隆佐衛門詞譚りゅうざえもんしたん【七】











         」            九谷 六口









   
                
                          二00三年三月八日 
                  








 木谷きや隆佐衛門りゅうざえもん影房かげふさ、今夜も寝つかれないでいる。蒲団の中で寝返りばかり。隣に寝ている登世も先程から寝返りを打つ。
「隆様、先程から寝返りばかり。何か心配事でも……」
「ウーン、まーな。だが、そう言う登世も眠れないようだが……」

 二人が寝つかれない理由は同じだった。絹の事である。絹は神社での出来事があって以来、ほとんど部屋に閉じこもっている。
「隆様、食事もとっていないのですよ。いくら声を掛けても返事もしません。これでは病気になってしまいます。何か良い手立てはないものでしょうか」
「ウーン、どうしたものかのー」
「隆様、ウーンばかりでは、どうしようもありません。何かお考えください。お医者様に相談した方が良いのでは……」
「ウーン、医者か……」
 登世はガバッと身を起こし、隆佐衛門の枕元に座った。
「隆様っ! 心配ではないのですかっ! ご自分の娘が食事もとらないと言うのにっ!」
「これっ! そのような大きな声をだすな。店の者が目を覚ますではないか」 
「店の者は皆良く働きますので、夜はグッスリ寝てしまいます。目を覚ます者などおりません」
 隆佐衛門も起き上がり枕元に正座した。二人は向かい合い、静かな声で話し始めた。
「登世、確かに絹にとっては、初めて経験する事ばかりだった。思い悩むのも当然であろうし、食欲がなくなるのも当然であろう。昔から時薬(ときぐすり)といってな、時間が解決してくれるものよ。大丈夫、絹は大丈夫」
「私も時薬の事は知っています。でも余り長引くようですと体が弱ってしまいます。私は、それが心配で……」

(1)






「拙者も、食事については心配だが……」
 二人は眠る事も出来ず、そのままの姿で朝を迎えてしまった。朝餉(あさげ)の用意でもしているのであろうか、奥の方が騒がしくなった。二人とも()れぼったい目をしている。登世は台所に行って、松に言った。
「松、済まないけど朝餉の用意はお願いしますね。それから、私は旦那様と一緒にとりますので部屋に運んでくれますか」
「はい、奥様。ところで、絹さんの食事はどういたしましょう」
「先程、部屋の前で声を掛けましたが要らないようです。もう少し様子を見ましょう」
 二人は部屋で食事を始めたが、砂を噛んでいるような感じであり、一向に食が進まない。
 ふと見ると、痩せ細った絹が、ふらふらーっと部屋に入って来た。そして、二人の前にペタンと座った。そうでなくとも色白な絹。顔つきは、まるで幽霊のようだ。
 か(ぼそ)い声で話し始めた。
「お父様、お母様…… 絹は、お願いがございます。このようなお願いは初めてですが、宜しいでしょうか」
 二人は顔を見合わせた。絹にとって初めての願い。一瞬、二人の心臓がドキッと鳴った。
「遠慮などする事はありません。私たちは貴女の親です。今まで心配していましたが、こうやって部屋に来てくれただけでも二人は嬉しいのです。どんな難しい願いでも構いません。言ってください。ねー、隆様」
「そ、そうだ。拙者は絹の父親。絹の望みであれば何でも叶えさせてあげたい」
 とは言ったものの二人は身構えてしまう。
「ありがとうございます。でも余りにもはしたない願い……」

(2)






 はしたない願い。また、二人は顔を見合わせた。想像が付かないのだ。絹は、もじもじしている。
 隆佐衛門は先程より強い口調で言った。
「絹っ! 水臭いぞっ! さー、言いなさい」
「では…… 絹は、お腹が空いて、お腹が空いて……死にそうです。その朝餉をくださいっ!」
 言うなり、絹は二人の箱膳を引き寄せ食べ始めた。その凄まじいこと。二人は呆気(あっけ)に取られるばかり。気付けば、絹は既に二人分を食べ終わっている。さすがにゲップはしなかったが、両手を後ろに背中を反らせている。
「あー、美味しかった。お膳は私が下げます」
 絹は、そう言うと箱膳を重ね、台所へと向かった。拍子抜けと言うか二人は呆れるばかり。急に昨夜寝ていないことを思い出してしまった。いや、それよりも空腹感が襲って来た。二人は、いそいそと台所に向かった。
「旦那様、奥様。そんな急に食事と言われましても困ります。最近は、皆様の食事の量が少なく、ご飯も普段より少なめに炊いています。それに……先ほど絹さんが来られて二膳ほどお食べになりました。もうご飯がありません」
 二人は、絹が更に二膳食べたと聞き、唖然としてしまった。
「松、ところで絹がいませんが、何処に行ったか知ってますか」
「何でも食べ過ぎたとか申されて…… 腹ごなしに道場に行かれましたが。あのー、今までションボリと食事も喉を通らなかった絹さんが、どうなさったのでしょうか」
 訊かれても答えようのない二人であった。

 若さとは怖いものである。あれだけフラフラだった絹であったが、歩いているうちに食べたものがこなれ、体中に元気が(みなぎ)ってきた。

(3)






 ――生きていれば、いろいろな事が起こる。その一つ一つを気にしていたら疲れてしまう。それに、自分がなくなっちゃう。私は、私でしかない。自分に素直に生きなければ。だからと言って人に迷惑を掛けては駄目。でも、知らず知らずの内に迷惑を掛けているかも知れない。いえ、自分が誠実に生きていると思えるのであれば、それで良いはず……
 絹は自問自答しながら歩いていたが、気付くと道場の前。小平太と仲間が稽古をしている。
「やー、絹さん。良かった。元気そうですね。話を聞きましたが大変でしたね。最近、顔を見せないので皆、心配していました」
 皆は稽古を中断し絹の周りに集まってきた。汗を掻いた明るい表情。ニコニコと絹に微笑みかける。絹は久しぶりに清々しい気持ちになっていた。ふと、素直に自分の姿を見せるだけの花簪を思い浮かべた。
「絹さん、どうですか、稽古をしませんか」
 絹は、思いっきり体を動かしたくなった。
「はいっ! 小平太様、宜しくお願いします」

 道場には打ち込みを始めた三組の姿があった。絹の打ち込みは、今までと違っていた。力強い打ち込み。小平太は絹の変化に気付いた。
 ――絹さんは、ただ無心に打ち込んでいる。
 絹が打ち込み、次いで小平太が打ち込む。打ち込みを何回も繰り返した。道場には掛け声と木刀の音が響いていた。先程から道場の玄関で稽古を見つめる男がいた。紫雲斎である。だが、皆は気付いていない。紫雲斎は、しばらくの間、稽古を眺めていたが何か納得した顔で道場を後にした。紫雲斎は、その足で松浦に向かった。

「申し訳ありませぬ、このような顔で……」
 隆佐衛門の部屋に紫雲斎がいた。

(4)






「ホッ、ほっほー。どうしたのじゃ眠そうな顔をしておるぞ」
 隆佐衛門は昨夜眠れなかった事、絹が元気になった事を話した。
「隆佐、今、絹さんの稽古を見てきたところじゃ。ところで、おぬしは絹さんをどう思っておる」
「はー、どう思うとは……」
「どのような女子(おなご)になって欲しいと思っておるのかな」
「いやー別に、どのような、などとは考えておりませんが」   
「そうか、それを聞いて安心した。では、絹さんに優れた所があれば、それを伸ばす事について異存はないな」
「どうにも拙者には先生が何をおっしゃりたいのか皆目……」 
「わしはな、暮波一刀流は拙者で絶えても良いと思っておった。だが、絹さんに伝える事にした」
「せ、先生っ! 絹は女ですぞ。そのような事を……。無茶と言うものです」
「ホッ、ほっほー。無茶ではない。暮波一刀流は体の小さい者のために編み出された流儀じゃ」
「しかし……」
「ホッ、ほっほー。安心せよ。別に道場を持てとか、弟子を持てとか、そういう事ではない。もっとも道場は既に在るがな。隆佐、伝えておきたいだけだ。暮波一刀流は、流れるような型を持っておる。絹さんを見ていて判ったが、暮波は男よりも女子(おなご)の方が向いているとな。何も相手を倒すためではない。身を守るため、さらに、女子は気鬱(きうつ)になる事があるが、そのような時に気を発散させるため。どうじゃ」
「武家であれば女子の剣道は必要ですが、絹は町人ですぞ。町人の娘が剣道とは……」
「おぬしも頭が固いな。町人の女子が体を動かしても良いのではないか。それほど、剣道との名前にこだわるのであれば剣舞道(けんぶどう)とでも呼べば良い」
「剣舞道?」

(5)






「そうじゃ。それに隆佐、わしは、もう決めておる。一応、親であるおぬしに伝えただけだ」
「……」
「ホッ、ほっほー。何だ、そのむくれた顔は。子供の頃と同じじゃな」 

 暫くして絹が戻ってきた。隆佐衛門の部屋の前で、ただ今戻りましたと挨拶し、自分の部屋に向かった。登世が隆佐衛門の部屋に来た。
「隆様、絹は、以前よりも元気になりましたが、どうしたのでしょうか」 
「ウーン」
「また、ウーンですか。近頃、絹の話になるとウーンばかり。何かおっしゃってください」
「登世、先ほど紫雲斎殿が来たが何か申しておったか」
「いえ、たまには遊びに、とおっしゃっただけですが……」
「そうか。ウーン」
「また…… もう知りません」
 登世は、プイッと出て行ってしまった。隆佐衛門は絹の部屋に行く事にした。

「絹、良いか」
「はい、お父様。お父様がいらっしゃるなんて珍しいことですが……。何か」
「元気になったようだな」
「はい、ご心配をお掛けしました。申し訳ありませんでした。先程、お母様にも伝えましたが、絹はもう大丈夫です」 
「そうか、それは良かった。ところで絹は、これからどうするつもりじゃ」
「どうするつもりとは」

(6)






「これからだ」
「これからとは……」
「じれったい娘だな。おぬしは、どのような女子になりたいのか、何をするつもりかと聞いておるのだ。商人(あきんど)の嫁になり子供を生み、幸せに暮らしたいのか。それとも、職人の嫁になり子供を生み、幸せに暮らしたいのか。どちらだ」
「まー、絹は商人か職人の嫁になり子供を生むのでしょうか。そうすれば幸せに暮らせるのですか」
「それが女子の幸せと言うもの」
「そのような……。隆様のお言葉とは思えませぬ。それに突然に何故そのようなことをお聞きになるのか絹には判りませぬ。お父様、何かあったのでしょうか。神社の件でしょうか」
「別にそう言うことではない。娘の将来を心配するのが親と言うもの。急に言い出した訳ではない」
「ほほほ。お父様は嘘を付くのが、本当に苦手なのですね。小鼻がピクピク動いておりますよ」
「……」
「どうぞお話ください。何があったのでしょうか」

 隆佐衛門は、渋々ながら紫雲斎が語った事を話した。聞きながら絹の顔色が変わっていった。
「お父様っ! そのお話、お受けいたします。今、絹は何でも遣ってみたいのです。自分は自分でしかないと思っております。でも、その自分が、どのような自分か、絹はまだ判っておりません」
 隆佐衛門は、今まで見た事のない絹の真剣な顔に気が付いた。
「ウーン。ウーン」
「お父様っ、ウーン、ウーンでは判りませぬ。小暮様の件、宜しいのですね!」
「ウーン……」
「もう知りませぬ。絹は決めました」

(7)






 と言うなり、絹は、プイッと横を向いてしまった。今日は、愛想づかればかりである。多分、これで良いのであろうと思うものの隆佐衛門は、まだ、すっきりしていなかった。

 江戸府内には、物資を運ぶための川や掘割が多い。自然、橋の数も多い。大川にも多くの橋が掛けられている。柳橋、新橋、大橋、……。その中の一つに、大江戸橋との名前の橋がある。名前の通り大きな橋である。この橋は、江戸の中心にあり人々の待ち合わせなどに使われるため、今では出会い橋と呼ばれている。また、庶民の間では、この橋で待っていれば、会いたい人に会えると信じられていた。

 この日、出会い橋に人待ち顔の一人の男がいた。この男、朝早くから欄干にもたれながら川面(かわも)を眺めている。地味な着物であるが上背のあるすらっとした姿は、橋を渡る者の目を引いた。商人でも職人でもないようだ。しかし、刀は差していない。既に七ツになろうかというのに食事も取らず、その場を離れる事もない。誰かを待っているのであろうか、水面に向けていた顔を橋の上に戻し通る人を見る。ひとしきり見渡した後、ふっと下を向き顔を水面に向けた。 
 男が(つぶや)いた。
 ――九ツは、とっくに過ぎているというのに……

 その頃、登世と絹は小間物屋で巾着袋(きんちゃくぶくろ)を捜していた。女の買い物は時間が掛かる。これにしようか、あれにしようかと店の者を手こずらせている。隆佐衛門は誘われたが同道しなかった。二人の買い物に付き合うのは真っ平ご免である。
「お母様、これに決めましょうよ。絹は、これが気に入りました」
「あら、そうかしら。でも、やはりこちらの方が貴女には合うと思うけど……」

(8)






 お客様である以上、店の者は欠伸(あくび)も出来ずに二人を見ている。
「お母様、私が使うのですから、これにします」
「何を言うのですか。お金を出すのは私です。こちらの方が似合います」
「もー。お母様が私にお小遣いをくれないのがいけないのです。いつも、ご自分の好みを絹に押し付けようとなさる」
「まー、そのような。いつ私が押し付けたりしましたか」
 店の者は諦め顔になっている。今日も決まらないな。
「ではお父様に決めていただきましょう。それなら宜しいですか」
「判りました。絹が、そこまで言うのであれば私は構いませんよ。隆様は、こちらをお決めになります」
「いえ、こちらです」
 (らち)が明かない。
「あのー、如何がいたしましょうか」
 ついに店の者が声を掛けた。
「貴方は黙っていて下さい。人の話しに割り込むものではありません」

 ひとしきり、あーだ、こーだ言い合った挙句(あげく)に、二人は店を出ようと暖簾を分けて外に出た。がその途端、二人は一人の女にぶつかってしまった。女は、その場によろよろと倒れこんだ。
「あっ! どうも申し訳ありません。お怪我は……」
 女は横に倒れたまま身動き一つしない。人が集まってきた。
「あのー、大丈夫でしょうか」
 見ると、派手な着物を着た痩せた女である。着物は肌蹴(はだけ)ているが倒れたためではないようだ。肌蹴たまま歩いていたらしい。まだ若いようだが化粧をしていない顔は、やつれ切った表情であり老けて見える。
 二人は、顔を覗きこみ声を掛けた。
「申し訳ございませんでした。何処か打ったりしたのでしょうか。

(9)






起きられますか」
 その時、女の頬に笑みが走った。ゆっくりと目を開けた。
「いえ、ぶつかったためではありません。あのー、今、何時(なんどき)でしょうか」
 二人は顔を見合わせた。何時っ? 周りにいた商人風の男が言った。
「姐さん、今、八ツを過ぎた頃だよ」
「八ツ……。あー、佐門(さもん)様……」
 女は言うなり、気を失ってしまった。登世が周りの者たちに訊いた。
「どなたか、この方をご存知ありませんでしょうか」
 見回したが、皆、顔を横に振るだけ。身格好からすると女郎じゃねーか。いや、どっかのご新造さんだよ。労咳(ろうがい)じゃないのかい。皆、口々に勝手な事を話すが、何処の誰だか知っている者はいない。
「あのー、この方を私の家に連れていきたと思います。どなたかお手伝いいただけませんでしょうか」
 先程の労咳の言葉が気になるのか、誰も手伝おうとしない。困っていると若い侍が前に出た。
「良かろう。拙者が負ぶって行こう」

 登世は、この女を部屋に寝かせ医者を呼んだ。女は消え入りそうな息遣(いきづか)いである。病であっても、どうして良いか判らない。微かに熱があるようだ。何かしなければ……。絹と松に手桶に水を入れて持ってくるように言った。手拭(てぬぐい)に水を含ませ額に乗せた。女が目を開けた。苦しそうな息。耳を近づけなければ聞き取れないほどの声で言った。
「申し訳ありません。あのー、今、何時でしょうか」
「お姐さん、八ツを少し過ぎた頃ですよ」
「あのー、文をお願いしたいのですが…… 宜しいでしょうか」

(10)






「えー、えー、構いませんよ」
 絹は半紙と筆を持ってきた。それを見ると女は話しだした。
「佐門様へ。この日にお会いすると言う二人の夢は、忘れておりません。でも病が邪魔をして九ツを過ぎてしまいました。どうかお許しください」
 絹が訊いた。
「お姐さんのお名前は。それに佐門様は、今、何処でお待ちなんですか」
「出会い橋……」
 女はここまで言うと、また気を失ってしまった。医者は、まだ来ない。
 登世は隆佐衛門を呼んだ。
「隆様、そういう訳です。急いで出会い橋で待つ佐門という方に、この文を……」
 聞くなり隆佐衛門は部屋を出た。しかし既に、七ツ半。この佐門とか申す者、居るであろうか。

 隆佐衛門が出会い橋に着くと、一人の男がたたずんでいた。
「お聞き申す。佐門殿か」
 その男が振り向いた。
「権佐っ!」
「おう、木谷さんっ! 何故に此処に……」
「おぬしの名は、佐門かっ!」
「如何にも、拙者、権田(ごんだ)佐門兼義(さもんかねよし)でござる」
「ウーン」
 唸っている場合ではない。隆佐衛門は文を渡した。権佐、奪うように文を取り読んだ。
「何処に居るのじゃ。何処に……。木谷さん、絹江は何処に……」
 隆佐衛門は、返事をせず権佐の腕を掴んだ。

(11)






「権佐、急げっ! 絹江殿は松浦にいる」
 二人は走った。普段、物静かな権佐であるが、その走りは凄まじかった。刀を差している隆佐衛門は遅れがちになる。いや、権佐は隆佐衛門の存在など忘れている。権佐は松浦に急いだ。
 
 松浦に着くと権佐が叫んだ。
「絹江っ! 何処にいるのだっ! 絹江っ!」
 店の者は驚いたが、嘉吉が事情を察した。
「さーっ! さーっ!」
 権佐を奥に連れて行った。部屋には、登世、絹、松、そして医者が居た。権佐は四人が見つめる蒲団を見た。そして白い布を見た。(あわただ)しく飛び込んで来た権佐、目を見開き、ただ突っ立っている。
 総ての動きが止まった。
 バタバタバターっと隆佐衛門が部屋に入ってきた。隆佐衛門の目に真っ先に飛び込んできたのは白い布だった。ウッ! と唸ったまま、隆佐衛門の動きも止まった。

 医者が口を開いた。
「癌ですな。かなり無理をなすったようじゃ。だが、綺麗なお顔じゃ。さっ、皆で手を合わせましょう」
 はっと、気付いたのか皆は手を合わせた。一人だけ手を合わせない者がいた。権佐だ。目を見開いたまま立ちすくんでいる。大きく見開いた目からは涙がボロボロと落ちている。立ちすくんだままでいる。
 静かな時が流れていたが、やにわに動きがあった。
「絹江っ!」
 ガバッと、権佐は絹江の亡骸(なきがら)に飛びついた。そして白い布を振り払った。
「絹江ーッ!」

(12)






 この場に居る者は我を忘れていた。どれ程の時間が過ぎたのであろうか。しかし、聴こえるのは権佐の慟哭(どうこく)だけであった。

 医者は帰った。一つの亡骸を前に、皆、(もく)したまま座っている。静かな時間が過ぎていく。

「権佐様」
 最初に口を開いたのは絹だった。絹は、男が慟哭する姿を初めて見た。
「権佐様、皆、悲しんでいます。絹は悲しみは嫌いです」
 権佐は絹の声にビクッとした。悲しみは嫌い。権佐は、この言葉に強いものを感じた。
 突っ立っていた権佐が座った。
「私も悲しみは嫌いだ。絹さん、貴女は私が涙するのを女々しいとお思いか」
「いえ、そのような。権佐様の余りにも強い悲しみ、絹は戸惑いを感じただけです。悲しみは取り除かねば……」
「絹さん、では、私にどうせよと……。笑顔でいろとでもおっしゃりたいのですか」
「そ、そんな。どのような悲しみも時が(いや)してくれるのではと申したかっただけです」
 二人は顔を合わせていたが、その姿は、にらみ合っているようであった。

 絹江の葬儀は二本松の屋敷で行われた。大勢が参列した盛大なものだったが、参列者の中に絹江を知っている者はいない。しかし、権佐は、それで良かった。
 ――絹江、いずれの日にか会えると思った。それを、あの時二人の夢と言った。絹江にとって夢とは、私に会う事だけだったか。そ

(13)






れでは余りにも悲しい話だ。
 静かな葬儀だった。参列者は、皆、権佐に挨拶した。しかし、権佐は挨拶を返しはするものの心は此処にはなかった。

 紫雲斎は、絹の顔付きが変わっているのを見て驚いた。既に剣の道に入っている。絹に言った事は一つだけだった。
「絹さん、稽古を始めるが、決してわしの動きを読んではならん。良いな」   
「はいっ!」
 紫雲斎は確信した。この娘、面白い。非力ではあるが身のこなしが良い。打ち込みを受ける時も、相手の力を木刀で上手くかわす事が出来る。紫雲斎は、暮波一刀流の上段、正眼、右脇、左脇の四方の構え、そして、それらの流れを教えた。型の組み合わせ、流れは幾通りもある。紫雲斎は基本的な組み合わせと流れだけを教える事にした。あとは、この娘が自分に(かな)った流れを作り出すだろう。紫雲斎は楽しかった。
 稽古が終わると、二人はいろいろな事を語り合った。
「ホッ、ほっほー。悲しみはな、思慮を深め人間を強くするものじゃ。どっぷりと()かる事があっても良いのじゃ。悲しみを好む者はいない。皆、嫌いじゃ。だが、蓋をしてもいけないし逃げてもいけない。良いのだよ、浸かりきるのじゃ」

「余計なお節介だったかと言うのか。それは判らんな。だが、絹さんは声を掛けたかった。幾らかでも悲しみが少なくなればと思ったのじゃろう。その時の言葉が適切だったかどうかは判らんが、その気持ちは伝わるもの。それで良いのではないか」

「ホッ、ほっほー。気に()むことはない。また会ってご覧なさい。

(14)






その時にもにらみ合うようであれば、それまでじゃ。絹江さんとか申す者にぶつかったのも何かの縁。お陰でその二人は会う事が出来たではないか」

「ホッ、ほっほー。絹江さんの寿命は、その日までだったのじゃ。人の寿命は誰にも判らんし、どうしようもないものじゃ」

「絹さんに絹江さんか。これも何かの縁かも知れんな。そうじゃ、そうじゃ、笑顔が良い。絹さんには笑顔が似合う。母娘(おやこ)揃って綺麗な笑顔、わしは良い友を持ったと思っておる。幸せ者だ」

 隆佐衛門は、部屋で腕を組み考え事をしていた。権佐に出会った当初、権佐は絹の名前を聞き驚いたような表情をした。常吉の話をした時には、夢かと呟き遠くを見る目つきをした。総て絹江の事だった。隆佐衛門は、もう一つの言葉を思い出した。夢を失った常吉は、腑抜け同然ではないのか……。隆佐衛門は権佐の気持ちを(おもんぱか)り、急に心配になってきた。あやつの夢は消えた事になる。大勢の子分を持つ身とは言え、まだ若い。まさかとは思うが……。隆佐衛門は居ても立ってもいられなくなった。権佐に会おう。

 二本松に着くと子分たちが言った。
「木谷様、やっと来てくれましたか。皆、首を長くして待っていました」
「権佐はどうだ」
「部屋から出てきません。仕事の方は別に問題はありませんが、親分が顔を見せないと、どうも士気が上がりません。それに、あのままでは体に(さわ)ります」
「そうか。拙者で役に立つかは判らんが……」
「木谷様、親分も待っていなさるのではと思いますが」

(15)






 隆佐衛門は、部屋に閉じこもるのは絹に続き、二人目だなどと考えながら権佐の部屋の前に来た。何も言わずに(ふすま)を開けた。権佐の背中が見えた。権佐は振り返らずに言った。

「木谷さんですね」
「権佐、何故判った」
「わっ、はっはー。木谷さんだけですよ」
 権佐は、そう言いながら振り向いた。隆佐衛門は、やつれ果てた権佐を見てギョッとした。頬はこけ、目の下には真っ黒な(くま)。乱れた髪は、そのままである。
「どうですか。夢を失った男の姿は。絹江は江戸に居たんです。私は大勢の子分を持ちながら、見つける事が出来なかった。あの日を、ただ待っていた。絹江が重い病に罹っていた事も知らずに……。私は無様(ぶざま)な男です。木谷さん、笑ってください」

 隆佐衛門は、つかつかつかっと権佐に近づき、思いっきり権佐の頬を打った。権佐の唇は割れ血が噴き出した。しばし沈黙が続いた。権佐が静かに目を閉じ口を開いた。
「木谷さん、貴方だけだ、このように元気付けてくれるのは……」
「権佐、また明日(あす)、同じ時刻に来る。良いな」
 権佐は、わずかに(うなず)いた。

 松浦への道すがら、隆佐衛門は無性(むしょう)に悲しかった。あれだけ度胸も座り、人生を達観していると思っていた権佐である。人間とは弱いものだ。拙者も立場が変われば、権佐のようになるのだろうか。

 この夜、隆佐衛門は登世に権佐の事を話した。声を詰まらせる事もあった。登世は、そっと隆佐衛門の手を握った。

(16)






 翌日、隆佐衛門が松浦を出ようとすると、絹が一緒に行くと言う。権佐の所に行く事を、登世から聞いたらしい。隆佐衛門は躊躇(ちゅうちょ)したが、好きにさせた。二人は黙って二本松に向かった。

 二本松に着くと木谷さん、木谷さんと子分たちの表情が明るい。部屋に入った。権佐が外を眺めていた。
「権佐、約束通り来たぞ」
 権佐が振り向いた。隆佐衛門はホッとした。やつれてはいるが、表情はいつもの権佐に戻っていた。
「絹さんっ! 来てくれたのですか」
 権佐は絹に近づき、手を取って喜んでいる。
「権佐様、その唇はどうなさったのですか」
「わっ、はっはー。おぅ、まだ痛みます。この唇ですか。木谷さん、どう言えば良いのでしょう」
「う、うん。そ、そうだな……。絹、もう良いであろう、唇の一つや二つ」
「まー、お二人とも妙なお返事ばかり」
「絹さん、あの時は(かたじけ)かった。礼を言います。絹さんの気持ちも考えずに(にら)んだりしてしまった。私も、まだまだ未熟です。これからです。何事もこれからです」
 なぜか三人の目には、うっすらと涙があった。

「権佐、夢蕎麦でも喰いに行かぬか」
「木谷さん、この唇では、ちと無理ですよ。出汁が沁みます」
「おー、済まん済まん」
 絹は、久しぶりに心地良い気持ちになっていた。

 権佐は静かな毎日を送っていた。筆頭家老の娘であった絹江が、

(17)






何故あのような姿で江戸に居たのか。文の遣り取りも出来ない二人であったが、出会い橋では元気な旅姿の絹江に会えると思っていた。
 権佐の父紫門は、絹江の父依井(よりい)忠邦(ただくに)の陰謀により職を追われ、権田(ごんだ)家は取り潰された。権佐が元服した直後であった。紫門は賄方(まかないがた)を取り仕切る家老職であり、食材に関しては見識を持っていた。権佐も子供の頃から食材については教えられていた。紫門は蕎麦を打つ事を趣味としていた。非番の時は、蕎麦を打ち家族が食べるのを嬉しそうに見ていたものだった。
 ある日、紫門の屋敷に賄方奉行荒井政右ヱ門が訪ねてきた。荒井は穀物の買い入れ先を井田屋から河内屋に変えたいと話した。井田屋は誠実な(たな)であり、何も河内屋に変える必要はなかった。紫門は意味がないと言った。荒井は、紫門に耳打ちした。(まいない)であった。井田屋は賂を出さないが、河内屋は賄方の家老と奉行に賂を出すという。紫門は河内屋が手広く商っている事は知っていたが、悪い噂も耳にしていた。安い時に買い溜めし高くなった時に売りに出す。これは商人の常識であるが、河内屋は古くなり口に入れられないような穀物も平気で混ぜて売りに出す。しかも大口の取引には必ず賂が動いた。
 荒井は顔をしかめて帰っていった。紫門は、奉行を変えようと思った。しかし荒井は筆頭家老に話を持って行った。依井は、この話に乗った。邪魔なのは紫門である。荒井と共に台帖を改竄(かいざん)した。依井は評定の席で紫門の使い込みを追求した。紫門にとっては、寝耳に水。申し開きをしたが台帖を付きつけられた。見ると自分の知らない数字が並んでいた。
 依井は、藩主水島安房乃守(みずしまあわのかみ)に紫門を訴えた。安房乃守は紫門を信じていたが、賄方奉行荒井の証言もあり、沙汰を下す以外になかった。 依井は切腹を進言したが、安房乃守は取り潰しの沙汰に(とど)めた。しかし、沙汰を聞いた紫門は、自宅に戻り切腹した。妻も、す

(18)






ぐに後を追った。
 使用人に閑を出し家を閉じたのは権佐であった。
 権佐が絹江に会ったのは、取り潰しに合う二年ほど前。筆頭家老の娘と家老の息子である。初めから難しい付き合いであった。二人は権佐が元服した日に、夫婦(めおと)になる約束をした。 

「佐門様、絹江は何と言って良いか。紫門様は濡れ衣を着せられ……。しかも、それが私の父の仕業とは。絹江は、どのようにお詫びを……」
「絹江、済んだ事だ。しかもお前が悪いのではない。拙者は、このような事が身に起こるとは思ってもいなかった。だが世の中とは難しいもののようだ。絹江、拙者は此処に居る事は出来ない」
「佐門様、絹江は別れとうありません」
「拙者とて同じ思い。だが拙者、江戸に出るつもりじゃ」
「江戸に……」
「おう、江戸じゃ。江戸であれば仕事でも見つかるかも知れん。何とかなるであろう。しばしの別れだ。絹江。拙者は、あの約束を必ず守るつもりだ」
「はいっ、絹江も必ず」
 この日、二人は(あかし)を求め合うように体を重ねた。
 権佐は、別れ際に言った。
「江戸には出会い橋という名の橋があるらしい。この橋で待てば、必ず出会いたい者に会えると聞いた事がある。この橋で会おう」
「はい、出会い橋ですね。佐門様、必ず会えますね。絹江は、この夢を胸にその日を待ちます」
 月日は流れ約束の日が来た。

 国で何が起こったのであろうか。月日の経つのは短いようで長いのかも知れぬ。権佐は、ふっと苦笑した。それはそうだ、この私で

(19)






さえ、今は江戸府内を取り仕切る元締めであり、やくざの親分である。このような姿を誰が想像したであろうか。国で何かが起こっても不思議はない。今更との気持ちもあるが権佐は知りたかった。

 あれから一月(ひとつき)ほどが過ぎていたが、隆佐衛門はスッキリしない毎日を送っていた。
 ――権田佐門兼義か。所詮、他人事ではないか。権佐の過去を知ったとて何になる。部屋で片肘を付き、横になっているが、どうしても権佐の事が頭から離れない。いかんな。このように何もせず、ぼけーっとしているから余計な事を考えてしまうのであろう。
 隆佐衛門は、さっと立ち上がり表に出た。表に出たは良いが、さて何処に行けば良いのか。久しぶりに隼人を訪ねる事にした。だが北町奉行所が当番月である事を思い出した。まさか奉行所に行き暇つぶしという訳にもいくまい。夢蕎麦か、と思ったが腹は減っていない。これでは道場に行くか松浦に戻る以外にない。仕方なく道場に行くことにした。

 道場は活気に(あふ)れていた。隆佐衛門は気侭道場の道場主。しかし、隆佐衛門に気付いても誰も気にしない。木刀を持つ連中は、挨拶などそっちのけで稽古を続ける。(おもね)る者などいない。隆佐衛門にとっては実に気持ちが良い。
 道場の隅の方に紫雲斎と絹が居た。隆佐衛門は、何とはなしに見ていた。まるで二人は、踊っているようである。木刀を持った踊り。あれで稽古になっているのだろうか。見ていると二人の動きが止まった。紫雲斎が木刀で絹の頭をコツンと叩いた。絹は舌を出し笑った。ウーン、先生は遊んでいるのか。あの厳しかった先生が……。
 二人は、また稽古を始めた。上段から右脇の構え。そして、また上段に。右八双から袈裟懸け。左下の脇構えから右上に木刀を斬り上げる……。これらの動きが、ゆっくりと、そして時には素早く。それに連れ右足、左足が動く。隆佐衛門は、ハッとした。違う。脚

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の動きに誘われるように体が動き木刀が動いている。しかも、暮波の基本的な構えの時には木刀がきっちりと止まる。いや、ピシッと決まっている。足捌きが伴わない剣道は、見掛けだけのもの。剣道の本筋を見た思いがした。舞うように動き、決めるところはキチッと決める。ウーン。唸ってばかりいる隆佐衛門であった。

 熊吉が隼人に伝えた。
「旦那、権佐は最近一人歩きが多くなっています。それに刀を差していない」
「困ったものだな。狙う者が出るぞ。子分くらいは連れて歩いて欲しいものだが……」
 香具師(やし)の元締め、やくざの親分は、常にその立場を狙われる。命を奪えば、やくざたちから一目置かれる。
「熊吉…… いや、お前が言っても無理だろう。判った、拙者が…… いや、奉行が許さんだろうな」
 隼人は、隆佐衛門に会いに行った。

「隆佐殿、そう言う訳じゃ。何とか説得してもらえぬものかのー」
「隼人、おぬしも聞いておろうが権佐には不幸があった。今、誰が何を言っても聞く耳を持っておらんと思うがなー」
「だからこそ隆佐殿に頼んでおる」
「ウーン、如何ともし難いがなー」
「そこを何とか」
「ウーン」
「何じゃ、ウーン、ウーンと唸っておるばかり。では絹殿に頼むとするか」
「隼人、何故、此処に絹の名前がでてくるのだ。絹は関係なかろうが」  
「溺れる者は藁をも掴む。もう良い。隆佐殿には頼まん」  
「待て待て、そこまで言うのであれば会ってみよう」 

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「そうですか、木村さんが、そのような事を言っているのですか。木谷さん、大丈夫ですよ。鉄砲玉で撃たれれば、ちと危険ですが刀や弓矢なら気にしません。しかし皆に心配させるのも考えものですね。判りました。一人で出歩くのは止めましょう。ところで木谷さん、私に訊きたい事があるのではないですか」
「何を言うか。そのような事はない。拙者、野次馬根性は持っておらん」
「わっはっはー、小鼻が動いておりますぞ。隆佐殿」   
「……」

 ちょうどその時、二本松の屋敷の前に歳老いた旅姿の侍が立っていた。手には菅笠(すげがさ)手甲伽半(てっこうきゃはん)。門の前でウロウロしている。権佐の手下を見つけ声を掛けた。
「お尋ね申す。こちらは二本松の屋敷でござるか」
「お武家さん、そうですが、何ぞ用事ですかい」
「おー、そうであったか。ヤレヤレ、やっと辿(たど)り着いたわ」
 老人は、パタパタと着物に付いた土埃(つちぼこり)(はた)いている。
「ところで、どのような用事ですか。そこでくつろがれても……、こちらとしてはどうも」
「いや失礼仕った。実は、この()に住まう権田佐門殿に言付(ことづ)けがあってな、こうして老骨に鞭打ち参った訳じゃ。済まぬが……取り次いで貰えぬか」
「権田佐門? 侍だな。二本松に侍は居ませんぜ」
「いや、江戸府内の二本松屋敷と聞いておる。他に二本松との名を持つ屋敷が在るのかな」
「此処だけだが……。おい、お前は知っているか」
「兄貴、この屋敷には権田佐門なんて名前の男は居ませんぜ。いや…… 待ってくださいよ。権田佐門……。兄貴っ、苗字と名前をくっつければ権佐ですぜ」

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「権佐っ! では親分だと言うのか。そう言われれば、親分は、昔、侍だったと聞いた事がある。爺さん」
「これ、拙者に向かって爺さんとは聞き捨てならん事を」
「いや、済まなかった。爺……、いや、お武家さん、ちっとばかり待っててくれますかい」
 子分は急いで屋敷の中に走っていった。暫くして、権佐を連れてきた。
「親分、このお侍さんですが……」
 権佐は老人をじーっと見たが、老人が口を開く方が早かった。
「佐門様、お久しゅうございます。ご立派になられて……」
 早々と目に涙を溜めている。権佐は思い出した。この侍、父の元で賄頭(まかないがしら)を遣っていた男。
「柿右衛門殿か」
「いかにも、松下柿右衛門にございます。覚えておいでとは……柿右衛門、嬉しゅうございます」
 溜まっていた涙がボロボロと落ちだした。長旅で顔には土埃。その土埃が涙で流され顔には筋が出来ている。何とも見苦しい顔になっている。
「柿右衛門殿、お疲れであろう。さっ、入ってください」
 権佐は(いた)わるように柿右衛門の肩を抱き屋敷の中へ連れて行った。  
 話は後で、と権佐は柿右衛門を風呂場に誘い、自分は部屋に戻った。    

「来客か」
「木谷さん、昔、父の元で賄頭を遣っていた者が来ました。後程、話を聞きますが、一緒に聞いて貰えませんか」
「拙者は構わぬが…… 何か大事な事ではないのか。おぬし一人で聞いた方が良いようにも思うが」 
「いえ、居てください」

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 隆佐衛門は、何故にここまで権佐に付き合わねばならないのか、出来れば面倒な事に巻き込まれたくはないとも思ったが、自分の意思には関係なく物事は進んで行くようにも思った。柿右衛門が風呂から出て来るまでの間、二人は腕組みをしたまま口を利かなかった。何が起こるのであろうか。

「長旅の後の風呂は、また格別ですな」
 柿右衛門は顔を火照(ほて)らせて部屋に入ってきた。見れば歳は取っているが品の良い顔付き。隆佐衛門は緊張がほぐれる思いがした。
「柿右衛門殿、私は全く事情を察する事が出来んが、何故に今頃、貴殿が江戸まで……」
「佐門殿、そう急かさないでくだされ。歳は取りたくないものでござる。物事一つ一つを片付けなければ次の事に進めませぬ。とにかく風呂に入り身奇麗になった。さてと、何故に拙者が佐門殿を訪ねたか。こちらの話をしなければならぬな」
 柿右衛門は油紙に丁寧に包まれた書状を取り出そうとした。ゆっくりとした動作。二人はイライラが募ってきた。柿右衛門、二人が焦る気持ちを知ってか知らずか、コックリ、コックリと舟を漕ぎ出した。二人は顔を見合わせてしまった。
「権佐、この御仁(ごじん)、余程、お疲れのようだが」
「柿右衛門殿は余り体の方は強くなかった。でありながら江戸まで……。木谷さん、国で何かが起こった事は必至。しかし、これではなー」
「権佐、起こすか」
「いや、休んでもらおう。今日聞いても明日聞いても、一日の違いです。木谷さん、申し訳ないが……明日、昼前にまた来てもらえますか」
「拙者は構わんが……」

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 権佐は子分を呼んだ。子分が、親分、蒲団を敷きましたがと言ってきた。権佐は、柿右衛門をそっと抱き部屋へと運んだ。権佐が戻ってくると隆佐衛門が言った。
「権佐、おぬしにもいろいろとあるようだな」
「皆同じでしょう、木谷さん。人間は皆何か事情を持っている」
「絹江殿の事を言っているのか」
「いや、それだけではない。木谷さんは、私について知りたい事があるはず。明日、判ってしまうかも知れませんが」
「構わぬのか」
「えー、私からベラベラと話す気はありませんが、これも流れでしょう」
「拙者、絹には話すと思うが……」
「構いません。総て木谷さんの判断にお任せします」

 隆佐衛門は帰りしな、考えた。何故あの時、絹には話すと思うなどと言ったのか……。自分でも理解できなかった。絹には関係ない事ではないか。権佐も権佐だ。絹の名前を出した拙者に、怪訝な表情をしても良かったはず。如何にも当然との顔をしていた。隆佐衛門は、ブルブルッと頭を振った。拙者、寝不足なのか。これではいかん。
 松浦に戻り夕餉を終わった。しかし明日の事が気になり落ち着かない夜を迎えていた。

「お父様、宜しいでしょうか」
 このような時に限って絹が来る。
「お、おう、絹か。構わん」
「あらっ! 落ち着かないご様子ですが何かあったのでしょうか」
「絹、用があるのは絹の方であろう。早く話せ」
「まー、冷たい言い様ですこと。先日、道場で稽古を見ておいでで

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したが……」
「お、おう、見たぞ」
「で……」
「で、とは何じゃ」
「何か感じた事をお話いただけるのかと思っておりましたが、お父様は何もおっしゃってくださいません。絹は詰まりません」
「そ、そうだった。折角、紫雲斎殿に指南していただいているのにな。絹、中々、良かったぞ」
「それだけですの」
「これだけだが、不満か」
「何処がどう良かったとか、あそこはこうした方が良いとか……。先生に此処を教えて貰えとか、何か無いのでしょうか」
 気になる事がある、と言いたいが言えない。絹は(ふく)れだしている。何か言わねば後が怖い。
「絹、好きな男は居るのか」
 ――な、何を言い出すのじゃ拙者は。
 絹は、さっと立ち上がった。
「お父様っ! 絹は、お父様が気侭道場で若いお侍に剣道を指南されるものと思っておりました。そのようなお父様は素敵だと……。絹は暮波を皆伝(かいでん)しとうございます。それと言うのも、お父様の剣道が好きだったからです。それなのに好きな男はおるのか、などと……。絹には、好きなお方がおります」
「絹、そうポンポン言わないでくれ。拙者も色々と考え事をする事が……。絹っ! い、今、何と言った。好きなお方がおるだとー。そ、それはどういう事だ!」
「まー、ご自分でお訊きになったのに。絹には好きなお方がおります。お父様、そんな事はどうでも良いのです。絹の剣舞道は、どうでしょうか」
「そんな事だとっ! 絹、拙者は親。剣舞道など、どうでも良い。絹っ! 好きな男とは誰だっ!」

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 結局、絹はそれが誰かは言わなかった。また眠れぬ夜が続く。隆佐衛門は頭を抱えた。

 隆佐衛門は、約した事は守る主義である。昨夜は一睡も出来なかったが、二本松に行かねばならない。眠い目を擦りながら松浦を出た。
 誠に不愉快な事に、権佐は実に晴れ々れとした顔で隆佐衛門を迎えた。
「木谷さん、このような事を言っては失礼になるかも知れませんが目ヤニが付いておりますぞ」
 ――目ヤニっ! そんな事、どうでも良いっ!
 と胸の内で叫んだものの目を擦った。
 しばらくして柿右衛門が部屋に入ってきた。裃に袴姿。正装である。隆佐衛門は、その姿を見て思った。歳は取っているが矍鑠(かくしゃく)としたものだ。

「しかし綿がタップリの蒲団であった。あのようなフカフカな蒲団に寝た事はない。江戸では、皆、あのような蒲団に寝ておるのかのう」
 隆佐衛門は、柿右衛門の飄々(ひょうひょう)とした立ち居振る舞いを見ていた。
「柿右衛門殿、ところで体は休まりましたか」
「おうおう、お陰で旅の疲れなどどこかに飛んで行ってしまった。安房乃守様はな、しばらく江戸に居ても良いと申された。拙者、江戸屋敷か、この()に逗留させて貰うことになると思うが、宜しいかな」
「何かと思えば、そのような事。気楽にお使いください」
「そうか、そうか。いや安心した。ところで……、拙者、殿の書状を預かっておる。これを伝えしない事には夜もグッスリ眠る事が出

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来ぬ」
 先程はグッスリ眠ったと申したくせに、と隆佐衛門は胸の内で呟いたが、ま、拙者は大人しくしていよう。
「佐門殿、殿の書状じゃ。良いかな」
 権佐は、さっと下座(しもざ)に移った。柿右衛門は書状を手に上座(かみざ)に座った。(うやうや)しく書状を両手で持ち頭を下げた。
「権田佐門兼義。水島藩主、安房乃守様の言上(ごんじょう)を伝える。心して聞けっ!」
 隆佐衛門は柿右衛門の声に驚いてしまった。あの老人が、今はしゃきっと背筋を伸ばし腹の底から響き渡る声を出している。権佐は、ひれ伏し柿右衛門の言葉を聞いている。

(ひとつ)、権田紫門の所業とみなされた件は全くの濡れ衣であった。一、首謀者は筆頭家老、依井忠邦、及び賄方奉行荒井政右ヱ門。一、依井、及び荒井両名は藩主たる余に偽りを述べた(かど)により切腹を沙汰し両家を取り潰した。一、権田紫門への沙汰を取り消し権田家の再興を許す。一、権田紫門の死去により権田家は嫡子佐門兼義を当主とし、禄高一千石を与える」
 柿右衛門は此処で一息付いた。次いで書状をぱっと広げ権佐に示した。
「以上、相違ない事を確かめよっ!」
 権佐は、ははーっと頭を下げた。どう言う訳か隆佐衛門も頭を下げた。柿右衛門は書状を元通りにたたみ権佐に渡した。
「これで拙者の仕事の半分は終わった」
 そう言うと権佐の横に座った。
「佐門殿、後は、おぬしが決める事じゃ。殿は紫門殿を信じておった。濡れ衣ではないかと目付けに調べるよう命じた。だが真相が判るまでに一年ほど掛かってしまった。真実が判った時、殿は、しま

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ったと言われたそうじゃ。しかし、紫門殿は切腹、奥方も後を追ってしまった。嫡子佐門殿は行く方知れず。殿は、お悩みになっていた。だが、縁とは不思議なものじゃ。依井殿の娘、絹江殿を江戸で見かけた者がおった。参勤交代で江戸詰めをしておった者じゃ。絹江殿の余りにも変わり果てた姿。この者は確かめるために数日、後を付けたという。ある日、絹江殿は母娘にぶつかり道に倒れた。人が集まった。この男、ぶつかった母娘の家に絹江殿を背負って行ったそうじゃ。絹江殿の葬儀が二本松で執り行われた。そして、おぬしを見つけたと報告してきた。殿は、どう言う訳か隠居間近の拙者に書状を託した。大切な書状じゃ。神経を使いましたぞ」
(かたじけな)く思っております。ところで柿右衛門殿、その侍とは」
「報告の最後にな、決して名を明かさぬようにと(したた)めてあったそうじゃ。拙者も殿から聞いておらん。拙者の下衆(げす)な勘繰りでは、この侍、絹江殿が好きだったのではと思うが……。ところで佐門殿、おぬしは何故絹江殿の葬儀を取り仕切ったのじゃ。おぬし、絹江殿とは会っておったのか。絹江殿は良い娘御(むすめご)じゃったが、依井家が取り潰された後、行方知れずになった。しかも絹江殿の父親はおぬしの父を(おとしい)れた者。拙者は、どうにも()せんが」
 静かに姿勢を正していた権佐の顔が(ゆが)んだ。柿右衛門は何かを察したようだ。しばらく沈黙が続いたが、柿右衛門が口を開いた。
「ま、佐門殿、世の中にはいろいろな事がある。歳を取ると余計な事を詮索したくなるようじゃ。いかんな」
 柿右衛門は、コツンと自分の頭を打った。
「ところで、佐門殿。殿への返事は拙者が受けるように言われておるが、今この場で返事をと言う訳にもいかんだろう。熟慮した上で返事を願いたい。殿に返事をお伝えし、拙者の仕事が終る」
「は、はー。殿にはありがたきお言葉をいただきました。権田佐門兼義、心よりお礼申し上げまする。殿への返事につきましては、しばし時間をいただきとうござる」
「相判った。ところで、こちらのお方は、どなたであろうか」

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 そういえば、まだ挨拶をしていない。考えてみれば奇妙な話である。
「柿右衛門殿、こちらは私の父親になるやもしれぬお方です。総てを知っていただきたいと同席を願いました」
「おー、そうかそうか。それは良い」
 隆佐衛門は、長く浪人をしていた。このようなかしこまった雰囲気は久しぶりである。どのように挨拶すべきかと思案していた。権佐の言ったことに気付いていない。
「申し遅れましたが、拙者、木谷隆佐衛門影……」
 隆佐衛門、この時、権佐の言葉が頭を()ぎった。
「権佐っ! い、今、おぬし拙者の事を父親とか申したなっ! どういう事じゃッ! 誰が絹をおぬしの嫁にと申したのじゃ。拙者、そのような事、許した覚えはないッ!」
 物凄い剣幕で捲くし上げた。
「木谷さん、ですから…… なるやもしれぬと言いました。なるとは申しておりません」
「ウーン、確かにその通りだが、そのような大事なことを、このような厳粛な場で軽々しく口にするものではない」
「木谷さん、落ち着いてください。厳粛な場であるからこそ、私の望みを言ったのです」
「おぬし、絹江殿の事はどうしたのだ。あれほど涙したのを忘れたのか」
「木谷さん、私は気付いたのです。私は絹さんの中に絹江の思い出を見ていたと。絹江は可哀相でした。だが、余りにも長い月日。今、私は生きている。死んだものを悲しむ気持ちは忘れません。私は悲しんでばかりいれば良いのでしょうか。それでは死んだ者も浮かばれないのではないでしょうか」
 隆佐衛門は言葉に詰まった。権佐が言った事は隆佐衛門の持論である。
「どうしても許さんと申されるのであれば、この場でおっしゃってください」

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「何を言うか、親とはいえ絹の気持ちも確かめずして、そのような無責任な事は言えん。良いか、おぬしは今、岐路(きろ)に立っておる。安房乃守様の心遣いに応え、武家に戻るかどうか決めねばならぬ。絹の話は別ものだ」
 とは言ったものの、絹が好きなお方がいると言った事を思い出した。まさか権佐をっ! 急に言葉に迫力がなくなった。同じように権佐も静かになった。
「絹殿の気持ちを聞いた事はありません。もし絹さんが私の事を嫌っていれば総ては終わります」
 何となく、場の雰囲気が静かになった。

 二人は柿右衛門をそっちのけで話していた。柿右衛門は、ニコニコと二人の遣り取りを聞いていた。
 ――これでは殿への返事は遅くなるな。その旨、早飛脚を立てお知らせしよう。返事が長引けば、拙者の江戸滞在も長くなる。公務から離れ、のんびりさせてもらうかのぅ。江戸屋敷では堅苦しい。二本松に決めた。
 柿右衛門、総てに達観している。
「で、話は付きましたかな」
 柿右衛門が言った。二人は柿右衛門がいることを思い出した。頭を下げた二人、隆佐衛門が口を開いた。
「何ともお見苦しい所を。拙者にとり全くの寝耳に水。気が動転してしまいました。お許しくだされ」
「何の何の。ま、ジックリと話し合われた方が良い」
 隆佐衛門と権佐、腕を組み、在らぬ方を見ている。柿右衛門が言った。
「まだ、お二人は話を続けるお積りかな。済まぬが、拙者疲れてしもうた。できれば、一眠りしたいのじゃが、佐門殿、部屋を貸してもらえぬかのう」
 二人も疲れていた。いくら考えても問題は絹の気持ちである。絹

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に聞かぬことには(らち)の開かぬこと。今日は、これ以上話しても無駄であろう。無言のまま立ち上がった。柿右衛門は、どうして良いか判らないが、つられて立ち上がった。隆佐衛門と権佐が玄関の方へ歩いて行く。柿右衛門も後を追った。無言のまま、隆佐衛門は二本松を後にした。

 松が登世に訊いた。
「奥様、絹さんに続き、今度は旦那様です」
「そうなんです。今度は旦那様が部屋に引きこもったまま……。食事の方は、どうですか」
「はい、部屋の前に置けと言われましたので、そのようにしています。膳を取りにいきますと少ししか召し上がっていません」
「そうですか。近頃、夜も別だし……」
「奥様っ! そのような夫婦の秘め事を。松は、まだ生娘(きむすめ)ですよ」
「あらっ、私とした事が……」
 登世は真っ赤になり俯いた。

 隆佐衛門は、とにかく憂鬱であった。障子を締め切り、片肘を突き横になる。右手が痺れれば、ごろんと寝返りを打ち、左手に。何遍繰り返しても頭はスッキリしない。絹と権佐の事が頭を離れない。権佐は、まだ絹の気持ちは判らないと言った。少しは気が楽である。では、絹は。訊いても何も話してくれなかった。やくざの親分の女房…… そんな馬鹿な。権佐は侍に戻るのだろうか。あやつが居なければ江戸の秩序は乱れる。どうするつもりなのだ、権佐は。隆佐衛門が、いくら考えても決めるのは自分ではない。余計イライラが募る。

「お父様、絹ですが、宜しいでしょうか」
 ――何っ、絹っ!
 隆佐衛門は飛び起きた。

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「ちと忙しいが、何だ」
「絹は、お父様にお願いがございます」
 願いっ! 隆佐衛門の心臓は早鐘のように鳴り出した。
「お父様、宜しいのでしょうか、部屋に入りましても」
 やけに丁寧な話し振り。隆佐衛門は覚悟を決めた。
「構わん」
 絹が静かに障子を開け、部屋に入ってきた。実に神妙な顔をしている。隆佐衛門の頭に血が登った。この場から逃げたいと思った。
「お父様は先日、絹の願いであれば何でも叶えてあげるとおっしゃいました。そのお言葉に甘えるつもりはございませんが、絹のこれからに(かか)わるお願いです。宜しいでしょうか」
 隆佐衛門は目がクラクラしてきた。ついに来たかっ! 
「絹、そのような大事な願いであれば、登世と共に聞かねばならぬだろう。それが親子と言うもの。登世を呼びなさい」
「はーっ? お母様をお呼びするのですか」
「当り前だ。拙者一人で決める訳にはいかん。登世にも考えがあるはずだ」
「そうでしょうか。絹には判りま…… いえ、お父様のおっしゃる通りです。たとえ剣舞道のことであってもお母様にも聞いていただいた方が良いですね」
「何っ、剣舞道だとーっ! 絹、大事な願いとは剣舞道の事か」
「はい」
 隆佐衛門、一気に体中の力が抜けてしまった。何だ、そうだったのか。急に元気になる。
「絹、登世は今、忙しいはずだ。拙者一人で良い。何でも申してみよ」
「お父様は、先ほどお母様もとおっしゃったのに宜しいのですか」
「登世には後で拙者が伝える。さー、申してみよ」
 絹は隆佐衛門の勘違いに薄々気が付いたが、素知らぬ顔で話し始めた。話は、こうであった。

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 紫雲斎は、暮波一刀流を教えてくれる。自分は暮波を皆伝したいが、紫雲斎は事ある毎に女子(おなご)のための剣舞道を作り上げるのは絹だと言うらしい。考えろ、考えろと言われても自分一人では難しい。そこで園を誘いたい。園は町人や武家の娘に顔が広い。何人かが集まるはずだ。皆で剣舞道を作っていきたい。ついては気侭道場を使いたいが、どうか、との内容だった。
 
「絹、気侭道場は誰が何のために使っても良い道場。華道でも書道でも良い」
 隆佐衛門は、先程とはうって変って胸を張り赫灼と話す。その変わりように絹は笑い出しそうになる。が、気になる事がある。
「しかし、お父様。そうなりますと道場に女子の人数が多くなります。また……」
 やはり例の一件が尾を引いているようだ。
「絹、もしもだが、その事のために何か面倒な事が起こったとしよう。その時は道場主である拙者が()るではないか。拙者が総てを片付けるゆえ、絹は心配せんで良い」
「お父様、絹は嬉しゅうございます」
 珍しく絹が目に涙を溜めている。隆佐衛門も何か胸に熱いものを感じた。
「ところで、絹……」
「お父様っ、絹は、当分、この()におりますゆえ、宜しく」
 隆佐衛門の顔がパーッと明るくなった。その途端、空腹感が襲ってきた。
「絹、夢蕎麦を喰いに行こう。どうだ」
 絹は、それほど空腹ではなかったが、これも親孝行と付き合う事にした。意気揚々と店先に来た隆佐衛門。
「登世、絹と夢蕎麦を喰いに行く」
 驚いたのは登世と松。顔を見合わせ、まー、の雰囲気。二人で絹

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を見た。絹も顔を横に振り、どうしたんでしょう、の顔付き。

 蕎麦処夢屋は相変わらず繁盛していた。ちょうど奥の方に席が二つ空いていた。二人が座ると数馬が来た。
「滝の白糸を五枚頼む」
「へーいっ! こちらのお二人様っ、滝の白糸を五枚っ!」
 大きな声で叫んだ。一斉に客が二人を見た。二人で五枚? 絹は恥かしくて堪らない。顔を真っ赤にした。
「皆さん、ご安心くだされ。拙者が四枚、娘が一枚。拙者、腹が減ってな」
 店中に大きな笑いが起こった。絹は益々身を縮めて下を向いてしまった。困ったお父様。 

 権佐の返事を待たずに安房乃守は着々と手筈(てはず)を整えていた。権佐の事は江戸屋敷より詳細な報告が入っている。
 ――面白い。実に面白い。余の家臣にやくざの元締めが加わる。人間、長生きはするものじゃ。

 幕府は藩主に対する任命権は持つが、家臣については何も言えない。藩とは独立した国である。どの藩であれ召抱えた家臣について幕府に知らせる必要はないが、安房乃守は、江戸詰めの家老に此度の件を老中に知らせるようにと沙汰した。藩主の命令である、家老は、渋々、他の案件と共に書状を老中に渡した。
 老中は書状にちらっと目を通し、どうしたのじゃ安房乃守は。家臣を召抱えるなどと知らせおって。不要なことじゃ、と屑篭に入れようとしたが、再度、家臣の名前を見た。権田佐門兼義、知らんな。しかし安房乃守のこと、何か(いわ)くがあるのじゃろうと、次の評定の際に取り上げる事にした。評定には町奉行も加わる。

「各々方、水島安房乃守がこのような書状を寄こした。あ奴の事じ

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ゃ何かあると思うが……この権田佐門とか申す者、知っておるか」
 皆、頭を横に振る。北町奉行の片岡新左エ門が書状をと手に取った。新左エ門、名前を見て、すぐに勘付いた。
「な、何とっ!」
 周りの者が新左エ門を見た。新左エ門、書状を手にブルブルと震え出した。
「ご老中っ! これはなりませぬ。この男、二本松の権佐と思われまする」
「何っ! あの権佐かっ!」
「如何にも。やくざの元締め二本松の権佐に相違ありませぬ。権佐が水島藩にでも戻ったといたしましょう、他のやくざ共が、これ幸いと狼藉を働きまするぞ。やくざ同士の縄張り争いが起き、庶民が巻き込まれ、犠牲者が出るは必至。そうなれば南、北の奉行所の手には追えなくなりまする。これはいけませぬ。指し止めをお願い仕る」
「新左エ門、それは出来ぬ事じゃ。公儀とて藩主が抱える家臣についてとやかくは言えん」
「お言葉ですが、神君家康公は、関ヶ原以後、西方に組した者を召抱えてはならぬとのお触れを出されましたが」
「新左エ門、時代が違おうが、時代が」
 事の重大さに評定に集まった者の顔が引き締まった。
「安房乃守め、困った事を……」

 結局、この日は何の結論も出ず評定は終わった。新左エ門は奉行所に戻り、与力だけでなく同心も集めた。
「各々方、そう言う訳じゃ。ところで隼人、おぬしは権佐と親しいであろうが、何か聞いてはおらぬか」
 隼人は話を聞き、深刻な顔をしている。
「何も聞いておりませぬ。しかし大変な事になりまするな。これでは婚礼どころではなくなります。いや失礼、口が滑りました」

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 皆、苦笑するだけ。やくざの縄張り争いには正義も何もない。町人が傍に居ようが、被害が及ぼうが、ただ闇雲に相手を殺そうとする。考えただけでもゾーッとする事態が起こる。奉行所でも上手い手立ては思い付かなかった。

 そのような事が起こっていようとはつゆ知らず、権佐と柿右衛門は楽しい毎日を送っていた。柿右衛門は江戸中を物見遊山(ものみゆさん)。帰ると権佐に話をする。あの寺は立派だった。あの神社も凄い。江戸は人が多いが綺麗な女子も多い。あそこの仲見世でこれを買った、何を食べた……。まるで子供のように活き々きと話す。権佐は自分の肉親のような面持ちで聞いている。

 老中から新左エ門に知らせが届いた。権佐を江戸に止める方策を考えろ。老中、各奉行が頭を巡らせても妙案は出なかったのだ。そんな無体な。新左エ門は頭を抱えてしまった。

 絹と園が園の実家である千國屋にいた。久しぶりの親子水入らず。話は尽きないが剣舞道の話をしてみた。母親は目を輝かせ、私も遣りたいと言い出した。千國屋は歳を考えろと躍起になって止めている。二人は、この分では何人かの仲間が集まるとホッとした。
 気侭道場の一角では五人ほどの集団がいた。若い女性、それほどでもない女性。襷掛けに鉢巻。何とも威勢が良い。(かたわら)には紫雲斎がニコニコと座っている。果たして剣舞道なるもの、出来上がるのであろうか。

 新左エ門は頭を悩ませていた。老中とも相談した。
「新左エ門、力ずくで遣って見てはどうか」
「肝の座った権佐。()を上げる事はござらん」
「犯罪者として、ひっ捕らえるのはどうじゃ」
「別に(とが)を受けるような事はしておりませぬ」

(37)






「では金じゃ。金を積めば何とかなろうが」
「二本松には金が(うな)っております。何の意味もありませぬ」
「女じゃ。女を使え」
「何やら、結婚を約した女を失い悲しみの中にいると聞いております。どのような女にも心を動かさないと思われまする」
「では、おぬしはどうするつもりじゃ」
「この際、権佐の事は諦め、新たに幕府お抱えの元締めを立ててはと思いまする」
「何ー、幕府がやくざの親分を任命すると言うのかっ」
「他に手立てはないと存じまするが……。しかし、これは余りにも無様(ぶざま)。公儀の沽券(こけん)に関わりますな」
「あっ、当り前じゃっ!」
「安房乃守殿を江戸に呼び、老中より説得する以外にないのでは」
「駄目じゃ。安房乃守に頭を下げるなどと…… 死んだ方がましじゃ」
「では、どうするお積りで……」
「拙者が佐門に会い、話して聞かせると言うのはどうじゃ」
「老中が、やくざの親分に頭をお下げになるのですか」
「頭を下げるとは言っておらん。幕府の威厳を示せば良いのじゃ」
「そもそもやくざは無頼の(やから)。権佐は権力など屁とも思っておりませぬ」 
 方法は見つからない。 

 安房乃守は、幕府の要人よりも一枚も二枚も上手(うわて)であった。佐門が江戸で何をしているか、どのような立場にあるかも調べつくしていた。水島藩に呼び戻した場合、江戸市中がどのような状態になるかも判っていた。その上で家臣にしようとしていた。江戸藩邸との間で早飛脚が行き来した。

 権佐と柿右衛門、今日も四方山話に花を咲かせていた。すると

(38)






子分が親分の上役になるというお人が訪ねてきたと知らせた。私の上役……。権佐は怪訝に思ったが通すように言った。
 身なりの良い侍が部屋に入ってきた。侍を見た柿右衛門、飛び上がらんばかりに驚いた。
「ご、ご家老っ」
 言うなり平伏した。
「おう柿右衛門、久しぶりじゃな。元気そうで何よりじゃ。そなたが権田佐門か。成る程な。申し遅れたが、拙者、水島藩江戸家老、元山平九郎でござる。安房乃守様の書状を持参した」
 柿右衛門は畳に頭を擦り付けている。
「拙者が直接手渡すようにと殿が仰せられた。これが書状じゃ」
 平九郎、気楽に書状を権佐に渡した。権佐が平九郎に訊いた。
「安房乃守様には、まだお返事をいたしておりませぬ。それに、この書状、私が直接、目を通しても宜しいのでしょうか」
「殿は気さくなお方じゃ。佐門に渡せとの仰せじゃ。拙者は内容を存じておる。佐門、早く読め」
 権佐は書状を読み出した。読んでいる最中、平九郎が柿右衛門に話しだした。
「柿右衛門、のんびり出来たようじゃな。ところでおぬしは独り身じゃったはずだが……」  
「へへー、妻も娶らず奉公一筋。気付いた時は歳を取っておりました」
「嘘を付け。若い頃、散々女子を泣かせたと聞いておるぞ。お陰で嫁のなり手がなかったそうではないか」
「へへー、勿体ないお言葉」
「何が勿体ないじゃ。殿がな、当分の間、江戸で佐門を手助けせよと書状を寄こされた。心して勤めに励め。良いな」
「はっ?」
 柿右衛門は、まだ事情が判らない。権佐が書状を読み終わった。
「佐門、如何いたす」

(39)






「はっ、安房乃守様のご意向、お受けいたします」
「そうか。では、頼むぞ。ところで久しぶりに市中を散策してみたい。明後日、水島江戸藩邸に来るように。その時は羽織、袴、両刀を忘れるな。良いな」
「ははー。では、ご家老、お供をお付けいたしましょう」
「そうじゃな。噂どおりの子分か、拙者も知っておきたい」

 権佐は二人の子分を呼んだ。見るからにやくざ者。一本独鈷(いっぽんどっこ)の帯に長ドス。顔には向こう傷。さすがに平九郎も顔をしかめた。
「水島藩江戸家老、元山平九郎様です。粗相のないようお供してください」
「へー、判りやした。元山さん行きやしょうか」
 平九郎は家老など何とも思わない二人に、小気味良さを感じてしまった。成る程、これは面白い。
 権佐は書状を柿右衛門に渡し読むように言った。次いで子分を呼んだ。
「木谷さんと木村さんを呼んできてください。申し訳ないが大事な話があると丁寧にな。遅くなっても構いません。それから明朝、皆に集まるように伝えてください」

 権佐が子分に話している間、柿右衛門は書状を読んだが、フムフム、成る程、成る程、これは面白い、いやはやこれは、と何ともうるさい。子分の一人が言った。
「木村さんは奉行所に居るんじゃないですかい。どうも奉行所に行くのは……」
 などと尻込みをしている。もう一人は、さっさと、では、あっしは木谷さんの所にと出て行ってしまった。
「大切な話です。我々はやましい事はしていない。堂々と行ってきてください」

(40)






 渋々、子分は出て行った。権佐と柿右衛門が向き合った。
「佐門殿、忙しくなりますな」
「柿右衛門殿、宜しく頼みます。このような事があっても良いのではないでしょうか」

 隆佐衛門は、道場で若い侍に稽古を付けていた。道場には黄色い声も響く。声の合間に、紫雲斎のホッ、ほっほーの笑い声も聞こえる。裏手から権佐の子分が顔を覗かせた。隆佐衛門、稽古を止め、子分のところに行った。
「何だ、用事か」
「へー、親分が大事な話があるのでご足労願いたいと……」
「大事な話?」
 隆佐衛門はピンと来た。権佐め、決めたな。

 北町奉行所前。子分が着物の裾を持ちウロウロしている。
「やはり入り(にく)い。どうしよう」
「おいっ! 先程から何をウロチョロしておる。おぬし自首してきたのか」
「め、滅相もございやせん。ちょっと木村さんに言伝がありやして……。呼び出しちゃー、いただけやせんでしょうか」
「何ー、木村殿を呼び出せとー! おぬし、奉行所を舐めておるのか。しかも木村さんなどと親しげに……。胡散臭(うさんくさ)い奴じゃな。おい、ひっ捕らえるか」
 隣に居る同僚に声を掛ける。この子分、逃げる訳にも行かない。何しろ奉行所の役人と口を利いた事がない。どのように話して良いのか判らないのだ。
「ま、待っておくんなさい。権佐親分からの伝言、伝えない事には大変(てーへん)な事になりやす」
「何っ! 権佐の伝言とな。まっ、待っておれ」

(41)






 役人は奉行所の中に走った。奉行所は、権佐の件でスッタモンダしている最中。隼人が飛び出してきた。
「おう、お前かっ! 要件を早く言え。早くっ!」
「へー、権佐親分が大事(でーじ)な話があるので、済まないが来てくれないかと……」
「判ったっ!」
 隼人、刀も差さずに行こうとする。同僚が慌てて、
「木村殿っ! 刀は!」
 と怒鳴った。隼人、くるっと向き直り、その同僚の刀を抜こうとする。侍は刀を腰に差す時には、下緒(さげお)を帯に巻きつけている。さらに(かえ)(つの)があるため簡単にはいかない。
「木村殿、待ってくだされ。おぬしも困ったお人じゃ」
 同僚は、渋々、刀を抜き隼人に渡した。

 隆佐衛門の方が先に着いていた。(かしこ)まって座っている権佐と柿右衛門。息を(はず)ませながら隼人が座った。権佐が(うやうや)しく二人に頭を下げた。
「急なお呼びたて、申し訳ありません。縁とは不思議なものです。切れたと思えば、また繋がったりします。繋がっていると思えば、切れていたり……」

 権佐は、昔、水島藩で起こった事、そして、また縁が繋がった事を話した。
「私にとり嬉しい事は、父の濡れ衣が晴れたことです。これだけで良かったのですが、藩主安房乃守様から権田家再興のお話をいただきました。これも嬉しい事です。しかし、私は、どちらが好きと言うのではなく、このまま江戸にいた方が良いと思い、丁寧にお断りする積りでおりました。ところが安房乃守様は、私の返事を待たずお決めになっていました」

(42)






 権佐は、安房乃守の書状の内容を話した。

 濡れ衣とは言え権田家を潰したのは自分だ。しかも紫門とその妻を死なせてしまった。嫡子が見つかった以上、本人の意思に関わりなく家は再興する。紫門に詫びるためだ。だが、佐門は水島藩に戻るまい。それに佐門が居なくなれば江戸は大変なことになるであろう。江戸に居れば良い。だが余の家臣になる事には変りがない。江戸藩邸に席を作る。月の半分は、賄方与力として働け。残り半分に関し、おぬしが何をしようが余は知らぬ。賄方の仕事は江戸の優れた物産を水島藩に送り込む事、及び水島藩の物産を江戸に売り込む事である。物産は何でも良い。おぬしに任せる。
 もし権田家を潰したければ、おぬしの自由にして良い。ただし条件がある。余が生きている間は許さん。もう一つ条件がある。藩邸に勤める時は、羽織、袴、それに両刀を携える事。不埒(ふらち)な身なりで出邸した場合は、水島城内に幽閉するゆえ覚悟するように。
 なお、先般、禄高一千石と申したが、考えて見れば月に半分の勤めであるため、考えを改め、五百石に訂正する。

 最後の一言で皆、噴き出してしまった。実に安房乃守らしい考え方。厳しさの中に必ず遊びがある。
 隼人は確認した。
「権佐っ! 江戸に居るのだな」
「そうなります」
「御免っ!」
 と言うなり部屋を飛び出ていった。お奉行に伝えなければ。

「木谷さん、私は羽織、袴など持っていません。明日、子分に用意させますが……。実は、刀も揃えなければなりません。見てください、この刀を。権佐の時はこれで良いのですが……」

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 確かに飾り刀のように拵えが派手だ。それに脇差がない。隆佐衛門は、明日、松浦に来るように言った。
 隆佐衛門は、松浦に戻ると登世と絹に事情を話した。登世は、まー、まーと合いの手を入れて話を聞いたが絹の表情は静かだった。
 隆佐衛門は、刀について登世に耳打ちをした。

 翌朝、権佐は子分を集めた。話し終わると暫しの静寂が流れた。子分たちには全く事情を知らせていなかった。しばらくしてざわめきが起きた。
「親分、二足の草鞋(わらじ)ですね」
「俺たちが手伝っても良いんでしょうな。親分が忙しくなるんだ、俺たちも根性入れて遣ろうぜっ」
「では、お侍の時は、権田佐門様で、やくざの時は権佐ですかいっ! 袴、履いてる時に道で出会っても知らん顔なんて勘弁しておくんなさいよ」
 皆、喜んでいる。

 昼近くに権佐が子分を連れ松浦に来た。登世が対応した。
「権佐様、この刀をご用意いたしましたが」
 真新しい番指拵(ばんさしこしら)えの刀と脇差が権佐の前に置かれた。権佐は刀を手に取り鞘を抜いた。
「うっ!」
 権佐が唸った。刀身をじーっと見ている。そして言った。
「登世殿、この刀は随分と使いこなされているが……。それに、かなりの人間を……」
「はい。すべて真っ当な勝負と思われます」
「そのようですね。邪剣の相が全くない。内に秘めた強い力を感じます。実に静かな刀だ」
「はい。お見立て通りと存じます」
 権佐は刀を納め、脇差を取り、さっと抜いた。

(44)






「これは、また美しい。昼間のように輝いている」
「はい、全く汚れを知らぬ脇差です」
「いやー、晴れ々れとした娘御のようですね。まだ誰の手にも触れていない脇差。両刀とも気に入りました。頂きます。で、お幾らですか」
「ほほほー、こちらの刀は売り物ではございませんのよ。それに脇差は隆様の贈り物だそうです」
「何と脇差は木谷さんの贈り物……。また、洒落た事をいたしますな」  
「洒落た事とは言え、隆様は、精々、これ位の事しかできません。どうぞお受けくださいまし」
(かたじけな)い」
 権佐、侍言葉になっている。
「ところでこの刀だが……、以前、お使いになっていた方をご存じなのかな」
「はい、源衛門様でございます」
「何と高藤殿……。うーん、成る程。しかし、何故、拙者に……」
「隆様が言いますには、この刀は持つ者の身を守る相がある。このまま置いておくだけでは可哀相だ。誰ぞ大切な方に使って貰いたいものだ、と以前から申しておりました。そのようなお方が現れた時には刀を渡すと。この事は源衛門様にもお伝えしております。隆様は、権佐様の此度の件を聞き、この刀をお使いになるのは権佐様以外にないと」
「そうですか。木谷さんが……」
 権佐は刀と脇差を見た。ふっと脇差に手を触れた。
「登世殿、絹さんは」
「道場だと思います」
「そうですか……」
 登世は、権佐の表情を見て、クスッと笑った。


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 水島藩主、安房乃守に老中から書状が届いた。
「安房乃守、今までの数々の所業、(はなは)だしく、実に誠に不愉快である。しかし、此度の件のみに関して言えば、あくまでも此度のみだが、礼を言う」
 水島城内に安房乃守の高笑いが響き渡った。

 出会い橋を権佐が歩いていた。向こうから絹が来る。二人は、橋の中ほどで出会った。
「あらっ! 権…… いえ、佐門様」
「き、絹殿っ!」
「ふふっ、佐門様、お侍様のお姿、中々、お似合いです事……」
「そ、そうですか」
「佐門様、これからも宜しくお願いいたします」
「き、絹殿。こちら…… いや、私…… いや違う。拙者こそ宜しく、お願い申す」

 絹は権佐に会釈し、そのまま歩いて行った。権佐は、軽やかに歩く絹の後姿を、じーっと見ていたが、絹が振り返る事はなかった。




                         (了)




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