隆佐衛門詞譚 【四】
「埃 」 九谷 六口
二00三年一月十二日
木谷 隆佐衛門 影房 。この夜も魘されている。今夜は蕎麦の食い過ぎだ。うめき声で目が覚めた登世。また雪姫であろうかと蒲団の上に座りじっと見ていた。パッと起き上がった隆佐衛門。急に伸びをしてウップとゲップをした。
「登世。どうしたのだ、眠れぬのか。悪い夢でも見たのではあるまいな」
「何を申されますか、隆様のうめき声で目が覚めたのでございますよ。また、雪姫ですか」
「いや、夢など見ておらんかった。どうも、蕎麦を食い過ぎたらしい」
「まぁ、人騒がせな。良い歳をして……」
「そう言うな。常吉の蕎麦は旨い。つい、何杯も喰ってしまう。悪いのは常吉じゃな。怒るのであれば、常吉を怒れ」
「何を申されるのかと思えば、常吉さんのせいにして。確かに常吉さんのお蕎麦は美味しゅうございますが、三人で争うように食べ比べをするなど……。絹も呆れていましたよ」
「不思議だ。訳は判らぬが、あの二人と蕎麦を喰っていると、むきになってしまう。まるで子供の喧嘩のようなもの、実に他愛のないことなのだが……」
「隆様は、子供の頃から侍として厳しい躾の中でお育ちになり、心を開けるお友達もいなかったのでは……。あのお二人とご一緒の時は、幼馴染みのように顔をほころばせていらっしゃいます」
「そうだな。父からはいろいろなことを学んだが……厳しい父だった。常に姿勢を正し、喜怒哀楽などおくびにも出してはならなかった。そう言うものだと思っておった。遊び相手も今考えてみればいなかったように思う。裏長屋に住むようになって知ったが、町人は嬉しければ馬鹿笑いし、悲しければ大声を上げて泣く。こちらの方
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「お父様、如何いたします。また、絹を欲しいと言っています。美しいのも疲れるものですね」
隆佐衛門、冗談とは判っていても呆れて何も言えない。だが確かに絹は、日に日に美しい女へと育っているようだった。
たまに部屋を覗くと、文机に向かい何やら認めている。習字のためだけではなく日々の出来事を記しているようである。日記であろう。物を書く時には、いろいろと思いを駆け巡らせるものである。思慮を深くすることは内面的な成長を促してくれる。絹は表面的な美しさだけでなく、内なる魅力も備えつつあった。
まだ、親娘になって日は浅いとは言え、隆佐衛門は既に子供の将来を心配する人並みの父親になっていた。隆佐衛門は認めた物を見たくて仕方がない。しかし、いくら頼んでも絹は決して見せてはくれない。書いたものを見たいと登世にも話した事がある。
「母親にも見せないものを父親に見せるはずがありません。それに、絹は今、自分のために書いています。いずれ何かを見せてくれるかもしれませんよ。その時まで待てば良いのです」
登世のきっぱりとした話に頷かざるを得なかった。
高藤源衛門 は、常吉の部屋で三日三晩、眠り続けていた。常吉は、なぜ自分がこの侍を家に連れてきたのか理解していなかった。しかし、志津を亡くし、一人で暮らす毎日には寂しさを感じていた。いくら志津があの世で見ていてくれるとは言え、語り合う相手が居ないのは辛い。いつものように屋台を担ぎ商いに精を出していた。店を持ちたいと志津と夢を語り合った日々を懐かしんでいた。
――このお武家さん、今日も寝ている。疲れているのだろう。ま、これも何かの縁だ。どうなるかは判らないが、休みたいだけ休んでもらおう。
常吉、屋台を担いで出掛けていった。
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四半時ほど経ったであろうか、隼人が医者を連れてきた。医者は部屋の匂いを嗅いでいる。娘の横に座り脈をとりながらもどしたものの匂いをしきりに嗅いでいる。無言だ。急に腕組みをして顔をしかめた。見れば厳しい顔つき。周りの者はドキッとした。この娘、危ないのだろうか。医者は、まだ、顔をしかめている。狼狽し始めたのは隼人だった。もっと早く連れてくれば良かったのか……。隼人はガックリと肩を落としている。
その時、部屋中に馬鹿でかい音が響き渡った。
「ハ、ハ、ハックションッ!」
医者がくしゃみをした。
「いかんな。風邪をひいたのかもしれんな。気を付けねばならぬ」
「先生っ! 先生の風邪なんかどうでも良いのです。この娘は助かるんですか」
登世が、もの凄い剣幕で医者に言った。
「食中 りじゃな。塩と水を持ってきなさい。この匂いから察するに生牡蠣じゃな。牡蠣に中ったのじゃ。しかし、うつ伏せに寝かせておったが心得を持ったものがおるのかな。良くあるのじゃ、もどしたものが喉につまり命を失う事がな」
松が持ってきた水に塩を入れた。ぐったりしている娘を仰向けにし、半身を起こした。医者は娘の口を開け、塩水を流し込んだ。一口目は吐き出したが、無意識のうちに塩水を呑んでいる。今度は娘をうつ伏せにした。娘の鼻をつまみ、喉に指を突っ込んだ。
ゲーッ! 娘はもどした。周りで見ているものは気が気ではない。医者は同じ事を繰り返そうとする。
「せ、先生。そんな可愛そうな……」
登世は、思わず医者に言ってしまった。
「まー、そのように見えるかも知れんがなー。胃の腑を洗っているのじゃ」
医者は、手桶で手を洗いながら言った。
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と止んだ。高藤は右手に鉈をぶら下げたまま、ふらーっと立ち上がり、静かに振り返った。あの時と同じ姿勢。隙だらけである。
「なんじゃ木谷さんではないか。これっ! 悪ふざけをするものではないぞ」
「いや、済まなかった。相変わらず鋭い感覚でござるな。恐れ入った。して、此処で何を……」
源衛門は、柔らかな顔つきで仔細を話した。
「そうであったのか。あの蕎麦はおぬしが切ったのか。旨い蕎麦だ。ところで、おぬしの刀は拙者が預かっておるが……。あの刀、如何いたそう」
「不用じゃ。おぬしに差し上げる。好きにしてくれ」
「好きにせよと言われてもなー。高藤、おぬしの体はまだ刀を覚えておるな。鯉口を切っただけで体が反応しよる」
「これは当分消えんようじゃな。ま、致し方ない。無意識のうちに体が動く」
肌蹴 た源左衛門を見た。汗ばむ体は痩せてはいるが引き絞まっている。
ちらっと肌身に付けた物が見えた。刀袋のようだ。
「おぬし刀を捨てたと言ったが、それは何だ、懐刀ではないか」
「おー、これか。これは捨てられん」
源衛門は、刀袋を手に持った。鎧通 は別だが、男は懐刀などは持たない。
「しかし、汚い刀袋だな。ぼろぼろではないか。何か訳でもあるのか」
「高藤家に伝わるものじゃ。何でも、さるお方のもので大阪城が落ちる前に先祖が拾ったらしい。返そうと思ったが、そのお方は城と運命を共にしたらしいのじゃ。それ以後は肌身離さずお守りする事になったらしい。詳しくは判らん。だが、拙者が生きている間は拙者が守る。もっとも、高藤家は拙者で終わるがな」
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るようでしたら思い切って江戸で一緒に暮らしたらどうですか。身内の方にも手伝ってもらえれば助かります」
「拙者には身内などおらんよ。天涯孤独。いつも一人だったし、今もそうじゃ」
「じゃー、これからも一緒に暮らせますね。二人は身内みたいなものです。今更、お父さんなんて呼べないし…… そうか、兄弟ですね。でも、兄貴と呼ぶのもくすぐったいし……やはり源さんだな。今までどおり源さんと呼びましょう。早速、美倉町の店を見に行きませんか」
常吉は、源衛門の返事など聞かずに自分で納得している。
源衛門が国を捨てたのは二十数年前。父親は、源衛門が元服すると同時に病に倒れた。矍鑠 とした父親だった。母親は陽気な女だったが、父の死後、程なくして源衛門を捨て、男とどこかに行ってしまった。一人残された源衛門だったが、周りの者は情けを掛けるどころか駆け落ち女の息子と指差した。中には、礫を投げる者もいた。源衛門が、左目を失ったのは、この頃だった。冷たい仕打ち、刺すような目。この国に居る事は出来なかった。刀の腕を買われ用心棒、刺客などを遣った。女には興味を持たなかった。所詮、母親と同じ。女など信じる事ができなかった。ただひたすら刀に生きてきた。
「源さん、さー、行きましょう。二人の店を見に行きましょう」
源衛門は、操 られるようにフラフラと立ち上がった。歩く姿もまるで木偶 のように気の抜けたままである。知らず知らずのうちに涙がこぼれた。涙を拭こうともせず常吉の後ろに付いて行った。
「源さん、もう少しです」
常吉が振り返った。
「あれ、源さん泣いてるんですか。ど、どうしたんですか」
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源衛門は、立ち止まり常吉の手を握った。立ったままの嗚咽 。常吉は目を白黒させた。
「常さん。常さん」
源衛門の口から出る言葉は、これだけだった。
開店には甚平長屋の連中が総掛かりで手伝った。店は大工の八五郎が仕立てた。この店は外から蕎麦打ち、蕎麦切りが見えるような造りになっている。常吉が大鉢で蕎麦をこね、打ち棒で打つ。打った蕎麦を源衛門が切る。源衛門は着流し姿に前掛けをし、右腕だけをたすき掛け。集まった客からは、いよー蕎麦切り名人っ! などと声が掛かる。源衛門は満更悪い気はしていないはずだが苦みばしった顔でサクン、サクンと蕎麦を切る。
行灯にも灯が点された。隆佐衛門と権佐が見ている。拙者の字は捨てたものではない。私の絵は、いつ見ても美しい。二人は顔をほころばせご満悦。
今日は開店を記念し蕎麦は無料。勿論、滝の白糸の盛り蕎麦だ。薬味には刻んだ葱。
まず、長屋の連中に蕎麦が振舞われた。蕎麦を盛った笊を運ぶのは、何と隆佐衛門と権佐。二人も着流しにたすき掛け。二人は蕎麦屋になりきっている。へーい、お待ちっ! などと威勢の良い言葉と共に笊を運ぶ。
ズルズル、ズルズル景気の良い音がする。そこここから、旨い、旨いの声が聞こえてくる。
金にうるさい甚平が祝い金を常吉に渡した。常吉が店を持った事が余程、嬉しかったのであろう、鼻水と一緒に蕎麦を喰っている。
次は、松浦の番だ。登世も絹もいる。大番頭の嘉吉などは図々しくもお代わりを言ったが、登世に今日は遠慮しなさいなどとお小言をいわれている。謹厳実直な嘉吉が、むくれた顔をした。店は爆笑の渦。
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二本松の番だ。権佐が蕎麦を運ぶと、親分、申し訳ござんせんなどと頭を掻くが、喰い始めると権佐などはそっちのけ。何とも騒々しい喰い方。
道行く者たちにも声を掛け店の中に。初めて口にする盛り蕎麦。
喧騒の一日が終わった。
店に残った隆佐衛門に常吉と源左衛門が加わった。四人が喰う番だ。店に入ってくる者がいる。隼人だ。あー疲れた、と言って座った。大笊にてんこ盛りの滝の白糸。隆佐衛門と権佐が、そーっと箸でつまみ、蕎麦汁につけ口にした。権佐などは、一口喰って固まっている。この時、権佐は擂 り下ろした山葵を思い付いた。後に薬味として葱と山葵を付ける事になる。
権佐は遅れをとっていた。四人は凄まじい勢いで蕎麦を喰っている。隆佐衛門が言った。
「隼人、おぬしは手伝っておらんのに……。少しは遠慮しろ」
「そういうな。こんな旨いもの。遠慮などしていられるか」
その後、五人は無言。ズルズル、ズルズル。蕎麦をすする音だけが響いた。
常吉は、声を耳にした。
『常吉つぁん、とうとう遣りましたね。おめでとう。でも、お前さん、まだまだこれからだよ』
その声は、志津のものだった。
(了)
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