5. 究極の事故

サレンダー(明け渡すこと)

自分の探究においては真正でありましょう。そのためにはあらゆることをしましょう。映し出されたものの背後にある元のものを知ろうとする渇き、それがあなたを『究極の事故』に値するものにしてくれます。

千代能はサニヤスを受けようとして、尼僧になろうとして、次から次へと僧院を訪ねた。だが、偉大なマスターたちでさえ彼女を拒んだ。彼女はあまりにも美しかったからだ……。僧たちは神を、そしてあらゆることを忘れてしまうだろう。途方にくれた彼女は自分の顔を焼いた。顔じゅうに傷をつけた。そして、彼女はひとりのマスターのところに行き着いた――彼は、彼女が女なのか男なのかさえ見分けることができなかった。そこで、彼女は尼僧として受け容れられた。
 彼女はまさに用意ができていた。その探究は真正なものだった。
彼女にはその事故に値するだけの価値があった。それは働きかけて得られたものだった。彼女は三十年、四十年の間休みなく学び、瞑想した。そして突然、ある夜……。
 彼女は手にもっていた桶の、水に映っている月を見ていた。映し出されたものですら美しい。それらは絶対的な美を反映しているからだ。真の探究者は、映し出されたもののなかに非常に多くのことを知った。それはあまりにも美しく、そこにはすばらしい音楽があったので、今度はその源を知りたいという欲望が湧いてきた。
 歩いてゆきながら、彼女は桶の水に映っている満月を見守っていた。
 突然、桶をひとつにまとめていた竹の箍が切れて、桶はぱらぱらになって落ちた。水が勢いよく流れ出し、月の影は消えた――そして、千代能は光明を得た。

彼女はこの詩を書いた――

あれこれと
私は桶をひとつにまとめて
おこうとしてきた
弱い竹が切れないように
望みながら
突然底が抜け落ちて
もう水はない
水のなかの月もいまはない……私の手のなかには空


 光明を得ることは事故に似ている。だが、私を誤解してはいけない
……私は、そのためになにもしてはいけないとは言っていない。もしあなたがそのためになにもしなければ、その事故ですら起こらないだろう。それは、そのために多くのことをやってきている者たちにしか起こらない。だがそれは、彼らがやっているそのことゆえにけっして起こらない。あなた方の瞑想はすべて事故の起こりやすさを、招待を創り出すためにすぎない。ただそれだけだ。
事故に、未知なるものに備えるがいい――
用意を整え、待ち、受容的であるがいい。招待がなければ客はけっしてやって来ない。
Osho NO WATER, NO MOON, pp.1-19


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