自分の時間に自分のやりたい事をする、ということは実に大事な事である。

 本気でしたいことをしている時、きっと人は忘我の境地に入る。

 バイクに乗る。女の子と遊ぶ。飲みにいく。ローラーブレードで脚力を鍛える。スケートをやりにいく。

 駄文でHPを更新する。音楽を聴く。歌を歌う。自分について考えてみる。

 もう思いつかない。

 この程度しかないしのはらの趣味でも、そこには労働社会の中から解き放たれた自分があって。

 他人にはわからない自分にしか見えない輝きの中に埋没し、個性を磨く。

 しかしそこには必ずルールと言うものが存在し、縛られない人生など全くない事をその度に学ぶ。

 例えばしのはらの世界のツーリングでは。

 上級者に完膚なきまで叩きのめされ、これまで築いてきたプライドをズタズタにされながら、また立ち上がって忘我の境地に入る。

 それが大切な経験値になる。

 逆に下級者を叩きのめす時だってもちろんある。

 まだ免許取ったばかりのライダーと旅に出ても、最低限のルールを守らなければボロクソにする。命にかかわるからだ。

 忘我の境地に入ってやりたいことをやるという行為は、時には命がけである事も知らなければいけない。

 色々な人にそれを教えてもらい自分で即死寸前の目にあって初めてわかる事だが、教えてもらわないとその重要さをわからない。

 それが叱りだと言う事ですらも。

 

 

 と、バイクに乗りながら自分を見つめる自分がいてよかったと、たまに思う。

 しかしそれの叱りを大衆世論を追い風にゴリ押しする人種がいる。

 それが自己中主義国民アメリカ人である。

 もともとアメリカ人は共産党位大嫌いで話し掛けられたくない率ダントツ一位だが、こないだ布教されてダベってみた。

 そのリポートを掻い摘んで。

 

 

 

 「こんにちは〜。今日は暖かいですねぇ。小春日和っぽい感じで。」

 流石に日本に長くいるだけあって、話の切り口は面白かった。それでばぁさま方をだましてるのか。

 「やぁどうもはじめまして。」

 と自分から言うからには論破されぬような心構えを持たなければいけない。

 「フレンドリーですね! 一言目にあいさつしてくれる日本人は久しぶりですよ」

 と民族をバカにしたような発言をしつつもしっかり自分はパーフェクトだと思っているお前らが嫌いなんだってばしのはらは。

 そりゃそうだ。鬼のような戦前人口を抱えるここの市民が原爆で大虐殺をかましたお前らにいい顔をするご老体は少数だろう。

 「そうですかね。アメリカ流っぽくサルマネしてみたんだけど。何せ黄色いからさ。」

 売り言葉に買い言葉とでも言うのでしょうか。思わず「自転車こぎはエクササイズですか? 通販に出ていそうな感じですね」とか言いそうになった。

 「そんな事言わないでください。 私はケンカを売りに来たのではないのです」

 そんな事は知っている。

 「そうですか。そうですよね。布教活動ですよね。寒い中大変ですねぇ」

 「その通りですが、そうでもありません。教科書問題やアフガンの戦争について意見を聞きたいのです」

 ヤツらは決まってそういう切り口から迫ってくる。大通りのお祈り魔と同じ手法だ。バカなんじゃね→の?

 「一般的意見が欲しいの? それならアメリカの民間人を巻き添えにしたアフガン人は民間人も皆殺しされるべきだとでも言っておこうかな」

 「…。」

 「それで結局は湾岸戦争みたくアメリカの思い通りで終結すれば世界平和なんでしょ。パチパチ。わー。」

 「バカにしているんですか?」

 「当たり前だ。広島・長崎の原爆での民間人大虐殺を行った民族が何を言うか。」

 「でもアレをしないと戦争は終わりませんでしたよ。」

 「石油を輸入できない当時の日本が勝てるわけないでしょ。ね?」

 「でも他の国から輸入してたかもしれませんよ?」

 「そんなわけないでしょ。他の石油産出国は別の国の植民地だったわけだし、ドイツに裏切られた日本が勝てるわけないしょや。」

 「でも当時の日本には特攻があったじゃないですか」

 「[=人口が減る]ということだ。そのうち負けてたって。心配しなくても大丈夫。教科書問題だって見て見ぬフリしているあんたらに言われたくないね」

 「見て見ぬフリなんかしていません。」

 「でもどうせ突っ込みどころは従軍慰安婦でしょ。それで大衆意見募って懺悔は教会で、とかぬかすんでしょ?」

 「…。」

 「しかもあんたその教科書を1ページも読んでないでしょ。100年早いっつの。人の事言えないけど。」

 「…。」

 「あれ。布教活動はどうしたの。キリスト教なら間に合ってるけど。既に門下生だしな。」

 

 

 国益のため、布教のためなら意味のない叱りを強要するゴリ押し好きなアメリカ人。ころっとだまされる日本人多すぎ。この手の手法で。

 この手の問題を情報収集という手段ではなくて自分の「お脳」で考えたことはないのだろうか。アメリカ人も、日本人も。

 叱りと言うのは身をもって学んだ人間が相手のことを考えて行うのが日本では一般的であって。

 大衆世論を味方につけて多勢vs1人の市民と言う構図で行われるべきものではない。 

 ほっときゃヤツらはどこまででも付け上がってくるので注意せねばならない。

 勉強不足を指摘すればすぐに折れる程度のお勉強で布教するヤツラは何様なのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 もっと勉強して来い!

 


−おしまい−