隆佐衛門詞譚 【十】
「藪 」 九谷 六口
二00三年四月十一日
木谷隆佐衛門影房 、たまには洒落た事をして見ようかと思った。夢屋を貸し切り常吉と喜和の婚礼を執り行いたいと思った。
登世に相談した。
「隆様、常吉さんたちには伝えたのですか」
「いや、まだだ。まず、おぬしに相談してからと思ってな」
「まー、このような良いお話しでしたら、いちいち私に相談せずとも、ご自分でお決めになってくださいな」
「そうか。だが登世にも関わる事。拙者一人で決める事も出来んだろう」
「ほほほ、隆様、夫唱婦随との言葉もございます。妻とは夫の唱えた事に従うものでございます」
「なるほど」
と隆佐衛門は言ったが、どうも腑に落ちない。
「では、常吉たちに伝えよう。ところで登世。また媒酌を遣る事になるが良いか」
「私も嬉しいです。これで二組目です」
「如何にも。そこでだが、拙者、この浦舟に帆を上げてを謡おうと思っておる。今から稽古をするつもりだ」
「……」
「登世、楽しみにしておれ」
「私は止めて頂きたいと思います」
「変ではないか。先程は好きにしても良いと申したくせに」
「隆様、それとこれとは違います」
「どのように違うか拙者には判らんが」
「……」
登世は黙って行ってしまった。やはり先程の夫唱婦随には条件が
(1)
あるのかと隆佐衛門は思った。だが隆佐衛門は謡うつもりでいた。
「お前さん。何しているの」
「この花簪 は、活き々きしておるが、最近どこかで見たのか」
「えー、紫雲斎様の家で……」
「紫雲斎殿か。趣きのあるお方だ」
琴葉、びくっと体を振るわせた。
「……」
琴葉は源衛門を見ている。源衛門は羽子板を見続けている。
「綺麗で柔らかい絵だ」
「お前さん……。何でこの絵が花簪と判るの」
源衛門、ふっと顔を上げ、あっ! と声をあげた。琴葉の目からは涙が流れている。二人は見つめ合った。まだ鮮明ではないが琴葉の顔が見える。
「琴葉っ! せ、拙者……見える」
隆佐衛門は常吉に伝えた。常吉は、木谷様そんな事をと遠慮したが、喜和は満面に笑みを浮かべ、宜しくお願いいたしますと頭を下げた。
「と言う事で二人は夫婦 になった。夢屋常吉と喜和。末永く幸せであって欲しい」
隆佐衛門、隼人の婚礼で媒酌を経験している。今回は余裕を持っている。登世は、いかにも媒酌人でございとの落ち着いた表情。隼人は仕事で来ていないが園が座っている。絹、着流し姿の権佐、数馬、紫雲斎。松浦代表として嘉吉。長屋代表は甚平だ。それに源衛門と琴葉もいる。源衛門は、まだ杖をついているが、目は確実に回
(2)
復に向かっている。すでに何処を歩くにしても杖だけで歩けるのだが、琴葉は源衛門と歩く時には必ず手を引いている。この席でも、そっと源衛門の手に自分の手を乗せている。
三々九度も終り、さてこれからは無礼講に入るはず……だが、隆佐衛門が、すっくと立ち上がった。
「皆の衆。今ひとつ、お知らせしたい事がござる。高藤殿と琴葉殿だが、このお二人も夫婦になった。ついでと言っては失礼に当たるが、どうであろう、この席で二人にも三々九度をと思うが」
やんや、やんやの嵐。真っ赤になった二人は、それでも嬉しそうに立ち上がった。隆佐衛門、この日はやたらと饒舌になっている。
「娘の婚礼の席で、これまた父親が三々九度。これも人生。喜ばしい限り。では、二組の夫婦の門出を祝い、謡を進ぜたいと思う」
登世は、アッ! と思ったが遅かった。絹は、早々と耳をふさいでいる。
しかし隆佐衛門は止せば良かった。場が白けるとは、このような状況を言うのだと念を押すような謡。ついに権佐が言ってしまった。
「き、木谷さん。皆、もう満足した。その辺で終っても良いのでは……」
隆佐衛門はなおも続ける。ついに登世が立ち上がった。
「隆様っ! 料理が不味くなります。お止めくださいっ!」
そう言うなり何と隆佐衛門の口を塞いでしまった。ぺこぺこと頭を下げる登世。絹は思った。お父様、今日は絞られるわ。私は知りませんからね。
紫雲斎の、ホッほっほーで、やっと場の空気が和 んだ。この場に集まった者たちには、それぞれ話題が多い。
「で、お園殿。予定は……」
「はい。正月です」
「おー、常吉たちと同じだな。息子と娘であれば面白いのう」
(3)
と言った途端、隆佐衛門は頭を傾げた。婚礼は卯月 だったはず。正月とは異なことを……指を折り始めた。これを見た登世、隆佐衛門の手をピシャリと叩いた。
「隆様、余計な事を」
「しかし、合わんが……」
常吉が側に来た。
「木谷様、皆、順序通りとは行かないようですね」
隆佐衛門は、隼人に会ったら何と言ってやろうかと苦虫を噛みしめた。
豪勢な料理が並んだ。鯛の刺身、鰹の叩き、鰻の蒲焼、卵焼き、蕎麦掻 、浅利の酒蒸し、それに八つ頭、蒟蒻、人参、蕗の薹の煮物……。刺身と叩きは、なんと数馬が造った。蒲焼は出前だ。卵焼き、酒蒸しは登世が。煮物はもちろん琴葉だ。話題が源衛門に移った。
「源さん、鳥目とは驚きました」
常吉の話に琴葉が相槌を打つ。
「あたしも変だなと思ったんですよ。良い歳をして野菜類を全く食べないんですから」
「そう言うな。今は旨いと思っておる。しかし鳥目で自害とは、洒落にもならん。琴葉に出会えて良かったと思っておる」
園が言った。
「源衛門様が、そのようなお惚気 を言う方とは思ってもおりませんでした」
「ホッほっほー。男と女は幾つになっても良いものじゃな。羨ましいわ」
「紫雲斎様にも、これからどのようなお方が現れるか判りませんですよ」
「登世殿、嬉しいお言葉。しかし、このような年寄り。誰も気に掛
(4)
けてはくれん」
「あら、恋に歳の差は……と申しますよ」
「これまた嬉しい事を。では絹殿、拙者と如何じゃ」
「まー、そのような……」
話は尽きない。琴源 羽子板にも話が及んだ。特に、紫雲斎は源衛門の浮き彫りに興味を持っていた。紫雲斎の長屋の子供たちも琴源羽子板を持っていた。彫刻は仕上げるのに時間が掛かる。いつも店に置いてあるとは限らない。自然、値も上がっていく。店に行く度に上がっていく値に、琴葉は良い気持ちがしない。そんな話をしていると紫雲斎が、例の笑い声を上げた。
「ホッほっほー。それが商いですよ。数多く作れれば良いが、二人でしか作る事が出来ない。琴葉さん、余り店の主人に、とやかく言わん方が良いですよ。いずれ値は落ちつきます」
隆佐衛門は権佐が大人しいのに気付いていた。隆佐衛門は、絹の好きな相手は権佐以外にないと思っている。それとなく絹を見たり権佐を見たりするが、どうも絹は権佐の事を意識していない様子である。
この日は、夜遅くまで話が続いた。
絹は、絹夢日記の抄録を三冊作った。菊乃、琴葉、園に読んでもらおうと思った。菊乃には飛脚を使った。
園は、絹が日記を書いている事を知っていたが、琴葉は驚いた様子を見せた。
「絹さん、綺麗な字でまとめましたね。それに装丁は、どなたが……」
「私ですが、遣り方が判らなくて……」
「これ……頂いて宜しいのですか」
(5)
「はい。まだ弟の小太郎にしか見せた事がありませんの。お恥ずかしいのですが」
「あら、絹さんには弟さんがいるのですか」
「父は再婚なんです。前の奥様との間にできた子供です。弟と言っても血の繋がりはありません」
「そうだったんですか……。絹さん、日記、読んだらお宅にお邪魔して良いですか」
「えー、楽しみにしています」
菊乃から書状が届いた。菊乃も綺麗な字を書く。
『拝見いたしました。四季折々に絹さんが感じられた事、読む人の心を打ちます。
“花冷 えの中、けなげに己 の姿を精一杯に見せる花簪。風が吹けば、その風に身を任 せ揺れている。右に左に前に後ろに。小さな赤紫の蕾や、中に黄色をおいた白い花。ただ己は、こう在りたいとでも思っているのだろうか、冷たい風の中でも笑顔で揺れている。人は、寂しさ、悲しみ、怒り、落胆……このような中でも自分を見失わず、笑顔でいることはできるのだろうか ……
“夏は暑い。すべてが茹っている。団扇で懸命に風を送るが、たまに浴衣の袖から入ってくる、ほんの少しの風の心地良さにはかなわない。なにげない一言が人の心を動かすことがある。まるで袖から入ってきた、ほんの少しの風のように ……
“椿の花の蜜が好きなのだろう。綺麗なさえずりとともに目白が訪れる。いつも二羽 ……
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私も絹さんと同じように感じ、考える事があります。
もし、喜びと悲しみを計ることができる天秤があったら、どちらの方が下がるのか、なんて考える事もあります。いつも悲しみの方が下がっていて、たまに喜びの方が下がる。ひょっとすると人生ってこの繰り返しなのかも知れません。
殿方に対する厳しいお話、読んでいて噴き出してしまいました。絹さん、殿方たちも私たちを厳しい目で見ているかもしれませんよ。ご用心、ご用心。
私は和歌を作ってみました。笑わないでくださいね。
“さえずりに ふと目を遣った椿花 鶯 色の目白 花咲 く ”
また、お手紙をくださいね』
その三日後、琴葉が訪れた。絹は部屋に通したが琴葉は硬い表情でいる。どうしたのであろうか。見ると手には絹夢日記を持っている。絹も硬い顔付きになった。
「絹さん、この絹夢日記だけど……」
琴葉は話を続けない。絹は、かしこまっている。
「これは抄録ですよね。絹さん、元本 は、どれ位の枚数なんですか」
「これの四倍位……八十枚ほどですが」
「……」
「何か」
「五十枚にまとめることは……」
「えー、出来ますが……」
「絹さん、ご免なさい。わたし勝手にこれを知り合いの版元に見せたんです。そしたら……」
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「琴葉さん、そしたら……」
「出したいって言うんです」
「出すっ?」
「売りたいって。でも絹さん。版元は、あたしに絵を描けって言うんです。そんなつもりで見せたんじゃないのに……」
「えっ! 琴葉さんが挿絵を描いてくれるんですか」
「もし、絹さんが良ければ……」
「ねー、遣りましょうよ。こんな素敵な事があるんですね」
「本当に良いんですね。あー、良かった。余計な事をしたって怒られるものと思っていたから」
話はとんとん拍子に進んでいった。絹は、今まで書いた日記を春夏秋冬の四部に構成し、まとめることにした。挿絵を何処に入れるか、大きさはどれ位にするかについては琴葉と共に決めた。絹の文字が版木に彫られる。絹は丁寧に筆を使った。琴葉は、花鳥風月を綺麗な淡い色合いで描いた。描いた下絵を見ながら呟いた。
──絹さんも下絵を見て喜んでくれた。でも……彫師さんや摺師さんが大変だろうな。
版元和田屋玄達 の所に彫師、摺師が集まっている。玄達は、どちらかと言うと優男 。一目見ただけでは今流行りの和田屋の主人とは思えない。
「旦那、これは手間が掛かりますぜ。ぼかしの連続だ。しかも何色も使った淡いぼかし。それに旦那は、文字までぼかしを使えと言う。表紙は絹布 ですかいっ。装丁師も大変だ。そりゃ、綺麗な本が出来上がりますよ。それだけは確かだが……」
「だったら遣っておくれよ。何てったって女二人が作った日記だ。お前さんたちは読んだのか」
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「えー、読みやした」
「で、どう思ったんだいっ」
「結構、男、いや侍についてはきつい事が書いてありやすが……、まー、何と言うか……、女心と言うか……」
「はっきり言ったらどうなんだいっ! お前の彫りは、すかっとしてるからあたしは好きなんだよ。仕事と同じようにすかっと言ったらどうなんだいっ! 面白いのか詰まらないのか」
「ですから面白いと……」
「摺る方は、どうなんだい。お前もぼかしが大変だとでも言うつもりかぃ」
「いえね、あっしはね、だからね、早い話がね」
「ちっとも早かないでしょう。それに、いい加減、その ね、ね と言うのは止めたらどうなんだい。子供じゃあるまいし」
「ですからね、あっしはね、遣りてーな、とね、言いたかったんですがね、そのー」
「じれったい男だね。そのーの次は何なんだい」
「手間賃をね」
「何だいっ、そんな事かい。あたしはね……。ほれっ、うつっちゃうじゃないか。あたしは、これは売れると思っているからね。いいでしょう、手間賃は倍出しましょう」
神田明神の側にある妙真寺の境内。すでに四ツ頃であろうか、辺りは真っ暗。微かな月明かりの中で二人の侍が刀を交えている。腕は互角なのであろうか、二人とも傷だらけで、着物は血に染まっている。大きく胸を膨らませ息をしているが、聴こえるのはゼイゼイとした息使いだけ。身動きも出来ないほど疲れ切っている。正眼に構えていたが、重さに耐えられないのであろう、刀は下段にいっている。
(9)
この状態が既に四半時も続いている。さーっと風が吹いた。一人が、やっとの思いで刀を上段に持っていき、掛け声もなく斬りつけた。もう一人は必死に刀を中段にした。一人は袈裟懸けに、一人は腹を突かれた。
翌朝、小坊主と寺男が境内を掃き清めている。
「わーッ!」
小坊主が叫び声を上げた。若い侍が二人、血だらけになって死んでいる。寺男は、無我夢中で自身番に走った。話を聞いた熊吉、寺男と共に妙真寺に走った。
「これは惨 い」
命を掛けた斬り合い。むしろ、どちらかの腕が上であれば、斬られる方も斬る方も互いに楽である。二人とも体中、石榴 のような有様。熊吉、二人に手を合わせた。小坊主も寺男も昨夜の異常には気付いていないと言う。熊吉は、この二人に筵 を掛け、このまま手を触れないように言い残し、隼人の家に向かった。
「うーん、浪人であれば我々の仕事。御家人であれば目付けか。寺に関係するとすれば寺社奉行。熊吉、これは面倒だな。浪人に見えたか」
「いえ、身だしなみもきちんとしていましたし、浪人には見えませんでしたが」
「そうか。判った。片岡様の判断に任せよう。熊吉、済まぬが奉行に知らせてくれ」
「旦那は」
「妙真寺に行ってみる」
筵を上げた隼人、目を覆ってしまった。確かに浪人には見えない。奉行がどのように判断するか。隼人は手を合わせ、この場に留
(10)
まる事にした。しばらくすると牛蔵と亥助が来た。
「旦那、仏さんは」
「おぬしらは見ん方が良い」
「いえ、後で親分に……」
筵を上げた二人は仰け反ってしまった。亥助は草むらに走り、戻している。町人も集まってきた。筵を遠巻きにし、がやがや話している。若年寄 の指示を受けたのであろう、目付けが二人来た。
「木村殿、ご苦労でござる。二人に見覚えは」
「いや」
「さて、仏さんだが……」
筵を上げた。やはり顔をそむける。手を合わせ、顔を見ている。
「うーん、酷いな」
目付け二人は何やら小声で話している。
「木村殿、この二人だが……北里藩賀原卯衛門、小田藩桑田幸之助と思われる。二人とも御家人。寺や町人から何か聞いておられるか」
「いや、聞き込みはしたが何もござらん」
「なぜにこの二人がこのような事に」
「佐藤殿、二人は果し合いではなかろうか。北里、小田の江戸屋敷は、この妙真寺からは遠い。この辺りで二人を見た者は誰もいない。と言うことは夜遅くにここに来たとも考えられる。鞘が触れ合っての喧嘩とも思えんしな」
「うーん、だが両藩に問題があるとも聞いておらんし。この二人は書物奉行の下で働いておるが、諍 いを起こすしたとの話も聞いておらん。しかし確かに木村殿の言うように、この寺でたまたま出会ったとも思えんしな」
どうやらこの件は町奉行の管轄ではないようだ。隼人は気掛かりではあったが二人に、では後は宜しくと言い残し、妙真寺を後にした。
(11)
目付け、若年寄らが調べたが、事情を知る事はできなかった。老中、大目付と共に話し合ったが、これは両者の私怨 による果し合い。片方が生きていれば別だが、両者が死亡している。喧嘩両成敗を適応させる事もない。両家、両藩に特に咎 めはなしと決まった。
絹夢日記は、なかなか出来上がらない。玄達はいらいらしている。
──どうも気合いを入れすぎたようだ。職人は本腰を入れだすと始末に追えない。何日までにと言っても、もう少し手を入れると、もっと良くなる。和田屋も良いものを出したいでしょうなどと言う。そりゃ、その通りだけど程度がある。
玄達、彫師の所に行った。
「旦那、あっしは、とっくに終っていますぜ」
摺師の所に行った。
「だからね、旦那さんね、あっしはね、つい十日ほど前にね、刷り上げてね、いますんでね、今はね、装丁師のね、所にね、五十冊分がね、……ね、……ね……」
玄達、話が終らないうちに摺師の家を出た。あいつの話を聞いていると頭がおかしくなる。装丁師の所に行った。
「鎌やん、いつ出来上がるんだい。こっちも商売だからね」
「……」
「鎌やん、何冊ぐらい出来てるんだい。出来たものだけでも受け取りたいけどね」
「まだ、一冊しか出来ちゃーいねー」
「な、何だってっ! 摺師は十日前に渡したって言ってるけどね」
「その通り。だが、出来上がったのは一冊だけだ」
「鎌やん、お前は職人だろう。受けた仕事は、きちんと遣って貰わなくちゃ、困るけどね」
(12)
「その通り。だが、二冊目からは遣る気が起きね~」
「何、与太ってるんだよ。じゃー、十日間、何遣ってたんだい」
「この一冊を読んでいた」
「ば、馬鹿言ってんじゃないよ。十日間、同じ本をずーっと読んでたって言うのかい。出来上がった一冊って、どれだい」
鎌やん、本を渡した。見るとボロボロになっている。十日間、読んでいたと言うのは本当らしい。
「鎌やん、何でこんなになるまで読んだんだい」
「旦那、あっしは、この二人に惚れやした。どんな女か気になり仕事をする気が起きやせん。何遍読んでも顔が浮かんできやせん」
「何、言ってんだろうねこの男は。お前がいくら二人に惚れようが構わないよ。でも仕事は仕事だ。遣る気がないんなら他に回すよ」
「だ、旦那。それだけは堪忍して下せー。絹夢日記の装丁は、あっししか出来やせん」
「話が合わないじゃないか。遣る気が起きないって言ったのはお前さんだよ。遣る気が起きない職人に頼むつもりはないね」
「……」
「どうすんだい。遣るのかい、遣らないのかい」
「旦那、お願げーがあります。この二人を一目でいい、見てみてーんで」
「世話が焼けるね。一目で良いんだね。そしたら遣るね」
「へー、約束いたしやす」
鎌やんは眉毛は毛虫のように太く、厳 つい体付き。街を歩いていると相撲取りに間違えられるほどの巨漢。どう見ても装丁師とは思えない。しかし物事に感じ易いところがある。余りにも感じ入ってしまうため、女には縁がない。玄達、仕事優先と手筈をとる事にした。
(13)
「絹さん、琴葉さん。そう言う訳で装丁師が表紙の図柄について相談したいと言っていますが」
「あら、あたしは玄達さんに任せるって、この前言ったはずだけど……、ねー、絹さん」
「はい。玄達さんは版元。総てにお詳しいと思います。絹布 をお使いになると聞いていますが、玄達さんと装丁師さんが選んだ図柄であれば間違えはありません」
玄達、困ってしまった。まさか、鎌やんを庭に忍ばせ、覗き見させる訳にもいかない。
「えー、その積りでしたが、余りにもお二人の作品が素晴らしいものですから……。あれやこれや我々も選んで見ましたが、どうにも決めかねておりますんで」
そうまで言われれば受けざるを得ない。玄達、では明日お邪魔しますんで、とニコニコしながら帰っていった。
話を聞いた鎌やん、ありとあらゆる図柄の端切れを集めて明日に備えた。実は、鎌やんは薄紫色の地に羽子板と羽根をあしらった江戸小紋の図柄に決めていた。もし、これでは駄目と言われたらどうしよう。これを先に見せた方が良いだろうか。他の図柄と一緒に見せた方が……。いや、最後に見せた方が……。頭の中は明日の事でグチャグチャになっている。興奮して眠れない。
「お忙しいところ済みませんね。これが装丁師の鎌やんです」
鎌やん、完全に舞い上がってしまった。二人とも綺麗過ぎる。絹さんは淑やかな雰囲気だが内に秘めた強いものを感じる。琴葉さんは、描いた絵の通りのしゃきっとした気風の良さ。鎌やんの顔は真っ赤。まるで仁王様のような形相である。さすがに二人も恐れをなし、口を利けない。玄達は、早くこの場を済ませたい。
「で、鎌やん、相談したい図柄は、どれなんだい」
「……」
(14)
「鎌やんっ! 急いでおくれ。あたしも商売なんだからね。本は、とっくに出来上がってなくちゃいけないんだよっ!」
一抱えもある端切れの中から、震える手で鎌やんが五枚の端切れを前に出した。畳の上に並べようと思うが手が震え上手く行かない。これを見た二人、顔を見合わせクスッと笑った。
「じれったいね」
玄達が綺麗に並べた。二人は五枚を見た。鎌やんて見掛けによらず繊細な感覚を持っている。二人は同時に江戸小紋を指差した。これを見た鎌やん、うっ! と唸ったまま失神してしまった。寝不足と極度の緊張感。ホッとしたと同時に気を失った。何しろ相撲取りと間違えられる巨漢である。ドッテ~ン! 松浦の屋敷が揺れてしまった。
驚いたのは屋敷にいた連中。どうした、どうしたと絹の部屋に集まってきた。見れば鯔 のようなものが横たわっている。これまた驚いてしまった。絹が皆に説明した。まー、この人が、そんな綺麗な仕事をしているんですか。世の中は判りませんね、と松がしたり顔で話し、皆は仕事に戻った。
隆佐衛門は、鯔、いや鎌やんに活を入れた。うー、と唸り鎌やんがむくむくと起きあがった。目を瞬 かせている。周りを見て状況を思い出した。鯔が初めて口を利いた。
「では、この江戸小紋にいたしやしょう。あっしもこれが良いのではと思っておりやした」
精一杯、粋がっているが、皆はクスクス笑っている。玄達は、とりあえずこれで仕事は進むと胸を撫でおろした。二人は鎌やんが気に入った。この人は見掛けと違い素敵な感覚を持っている。
鎌やんは、凄まじい勢いで装丁をし始めた。何しろ体力は抜群だ。瞬く間に五十冊が出来上がった。実に繊細で淡い装丁の絹夢日記。
(15)
和田屋は、まず三冊だけ店に並べた。
本の売れ筋は二つだ。一つは、裕福な武家や商人。いま一つは貸本屋だ。貸本屋は新作も扱う。連中は、一冊一分で貸す。一分と言えば大工の二日分の手間賃と同じ。儲けすぎのようだが、貸本屋も大変な商売。客からあの本を読みたい、この本が見たいと言われれば捜さなくてはならない。捜し上手でなければこの商売はできない。
何しろ本は贅沢品だ。いくら読みたくても庶民には手が出せない。何人かで金を出し合い、貸本屋から借りて回し読みするか、写本を手に入れる以外にない。それに目を付け、借りてきた本の写しを取り、それを売ったり貸したりする連中もいるほどだ。
玄達は、この本に二両二分の値を付けた。出来の良い絵草子 や読本 に比べても五割から倍も高い。この本は読んで面白い、見て綺麗だというだけではない。人の心の機微、怒り、笑い、涙を誘う本文、手を掛けた色刷りの挿絵や表紙。これらが一体となり情緒ある雰囲気を作り上げている。部屋に置いておきたい本。写本造りはまず出来ない。それに何と言っても手間賃を倍、払っている。玄達は静かに売れるのを待った。
早朝、隼人が来た。
「何だ、朝早くから」
「隆佐殿、どうにも困った事になった」
「園が別れたいとでも言い出したのか。月数も合わんし」
「月数だとっ。あのように可愛い園。婚礼まで待っていられるものかっ。これっ! そのような戯言 を聞きに来たのではない」
「とにかく早く言え。拙者、朝餉も取っておらん」
「田島様が、おぬしに来て欲しいと言っておる」
「田島様が……。日雇いの仕事かのう」
「礼の妙真寺の件だ」
(16)
「妙真寺……。おー、二人の侍か。だが、あれは方が付いたと聞いておるが」
「両藩の家老が申し立てをしたのじゃ。それが異な事に、相手に騙され切られたと同じ事を申しておるそうだ」
「切られたと言っても、合い打ちではないか」
「そうなのだが、私怨による喧嘩で死んだなどと、そのような簡単なものではない。これでは死んだ者の面目が立たん。再度、お取り調べをとな」
「ふーん。で、拙者は……」
「二人は書物奉行の配下にあった。管轄は若年寄だ。御家人同士の問題だけであれば目付けの仕事であり、これも若年寄の管轄。しかし家老の申し立てと言う事は、大目付も絡んでくる。そこで老中田島様も絡む事になる」
「隼人、おぬしは、幕府の役柄すべてを諳 じる事ができるのか。拙者、何度聞いても良う判らんが」
「組織を講釈しに来たのではない。隆佐殿、役人とはな、御身 大切が一番。今さら調べ直す事はないとか、これは、身共 らの仕事ではないとか申してな、誰も手を付けようとはせん。田島様は、はっきりさせたいとお思いなのだ」
「なるほど。だが、どうであれ町奉行は関係あるまいに。何故、おぬしが言いに来る」
隼人、ここで鼻をぴくつかせ自慢げに話した。
「田島様は、我が父、片岡奉行に何でも相談される。そこで拙者の出番が来たと言うことだ」
「老中は奉行を頼りにしている。その奉行は、おぬしを頼りにしておる。ひいては老中がおぬしを頼りにしているとでも言いたげだな」
「そのような事は言っておらんが……、言われて見れば、そうとも言えるかのう」
(17)
「何が、のう……だ。このような面倒な事、日雇いの仕事ではないわ。断る」
「な、何とっ! 木谷殿、そのような無体なことを。拙者には子供も出来る。断るなどと拙者のこれからがなくなるではないか」
「おぬしの先の事など拙者には関係ない。断る」
「……」
「……」
「木谷殿、ご老中の起 っての頼み。と言う事は徳川幕府の頼み、いやいや日本国の頼みである。そこまで頼られる御仁 であるぞ、おぬしは」
「わっはっはー。これはまた大袈裟な。まー、良い。拙者、おぬしはともかく園が好きだ。園の亭主では仕方ない」
「いやー、有難い。これで親子三人喰って行ける。して、おぬし園が好きなのか」
「おう、好きだ。登世と絹の次だがな」
二人は大声で笑った。
「隼人、賃は高いぞ。老中に、そう申してくれ。明日にでも城に行く」
「賃だが……。ご老中は、先に渡した礼金、少し踏ん張りすぎた。あの中で何とか遣り繰りしてくれんか、と申しておったそうだが」
「なっ、何ーッ!」
和田屋の店先に、女中らしき者を三人従えた女が入ってきた。玄達は自ら応対する事にした。
「いらっしゃいませ」
「……」
「えー、どのようなご本をお捜しでしょうか」
「……」
この女、玄達を無視している。こうなると玄達も癪に障る。
(18)
「こちらが今日、売り出した本ですが」
玄達、絹夢日記を指差す。この女は、ひょいと目を遣ったが、すぐに別の本に目を移そうとした、が、また目を戻した。手に取りパラパラとめくっている。
「こりゃ、これは如何ほどか」
「へー、二両二分で……」
「安いっ。これ、この本にします。後は宜しく」
お供の女中にこれだけ言うと店を出ていった。女中が代金を払ったが、玄達は気になってしまった。
「あのお方は、どなたでしょうか」
「これ、そのような事を軽々しく口にするものではありません。どなたでも良いではないですか。お前は商人 。代金を貰い、品物を渡せばそれで終りです」
何とも生意気な言い様。余計、癪に障る。
「あのような高貴なお方にお会いした事がありません。冥土の土産にと思いまして」
「ほほほ。面白い事を言いますね。これは内緒ですよ。何しろお忍びなのですから。御年寄 の日川 様です」
御年寄と言えば大奥では上臈 に次ぐ位の女。玄達はさすがに驚いてしまった。
「あの本を気に入っていただけたんでしょうか」
「妙な事を言いますね。気に入ったからお買いになったのです。綺麗な本ですね」
玄達、眩暈がしてきた。店で扱った本が大奥に入る。生意気だと思っていたが、急に仏様のように見えてきた。
良い気持ちになっている所に、貸本屋の信吉が顔を出した。
「信吉、家 では枕本 などは扱っていないよ。何度来ても同じだよっ」
「玄達さん、その言い草はないでしょう。今日は、大店 の女将さん
(19)
に頼まれて心が休まる本を捜しているんでさー。何か、ないですかぃ」
貸本屋は仲買 もする。
「これはまた、雪でも降りそうな事を言うね。どこの女将さんか教えてくれれば、見合った本を教えるよ」
「ご冗談を。客は絶対に教えられねーよ。教えたりしたら商売上がったりだ。何かないのかい」
玄達、絹夢日記を見せた。これを見た信吉は目を丸くした。
「こ、これだよ。こう言うのを頼まれたんだ。ところで幾らだい」
「二両二分」
「うーん」
信吉は、これなら倍の五両で売れると目算 した。しかし懐には二両しかない。ままよ。
「これを貰おうか。代金は後で持ってくる。良いだろう」
「何を言ってるのかね。掛売りはしないよ。きちんと二両二分、耳を揃えて払っておくれ」
信吉は考えた。二冊置いてある。金を持ってくる間に二冊が売れる事はないだろう。だが、見ると他の客がその本を手にしている。しかも二人だ。これは危ない。店の前に出て知り合いが通らないかきょろきょろ捜した。二分、借りようと言う魂胆だ。面白いもので、このような時に限って誰も通らない。店の中を見たり表を見たり……。信吉、店に入ってきた。
「玄達兄 ぃ、で、何冊作ったんだい」
「教えないよ。それにお前に兄ぃ、などと呼ばれる筋合いはないね」
あれだけの本だ、手間が掛かる。百冊……、いや、せいぜい頑張っても五十冊だ。ところで何日から売り出したのだろう。それによっては、残りがまだあるかも知れない。
「でー、いつから売り出したんだい。兄さん」
(20)
「教えないよ。今度は兄さんかい。気色悪いね」
玄達も、そうやすやすと商売上の事は教えられない。信吉は居ても立ってもいられない。一人の女は懐に手を遣っている。財布でも取りだされたら堪らない。信吉は指に泥を付け、本の裏表紙にちょこっと擦り付けた。
「兄ぃ、済まねー。どうしても、この本を手に入れてーんだ。此処に二両、置いていく。売っちゃ駄目だぜ。その代わり、あと一両持ってくる。三両で買うぜ。頼んだぜ」
と言うなりすっ飛んで行った。三両でも安いもんだ、二両、儲からー。
玄達、困ったものだと思いながらもニコニコしている。
「あのー、この本は三両ですか」
大店の女将らしき女が聞いた。
「いえ、二両二分で」
「さっきの人は、三両と言っていましたが……」
「いえね、あれは貸本屋でして。本の見立てに関しては一流です。三両出しても惜しくはないと……」
「そうですか。では、これを下さいな」
二冊、いや信吉の分をいれ三冊が売れた。玄達は、いそいそと店の奥から、また三冊持ってきた。
「いやー、済まねー。持って来たぜ」
息を弾ませながら信吉が戻ってきた。ひょいっと見ると、また三冊置いてある。
「兄ぃも人が悪いや。ま、こっちは、この本が手に入れば、それで御 の字だけどよ。貰っていくぜ」
絹夢日記は、この日一日で八冊売れた。
(21)
隆佐衛門は羽織も裃も付けず着流し姿で登城した。門番は嫌な顔をしたが、老中からすぐに通せと聞いている。老中田島もさすがに顔をしかめたが、ま、良い仕事をしてくれれば良い。
「非常勤老中付き木谷隆佐衛門、出勤いたしました」
「おう、お勤めご苦労。まー、楽にせよ」
「ははー」
「面倒な話しでな。けりが付いたと思っておったが両藩がうるさい。役人どもは面倒は避けたいと皆逃げよる。それに厄介な事が起こってな」
「ははー」
「絡むのは書物奉行、目付け、大目付、それに両藩と賀原、桑田両家じゃ。おぬしは拙者の代理としてある。連中には自由に合う事が出来る。事実を突き止めてくれ。良いな」
「ははー」
「またか。何か言いようがあろうに。ははー、ははーと、まるで胸を病んだ病人でもあるまいに」
「ははー恐れ入りまする。ところで、賃でござるが……」
「おう、それじゃそれじゃ。隆佐衛門、先の礼金だが考えて見れば、ちと多すぎた。そこでじゃ……」
隆佐衛門、ここぞとばかりに意気込んで言った。
「ご老中、天下の徳川幕府でござるぞ。余りにもせこいとは思いませぬか」
「……」
「幾ら何でも、只で遣れとは、ご冗談がきつい」
「誰も只とは言っておらん。今度 は、切り餅一個で我慢して欲しいと言おうとしたところだ。誰が只と言った」
隼人にして遣られた。
「ははー、拙者の思い違いでござりました」
「まー良い。で、良いな」
(22)
「ははー」
「ところで隆佐衛門、これは内分 の事じゃが草木図覧 の第三巻が見当たらんのじゃ」
「草木図覧……。拙者、聞いた事がござらんが」
「日本の草木が全五巻に綺麗にまとめられておる。殿のお気に入りの図覧でな。三巻は山野草の巻、殿は、特に山野草がお好き……。この巻だけがない」
「……」
「妙真寺の後、書庫を調べ判ったのじゃ。実は賀原と桑田は共に図覧、図鑑棚の担当であった」
「では、その図覧が絡んでいるのですな」
「そうとしか思えん」
「最後に確認したのは何日頃でござるか」
「例の件が起きる五日ほど前、書物奉行神原一衛 と加原、桑田が書庫棚卸をした時には、確かに五巻揃っておったらしい」
「その後、書庫には……」
「書庫は棚ごとに幾つかの部屋に区切られておってな、それぞれに鍵が掛かっておる。奉行はどの部屋にも入る事ができるが、担当の者が入れるのは自分の棚だけじゃ。それに奉行はな、棚卸のあと体を壊し登城しておらん」
「入れた者は二人だけ……。老中、その図覧とはどれ程の大きさでござるか」
「そうよなー、一尺二寸四方、厚さは二寸ほどかのう」
「大きいですな。懐に、と言うわけには行きませんな。ところで大殿は、この事をご存知なので……」
「拙者、お知らせすべきかどうか頭を痛めた。二人は死んでおるが、事によっては書物奉行神原の首が飛ぶ。だが見つからなければいずれ知れるゆえ、有体にお伝えした」
「大殿は……」
(23)
「厳しいお顔で、しばし黙っておられた。拙者、冷や汗もので何を言われるか待っておった。殿はこう申された。余が好んでいるからと言っても図覧は図覧。これが元で二人が死んだのであれば実に残念。宗次、二人のためにも真相を調べろとな」
「……」
「拙者、奉行への沙汰は、と重ねて聞いた。殿は怠惰な仕事で図覧がなくなったのであれば沙汰を下す。だが、神原は真面目に勤めておる。宗次、今は真相究明が第一。ところで神原が詰まらん事をせねばよいが、ともおっしゃった」
詰まらん事とは責任を取り腹を切ることだ。隆佐衛門は、とんでもない仕事を請けたと思った。
和田屋に身なりの良い初老の侍が来た。顔をしかめている。
「亭主はいるか」
「へへー、玄達でございます」
「おぬしか。昨日 、絹夢日記とやらを売ったそうだが真実 か」
玄達、何か悪い事でもと身構えてしまった。
「へー、何人かのお客様に……」
「そうか。その本を見せてはくれぬか」
そっと手渡す。侍は丁寧に見ている。
「うーん、これでは仕方がない。しかし大奥も困ったものじゃ。何も張り合わんでも良いものを」
「あのー、どのようなご用件で……」
「亭主、これを三冊頼む」
「さ、三冊でございますか。な、七両二分になりますが……」
侍は懐から懐紙に包んだ金を渡した。売れるのは嬉しいが気になる。
「お武家様、三冊もお買いになって、ど、どうされるのでございま
(24)
すか」
「何ー、どうするかだと。どうしようが、おぬしには関係あるまいにっ!」
玄達、亀のように首を引っ込めた。それを見た侍が笑顔で言った。
「玄達とか申したな。昨日、日川殿が参ったであろう」
「い、いえ、そのようなお方は……」
「良い良い、判ってるのじゃ。大奥とは面白いものでな、日川殿と同じ御年寄に三木 殿がおる。お二人は何かと張り合 うておる。日川殿はな、この本を自慢げに見せびらかしたのじゃ。三木殿は面白くない。そこで数で勝負だ」
「しかし、何故お武家様が……」
「大奥の連中はな、お忍び以外には表に出られん。拙者、お勤めを果たした身。隠居でもと思っておったが、何故か許してもらえん。何やかやと大奥から声が掛かる。大殿も拙者だけには大奥の出入りを許される。もう女に手を出さんとでも思っておるご様子。ま、そう言う訳だ」
「へー、いろいろあるんですね」
「玄達、良い本を出したな。これは大切に扱われるぞ。さてとお勤め、お勤め。世話になったな」
この侍、にこにこ笑いながら店を出て行った。玄達は良い本と聞き、目頭が熱くなる思いだった。
絹は、絹夢日記を持って二本松に行った。隆佐衛門から権佐が絵を描く事を聞いていた。それに小太郎もいろいろな事を教えられたと言っていた。絹代との件は、多くの人間が経験できるものではない。そのような経験をした権佐が、どのような感想を持つか興味があった。
「絹さん、この家でお会いしたのは、かなり前でしたね。今日は、どのような……」
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「権佐様、この本をお持ちしました。挿絵は琴葉さんです」
「絹夢日記については噂を聞いています。中々の評判のようです。頂いて宜しいのですか」
「はい。お読みになり、どのように思われるか……」
「侍や男について、かなり辛辣 な事も書かれているそうですが……。しかし綺麗な本ですね。読むのが楽しみです」
「では」
絹は、これだけ言うと帰ろうとした。権佐は、えっ、と拍子抜けである。急いで言った。
「き、絹さん。折角来られたのだ、いま少しお話でも……」
「ほほほ、お話ですか。では……権佐様は二足の草鞋 をお履きになりました。権佐という草鞋、そして佐門と言う草鞋。どちらがご自分に合っているとお思いですの」
権佐、面食らってしまった。四方山話 をと思っていたのだ。今は両方とも上手く行っているし、両方とも合っていると思っている。しかし問い掛けは、別の事でもあるようだ。
「やくざと侍とどちらが合うか、と言う事ですか絹さん。だが草鞋を履いているのは同じ一人の人間です」
「ほほほ。では、どちらを右足にお履きですの」
右足とは利き足の事。佐門になって日は浅い。だが自分の中に侍の血が流れている事が判る。武家の世界に自然と溶け込んでいった。問い掛けに、はっきりと答える事が出来ない。
「うーん、たまに履き変えているようにも思えるが……」
「まー、ご器用でございますこと。先程、二足の草鞋を履いているのは一人の人間、と申されましたが……。では、そのお方はどのようなお方なのでしょう」
権佐は言葉に詰まった。腕を組み目を閉じた。空気が動いた。目を開けると絹は立ち上がっている。
「権佐様、今日は楽しゅうございました。では」
権佐は引き止める事が出来なかった。絹が去った後、絹夢日記に
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目を通し始めた。
“侍は桜か。ぱっと咲き誇り、ぱーっと散る。でも、これは侍が武士 と呼ばれていた頃の話。穏やかな日々、守りに入った侍を何の花に喩えれば。いえ、喩えられた花が可哀想か ……
“天に光と雨を祈り、田を畑を耕す農民は、野辺に咲く菫 草 。実りが多ければ天に感謝し、少ない時もひたすら土を耕す。踏みつけられても、また立ち上がる菫草のように。子供を残し妻子を養うために ……
“技を持つ職人は、気侭に流れゆく浮き草か、はたまた種を風に乗せる薄草 。気に入った仕事があれば妻子を忘れ無我夢中。明日 の事は考えない。妻子の事も ……
“商 い上手は鳳仙花 。艶 やかに咲いた花で目を奪い、気付くとぱっと飛び跳ねる。それは喜びか驚きか ……
“女は大地。男の心を惹きつけて、静かに土に根付かせる。太い幹に、そして綺麗な花を付けるかどうかは女の ……
権佐の耳には絹の言葉が残っていた。そのお方はどのようなお方なのでしょう。
まさに藪の中である。両藩の家老の言い分は全く同じであった。
先方が図覧を盗んだ。それを咎めようとした。今、棚に戻せば自分は黙っていてあげる。先方が言った。妙真寺で詳しい話をしよう。
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行くと、刀を抜いて切り掛かってきた。やむなく刀を交えた。図覧は、先方の屋敷にあるはず。当藩にとっては迷惑千万な話しである。公儀は何をしておるのか。早く死んだ者の汚名を雪 いで欲しい。
若年寄、大目付は全く頼りにならない。せめてもの救いは、目付け佐藤伸介の真剣さだ。
「木谷殿、二人の死様 が目に焼きついております。同じように静かな表情でござった。二人は真面目一方の男。勉強も良く遣っておりました。酒などを交す仲ではありませんでしたが、互いに相手に負けまいと研鑽 を重ねていました。相手を陥 れるような事はできんと思います」
「佐藤殿、大目付殿は、いつも、あーなのでござるか」
「あー、とは」
「逃げの一手」
「これは……、拙者には関わりのないお役の方、何とも申せませんな」
「では、若年寄殿はどうじゃ。同じようにお顔をしかめておるだけ。何のご意見も持ってはいないご様子。書物奉行は自分の配下であろうが」
「まー、何と言うか……。諸々のお役を受け持たれておりますゆえ、お忙しいお方で……」
「わっはっはー。何とも苦しい言い様。仕官する身とは大変な事でござるな」
「木谷殿、そのようにからかわんでくだされ。ところで何か手掛かりのようなものは……」
「全くござらん。藪の中だ。拙者、田島様に暇 を願いたいほどだ」
「これは、また。それでは困りまする。当件は拙者の仕事でござる。しかし木谷殿のように自由に聞き回る事はできませぬ。とは言
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ええ、何なりとお申し付けいただきたい」
「相判った。だが如何いたそうかのー」
「木谷殿の事、城内でも噂になっております」
「ほー、して、どのような」
「……」
「これ、構わんから言ってくれ」
「老中付きなど聞いた事がない。老中も物好きなお方だ。刀屋の亭主に果たして何が出来るのか……」
「な、何ーっ!」
隆佐衛門、久しぶりに燃えてきた。
権佐が和田屋にいた。
「亭主、水島藩の権田佐門と申す。絹夢日記だが、我が藩に送ってみたいと思う。十冊仕込みたいが出来るか」
「水島藩にてお扱いになるのでしょうか。それとも本を商う店 でございましょうか」
「それによって条件は変わるのか」
「いえ。ですが、商人としては知っておきたいと思いますが」
「藩で扱うは、おこがましい。求める店に扱わせたい」
「宜しゅうございます。十冊との事。本来二十二両のところ、十六両で如何でしょうか」
「おぬし、無理をしているのではないか。三割近く値引いておるが」
「商いとは面白いものでございます。まとまった金が入ると思いますと、思い切った値を付ける事ができます」
「判った。では藩屋敷に届けて欲しい。代金は藩邸にて支払う」
玄達は、この時点で焦りを感じた。まだ一月 も経っていないのに
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残りは五冊。急ぎ摺師、装丁師を呼ぶ事にした。
夕暮れ時、隆佐衛門のところに見知らぬ女が訪れた。
「佐藤伸介が妻、茜 と申します。突然のお邪魔、申し訳ございません」
「佐藤殿にはお世話になっております。で、どのような……」
「木谷様、佐藤が怪我をいたしました。いえ襲われたと申すべきでしょうか。佐藤が、是非、お越しいただきたいと申しております」
「何っ! 佐藤殿が襲われたっ! して容態はっ!」
「はい、峠は越えたと医者が申しております。私も、ほっといたしました」
「そうであるか。茜殿、直ちに参る」
隆佐衛門は、着替えをした。帯を結びながら、ふと思った。佐藤殿にお似合いのお方だ。あくまでも控えめ。しかし、しっとりとした眼差しには強いものを感じる。男と女は為るように為るのであろうか。
外はすでに暗い。隆佐衛門は茜の後に続いた。二人は無言であった。足を速めていた。と、やにわに隆佐衛門が茜に飛びついた。茜は隆佐衛門に押し倒され、地面に伏した。体の上には隆佐衛門。茜は何が何だか理解できなかった。このお方は、何を……。その時、頭の上をひゅーっと音を立て何かが飛んで行った。
「茜殿、狙われております。目的は拙者でしょう。茜殿は、このまま伏せていてくだされ」
そう言うと、隆佐衛門は通りの向こう側にある杉の大木まで這っていった。伸介を襲った連中であろう。周りを取り囲まれているようだ。動いては不利。通りを見ると茜は、じっと伏せている。取り囲んでいる殺気が、じわっ、じわっと狭まってきた。これだけ近付いたのだ弓は使えまい。隆佐衛門は杉の大木を背に立ち上がった。後ろから攻められる事はない。見ると浪人が四人。一人は弓を持っ
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ている。
「拙者は木谷隆佐衛門。人違いではござらぬか」
連中は何も言わない。皆、左手を刀に掛け鯉口を切っている。まずい。一人は上段から、一人は突き、一人は下段から……。他の一人は止 め。同時に切り掛けられたら防ぎようがない。隆佐衛門は大声を上げた。
「茜殿っ! お逃げくだされ。後程、お邪魔する」
茜は立ち上がったが躊躇している。明らかに隆佐衛門を気遣っている様子。
「茜殿っ! おぬしが居ると気が散る。早く逃げてくれっ! そこに居られては迷惑だっ」
やっと茜が早足で去って行った。これで自由に立ちまわれる。連中は、まだ刀を抜かない。居合いであろうか。隆佐衛門は、さっと身を屈め、ごろごろごろっと通りに転がっていった。不意を突かれた連中を尻目に一目散に駆け出した。連中も追ってくる。
一町半ほど走ったであろうか、連中は、ばらけたようだ。これで四人同時に切り掛かるのは不可能。隆佐衛門は、ぱっと立ち止まり、振り向いた。先頭の浪人が刀を上段に構えたまま走り寄り、その勢いで斬り掛かってきた。隆佐衛門は、さっと左膝を地面に付け、下から夜雪を抜き上げた。声も立てずに浪人は倒れた。隆佐衛門は、そのまま連中に向かって走った。次の一人は両腕を腹に付け、中段に構えた刀で突いてきた。隆佐衛門は、その刀をしゃりーんと払い、右に身をかわした。勢い余った浪人は、そのまま一、二歩進んだ。隆佐衛門は、斜 後 ろから男を袈裟懸にした。この男も全く声を上げなかった。後の二人は走るのが遅い。前の二人が斬り殺されたのを見たためだろう、揃って逃げて行った。
隆佐衛門は、横たわる二人を調べたが何も持ってはいなかった。誰ぞに金で雇われた浪人であろう。これで、隼人も、この事件に直接関わることになってしまった。
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「木谷殿、茜から聞きました。連中は……」
「二人は倒したが二人は逃げた。おぬしは、どうであった」
「拙者は、二人の浪人に擦れ違いざま切り掛けられた。危ないところであったが運良く石に蹴躓 いてな。左腕を切られたが、まー、掠 り傷で済んだ。人に見せられる格好ではなかったが一目散に逃げました。二人の足が遅いので助かったようなもの」
隆佐衛門は、ふと逃げた二人を思い出した。
「おぬしと拙者……これは誰ぞの差し金でござるな。思い当たる節はござらんか」
「木谷殿、絡むのは両藩と両家だけのはず。どちらかが真実を隠したいがために、我らを襲わせたとも考えられますが……」
伸介、口を噤んだ。
「どうした」
「真実を隠したければ、何も方が付いた事に申し立てをするのも変な話。両藩の家老は、ほぼ同時に再度、お調べをと……」
「うーん。ところで、おぬしが襲われた事は皆に知れておるな」
「如何にも。このように臥 せる身、勤めを休まねばなりませんからな」
「佐藤殿、拙者の件は、当分伏せておいて欲しい」
伸介、怪訝な顔をしたが、はっきりと頷いた。
和田屋に摺師、装丁師が居る。
「増刷 が必要です。第二版は百部としたいが遣ってくれますね」
二人は浮かない顔をしている。玄達は儲かる話なのにと、じれったくなる。
「旦那ともあろうお方が、片手落ちですな」
「片手落ち……」
「いえね、旦那ね、この本はね、綺麗なね、本ですからね、ただ
(32)
ね、増し刷りすればね、良いとはね、言えないんでね……」
玄達は頭痛がしてきた。
「旦那、彫師を呼ばなきゃー、話しになりやせんぜ。あと百部だ、版木をいじらなきゃー無理だ」
玄達は青くなった。私とした事が……。欲に目が眩んだのか。玄達、二人に頭を下げた。
「済まなかった。お前たちの言う通りだ。私は今から彫師の所に行ってくる。彫師が請けたらお前たち、遣ってくれるね」
「あたしはね、近頃ね、街を歩いているとね、綺麗な女将さんたちからね、声をね、掛けられるんですよね、あんたね、いい仕事しているね、ってね」
「判ったよ! 鎌やんはどうなんだい」
「旦那、絹さんと琴葉さんには話を通しているんですかい」
玄達は、まだ話していなかった。どうも手抜かりが多い。二人には売れた分の一割五分を毎月晦日 に払う約束をしている。
「先に二人の所に行くべきだった。今日は手間を取らせたね」
初版に比べ、第二版になると二両二分の値は付けられないが、
「手間賃は、前と同じでいいね」
と言い、急いで出て行った。
「絹さん、琴葉さん、どうでしょう、第二版として百部を考えていますが。値は二両です」
「そんなに売れたの。結構高いのにね。売れた分で手間が貰えるんだから、私は良いけど」
「そうね。素人がうるさい事を言うようですが、出来上がりは大丈夫なんですか」
「えー、今から彫師の所に行ってきますが、腕が良い職人たちです。問題はないと思います」
「琴葉さん嬉しい事ですね。ではお願いしましょうか」
「何しろ十冊、まとめ買いした人もいますんで……」
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「まー、十冊もっ! どんな人かしら」
「何でも、水島藩の方とか申してましたが」
絹は権佐だと思った。江戸の優れたものを水島藩に送る。また水島藩の物産を江戸で売る。一種の交易だ。絹は権佐が絹夢日記を気に入った事を知った。
玄達が持ってきた版木を見ながら、彫師は、あと百部ですかと腕を組み、唸っている。玄達は、職人に無理強 いをしない事にしている。
「どうだい。板はもつかね」
版木には撓 りもひびもない。
「ゴテゴテ絵の具を使わない摺りで良かった。この状態だったら、少し手を入れるだけで大丈夫でしょう」
隆佐衛門は、再度、賀原、桑田の両家に話を聞きに行ったが、新たな事実を知る事は出来なかった。次に書物奉行神原一衛の屋敷に行った。
神原は、見るからに意気消沈の面持ちで隆佐衛門を迎えた。棚卸の後、体を壊したが、今度の件は総て拙者の責任でござると何遍も同じ事を言う。二人には済まない事をした。二人とも真面目な侍だった。どちらかが図覧を盗んだとは到底、思えない。しかし、それ以外に考えられないと思うと裏切られたようにも思う。拙者の管理不行届き。死んでお詫びをとも思ったが、田島様からは無茶をするなと釘を刺された。だが、このままでは立つ瀬がない。あの図覧は惚れ々れするほど素晴らしいもの。大殿も、事のほか好んでおられた。木谷殿、是非とも真相を究明し、できれば図覧を見つけて欲しい。
「神原殿、佐藤殿が襲われたが、心当たりはござらんか」
「聞いております。大怪我をなさったとか。これも拙者の落ち度の
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せいでござる。何故、あの時、体などを壊してしまったのか、悔やまれてなりませぬ」
「そうご自分を責めるものではない。大殿も神原殿のお勤めは認めておられるようです。精々養生しお勤めに励まられた方が良い」
「実に忝いお言葉。一衛、感じ入ってござる。木谷殿は、襲われたにも係わらず、お怪我もなかったと知り、安心いたしました」
摺師は、ぶつぶつ独り言を言いながら、徹夜続き。
「だからね、あたしはね、判ってたんですよね、この本がね、評判になるってね。こう遣ってね、心を込めてね、刷毛を使ってね、色をぼかしてね、そしてね、馬簾 を使ってね、摺るとね、ほーらっね、綺麗にね出来ちゃうんだからね」
次は装丁師の番だ。鎌やんも不眠不休で装丁を続ける。鎌やんは体力抜群である。四、五日の徹夜など何とも思わない。麗しき二人の姿を思い浮かべながら心を込めて絹布を貼ったり、千枚通しで穴をあけたり……。綺麗な紫色の絹糸を使い、本を綴じていく。出来上がった一冊、一冊を優しく手で撫でる。そして愛おしそうに重ねていく。
第二版の売れ行きも上々だった。新たな客として花魁 たちも加わった。彼女らは教養が高い。そん所 そこらの女たちとは違う。水島藩からも、さらに十冊の注文が入った。大奥からも……。また、大店の女将たちにとっては、流行 の書物を見逃す訳にはいかない。我も我もと買いに来る。玄達は押しも押されもしない版元になっていった。
絹と琴葉には思いもよらない事態が起こっていた。読んだ者たちからの書状が舞い込みだしたのだ。嬉しい内容ばかりであった。大抵の場合、最後に続編を待っていますとの添え書きがあった。
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隆佐衛門が伸介の部屋にいた。
「おぬしに、まず知らせようと思ってな」
「木谷殿、手掛かりでござるか」
「いや、目星が付いた。今から田島様の所に行ってくる」
話を聞いた伸介は、愕然 とした。
「隆佐衛門か、大儀じゃ。何か判ったのか」
「田島様、若年寄殿をお呼びいただけますか」
「何じゃ、まず拙者への報告が先ではないか」
「存じております。事は急ぎますゆえ、まずお呼びいただきたい。ご老中、書物奉行、神原一衛殿でござる」
「な、何っ! 神原と申すのかっ! 隆佐衛門、真実 かっ。しかと相違ないのかっ。間違ってでもおったら大変な事になるぞ」
「如何にも」
宗次は近習の者に指示を出した。二人の間に沈鬱 な空気が流れていた。
若年寄が苦々しい顔付きで入ってきた。
「何でござろうか。拙者も忙しい身。急ぎ話を願いたい」
「隆佐衛門によると、どうやら神原であるらしい。今から話を聞く」
「神原っ! 滅相もない。田島殿、刀屋の亭主風情が言う事、まともに聞かれるとは片腹痛いわ」
隆佐衛門が話しだした。
「ご老中、若年寄殿、佐藤殿が何者かに襲われた事はご存知のはず」
二人が頷いた。
「実は、拙者も一昨日の深夜、四人の浪人者に襲われました。この事を知っているのは佐藤殿と奥方の茜殿のみ。でありながら、先ほ
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ど神原殿を訪ねました別れ際、木谷殿の場合はお怪我もなく、と申された」
ここまで聞くと若年寄は急に立ち上がった。
「田島殿、木谷殿をお借りしたい。木谷殿、急ぎ神原の屋敷に参りたい」
配下の者二人と共に四人は神原の屋敷に急いだ。
「若年寄の三浦だっ! 神原に会いたい」
屋敷の中は騒然としていた。真っ青な顔の家人が三浦と隆佐衛門たちを部屋に案内した。皆、あっと息を呑んだ。壮絶な光景だった。白装束に身を包んだ神原が頭を畳に付けている。白装束は血に染まり真っ赤である。神原の周りは血の海。白木の台には書状が置いてある。遺書であろう。血はまだ流れているが神原は全く体を動かさない。床の間には、紫の袱紗の上に図覧が置いてあった。
三浦は遺書を手にした。神原の妻であろうか、女が畳に突っ伏したまま嗚咽 している。神原は、思わず口にしてしまった自分の言葉に気付き、すでにこれまでと自らの命を絶ったのであろう。
遺書には山野草に魅せられ、気付いた時には図覧を持ち帰ってしまった男の自戒の念が記されていた。体を壊したというのは偽りであった。家を守るため、やむなく若い二人に罪を着せざるを得なかったとも書いてあった。妙真寺に来るよう、二人に伝えたのは神原であった。
隆佐衛門は、田島と三浦に自分の考えを話した。
厳重な書庫に入れるのは、確かに奉行の神原と賀原卯衛門、桑田幸之助の三人しかいない。棚卸は常に三人で行われる。棚卸の後に図覧はなくなっている。賀原、桑田が盗んだのであれば、昼間ではなく夜になる。一尺二寸四方の図覧を持ち歩けば、誰かに見咎められるはずであるが誰も見ていない。夜遅くまで仕事をしていたとす
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れば必ず門番が、どちらかを見たはずであるが、門番の誰もが二人は定刻になると普段と変わりない風呂敷包みを持ち、城を出ていたと言う。図覧を城内に隠した場合、彼らが出入りできる部屋は限られるが、どこからも図覧は出てこなかった。
神原は、遅くまで仕事をする事が多かった。しかも、いつも書類を抱え帰宅していた。自宅で書類整理をするためだ。神原は、確かに真面目であり仕事一筋であった。棚卸の後も遅くまで仕事をしていた。書類を抱え城を出たが、これもいつも通りのことであり、誰も神原を疑う者はいなかった。これが盲点であった。
神原は、妙心寺の件が私怨による喧嘩と方が付いた事に戸惑っていた。図覧がなくなったことを、早く公にしなければ困るのだ。二人のうちどちらかが盗み、何処 に売りとばした。それを片方が諌 めようと相打ちになったとの決着が欲しかった。さもなければ図覧紛失の理由付けができない。上手い具合に両藩の家老が動き出した。これで図覧の紛失が公になり思惑通りになると思った。だが、老中付きなる者が探索を始めた。しかも誰とでも自由に会って良いとのお墨付きだと言う。目付けの佐藤伸介も協力している。賀原、桑田の屋敷も調べたという。たとえ奉行とはいえ、いずれは調べられる。邪魔者は消すに限る。まず、佐藤を襲わせたが運悪くしくじった。隆佐衛門は手強 かった。浪人二人は切られ、二人は逃げた。もはや、これまでであろうかと思っている所に隆佐衛門が来た。神原は完全に追い込まれた。
「隆佐衛門、おぬしに神原の気持ちが理解できるか。拙者には理解できんが」
「ご老中、遺書には魅せられたと書いてござった。他人には理解出来ずとも、その人間にとり心を奪われる事はあると思います。山野草は飽かず眺めてしまうほど可愛いもの。神原殿も、その山野草に魅せられてしまったのだと思います。そして山野草に対する思いが図覧に移っってしまった。心を奪われるとは、怖いものでございま
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す」
「なるほど。さて殿には、どのようにお知らせすれば良いのか、頭が痛い」
「恐れながら、有体にお知らせするのが肝要かと思いますが」
「有体にか……。どうじゃ隆佐衛門、おぬしが殿に話してはくれぬか」
「め、滅相もない。拙者はお目見 ではござらん。老中とは言え、規律を破るのは如何かと。それに事は終り申した。拙者の今度の日雇いもこれで終り。頂くものをいただき帰りとうござる」
「隆佐衛門、殿は落胆されるに決まっておる。今しばらく付き合わんか」
「お断りいたす」
「冷たい男だ。とは言え、良く遣ってくれた。礼を言う」
非番なのであろうか、隼人が着流し姿で松浦に来た。
「おう隼人か。例の浪人どもは捕まえたのか」
「いや、逃げ足の速いやつらでのう。何処にいるのか全く見当もつかん」
「何を言うか、連中の足は遅かったぞ」
「そう言うな。すでに江戸にはいないはず。それはそうと、おぬしはあのような面倒な仕事を良くも只で遣ったものだな。拙者には出来ん」
「隼人、きちんと手間賃は貰っておる。先般は只などと嘘を言いおって」
「それは真実か。おぬしこそ嘘を言いおって。拙者は老中が只と言っていると父から聞いたのだぞ」
「では、片岡殿が嘘をついたのか。そのようなお方ではないはずだが」
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「父が嘘などつくはずはない。隆佐殿、老中じゃ。田島殿は良くこのような冗談を言われる」
隆佐衛門は、只と言った時の老中の顔を思い出した。
「拙者、恥ずかしい事にご老中に、只とはどういう事かと訊いてしまった。だがな、老中は、そのような事、誰が言ったのだと顔をしかめておったぞ。あの顔は冗談めいた顔ではなかった。隼人、おぬしであろう、そのような嘘を付きおって」
「拙者が、おぬしにそのような嘘を付いて何の得があるのだ。只とは可哀想にと同情していたくらいだ。たまには拙者を信じたらどうだ」
隆佐衛門は、すでに切り餅を貰っている。大した問題ではないとは思うものの気になる。
「おぬしでもない、片岡殿でもない。ましてや田島様でもない。では、誰が嘘を付いたのだ」
「……」
「……」
真実は、藪の中……。
(了)
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