遣っとくよ」

(37)





 伊代は、済みませんと言って立ち上がった。

 伊代は訳が判らないまま藩邸に急いだ。

 勝山藩の江戸藩邸は大きな屋敷だった。
 門番に伊代だと告げると、大きな玄関に連れて行かれた。玄関に立ち、待っていると、逞しい体付きの侍が来た。
「お久し振りです」
 その侍は、吉次郎だった。
 吉次郎が廊下を歩きながら言った。
「この前、お会いした時に住まいをお聞きしておけば良かったと反省しています。さ、どうぞ」
 奥まった部屋に通された。
「お連れいたしました」
 吉次郎が廊下に座り、そう告げると障子が開いた。
 部屋には布団が敷いてあった。傍にいた侍が寝ていた男に声を掛けた。男が体を起こした。
 男は痩せていた。伊代は廊下に座っていたが、その男が手招きした。伊代は、部屋に入ったが、また手招きされた。
「さっ、もそっと近くまで」
 侍に促され、布団の傍に座った。
 二人の男は厳しい顔付きで伊代をじーっと見た。暫しの間、二人はそうしていたが、顔を見合わせて頷いた。改めて伊代に顔を向けた時には、二人とも笑顔になっていた。
「伊代か。呼び出したりして済まなかったな。隼人の父、右衛門じゃ。ご覧の通り体調が優れんでな。このままで話しをするが、許してくれ」
 ――隼人様のお父上様……
 伊代の顔が強張(こわば)った。
「実は、隼人だが……」

(38)





 右衛門が(むせ)込んだ。侍が背中を撫ぜた。伊代は、ふと腰を上げたが、侍が伊代を制した。
「隼人は立派な侍になったのでな、家督を譲った。ところが、藩主隆典様が隼人を江戸家老に命じてな。いずれにしても隼人に長田家を継いでもらうのだが……。隼人は(めと)らねばならん。今まで、隼人から嫁にしたい娘がいるなどと聞いたことはない。そこで、然るべき嫁を探すから待っておれと知らせた」
 右衛門が咳き込んだ。伊代が腰を上げた。侍は伊代を止めなかった。伊代は、右衛門の背中を摩った。
「済まんな。もう大丈夫だ」
 伊代は摩るのを止め、元の場所に座った。

「隼人め、それは困る。拙者には約束を交わした伊代という娘がおると言ってきた。吉次郎にも訊いたのだが、自分が証人だと言いよる。なー、吉次郎」
 伊代は後ろを向いた。廊下に真面目腐った顔の吉次郎が座っていた。吉次郎と目が合ったが、吉次郎は軽く頭を下げた。

 伊代は眩暈(めまい)がするほど驚いた。そして胸が早鐘のように打ちだした。

「親の私も会ったことがない娘……」
 こう言いながら右衛門は、優しい目で伊代を見つめて言った。
「約束したとは言っても家老の嫁、おいそれと許す訳にはいかん。そこで急ぎ来てもらった訳じゃ。伊代、私は嫁に恵まれなかったが隼人は良い女子に巡り会ったと思っておる。だがな……」
 右衛門が咳き込んだ。次の言葉が、なかなか出てこない。
「伊代、お前も知っておるだろうが武士と町人の娘は結婚できん」

 伊代は、もう良かった。隼人が約束を覚えていてくれた事を知っ

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ただけで良かった。

 庭から蝉の声が聴こえてきた。

 ――フフ、蝉が鳴いてたんだわ。気が付かなかった。吉次は後で慰めてくれるのだろうか。

 伊代は晴れやかな表情になっていた。ただ嬉しかった。長屋の人たちにどうやって話しをしよう。私には好きな人がいるの。でもそのお方はお武家さん。一緒にはなれないんだけど、そのお方は私のことを覚えていてくれたの。ふふ、皆は、どう思うかしら。

 伊代は、ハッとした。父に頼まれた大切な事を忘れていた。伊代はそっと胸から簪を出し、右衛門の前に置いた。

「この簪は、隼人様の奥様になるお方にと、父が作りましたものでございます」
 右衛門が簪を手に取った。
「そうか、あの伊造が……。おうおう綺麗な花簪だ」
 右衛門は愛しそうに簪を見ている。
「伊代、もそっと、もそっと近くに来てくれぬか」
 伊代は、言われるままに右衛門の傍に座った。
 右衛門が、簪を伊代の髪に簪を刺した。
 伊代は驚いて右衛門を見た。
「伊代、良く似合うぞ。綺麗だ、綺麗だぞ」
 右衛門の目には、涙が溜まっていた。
「伊代、そこでじゃが、済まぬが此処にいる勘定奉行、木島の養女になってはくれぬか」
 木島がニコニコ笑いながら言った。
「善は急げと申す。今日より拙者が伊代殿の父になる。宜しくな。

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伊代殿は拙者の娘として隼人殿の嫁御になる。隼人殿も待ち望んでおられるはず」

 呆気に取られている伊代の頬に、大粒の涙が流れだした。伊代は心の中で呟いた。

「隼人様…… 私は隼人様との約束を破ってしまいました。だって…… 涙が、涙が止まらないんですもの……」

 蝉の声が、一際、大きく聴こえて来た。 







                     (了)





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