隆佐衛門詞譚りゅうざえもんしたん【四】










       ほこり 」            九谷 六口









   
                
                        二00三年一月十二日 
                  








 木谷きや隆佐衛門りゅうざえもん影房かげふさ。この夜も魘されている。今夜は蕎麦の食い過ぎだ。うめき声で目が覚めた登世。また雪姫であろうかと蒲団の上に座りじっと見ていた。パッと起き上がった隆佐衛門。急に伸びをしてウップとゲップをした。

「登世。どうしたのだ、眠れぬのか。悪い夢でも見たのではあるまいな」
「何を申されますか、隆様のうめき声で目が覚めたのでございますよ。また、雪姫ですか」
「いや、夢など見ておらんかった。どうも、蕎麦を食い過ぎたらしい」  
「まぁ、人騒がせな。良い歳をして……」
「そう言うな。常吉の蕎麦は旨い。つい、何杯も喰ってしまう。悪いのは常吉じゃな。怒るのであれば、常吉を怒れ」
「何を申されるのかと思えば、常吉さんのせいにして。確かに常吉さんのお蕎麦は美味しゅうございますが、三人で争うように食べ比べをするなど……。絹も呆れていましたよ」
「不思議だ。訳は判らぬが、あの二人と蕎麦を喰っていると、むきになってしまう。まるで子供の喧嘩のようなもの、実に他愛のないことなのだが……」
「隆様は、子供の頃から侍として厳しい躾の中でお育ちになり、心を開けるお友達もいなかったのでは……。あのお二人とご一緒の時は、幼馴染みのように顔をほころばせていらっしゃいます」
「そうだな。父からはいろいろなことを学んだが……厳しい父だった。常に姿勢を正し、喜怒哀楽などおくびにも出してはならなかった。そう言うものだと思っておった。遊び相手も今考えてみればいなかったように思う。裏長屋に住むようになって知ったが、町人は嬉しければ馬鹿笑いし、悲しければ大声を上げて泣く。こちらの方

(1)






が良い。武家の暮らしは堅苦しくていかん」
「では、隆様、今は幸せですか」
「当たり前だ。このように優しく美しい妻がいつも傍にいてくれる。これ以上、何かを望みなどしたら罰が当たるわ」
「まー、ぬけぬけと……。そのような甘い言葉で何人の女子(おなご)を泣かせた事か……」
「登世、拙者はな、今までに女子を泣かせた事などないぞ。もっともこれからは判らんがな」
「また、そのような意地悪な事を……」

 隆佐衛門は、しばし国の事を思い出していた。父親は勘定奉行勘定吟味役であった。父の後を継ぐべく、子供の頃から厳しい勉学、修行の毎日が続いた。家督を継いだ後も、亡き父の仕事振りを思いだしながら研鑽を続けた。遊ぶことなどはなかった。一人で独楽を回したり凧を揚げたくらいか。別れた妻、和代とは好き合って一緒になった。まだ若い二人ではあったが、武家として格式を重んじる暮らしをした。お家取り潰しがあるまでは幸せな毎日であった。
 隆佐衛門は頭を振った。過ぎ去った事ではないか。すでに遠い思い出となっている。そのような事実は確かにあったが、今、頭にふーっと浮かぶ当時の出来事にも心動くことはなかった。

 松浦は繁盛していた。登世を中心に店の者は甲斐々々しく働いている。隆佐衛門は、のんびりとした毎日。絹は琴の稽古の合間をぬい、店を手伝うようになっている。隆佐衛門が来てから、登世に懸想けそうする男は居なくなっているが、今度は絹である。まだ、子供ではあるが、いずれ息子の嫁にとの縁談もいくつか舞い込んでいる。商人あきんどだけでなく、武家からも話がある。侍が町人の娘と結婚する事はできない。しかし侍の家に養女として迎えれば問題はない。登世は聞き流しているが、絹はそのような話を聞くと嬉しそうに鼻を動かしながら隆佐衛門に語る。

(2)






「お父様、如何いたします。また、絹を欲しいと言っています。美しいのも疲れるものですね」
 隆佐衛門、冗談とは判っていても呆れて何も言えない。だが確かに絹は、日に日に美しい女へと育っているようだった。
 たまに部屋を覗くと、文机に向かい何やら認めている。習字のためだけではなく日々の出来事を記しているようである。日記であろう。物を書く時には、いろいろと思いを駆け巡らせるものである。思慮を深くすることは内面的な成長を促してくれる。絹は表面的な美しさだけでなく、内なる魅力も備えつつあった。
 まだ、親娘になって日は浅いとは言え、隆佐衛門は既に子供の将来を心配する人並みの父親になっていた。隆佐衛門は認めた物を見たくて仕方がない。しかし、いくら頼んでも絹は決して見せてはくれない。書いたものを見たいと登世にも話した事がある。
「母親にも見せないものを父親に見せるはずがありません。それに、絹は今、自分のために書いています。いずれ何かを見せてくれるかもしれませんよ。その時まで待てば良いのです」
 登世のきっぱりとした話に頷かざるを得なかった。

 高藤源衛門たかとうげんえもんは、常吉の部屋で三日三晩、眠り続けていた。常吉は、なぜ自分がこの侍を家に連れてきたのか理解していなかった。しかし、志津を亡くし、一人で暮らす毎日には寂しさを感じていた。いくら志津があの世で見ていてくれるとは言え、語り合う相手が居ないのは辛い。いつものように屋台を担ぎ商いに精を出していた。店を持ちたいと志津と夢を語り合った日々を懐かしんでいた。
 ――このお武家さん、今日も寝ている。疲れているのだろう。ま、これも何かの縁だ。どうなるかは判らないが、休みたいだけ休んでもらおう。
 常吉、屋台を担いで出掛けていった。

(3)






 源衛門は、静かに目を覚ましたが、何故、自分が此処にいるのか思い出せないでいる。周りを見れば裏長屋の部屋のよう。きれいに掃除が行き届いている部屋。プーンと煮干出汁の匂い。
 ――出汁の匂い……。あの蕎麦屋の部屋だ。そうか、木谷とか申す男と……。その後、蕎麦を喰った。
 総てを思い出すのにかなりの時間が掛かった。

 ――何故、蕎麦屋に付いてきたのか……。江戸を離れようと思っていたはず……
 源衛門は、蒲団の上で腕組みをしながら事の成り行きを考えたが、自分自身の行動を理解する事はできなかった。部屋には蕎麦粉、大きな鉢、棒、俎板や包丁がきれいに置いてある。蕎麦を作る道具だろう。振り返ると部屋の片隅に白木の位牌が置いてあった。俗名志津と書いてある。源衛門は何の意識もせず手を合わせた。
 ――あの男の女房か。若かったであろう、可哀相に……             
 土間に下りてみた。かまどには大きな鍋。戸を開け表に出た。薪が積んである。源衛門は鉈を掴み、丸い木の上に太い薪を置いた。鉈を振りかざして、打ち下ろした。クーン! と音を立て、薪は真二つに割れた。
 クーン、クーン……
 源衛門は無心であった。きれいに細く割れていく薪。鉈を打ち下ろすたびに自分の中に渦巻いていたドロドロとした何かが飛び散っていくような感覚を覚えた。

 隣の鶴が顔を出した。
「あら、お武家様、精が出ますね。まー、きれいな薪。常吉さんに頼まれたのですか」
 ――あの男、常吉と言うのか。
 源衛門は鶴の顔を見た。

(4)






「ちと、うるさかったかな。済まんな。実はな奥方、薪を割るなど初めての事、気持ちの良いものじゃな」
 鶴は、びっくり仰天した。
「ちょ、ちょっとお武家様、い、今、何て言いました。お、オクガタ……ですか」
 鶴は腹を抱えて笑い出した。自分でも止められないのであろうか馬鹿でかい笑い声が続いた。こうなると長屋である。そこここの戸が開き、女房どもが顔を出し、源衛門の周りに集まってきた。
「お鶴さん、あんたどうしたのよ。普段から大きな声だけどさー、その馬鹿笑いは普通じゃないよ」
 源衛門は途方にくれていた。しゃがんだままポカーンと女房たちを見ている。
「だってさー、このお武家様ったら、わたしの事を奥方なんて呼ぶんだもの。生まれて初めてだよ、奥方なんて呼ばれたの」
「エーッ! お武家様、お鶴さんを奥方なんて呼んだのーっ! やーだっ! 奥方だって」
 源衛門にとり、女たちに取り囲まれるのも初めて。このように気さくに語りかけられるのも初めてのことである。何を言ってよいか全く判らない。からかわれているようにも思えるが悪意は感じられない。自分の知らない世界が、ここにはある。

「しばし拙者の言う事を聞いてもらいたい。何故に皆はそのように笑うのじゃ」
「お武家様、だって、あたしたちは町人だよッ。奥方ってのはお武家様の奥さんたちの事だよ」
「では、何と呼べば良いのだ」
「そうねー、せいぜい奥さんだね。でも、ここに住むんだったら名前を覚えなくっちゃね。この人は鶴。あたしは亀。こっちの人は竹で、あそこで腹抱えてるのが梅。ねー、お武家さんは何ていうの」

(5)






「拙者か。拙者は高藤源衛門頼義よりちかと申す。以後、お見知りおきを」
「あれまー、凄い名前だねー。ねー、どうして常吉さんの所にいるのよ」

 源衛門、言葉に詰まってしまった。拙者は、何故ここに居るのか。聞きたいのは自分の方である。お武家様と呼ばれるたびにツクンと胸が痛む。
 今まで刀に、そして侍にしがみついてきた。何人を斬ったであろうか。人を斬る事が天分だと思っていた。その自分が何故、自らの往き方に虚しさを感じてしまったのか。刀を、侍を捨てようと思った。今までの総てを捨てようと思った。刀は捨てた。しかし、身に付いた侍は浪々の身になり既に二十数年が経った今も、そのまま残っている。
 考え込む源衛門。女房たちは笑顔で見ている。源衛門は、ふーっと女房たちを見回した。力強い眼差し。その目が子供のように何かを知りたいと興味津々と輝いている。何よりも驚く事は、優しさを持っていることだ。源衛門は、その時、何かを悟った。

「拙者にとって、ここに居る方々は奥方様でござる。常吉の所に厄介になっているが宜しくお願いしたい。ところで頼みがあるのだが聞いてはくれぬか」
「あんたって顔は怖いけど優しそうな人だね。頼みがあるんなら言ってごらんよ。お金は貸せないよっ。でも、一晩付き合えって言うんなら考えるけどね」
 また馬鹿笑いが起こる。源衛門はもう驚かない。
「拙者、刀を捨てた」
 一瞬、皆が静かになった。刀を捨てるとは侍を捨てる事。
「まだはっきりはしていないが、どうも常吉の蕎麦屋を手伝うことになりそうなのだ。しかし、身に付いた言葉遣いなど、町人になる


(6)






のは、この歳になり難しいと思っておる。顔を見たら話しかけて欲しいのじゃ」
 馬鹿笑いをしていても人情の厚い女房たち。源衛門の真摯な態度に涙する者もいる。一人一人の胸に去来するのは優しさだけ。
「何だか良く判らないけど、この人がそう言うんだったら嫌になるほど話してあげようよ。でもお武家さん、ここに住むんだったらあたしたちは源さんて呼ばせてもらうよ」
 源衛門は、ぬくもりを感じていた。

 源衛門の仕事は薪割りだった。まだ、蕎麦を打つ事は出来ない。常吉は、既に源衛門を身内と思っている。朝は源衛門の方が早く起きる。部屋の前で体を動かし薪割りを始める。すると近所の女房たちが起きだしてくる。
「源さん、今日も精が出るね。お陰で寝坊しなくなったよ。亭主なんかねー喜んでいるよ」
「源さん、あんた奥さんは居ないのかえ。結構、苦みばしったいい男なのにね」
「源さん、あんた腕は立つのかい。刀を捨てたって言ったけど未練はないのかい」
「源さん……」
「源さん……」

 以前の源衛門であれば、このうるささに怒鳴(どな)っていたであろう。今は、ニコニコとしている自分に驚いている。
 ――不思議なものだ。刀を捨てただけで、こうも人間の気持ちとは変わるものか。しかし、薪割りだけと言うのも気が引けるものじゃ。何か遣らせてもらえないものか。
 常吉は、煮干出汁を作っている。一通りの下ごしらえが済んでから朝飯を食う。

(7)






「常さん、拙者……いや……あっしにも何かさせてもらえないものかのー。薪割りだけではどうもなー」
「はははー、それはそうでしょうね。では、飯を喰い終わったら手伝ってもらいます」

 茶碗や小鉢は源衛門が洗う。常吉がいくら言っても拙者に遣らせろと言って聞かない。常吉は任せる事にしている。
 部屋には大きな打ち板が置かれ、打ち棒で伸ばした平らな蕎麦がある。
「源さん、この平らな蕎麦を三つに畳んでくれますか」
 源衛門は遣ってみたが柔らかい蕎麦は言う事を聞かない。常吉が黙って蕎麦に粉をまぶした。ささーっと蕎麦を撫で、三分の一ほどのところに打ち棒をおいて蕎麦を返した。同じようにもう一方も折ると、三つに畳まれた蕎麦になった。すると、すぐに蕎麦を元にもどした。源左衛門の番だ。今度は上手くいった。源衛門がニコッと笑った。常吉は、あの厳しかった人間が、このような笑顔をするようになるのかと不思議な気持ちになっていた。
 次に小間板と蕎麦切り包丁を置いた。説明するまでもなく、源衛門は小間板を蕎麦に置き、包丁を持った。
「常さん、蕎麦は細い方が良いのかな。拙者が……どうもいかんなー、あっしが……」
「源さん、無理にあっしとか言わなくても良いのではないですか。私は、源さんが拙者と言うと何だか楽しいですよ」
「そ、そうか。何事にも無理はいかんな。ところで拙者は蕎麦の切り幅は厚さと同じが良いと思うが、どうなのかのー」
「源さんの言うとおりです。でも初めての人には難しいですよ。少し幅広でも良いですよ」
 源衛門は、目をつぶり右の指で蕎麦の厚みを計っている。小間板を蕎麦の上に置いた。包丁を持ちサクンと蕎麦を切った。小間板を

(8)






ちょっとずらす。このずらした間隔が蕎麦の厚みと同じでなければならない。源衛門は間隔をじーっと見ている。左手で小間板を押さえサクンと切った。常吉もじっと見つめる。源衛門は、続けてサクン、サクン、サクンと蕎麦を切っていった。
 常吉は目を見張った。包丁は完全に垂直に下ろされている。半尺ほど切ったであろうか、常吉が声を掛けた。
「源さん、ちょっと待ってください」
「うっ、何か拙い事でもしてしまったかな」
「蕎麦を切るのは初めてと言ってましたが、本当ですか」
「拙者はこのような平たい蕎麦に触るのも初めて。常さん、小言でも良い、遠慮せず言ってくれぬか」
 常吉は、源衛門が切った蕎麦を持ち上げて蕎麦粉をまぶした。
「源さんご覧なさい。この綺麗な蕎麦を。こんなに細くて綺麗な蕎麦を見るのは初めてです。源さんは凄いです。続けてくれますか」
 サクン、サクンと源衛門は蕎麦を切り出した。
 常吉は土間に下り、大釜に湯を沸かし始めた。隣のかまどでは美味しそうな出汁の匂いがしている。醤油と味醂を入れ、常吉は味を調えている。グツグツと煮立った大釜の中に源左衛門が切ったばかりの蕎麦を入れた。さえ箸で蕎麦を動かしている。一煮たちしただけで笊にあげた。その笊を持って井戸端に走る。桶に水を入れ、蕎麦を晒している。水を切り、部屋に戻ってきた。
「源さん、蕎麦を喰いましょう」
 茶碗に少し濃い目の蕎麦汁を入れた。冷たく盛られた蕎麦を箸でつまみ蕎麦汁をつけてズルズルっと食べ始めた。源衛門は、ただぼーっと眺めている。常吉は、一気に半分ほどを喰ってしまった。
「さー、源さんも食べてみてください」
 源衛門は、冷たい蕎麦など食べた事はない。汁をつけて喰ってみた。旨い。蕎麦の香り、硬めな歯ごたえ。ちょっと濃い目の汁の味が良い。残っていた蕎麦を貪るように喰ってしまった。

(9)






「常さん、この蕎麦は実に旨い。今までの蕎麦粉と違うのかな」
 常吉は大声で笑い出した。
「源さん、私は一種類の蕎麦粉しか持っていません。今までと同じ蕎麦粉ですよ」
「しかし、味が違うが……」
「それが蕎麦の凄いところなんです。同じ蕎麦粉でも作る人によって味が変わります。それに切り方です。この蕎麦は源さんの味。この蕎麦は売れますよ」
「そういうものかのー。拙者には良う判らんが……」
「源さんは強かったのでしょうね。蕎麦切りは刀に通ずるようです」
「常さん、刀の話はしないでもらいたい。拙者は刀を捨てた」
「あっ、済みません。つい…… 源さん、私はこの蕎麦に名前を付けました。滝の白糸です。冷たい蕎麦を売る店はありません。源さん、店を持ったらこの蕎麦を売りましょう。楽しみです。屋台でもこの蕎麦を熱い汁で使います。ちょっと味付けを変えてみます」
「ん、拙者が切った蕎麦を屋台で売るのか」
「えー、今日から売ります。源さん、蕎麦切りの方、宜しくお願いします」
 源衛門は、感極まった様子で俯いた。目を押さえている。涙など…… 源衛門は自分自身が変わっていくのが判った。
 ――拙者、刀以外にも遣れる事があった。

 サクン、サクン、サクン。小気味良い蕎麦切りの音が響く。

 その頃、木村隼人は女を追いかけていた。勿論、仕事である。
 被害者に聞けば、何とも男心をくすぐる艶っぽい遣り方。しかし手口が汚い。小銭ばかりを盗んではいるが積もり積もれば十両を越える。そうなれば死罪。首を切られる。下手をすれば首のない死体

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は、試し切りに使われる。

「旦那、あたしゃ悔しくて悔しくて……」
「鼻の下を伸ばしたのがいけなかったのであろうが。ひょろっと騙されおって」
「しかし旦那。旦那だって引っ掛かりますよっ! 何しろ真に迫っているんですから」
 この商人は二両盗られている。手口は()り。夜中、寄り合いの帰り、家へと急いでいると川っぷちに女がうずくまっていた。傍を通り過ぎようと思ったが、うめき声が聞こえる。近寄るとぷーんと白粉の匂い。見れば衣紋を抜いた肉付きの良い女。歳は中年増というところ。身をよじらせる姿にも艶気を感じる。しかし、この商人は真面目な男。女遊びなどした事がない。この時も単に親切心から声を掛けた。
「これ、姐さん…… どうしたんだい。どこか痛むのかい」
「だ、旦那様。急に刺し込みが……。誰かにさすってもらえば治るんですが……。いえ、大丈夫です。しばらくこうやっていれば痛みも治まりますから……。どうぞ、先を急いでくださいな……」
 そう言われて立ち去れる男はいない。家に早く帰らなければならないが、ままよ、これも人助けと傍らに座り背中を摩ってやる。
「旦那様は親切なお方ですね。でも、痛いのはお腹の方で……」
 女は、自分で男の手を掴み腹へと持っていく。滅多に女の腹など触った事がないこの男、妙な気分になってくる。頃合を見て女は、男の手を少し上の方にずらし始めた。もういけない。ふっくらとした乳房に手が触れると男は夢心地。ただボケーッと摩っている。
「旦那様、ありがとうございました。お陰さまで痛みも治まりました。地獄で仏とはこのような時に言うのでしょうか……」
 男の方は、人助けとは気持ちの良いものだと思いつつも、先ほど

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の手の感触を思い出しながら急ぎ足。家に帰り財布がないのに気付いた。

「ところで、どうするのじゃ。訴えるのか。良い思いをしたのであろうが」
「何をおっしゃいます、なけなしの金です。しかも人の親切心につけ込んで……。女房には怒鳴られるし、変な疑いは掛けられるし……。旦那、捕まえてください」

「旦那、見てください。この傷を。金を取られた上にこの始末です」
「女の甘い言葉に乗せられたおぬしが愚かなのであろうが。まんまと手口にはまりおって。女とは何かあったのか」
「滅相もない。その気になった途端にやくざっぽいのが殴る蹴る。挙句の果てに金を盗られたんですから。あたしゃ何もしていません」
「手本通りの美人局つつもたせだな。おぬしが本当に変な気持ちを持っていなかったのであれば被害に合ったことになる。最初から下心を持っていたのであれば奉行所は受け付けんぞ」
「旦那ー、あたしゃ堅物で通っているんですよ。誰に聞いても構いません。今まで女遊びもした事がないって言うのに……」
 この男も商人。確かに堅い男。寺の縁日での事だ、女が与太者風の男二人にイチャモンを付けられていた。女は衣紋を抜いた小粋な中年増。この男、野次馬と一緒に周りで見ていたが、急に女が男の懐に飛び込んできた。
「旦那、助けてくださいな。あたしがあの人の足を踏んだって言うんですよ。怪我をしたから治療代を出せって……。あたしは足なんか踏んでないのに。ねー、二分ほど立て替えてくれませんか。後で返します」
 聞けば家は近くだと言う。男は二分とは随分少ないが……と思い

(12)






つつも立て替えてやった。
「ありがとうございます。地獄で仏…… 旦那、家まで来てくださいな」
 男の手をとり小体こていな家に。
「さーどうぞ。実はねー旦那さん、あたしお金ないんです。頭下げるだけのお礼では、あたしの気が済みません。ねー、別のものでお礼したいんですけど……」
 女は襖を開けた。隣の部屋には蒲団が敷いてある。普通であればこの辺で気が付くものだが、根っからの真面目人間。世間を知らない。こう言うこともあるのか、などとニヤけてしまった。女は襦袢姿になり蒲団に入った。この男も羽織を脱ぎ、いそいそと蒲団に……。その時を見計らったように大声が。
「よーよー、昼間っから人の女房と何しようって言うのかよー。えーっ! 随分な事を遣ってくれるじゃねぇか。俺の女房は身持ちがいいって評判の女。亭主しか知らねー女房をたらし込みやがって。どうやって落とし前を付けてくれるんだい!」
 男は、ただアワワ、アワワと尻込みをするだけ。口を利くことも出来ない。そのうちに殴る蹴るの乱暴を受けてしまう。
「何か言ったらどうなんだ。えーっ! いい事を教えてやろう。こういう時にはなー、金だよ金。金ー出せば今日の事は黙っていてやる。どうするんだい、えーっ!」
 財布を出すと、中身全部を盗られてしまった。二両五分。
「旦那、あいつらを捕まえてください」

 同じような訴えが五件ほど出ている。隼人はこのような事件は嫌いであった。扱いたくない。

 ――愚かな事よ。しかし、こう言うものかも知れんな。所詮、人間とは突き詰めれば男と女の絡み合い。しかし、好かんな。

(13)






 懐手をしながら定廻り。熊吉には、その女を調べるように言ってある。女一人に男は…… 多分、三人以上の悪者ども。手掛かりなど何もない。被害者たちは女の人相は覚えているものの、江戸には大勢の人間がいる。小体な家も調べてみれば空き家であった。犯人の手掛かりになるものは何も残っていない。隼人は、うんざりしていた。このような時には隆佐衛門の所にでも行って愚痴をこぼすに限る。いそいそと松浦に向かった。
 
「旦那様、木村様がいらっしゃいましたが」
 隆佐衛門が部屋で片肘を付き、のんびりしているところに松が声を掛けた。
「隼人か。通してくれ」
 隼人が冴えない顔で部屋に入ってきた。
「隆佐殿、世の中には愚かな男がなんと多い事か……。拙者、うんざりしておる」
「急に何を言い出すのかと思えば、当たり前の事を。そのような辛気臭しんきくさい顔をして、どうしたのだ」
 隼人は訴えのあらましを話した。
「良くある話ではないか。男が男であり、女が女である限りこの手の犯罪は永遠になくならんよ」
「しかし、真面目な人間ほど、ふっとその気になってしまうものらしい。そこに付け込むとはなー。人をあやめてはいないが盗みは重罪だ。此度は身に付けている物を奪っている。追剥おいはぎ。追剥であれば同じ死罪でも獄門。連中は判っておらんのかのー。これまた愚かな事よ」
「そうだなー、落ちている物を奪っても十両以上であれば追落ついおとしで死罪。拙者には出来んな」
「当たり前だ。あれだけの褒美を貰ったのだからの」
「隼人、まだそのような事を言っているのか。おぬし、かなりしつこい性質たちだな。女に嫌われるぞ」

(14)






 間の悪い時に絹が顔を出した。
「あら、隼人さん。また女の方に嫌われたのですか」
「絹殿っ、またとはどういう事でござるか。拙者、嫌われるほど女子と付き合った事はござらん」
「まー、変な強がり。全く女子にもてないと白状しているようなものですよ」
「…………」
「絹、あまり隼人を苛めるものではない。女が絡んだ追剥に頭を痛めているところだ。そもそも隼人が女にもてる訳がない」
「まー、お父様ったら。隼人さんは真面目で男前です。何故、もてないのか絹には判りません。もっとも、にやけたところが玉に瑕かも知れませんが……」
「絹殿! それは褒めているのですか、貶しているのですか。拙者には良く判らんが」
 隆佐衛門と絹だけが笑った。
「ところで絹殿、権佐とはお会いになっているのかな」
「あら、なぜ急に権佐様のお話しが出るのでしょうか」
「い、いや。そのー、別にどうのこうのという事はないのだが……。ま、何と言うか、どうなのかなと思っただけの事でござるが」

 隼人の狼狽振りは見ていても余り恰好の良いものではない。隆佐衛門は隼人と権佐が絹の事を気にしている事を知っていた。まだ、子供とは思うものの絹は、男どもの目を引くようになっている。
「あの日以来、お会いしていませんが……。隼人様のようにお気楽にお越しいただければと思っておりますのに……」
「……」
「隼人、何とか言え。黙っていては話が続かんではないか」
「い、いや、拙者、この度の追剥を受け持ってから何かと男と女の事が気になってな。どうも余計な事を口走るようなのだ」

(15)






「男と女と申したが、今の話しとは関係なかろうが」
「……」
「お父様、この辺で隼人様をいじめるのは止めましょう」  
「な、何ともかたじけない次第。拙者、そろそろいとませねばならぬ。絹殿、また寄らせていただきたいが宜しいか」
「えー、大歓迎です。ねー、お父様」

 隼人が松浦を出た時には夕暮れになっていた。絹の前では、どうも辻褄の合わぬ話をしてしまう。いかんなと思いながら同心組屋敷に向かっていた。松浦を出て程なく、堀割に差し掛かったが何やら人がうずくまっているようである。目を凝らすと女のようだ。隼人は、ピンと来た。
 ――出おったな。女狐め。拙者を騙そうとは……運の悪い奴だ。
 傍に寄るとウンウン唸っている。相手の筋書きに乗ってみる事にした。
「これ、どうしたのじゃ」
「あっ、お武家様。急に刺し込みまして……」
 中年増には見えない。もう少し若いようだ。新入りか。
「拙者が摩ってやろう」
「あ、ありがとうございます」
 隼人は背中を摩った。女は、まだウンウン唸っている。手を腹の方に持っていく様子はない。隼人は変だな、これでは拙者の財布を掏ることは出来ないが、と思いつつも疑っている。
「女、腹の方を摩った方が良いのではないか」
 誘いを掛けてみた。女は消え入るような声で言った。
「いえ、そのようにして頂いているだけでも気分が……」
 と言った途端、その場に倒れこんでしまった。隼人が顔を見るとまだうら若い女だ。しかも息も絶え絶えの様子。いかん、本物の病人だ。女を抱き上げたがグッタリしたまである。

(16)






 ――どうしたものか……。おう、そうじゃ。松浦が近い。
 隼人は、女を抱いたまま松浦に向かった。

「ご免、ご免。木村隼人でござる。誰か居らぬかっ!」
 松浦は既に戸を閉めている。隼人は、扉をドンドンと叩いた。
「へー、へー、お待ちください。今、開けますゆえ」
 中から声がした。くぐり戸が開き番頭の茂助が顔を出した。
「木村様っ。如何いたし…… あれ、病人……。木村様っ、早く中にお入りください」
 茂助は二人を部屋へと案内した。騒ぎを聞きつけた松が来た。状況を見て蒲団を敷きだす。
 登世も絹も来た。隼人は傍でウロウロしている。隆佐衛門も眠そうな顔つきで隼人の傍に来た。
「急病人ですね。これは医者に見せた方が良いでしょう。茂助、お医者さんを……」
「いや、医者であれば拙者の方が詳しい。医者を連れてくるまで、この女を宜しく頼む」
 言うなり隼人は、表に出て行った。
「さ、殿方は出てください。この娘さんの着替えをします」

 登世の指示で松と絹が娘の着物を脱がせ、寝巻きを着せた。娘は意識がないのか人形のようにされるがままである。寝かせた途端にもどしてしまった。額に触ると熱もある。手桶に水を入れ手拭を当てる。しかし、どうして良いか判らない。その時、絹は静かな声を聞いた。
『うつ伏せに寝かせなさい。仰向けではもどしたものが喉に入り、息が出来なくなります』 
 絹は判った。雪姫だ。娘をうつ伏せにするとすぐに、またもどした。

(17)






 四半時ほど経ったであろうか、隼人が医者を連れてきた。医者は部屋の匂いを嗅いでいる。娘の横に座り脈をとりながらもどしたものの匂いをしきりに嗅いでいる。無言だ。急に腕組みをして顔をしかめた。見れば厳しい顔つき。周りの者はドキッとした。この娘、危ないのだろうか。医者は、まだ、顔をしかめている。狼狽し始めたのは隼人だった。もっと早く連れてくれば良かったのか……。隼人はガックリと肩を落としている。
 その時、部屋中に馬鹿でかい音が響き渡った。
「ハ、ハ、ハックションッ!」
 医者がくしゃみをした。
「いかんな。風邪をひいたのかもしれんな。気を付けねばならぬ」
「先生っ! 先生の風邪なんかどうでも良いのです。この娘は助かるんですか」
 登世が、もの凄い剣幕で医者に言った。
食中しょくあたりりじゃな。塩と水を持ってきなさい。この匂いから察するに生牡蠣じゃな。牡蠣に中ったのじゃ。しかし、うつ伏せに寝かせておったが心得を持ったものがおるのかな。良くあるのじゃ、もどしたものが喉につまり命を失う事がな」
 松が持ってきた水に塩を入れた。ぐったりしている娘を仰向けにし、半身を起こした。医者は娘の口を開け、塩水を流し込んだ。一口目は吐き出したが、無意識のうちに塩水を呑んでいる。今度は娘をうつ伏せにした。娘の鼻をつまみ、喉に指を突っ込んだ。
 ゲーッ! 娘はもどした。周りで見ているものは気が気ではない。医者は同じ事を繰り返そうとする。
「せ、先生。そんな可愛そうな……」
 登世は、思わず医者に言ってしまった。
「まー、そのように見えるかも知れんがなー。胃の腑を洗っているのじゃ」
 医者は、手桶で手を洗いながら言った。

(18)






「良かった、牡蠣の毒は体に回っていないようじゃ。もう大丈夫。明日の朝には熱も下がり意識も戻るじゃろう。明日、また診てやろう」
 帰り際、登世は代金を払おうとした。医者は、来しなに隼人から受け取っていると言う。道すがら隼人は、拙者がいけなかった、拙者がいけなかったとつぶやいていたらしい。

 娘は、部屋でスヤスヤと眠っている。松が付き添う事にした。

 隆佐衛門の部屋で四人が話している。
「まずは、ホッとしたな。隼人、どういう経緯いきさつなのだ」
「隼人様、ご自分のせいとは、どういう事なのですか」
「隼人様は、あの娘さんとどのようなご関係なのですか」
 矢継ぎ早に問い掛けられる。隼人は、まだ肩を落としている。
「拙者……てっきり追剥の一味と思ってしまってな。背中を摩ったが何時まで経っても腹の方に手を持っていかん。変だなと思ったら気を失った。もっと早く連れてくればこのような大事にならなかったものを……」
「まー、そう言うことだったのですか。隼人様、もし隼人様が通らなかったら、あの娘さんはどうなっていたか判りません。良い事をなさいました」
「お母様の言うとおりです。隼人様は、お優しい……」
「医者が、うつ伏せにしたのは偉かったと言っておったが、登世、知っておったのか」
「いえ、あれは絹が……」
「私も知りませんでしたが、多分、雪姫が……」
「雪姫っ!」
 男二人が、大声を上げた。そう言えば、最近は夢に出てこない。しかし、まだ成仏できていないのだろうか。

(19)






 隼人は、隆佐衛門の部屋に泊まった。

 翌朝、一番早く目を覚ましたのは娘だった。見慣れぬ部屋。傍を見ると見知らぬ女がコックリ、コックリと舟を漕いでいる。起き上がろうとしたが眩暈がする。声を掛けた。
「あのー、もし……。あのー……」
 松はピクッと体を動かし、目を覚ました。
「あれまー、元気になって。どう、お腹は痛くない」
 娘は思い出した。
 ――私は、お武家様に助けられた……
「はい、大丈夫です。ご迷惑をお掛けしました。私は、千國屋の園と申します」
「あら、あの呉服屋さんね。ご両親が心配しているでしょう。丁稚を遣わせますね」
 松は、登世に伝えた。
 千國屋では、娘が居なくなったと上を下への大騒ぎの最中だった。両親は早駕籠を仕立てて飛んできた。

「何ともご迷惑をお掛けしました」
 両親とも畳に頭を擦りつけて礼を言う。娘が無事だった事を知り、涙を流している。
 お園は、ニコニコしているが、まだ起きる事は出来ない。
「お父様、お母様、申し訳ありませんでした。園は、お武家様にもお礼を言いたいのですが……」
 登世が、隼人を呼びに来た。
「隼人様、お園さんがお礼を言いたいそうですよ。ご両親も来ています」
 隼人と隆佐衛門は登世の後から部屋へ行った。
 ――あの娘、園と言うのか。
 隼人が一人ごちしている。


(20)






 部屋に入ると両親は頭を下げて礼を言った。亭主の方を見た隼人が頓狂な声を上げた。
「何じゃ、千國屋ではないか」
「あれーっ! 木村様。園を助けて下さったのは木村様でしたか……。流石さすが、木村様。いやー流石、流石」
 千國屋はしきりに感心している。
 同心は定廻りの際、大店には顔を出す。千國屋も大店。亭主とは顔馴染みだ。しかし、余りにも流石、流石と言われ肩身の狭い気持ちになっている。

「隼人、男を上げたな。たまには人の役に立たんとな」
「隆佐殿、今、拙者は珍しくも喜ばれておる最中じゃ。余計な事は言わんで欲しい」
 やっと普段の隼人に戻ったようだ。園は、ただジーッと隼人を見つめている。
 医者が来た。園の脈をとり顔色を見たが、すぐに言った。
「良かったな。もう大丈夫だ。重湯おもゆでもあげてください。今日は、あまり体を動かさん方が良い。ところで生牡蠣だが漁師の間では流行っておるが我らは喰わん。何故、食べたりしたのだ」
 千國屋は家族で舟遊びをした。船頭が、こんな洒落た食べ物はないと生牡蠣を勧めた。親たちは食べなかったが園は面白半分で、こっそり食べたらしい。舟遊びが終わり家に帰る途中、園は一人で散歩をしたいと思った。一人になった途端に体の具合が悪くなり、掘割で休んでいたが腹が痛くなり、うずくまっている内に夕暮れになったらしい。その後、隼人が通りかかった訳だ。

「松浦さん、私は商いがある。誠に申し訳ないがこの辺で店に戻りたい。女房を置いて行きますが、どうか今日一日、宜しくお願いいたします」
 亭主は帰っていった。部屋では女四人が四方山話に花を咲かせて

(21)






いる。園は、絹より三つ年上であった。絹と園は気が合ったのか、しきりに話をしている。千國屋の女房は、昨夜一睡もしていなかったのであろう、こっくりこっくりと居眠りを始めた。

 隼人は医者と一緒に松浦を出た。眠くて仕方がないが、勤めがある。奉行所へと向かった。

 奉行所に戻ると、熊吉が待っていた。
「旦那、殺しですぜ。金物問屋の伍平がやられました」
「伍平が殺られたっ! 詳しく話してくれ」
 伍平は腹を刺されていた。財布は盗まれ無くなっている。右手には派手な襦袢の袖が握られていた。遣ったのは女のようである。伍平は刺されたが女の袖を握った。多分、女は襦袢の袖を取り返そうとしたのだろうが、死に掛けた者の力は強い。女は諦めてそのまま逃げたようだ。
 隼人は襦袢の袖を手に取ってみた。白粉の匂いが強い。中年増の女のものであろうか。とうとう人を殺した。

 常吉が、いつものように二本松の屋敷の前で屋台を開いている。二本松の連中に混じり権佐もいる。常吉はワクワクしていた。源衛門が切った蕎麦を出すつもりでいる。権佐にどんぶりを渡した。手にとった権佐、うっと唸って蕎麦を見ている。どんぶりを顔に近づけ鼻を動かしている。
「常吉、いつもの蕎麦汁よりも色がうすいな。しかし、出汁の香りは強い。それにこの蕎麦は細く綺麗だ。旨いのか」
「権佐様、早く食べた方が良いですよ」
 権佐は喰いだした。目を見開いて喰っている。顔つきが厳しくなっていく。汁を一滴残らず飲み干した。眩暈がしたのだろうか、ふらふらしている。常吉だけでなく手下連中も心配そうな顔。

(22)






「つ、常吉っ! これは何だっ! これが蕎麦か。これがお前が作った蕎麦かっ!」
 皆、何を言いたいのか判らない。
「これは……この蕎麦は……。出汁と一緒に蕎麦が舌にまつわり付く。驚くほどの味わいじゃ。この舌ざわり……噛みごたえがあるのにとろけるように喉を滑っていく。この上品な雰囲気……」
 権佐は、涙すら浮かべている。
「権佐様、これは新作です。まず、権佐様に最初に食べてもらおうと思いまして…… 旨いですか」
「旨いっ! 絶品じゃ!」
「権佐様、店を持ったら、この細い蕎麦を使って冷たい蕎麦を作ります。楽しみにしていてください」
「なにー、冷たい蕎麦だと。冷たい蕎麦か……」
 権佐は唸ったままでいる。気を取り直して言った。
「常吉、店を持たなければ、その蕎麦を出さないのか」
「へー、夢屋の開店と同時に出そうと思っています」
 権佐の目が光りだした。
「店は俺が作ってやる。どうだ、二、三日で店が持てるが」
「お断りします。店は自分で……いえ、身内と共に作り上げます」
 常吉は、きっぱりと言い切った。手下連中はびっくりして常吉を見ている。権佐の申し出を断るなどもってのほかである。
「ワッハッハー。言いおったな。それで良い。それで良い。だが、身内とは誰のことだ」
「へー、源さんがいます」
「ほー、源さんと言うのか。会ってみたいものだな。常吉、早く店を持ってくれ。待ちきれぬわ」
 蕎麦処「夢屋」は、もうすぐ開店する。

 園は、よく絹のところに遊びに来るようになっていた。年は十六歳。絹の方が年下だが園は何でも絹に相談した。絹は気付きだして

(23)






いた。
 ――お園さんは隼人さんを好きになっている。

 隼人は、熊吉と共に奔走していた。手掛かりは襦袢の片袖だけである。
 ある日、組屋敷で袖を前に腕組みをしていた。何処にでもありそうな生地。こんなものが手掛かりになるのだろうか。表に誰かいるようだ。ひょいっと表に顔を出した。
「お園殿っ! ど、どうしたのですか」
「あのー、入っても宜しいでしょうか」
 隼人は、慌てふためいた。人を上げられる部屋ではない。歩けば積もり積もったほこりに足跡が残る。座りでもしたら埃が舞い上がる部屋である。
「暫しお待ちを」
 部屋を掃除しようと思ったが、(ほうき)などない。あったとしても掃いたりしたら埃まみれになる。部屋でモジモジしていると園が入ってきた。埃など気にしていない様子である。部屋に座った。舞い上がる埃に園はむせた。ゴホン、ゴホンと咳き込んでいる。流石の隼人も真っ赤になった。
「隼人様。ゴホン……先日は……ゴ、ゴホン。あのー、もし宜しければ外でお話したいのですが……」
 隼人は、ほっとした。表に出ると園が風呂敷にくるんだ物を渡した。
「これ私が作りました。どうぞ」
 言うなり、園は、すたすたと去って行った。隼人の赤面はまだ続いている。
 ――いかん、拙者はいかん。このような事態は考えてもいなかった。たまには掃除でもせねば。まさかお園殿が来るとは……。
 部屋の埃は落ち着いたようだ。そっと部屋に座る。風呂敷を開けると竹の皮に包んだ握り飯だった。隼人にとっては生まれて初めて 

(24)






の事である。嬉しさが胸に込み上げてきた。震える手で握り飯を喰った。

 ある夜、隆佐衛門が絹の部屋に目をやると、行灯が点けられている。また日記でも書いているのかと思い、部屋に近づいた。話し声が聞こえる。絹が誰かと話しているようだ。しかし、もう一人の声は聞こえない。行灯の光で障子に影が映っている。
 ――変だな影は一つだが、まさか、雪姫と……
 隆佐衛門は不安になり部屋に、と思ったが引き返した。何を話しているのであろうか。
 翌朝、顔を合わせたが、普段と変わりがない絹である。隆佐衛門は、しばらく様子を見る事にした。

 隼人は定廻りを終え、番所で熊吉の話を聞いたが、やはり何の手掛かりもなかった。まさか、これ程手こずるとは思ってもいなかった。組屋敷に帰る事にした。
 部屋に戻ってビックリしてしまった。部屋が綺麗になっているのである。オズオズと部屋に入ると塵ひとつ落ちていない。人が入ってきた。手拭を姉さん被りにした園である。手桶を持っている。
「お園殿っ!」
 園は泣いていた。
「お園殿、先日の握り飯は旨かったです。それに今日は、部屋の掃除まで……」
 何故、泣いているのであろうか。余りにも汚い部屋。掃除疲れで泣いているのであろうか。
「お園殿、何故、涙など……」
「隼人様、園は余計な事をしてしまったようです。埃だらけだったので…… 隼人様はお一人でお暮らしかと思っておりました。園は愚かでした。隼人様には既に女の方がいらっしゃるなんて……」
 隼人は、驚いてしまった。

(25)






 ――拙者に女?
「ちょ、ちょっと待ってください。拙者は、正真正銘、一人暮らしでござるが……」
「では、あの襦袢の片袖は如何なされたのですか。思いを寄せる方の物ではないのですか。しかも、私の店で売ったものです。何故、園はこんな辛い目に合わなければならないのでしょうか。折角、良いお方にめぐり合えたと思っておりましたのに……」
 園はシクシクと声をあげて泣き出してしまった。隼人は、先ほどの園の言葉に体を硬直させていた。
 ――手掛かりが出来た。千國屋で扱った生地か。
「お園殿、悲しみの最中、誠に不躾ぶしつけではあるが拙者とお店に戻ってもらえないものか」
 片袖をもったまま、急に大きな声を上げた隼人に園は泣くのを忘れ、目を丸くしている。
 隼人は園の手を掴み走り出そうとしている。隣の同心が顔を出した。
「おー、おー、木村殿、羨ましいですなー。綺麗な女子と手を取り合い、どちらまで……」
 全く無視して、走り出した。
 手を握られているのは嬉しいが園は訳が判らない。この人、頭がおかしいのではなどと思い始めている。千國屋はビックリ仰天。大切な娘が男と手を取り合って駆け込んできたのだ。
「木村様、いくら奉行所同心とは言え、園はまだ嫁入り前の娘。先日は命を助けられましたが、今日の行状は親として許す事はできません。手を取り合って……。大勢が見たはずです。娘を傷者にして……お奉行様に申し付けますぞ。訳を言ってください」
「あいや暫く、千國屋。これを見てくれ。これはおぬしが扱ったものと聞いた。如何か!」
 隼人、まだ園の手を握っている。園も振り払おうとはしない。

(26)






「確かに、これは私どもが扱ったものです」
「誰に売ったか覚えておるか」
「勿論でございます。このような派手な物は滅多に扱いません。良く覚えております。……木村様っ!」
 千國屋は、急に大声を出した。
「木村様っ! いつまで園の手を握っているのですかっ!」
 隼人と園は、あっと顔を見つめ合い、急いで手を離した。園は、握られた方の手を大事そうに胸に当てている。
「千國屋、売った相手を教えてくれぬか」
 買って行ったのはあずま橋の側に住む遊び人風な男。にやけた顔で女房に贈ると言っていたという。
 隼人は店を飛び出そうとした。
「木村様。園をどうしてくれるのですか。お奉行様に……」
「千國屋、事件が片付いたら、また来るゆえ、今日はこのまま行かせてくれっ!」
 ちらっと園に目をやり、隼人は出て行った。

 絹は、この夜も雪姫と話していた。
「では、雪姫はまだ、思いを果たしてはいないのですね」
『……』
「そうですか。でも難しいですね。ご先祖様から預かった懐刀ふところがたなを見つけなければならないのですか。もう何十年もまえの事……。大阪城と共に焼けてしまったのでは……」
『…………』
「では、大阪城が焼ける前に、何者かに持ち去られたと言うのですね。でも何故……」
『……………』
「まーそんな事があるのですか。篭城ろうじょうの準備の最中に落としたなんて……」
『………』

(27)






「それが悔やまれるし懐刀がなければ成仏できないのですか。拾った方の目星は……」
『…………』
「そうなんですか。全く……。確かに江戸には大勢の人がいますが手掛かりが無ければ……。懐刀の特徴は……」
『…………』
「判りました。とにかく母にも聞いてみます」

 熊吉の手下、亥助と牛蔵が東橋の付近で張り込みを続けている。女が人をあやめたが、これは連中にとっても誤算であったはず。数日が経ったが目ぼしい女は現れない。既に逃げ去った後かも知れない。二人にはイライラが募っていた。

 隆佐衛門は閑であった。絹も最近は一人で稽古に行っている。やる事がない。何か仕事をと思ってはいてもらちがあかない。このままでは、このままではと考える毎日である。
 権佐の屋敷に行くことにした。江戸は賑わっている。商人たちは店先で扱い物を宣伝している。行商人たちは派手な衣装で売り声を上げている。女子供ですら、店先に水を打ったり掃除をしている。周りが賑やかなほど隆佐衛門の気持ちは落ち込んでいく。

 権佐は、何やら書いていた。
「木谷さん、ちょっと見てくれますか」
 権佐は書いたものを見せた。花をつけた蕎麦の絵である。
 ――この男、絵も描くのか。
 中々の筆使いである。
「悪くない。しかし、真ん中には何も描いてないが……」
「ここに屋号を入れます」
「屋号……どう言う事じゃ」
「蕎麦処 夢屋」
「夢屋…… 常吉か」

(28)





「あの男、面白い蕎麦を考えています。どうも冷たい蕎麦のようです。木谷さんは細身の蕎麦を食べましたか」
「おう、喰った。あれは旨い蕎麦だ。どうしたのかと聞いてもニヤニヤしているだけで何も言わん」
「あの蕎麦を使うらしい。しかし、店を開くまでは出さんと言う。早く店を持ってもらいたいのですが手助けはいらないと言います。では、せめて屋号を書いた行灯でもと思いましてね」
「権佐、では拙者が屋号を入れよう。おぬしは蕎麦の絵だけで良いであろう」
「そうは行きませんよ木谷さん。最後まで私が書きます。横取りはいけません」
「まー、良いではないか。屋号くらい拙者に書かせろ。拙者の書は悪くないぞ」
 二人は、では、どちらの方が面白い屋号を書くか比べようということになった。まるで子供の喧嘩である。楽しい。隆佐衛門は、権佐の生い立ちなど詳しくは知らないが、どこか自分に似たところがあるように思っている。何枚もの書き物が出来上がった。双方とも譲らない。結局、常吉に決めてもらう事になった。

 このような事でも遣っていれば一日は過ぎていく。隆佐衛門は、多少の空しさを感じながら松浦へと帰ることにした。東橋に差し掛かると岡引が近づいてきた。
「お侍さん。ちょっと宜しいですか」
 隆佐衛門が顔を向けると、牛蔵である。
「あれま、木谷様。こんな所で……」
「何じゃ、拙者がどこにいようがおぬしには関係ないであろうが。おぬしこそ何をしておる」
「失礼しやした。張り込みです。例の追剥でして……」
「そうか。張り込みの邪魔をしてはいかんな。おぬしらも大変だ。隼人にも宜しく言ってくれ」

(29)






 隆佐衛門は、また気持ちが落ち込むのを感じた。拙者、何かせねば……。俯き加減で歩いていると、三人の男が一人の女を取り囲んでいるのが目に入った。他にも気配がする。気付くと物陰に隠れ、この四人を見張っている者がいた。隆佐衛門も身を隠し、成り行きを見ることにした。

「おめーが、あんな事をするからいけねーんだよ」
「だって、手首を捻られたんだよ。あのままだったら、あたしゃ捕まってたよ」
「何を言うか。聞けば金物屋だって言うじゃねーか。逃げりゃ良かったんだよ。馬鹿な事をしやがって。このままじゃ俺たちも危ねーんだよ」
「じゃー、どうしろって言うんだいっ。今まで誰が金を稼いだんだい。あたしじゃないか。一度、どじ踏んだからって……とやかく言わないで欲しいね。馬鹿言っちゃいけないよ」
 一人の男が女の手首を掴んだ。
「何、すんだいっ! 痛いじゃないか」
匕首あいくちでも出されちゃかなわねーからな」
 もう一人が女の首に紐を巻きつけた。と、隠れていた者が飛び出した。

「神妙にせよっ! 北町奉行所同心木村隼人だっ!」
 男たちは、ギョッとして隼人を見た。一人である事が判るとせせら笑って言った。
「同心だか何だか知らねーが、一人で無茶するんじゃねぇよ。怪我する前に逃げた方がいーぜ」
 言うなり隼人に切り掛かった。隼人は呼子を吹こうとしたが、それどころではなかった。刀を抜いて立ち向かった。首を締めている男は手を緩めようとはしていない。女は足をばたつかせているが、所詮、男の力に適う訳もない。隆佐衛門は、さっと近づき男の腕を

(30)






掴んだ。
「何だてめーは。邪魔すんじゃねー」
 もう一人が隆佐衛門に刀を打ち下ろそうとした。隆佐衛門は右足を蹴り上げた。男の急所にでも当ったのか男は、ギャーッ! と言ってぶっ倒れた。見ると泡を吹いている。首を締めている男が女から手を離し、隆佐衛門に切り掛かってきた。女はその場に倒れた。男は刀を振り回すが、一対一であれば隆佐衛門の敵ではない。脳天を峰打ちされ、大の字に倒れた。
 すぐに女を見た。ぐったりはしているが命には別状ないようだ。女が息を吹き返し、逃げようとする。しぶとい女だ。隆佐衛門は帯を掴み地面に押し付けた。女はヘナヘナと座り込んだが隆佐衛門は手を離さない。

 隼人の刀を見るのは初めてだった。相手の男はまだ若いが刀を使えるようだ。侍崩れか。二人は正眼に構え、対峙している。隆佐衛門は気付いた。隼人は両手で刀を握っているものの、ほとんど右手一本。左手は添えているだけだ。普通であれば左手でしっかりと握り、右手は添えるだけであり、その方が刀を扱い易い。隼人め、と思った途端、男が強烈な掛け声を掛けた。キ、ヤーッ! と同時に右上に刀を振りかざし、隼人目掛けて斬り下ろした。凄まじい太刀筋。隼人は刀を水平にして刀を受けた。ガキッ! 二人の刀はそのままの状態でしのぎを削っている。力勝負である。どちらかが刀を引けば良いのだが、その瞬間に隙が出来る。凄い形相で刀を押し合っている。
 隼人の方が下位に位置している。上位の方が有利だ。と、隼人がふっと力を抜いたように見えた。相手が押し込もうとした瞬間、隼人が思いっきり体ごと押し上げた。男は微かにった。その瞬間、ほんの少し隼人に余裕が出来た。と、同時に隼人の脇差が男の腹に喰いこんだ。隼人は左手で脇差を持っていた。

(31)






 隆佐衛門は、女の帯を掴んだまま隼人に近付き、言った。
「隼人、おぬし読んだのか」
「おー、読んだ。良く判らんが、研鑽せよ、検討せよ、修行せよと幾度となく書いてある。一人で修行した。隆佐殿、刀とは重いものだ。力がなくては片手で扱う事は出来ん。苦労したが何とか体得したつもりじゃ。しかし、持てる武器を総て使うとの考えは実に合理的じゃ」
「新免武蔵か……」
 隼人が呼子を吹いた。後は亥助と牛蔵に任せれば良い。

 女と生き残った男二人は、獄門。首を晒された。

 隼人が隆佐衛門を訪ねた。相談があると言う。
「隆佐殿、千國屋がうるさいのだ」
「どういう事だ」
 隼人は過日の出来事を話した。
「千國屋は、拙者がお園殿を傷ものにした、責任を取れとわめいておる。ただ手を握って走っただけなのにな」
「隼人、自分に素直になれ。園をどう思っておるのだ」
「拙者は…… 拙者は、これが最初で最後の事と思う……」
「……」
「お園殿はじっと拙者を見つめるのだ。じーっとな。見つめられると拙者、ぽーっとなってしまう。体も汗ばんでくる。一人で部屋におっても、お園の事が気になり仕事も手に付かん」
 隼人は、お園と言いだした。
「……」
「やはり一緒になった方が良いのかのう」
「何をゴチャゴチャ言っておる。しかし、千國屋は大店。園は乳母おんば日傘ひがさで育てられたはず。おぬしの扶持では、ちと心配だが」

(32)






「お園は変わっておる。拙者のあの部屋を見ても、何も言わんかった。全く気にしておらん。しかも掃除までしてくれた。握り飯も旨かった。片袖を見て泣いた……。このような女が拙者の前に今後現れるとは思わん」
「……」
「しかし町人とは一緒になれんし……。そうじゃ、奉行殿に相談してみよう。何とかしてくれるかも知れん。隆佐殿、心のこもった忠告、礼を言うぞ。決心が付いた」
 言うなり隼人は出て行った。隆佐衛門は思った。
 ――何だ、自分で話し自分で決めおった。礼を言われるには、ちと片腹痛いわ。

 園は、北町奉行片岡新左エ門の養女になった。

 隆佐衛門は、静かな毎日を送っていた。やはり遣る事がない。
 ――久しぶりに甚平長屋にでも行ってみるか。
 長屋は、相変わらずのたたずまい。見栄えはしないが懐かしさがある。此処が江戸で最初に暮らした場所だ。国での厳格だが幸せだった毎日。突然訪れた出来事。此処での喰うか喰わずのカツカツの暮らし。自分たちも余裕がないくせに何かと明るく声を掛けてくれる女房たち……。今は、繁盛する店で何の不自由もないのんびりとした生活。隆佐衛門は、人生とは何が起こるか判らんし、何を良しとし、何を悪しとするかも判らんものだなどと感慨に耽っていた。
 ふと見ると常吉の部屋の前で男が薪を割っている。後ろ姿を見て思い出した。
 ――高藤だ。江戸を離れたのではないのか。あやつ此処で何をしているのだ。
 隆佐衛門には気付いていない。クーン、クーンと薪割りを続けている。隆佐衛門は、そっと鯉口こいくちを切ってみた。薪割りの音がピタリ

(33)






と止んだ。高藤は右手に鉈をぶら下げたまま、ふらーっと立ち上がり、静かに振り返った。あの時と同じ姿勢。隙だらけである。
「なんじゃ木谷さんではないか。これっ! 悪ふざけをするものではないぞ」
「いや、済まなかった。相変わらず鋭い感覚でござるな。恐れ入った。して、此処で何を……」
 源衛門は、柔らかな顔つきで仔細を話した。
「そうであったのか。あの蕎麦はおぬしが切ったのか。旨い蕎麦だ。ところで、おぬしの刀は拙者が預かっておるが……。あの刀、如何いたそう」
「不用じゃ。おぬしに差し上げる。好きにしてくれ」
「好きにせよと言われてもなー。高藤、おぬしの体はまだ刀を覚えておるな。鯉口を切っただけで体が反応しよる」
「これは当分消えんようじゃな。ま、致し方ない。無意識のうちに体が動く」
 肌蹴はだけた源左衛門を見た。汗ばむ体は痩せてはいるが引き絞まっている。
 ちらっと肌身に付けた物が見えた。刀袋のようだ。
「おぬし刀を捨てたと言ったが、それは何だ、懐刀ではないか」
「おー、これか。これは捨てられん」
 源衛門は、刀袋を手に持った。鎧通よろいどおしは別だが、男は懐刀などは持たない。
「しかし、汚い刀袋だな。ぼろぼろではないか。何か訳でもあるのか」
「高藤家に伝わるものじゃ。何でも、さるお方のもので大阪城が落ちる前に先祖が拾ったらしい。返そうと思ったが、そのお方は城と運命を共にしたらしいのじゃ。それ以後は肌身離さずお守りする事になったらしい。詳しくは判らん。だが、拙者が生きている間は拙者が守る。もっとも、高藤家は拙者で終わるがな」

(34)






 源衛門は、寂しく笑った。
「そうか、さるお方と言う事は、どなたか知らんのだな」
「知らん。だが守る。ところで、今から蕎麦を切るが、見て行かぬか」
「おう、拙者、見た事はない。おぬしの技を見せてもらおうか」
「技かっ。おぬしも面白い男じゃなー。しかし、拙者の蕎麦は、なかなか評判が良いのだぞ」
 自慢気に話す源左衛門。二人は声を上げて笑った。

 絹は懐刀の事を登世に話した。
「絹、いくら刀屋だからと言って、そう都合よく見つけられるものではありませんよ。雪姫のお気持ちは痛いように判りますが……」
「そうですね。絹は雪姫とお話をしていると楽しゅうございます。このままずっと成仏されない方が、などと思ってしまいます」
「これ、そのような事を言うものではありません。私も気をつけてはみますが……難しいことです」

 その夜、登世は隆佐衛門に雪姫の事を話した。ガバッと起き上がった隆佐衛門。登世はビックリした。隆佐衛門は床を離れ絹の部屋に行った。登世も続いた。
「絹、入るぞ。良いか」
「お、お父様。こんな夜更けに。あら、お母様もご一緒。何事でしょうか」
「絹、拙者は懐刀を見てはおらんが高藤が持っておる。さるお方のもの、大阪城落城以来、高藤家が守っていると申しておった。ひょっとすると……」
「お父様、本当でございますか。雪姫が喜びます」
「しかし、妙なのじゃ。雪姫は高藤の事を知っておるはず。何故今まで懐刀の事を……」
 その時、隆佐衛門の耳に声が聞こえた。

(35)






『まー、高藤が……』
 この声は登世にも、絹にも聞こえた。
『そうだったのですか。高藤家は雪姫、雪姫ととても尽くしてくれました。あの日も源之亟げんのじょうは、私の事を気遣って城を出ろと言ってくれました。でも、私には出来なかった。篭城の準備は大変でした。源之亟は篭城の際、私が安全な場所で、と部屋を整えるために離れました。それが源之亟との最後になりました。源之亟が拾ってくれたのですね。気が付かなかった』
「如何いたしますか。今は源衛門が守っています。懐刀を持ってくるように申しましょうか」
『ほほほ、源衛門が守っているのであれば、それで良いのです。あの世でご先祖様にお会いし、仔細をお話します。許してくれるでしょう。しかし、高藤家が守っていてくれたとは……。世の中とは判らないものですね。ほほほー』
 三人は、ふーっとその場の空気が変わったように思った。

「源さん、話しがあるんですが」
 常吉がいつもと違い、厳しい顔つきで話しだした。源衛門は身を正した。
「源さん、私は店を持ちたい。金も貯まった。美倉町に手頃な店があるんです。間口が三間ほどの店で家賃も安い。そこで源さんに聞いておきたいんですが……」
「何かな。構わん、何でも聞いてくれ」
「源さんは、私と一緒に遣ってくれると思ってますが、いいですよね」
「……」
「源さん、何とか言ってください」
「常さん……本当に拙者を使ってくれるつもりか」
「源さんが居てくれないと店は遣っていけない。それに私には身寄りがない。源さんの事は詳しく聞いていませんが、国元に身内が居

(36)






るようでしたら思い切って江戸で一緒に暮らしたらどうですか。身内の方にも手伝ってもらえれば助かります」
「拙者には身内などおらんよ。天涯孤独。いつも一人だったし、今もそうじゃ」
「じゃー、これからも一緒に暮らせますね。二人は身内みたいなものです。今更、お父さんなんて呼べないし…… そうか、兄弟ですね。でも、兄貴と呼ぶのもくすぐったいし……やはり源さんだな。今までどおり源さんと呼びましょう。早速、美倉町の店を見に行きませんか」
 常吉は、源衛門の返事など聞かずに自分で納得している。

 源衛門が国を捨てたのは二十数年前。父親は、源衛門が元服すると同時に病に倒れた。矍鑠かくしゃくとした父親だった。母親は陽気な女だったが、父の死後、程なくして源衛門を捨て、男とどこかに行ってしまった。一人残された源衛門だったが、周りの者は情けを掛けるどころか駆け落ち女の息子と指差した。中には、礫を投げる者もいた。源衛門が、左目を失ったのは、この頃だった。冷たい仕打ち、刺すような目。この国に居る事は出来なかった。刀の腕を買われ用心棒、刺客などを遣った。女には興味を持たなかった。所詮、母親と同じ。女など信じる事ができなかった。ただひたすら刀に生きてきた。

「源さん、さー、行きましょう。二人の店を見に行きましょう」
 源衛門は、あやつられるようにフラフラと立ち上がった。歩く姿もまるで木偶でくのように気の抜けたままである。知らず知らずのうちに涙がこぼれた。涙を拭こうともせず常吉の後ろに付いて行った。
「源さん、もう少しです」
 常吉が振り返った。
「あれ、源さん泣いてるんですか。ど、どうしたんですか」

(37)






 源衛門は、立ち止まり常吉の手を握った。立ったままの嗚咽おえつ。常吉は目を白黒させた。
「常さん。常さん」
 源衛門の口から出る言葉は、これだけだった。 

 開店には甚平長屋の連中が総掛かりで手伝った。店は大工の八五郎が仕立てた。この店は外から蕎麦打ち、蕎麦切りが見えるような造りになっている。常吉が大鉢で蕎麦をこね、打ち棒で打つ。打った蕎麦を源衛門が切る。源衛門は着流し姿に前掛けをし、右腕だけをたすき掛け。集まった客からは、いよー蕎麦切り名人っ! などと声が掛かる。源衛門は満更悪い気はしていないはずだが苦みばしった顔でサクン、サクンと蕎麦を切る。
 行灯にも灯が点された。隆佐衛門と権佐が見ている。拙者の字は捨てたものではない。私の絵は、いつ見ても美しい。二人は顔をほころばせご満悦。

 今日は開店を記念し蕎麦は無料。勿論、滝の白糸の盛り蕎麦だ。薬味には刻んだ葱。
 まず、長屋の連中に蕎麦が振舞われた。蕎麦を盛った笊を運ぶのは、何と隆佐衛門と権佐。二人も着流しにたすき掛け。二人は蕎麦屋になりきっている。へーい、お待ちっ! などと威勢の良い言葉と共に笊を運ぶ。
 ズルズル、ズルズル景気の良い音がする。そこここから、旨い、旨いの声が聞こえてくる。 
 金にうるさい甚平が祝い金を常吉に渡した。常吉が店を持った事が余程、嬉しかったのであろう、鼻水と一緒に蕎麦を喰っている。
 次は、松浦の番だ。登世も絹もいる。大番頭の嘉吉などは図々しくもお代わりを言ったが、登世に今日は遠慮しなさいなどとお小言をいわれている。謹厳実直な嘉吉が、むくれた顔をした。店は爆笑の渦。

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 二本松の番だ。権佐が蕎麦を運ぶと、親分、申し訳ござんせんなどと頭を掻くが、喰い始めると権佐などはそっちのけ。何とも騒々しい喰い方。
 道行く者たちにも声を掛け店の中に。初めて口にする盛り蕎麦。

 喧騒の一日が終わった。
 店に残った隆佐衛門に常吉と源左衛門が加わった。四人が喰う番だ。店に入ってくる者がいる。隼人だ。あー疲れた、と言って座った。大笊にてんこ盛りの滝の白糸。隆佐衛門と権佐が、そーっと箸でつまみ、蕎麦汁につけ口にした。権佐などは、一口喰って固まっている。この時、権佐は()り下ろした山葵を思い付いた。後に薬味として葱と山葵を付ける事になる。
 権佐は遅れをとっていた。四人は凄まじい勢いで蕎麦を喰っている。隆佐衛門が言った。
「隼人、おぬしは手伝っておらんのに……。少しは遠慮しろ」
「そういうな。こんな旨いもの。遠慮などしていられるか」
 その後、五人は無言。ズルズル、ズルズル。蕎麦をすする音だけが響いた。

 常吉は、声を耳にした。
『常吉つぁん、とうとう遣りましたね。おめでとう。でも、お前さん、まだまだこれからだよ』

 その声は、志津のものだった。

                           (了)

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