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明治天皇と日露大戦争

当時と今日とでは興行形態が全く違うため単純比較は出来ないものの、戦後の日本映画の興行記録を語るとき、松竹の「君の名は」三部作と並び称される空前の大ヒット作と言われる戦争超大作。

「製作費2億!出場人数4万人!全国民一人残らず見る映画!日本映画始まって以来空前絶後の新東宝巨編!」(惹句より)

新東宝の弱い興行網に先駆け、松竹の洋画チェーンを使って17都市28館全国一斉ロードショー、結果、配給収入5億4000万、最終的には7億まで言ったとの話すらある。

この年、2位の「喜びも悲しみも幾年月」で3億7000万、洋画トップの「戦場に架ける橋」ですら2億1000万だった時代である。

1957年当時、平均入場料62円だったにもかかわらず、全国一律最低130円!と言う法外な値段を設定し、当時は、封切以下の下番館にかける際、映画料金も格安になったりしていたにも拘らず、この作品だけは「値引きを許さない」と言う強気の商売が当たったらしい。

良く、映画料金が高いので、安くすれば客は来るなどと言う人もいるが、実際は「値引きをせず、強気の商売をした方が当たる」のが興行と言うものである。

タイトルの大時代振りや新東宝という会社のうさん臭いイメージから、「キワもの系」の作品では?…という先入観もちょっとあったのだが、観てみると、意外にもまともな戦争大作だった。

明治天皇を演じる嵐寛寿郎と、彼を取り巻く当時の大臣たちを演じる役者たちは、生真面目に人間味溢れ尊敬すべき天皇像を作り上げているし、天皇が詠まれた「お歌」がドラマの随所に挿入される…という、ちょっと風変わりな趣向が若干の違和感を感じさせる以外は、膨大な人数の群集エキストラと広大なロケーション、大掛かりなセットなどを使用した画面はかなり迫力を感じさせる。

旅順攻略から連合艦隊対バルチック艦隊の日本海海戦までが描かれており、戦争に突入してからは、さほどだれる事もなく、飽きずに最後まで観る事ができる。

後年、同じような素材を映画化した、東宝の「日本海海戦」(1969)や、東映の「二百三高地」(1980)などよりも面白いように感じる。

邦画の戦争ものに付き物の「お涙頂戴場面」は本作でも見受けられるが、後年の作品ほどしつこい感じがしないのも、見せ物映画と割り切って作っているからではないかと想像する。

何故、そうした割り切り方をしたのかというと、おそらく、スター不足の新東宝としては、そう言う「見せ物性」を強調することでしか、客を呼べないと分かっていたからだろう。

藤田進、田崎潤、高田稔などと言ったベテランも出ているが、スターと言った雰囲気はなく、通常、この手の大作にありがちな、オールスター的な華やかさはない。

「ウルトラQ」の一の谷博士役で知られる江川宇礼雄が、山本海相として重要な役柄を演じているくらいだから、後は推して知るべしの布陣である。

御前会議や作戦会議、戦闘シーンが多い反面、庶民の目線はほとんど描かれていないのもこの作品の特長だろう。

偉い人ばかりが登場しているせいもあり、全体的に感情移入し難いのは確か。

さらに、軍神と称された広瀬少佐や橘少佐のエピソードが描かれているが、正直、何故、この方々が軍神と呼ばれたかを理解出来るような描かれ方ではないような気がする。

ただ、当時の若手たちに、それぞれの見せ場を少しずつ用意した…と言う感じなので、若き日の天知茂、高島忠夫、中山昭二、宇津井健、若山富三郎、丹波哲郎などの姿を見る事ができるのは貴重。

丹波哲郎は、この頃から長セリフを自信満々と言った感じでしゃべっており、若くして既に貫禄がある。

特に、難攻不落だった旅順での戦いは、見ごたえたっぷりの迫力で描かれている。

惜しむらくは、東宝のように大プールを持ってないスタジオの哀しさ、ミニチュアを使用した海戦場面だけは、いささかちゃちなのが残念…。

船のセットは本格的に作ってあり、広瀬少尉の最後の場面など、大量の水を使い、本編部分は迫力があるのに、船が写ると小さな玩具にしか見えないので、その落差に驚かされる。

せっかくのスペクタクルも、チャチなミニチュアで台無しと言った印象。

見せ場となるクライマックスも、日本海海戦になるだけに、どうしても不満感が残る。

しかし、逆に言えば、東宝ほどミニチュア特撮が得意でなかった分、本編の芝居で見せようとする意気込みは感じられる。

今や、これだけの戦争大作は無理ではないかと思えるほどの超大作なのだが、気になるのは、当時の新東宝、これだけの超大作を作る資金はどこから調達していたのだろう?

今の感覚で考えると、雄に数十億はかかっているように見えるだけに、当時の製作費の出所が気になって来る。

又、これだけの人海戦術を行った手腕にも舌を巻く。

大学時代に、この映画に出たと言う方に以前お会いしたことがあるが、各大学に通達をしたのか?それとも新聞広告でも出したのか?当時のエキストラ事務所のような所に依頼したのか?

何せ、ネットもテレビも普及していない時代の人集めは、どうやったのか疑問が残る。

シーンによっては、雄に数百人は登場しており、とても一撮影所の大部屋だけで賄えるような人数ではないからだ。

これだけの大人数だと、泊まりがけでロケ地に行かないと、全員の衣装を着せ終わるだけでも半日はかかったのではないかと思う。

敵の機関砲や、味方の大砲など、小道具類もしっかり作られていて感心する。

負け戦だった第二次世界大戦ではなく、小国が大国に打ち勝った歴史的大勝利を納めた日露戦争が描かれているだけに、映画としては痛快そのものなのだが、全体的に戦争賛美か?というと、そうでもなく、あくまでも戦争スペクタクルを見せながらも、一方で、乃木司令官の苦労や、戦争を避けようと腐心されていた明治天皇のお人柄などを描く事で、単純な好戦映画にはしていないと所も感心させられる。

▼▼▼▼▼ストーリーをラストまで詳細に書いていますので、ご注意ください!▼▼▼▼▼

1957年、新東宝、館岡鎌之助脚本、渡辺邦男原作+監督作品。

菊の御紋が入った椅子を背景にタイトル

靖国神社の大鳥居

富士山

明治37年

日本は帝政ロシアの極東政策の前に未曾有の国難に直面した。

満州におけるロシアの侵略は、さらに日本に対する圧迫となり、全国民の憤激はその極に達した。(…とナレーション)

日清戦争で我が国の領土となった満州南端の遼東半島を我が国が保有する事は世界の平和に害ありとして清国に換えさせた、いわゆる三国干渉の勝者たるロシアが、この遼東半島を強引に清国から借り受け、ロシア語そのままのダルニーなる大市街を新たに建設し、さらに旅順港には俯瞰要塞を築いているが、果たして何を目的としているのか?と民衆を前に演ずるする者あり。

また、帝国大学教授富津、寺尾、諸塚、金井、中村、高橋、富井の七博士は、ロシアの国際法違反を追求、対ロシア強硬論を政府に建白した。(…とナレーション)

「対露強硬策促進大演説会」でも、壇上に登った代議士(杉山弘太郎)がロシアの横暴を非難していた。

滅亡か開戦か?このまま日本は座してロシアの極東政策の餌食となるか?それとも国民打って一丸となり、この国難に当たるか?要は国民諸君の決意いかんによるものであります!と往来でも、代議士(天知茂)が叫ぶ。

十数回に渡る小村外務大臣とローゼン公使会議におけるロシアの態度は一端の誠意も認めることができません。もし、ロシアの横暴をこのまま許すならば、やがて日本は、ロシアの極東政策の犠牲となる事は火を見るよりも明らかな事であります!と演説会でも発言者の言葉に熱が籠る。

断固として国難に当たれ!ロシアの横暴を破れ!と聴衆の中から声が起こり、演説会場中が沸き立つ。

千年の歴史を守れ!男はみんな銃を取れ!と街頭の演説者も、民衆を鼓舞していた。

皇居二重橋(「君が代」が流れる中)

1月12日 御前会議

厳しい表情の明治天皇(嵐寛寿郎)を前に、以上の事態がかくも切迫いたしましては、必要上、自衛の行動を取る以外手段がなくなりました。ロシアは陸海軍とも日本現有勢力の3倍でありますが、軍におきましては万全を期して、いつでも出動の体勢にあります。本日の御前会議を持ちまして、最終決定といたしたく存じております…と山本海相(江川宇礼雄)が発言する。

ただいま山本総理大臣代理が申し述べましたが、我が国の人口は4000万、それに対しロシアの人口は4億!その陸軍は精強を誇り、侮りがたい相手ではございますが、既に我が国民は国難に当たる覚悟を固めております。本日、御聖断のほどお待ちする次第であります…と、伊藤博文(阿部九洲男)が発言する。

もはや機先を制して自衛の行動を取る他なしと存じますと、山県有朋(高田稔)が発言する。

財政につきましては、日清戦争の経験によりましても、事態の紛糾に伴っての増設は困難ではございませんと、曾禰蔵相(倉橋宏明)が発言した後、

世界の各国は、日露間の問題をどう観ているか?と陛下がお尋ねになったので、ロシアと特別な利害関係がある国以外、ほとんどロシアの侵略を憎み、日本の苦境に同情的であります事は間違いございません。ただ相手は世界最強の陸軍を持つ国であるとすれば到底太刀打ちは出来ぬものとと観ております。しかしアメリカとその同盟国たるイギリスは積極的な態度を我が国に示しておりますとお答えする。

戦争費用につきましては、約4億5000万と想定されます。その内対外支出は1億5000万となります。これに対し、5000万は日本銀行所有の金を持って支払い、残余の1億は英米両国より借り入れが出来ると確信しておりますとの発言に対しては、その予算は、戦争がどこまで進む場合の予想なのか?と陛下がお尋ねになる。

参謀本部、軍令部との打ち合わせにより、約1ヶ月と観ておりますとの返事が返る。

2年、3年と戦争が継続すれば、どうなるか?と陛下はお聞きになる。

日銀総裁高橋是清を米英両国へ派遣し、外債募集に全力を尽くさせる予定でありますと曾禰蔵相がお答えする。

先ほど伊藤議長も申し上げました通り、国民全体が身命と財産を賭して、奮起出す覚悟をしておりませば、この国難突破は可能と確信いたしておりますとの井上馨(藤田進)の意見を聞いた陛下は、山本、桂の病気はどうだ?とお聞きになる。

総理大臣は病を押して、左留(ひだりだまり)まで参上つかまつりましたが、苦痛に耐えかね退出いたしましたと山本海相が答えると、ロシアとの交渉をする余地はもうないのか?と陛下はお尋ねになる。

小村外務大臣とローゼン全権第14回の会見のままでございますと山本海相は答える。

平壌以北を中立地帯として認めると言うことであったな?と陛下が確認されると、彼らは日本に対して臆したのであります。絶対撤回の必要ありと通告しましたが、何らの回答もございませんと小村外相(原文雄)がお答えし、もし無回答のままこの屈辱を感受するにおいては、おそらく国民は政府に対して、不信任を投げつけると思いますと山県有朋が述べる。

なお一度慎重に打開の道を講ずるが良い…と陛下は仰せられる。

なお一度ロシアに対し打開の道を取れとの誓詞でございますか?と山本海相が問うと、ここの決定は最後である。国民にどう響くか、良く良く考慮して、戦争を避けるが良い!と陛下は仰せになる。

慎んで、誓詞に添い奉りますと山本が頭を足れる。

つきましては、本日の会議はこれにて閉会して宜しゅうございますか?と尋ねた山本に対し、ご苦労であったと立上がられ、退出なさろうとなさった陛下に、陛下!しばらくお待ち下さいませ!と声をかけたのは井上馨(藤田進)であった。

陛下の後について退出しようとしかけていた岡沢侍従長(細川俊夫)が、驚いて振り向くと、開戦はもう元老会議においても決定しております、陛下、お待ち下さい!と追いすがろうとする井上の前に立ちふさがった山本は、会議はもう閉会を宣言しました!お下がりなさい!と井上に対し言葉を荒げる。

すでに、陛下は退出なさっていた。

山本大臣、君の取った処置は勅命違反じゃ!桂総理から何か含まされたな?と、控え室に戻った井上馨は山本海相に抗議する。

何を言われます!聞き捨てなりません!それに桂総理を持ち出されるのは迷惑至極です!と山本は反論する。

良いか?開戦は、午前中、元老会議も決定した事は君も認めとるじゃないか!

その事を言上しようとしたこのわしをあの場合退けた君の処置は、陛下の御意志を曲げたと考えるほかはない!と井上は声を荒げる。

お待ち下さい!私も本日の陛下のお言葉、全く予期いたさなかった所です。あの時陛下が仰せられたお言葉をお聞きとりになりましたか?この会議こそ最終最高のものである以上、一つ間違えば、国民を戦火の苦しみに巻き込む。日本の存立をも危うくするものであるぞとの、御胸の内を畏れ多くも拝察いたしたのです。戦争を極力避け、なおかつ見いだせる点があるならば、打開の道を開けとの誓詞を短いお言葉のうちに仰せられたのだと、私は確信しております!と山本海相は力説する。

2人の論争を椅子に腰掛けて聞いていた伊藤博文も立ち上がり、井上さん!実は私も陛下の今日のお言葉には全く恐懼(きょうく)した次第、陛下には戦争は身を切られているように辛いとの拝察されました…と言う。

大御心を拝察出来なかったのは、わしの足らぬ所だった…、わしは陛下にお詫び申し上げねば…と、2人の意見を聞いた井上は反省する。

陛下は、宮中で1人考えておられた。

しかしロシアは、日本の妥協案を無視して回答せざるのみか、かえって膨大な兵力を持って、韓国国境を声て進軍すると共に、遼東半島の先端旅順に難攻不落の要塞をほとんど完成し、その要塞司令官は、ロシア屈指の名将ステッセルであった。

明治37年2月3日になるも、ついにロシアよりの回答来たらず。

桂総理(岬洋二)は、戸水博士(竜崎一郎)ら外部有識者との会見で、今ほど国民の間の戦争反対論は影を潜めている時期はありませんぞ!と追求されていた。

ロシアに対してはぎりぎりの譲歩をして来たのであるが、いまだにロシアからの回答は来ないと桂総理が言うと、ロシアの目的は日本を押しつぶすと言うことが分かる。まだ戦争を避けるつもりですか!と又も戸水博士に責められる。

戦争を極力回避するのは陛下の大御心にあらせられる。何万もの尊い人命を再び満州の荒野にさらすのを見るに忍びずとの誓詞かと拝察されます…と桂は言う。

会議の時間が来ました。失礼しますと言って席を立とうとした山本海相は、閣下!これから全国民大会に出席しますが、ロシアに対する軍部の積極的なるご意見をおうかがいしたい!と戸水博士から聞かれたので、開戦の是非についての議論は、軍部は絶対に出すべきではありません!と答えて退出する。

島村少将(丹波哲郎)を連れ会議に出席した東郷中将(田崎潤)が山本海相は?と聞くと、大学で戸水博士らと用談中だと聞かされる。

「国民大会会場」と立て看板が置かれた青年会館講堂には、続々と聴衆が集まっていた。

壇上に立った戸水博士は、桂首相らとの会見報告をし、未曾有の国難を前に、政府も重大な覚悟がある事は分かるとし、陛下が国民を慮り、容易に御聖断を下しにならんと漏れうかがっていると発言する。

軍の会議では、島村少将(丹波哲郎)が、陸軍の大部隊を大陸に輸送するためには、まず敵の極東艦隊を二分せねばなりません。しかも新たに築かれた旅順の要塞は、我が輸送船の上陸地点を睨む絶好の軍港であります。この旅順港封鎖こそ絶対条件!機先する敵を持って港の入口に自枕させる。もしこの封鎖が完全に出来ますれば、旅順港内にある敵艦隊は袋のネズミとなり、根拠地としての機能を失い、東洋における敵の岸壁はウラジオのみとなります!と朗々と述べていた。

はたして、数隻を沈めるなど実行可能な事であるか?例え一隻を沈めるにしても、かつて米英戦争におけるサンチャゴ閉塞の際、大混乱を生じたではないか?と山本が聞くと、海軍の日頃の訓練を持ってすれば、それは出来ない事はないでしょう…と東郷が答える。

我々は最悪の場合は、この服も全て砲弾に代え、銃に代え戦地に送ろう!それでなお足りない時は、この身を持って銃を取ろう!我々は断固としてロシアの極東政策に対し戦わねばならん!例え何十倍もの敵であろうとも、これを退けねば、日本は永久に彼らの奴隷になるのである!と、国民大会の壇上では戸水博士が聴衆を煽っていた。

各艦隊の行動は、大体以上のごとくです…と東郷は報告していた。

なお、明日の御前会議にて万事運びの決定になると思いますと山本が答えると、閣下!これ以上の隠忍自重はロシアの有利に導くのみであります!なにとぞ開戦の必要を誇示して頂きたい!との意見が出る。

すると、軍人の本分を忘れたか!政治に口出ししてはならんと東郷が制する。

その時、緊急閣僚会議の招集であります!との知らせが山本に届く。

どうしたか?と山本が問うと、ウラジオ艦隊、及び旅順艦隊、いずれも今朝5時、戦闘態勢を持って出航!行く先不明との情報が入りました!と伝令が言うので、山本の表情が強張る。

皇居

2月4日 国民を賭しての御前会議は開かれた。

日露両国間におけるあらゆる問題は検討しつくされ、もはや御聖断をお待ち申し上げる次第でございますと伊藤博文が発言する。

戦争を避ける道は絶対にないのか?と陛下がお聞きになると、事ここにいたっては、もはやございませぬ…と伊藤はお答えする。

前回の会議における大御心を十二分に拝察の上でございます!と山本海相が強調する。

国民は最後の1人に至るまで、全てを投げ打って戦うと絶叫しております!と山本が言うと、沈痛な面持ちの陛下は、国会の意向は?とお尋ねになる。

貴衆両院とも開戦の態度を決定しております!と桂首相が述べる。

万一の事態に陥るとき、皇祖皇宗に対し、また、4000万国民に申し訳が立たぬぞ!と陛下は念を押されたので、一同黙り込む中、陛下!元老及び内閣、さらに国民を代表して国会は、開戦やむなしと決定の上でございます!と起立した山県有朋が発言する。

その言葉を聞いた陛下はお立ちになり、国交断絶を裁可する!と仰せられる。

出席者たちは全員緊張し、恭しく頭を下げる。

日露国交断絶(二重橋を背景に文字が踊る)

号外が市中にばらまかれる。

道の両脇で民衆が日本の小旗を打ち振る中、兵隊たちがラッパ兵を先頭に行進して行く。

機関車に乗って移動する兵隊たちを、踏切や田圃の中から見送る人々

かくして、陸軍の精鋭部隊は海軍の護衛の元に、臨戦上陸を敢行し、雪の荒野を北上、南満州の進軍した。

2月24日

旅順港閉鎖

海軍作戦会議をしていた部屋に、深夜2時、連合艦隊司令長官になった東郷がやって来たので、島村参謀長たちは驚く。

閉塞隊が旅順に着く頃だな…と東郷は言う。

どうやら心配で眠れないらしかった。

旅順港を進んでいた閉塞隊は、敵に発見され、砲撃を受けていた。

第一回の旅順港閉塞に当たっては、敵の砲撃が日本船の進路を惑わし、十分な効果を上げることができなかった…と有馬中佐(岡竜弘)が、東郷や島村に報告していた。

しかし、それまで30分で出来ていた港の出入が2時間になったと言うことは、敵に取っては大変な損害だと観る意見もあった。

島村は、第二回の閉塞隊を出す事に決めたので、その人選に来てもらったと会議室に来ていた旅順閉塞隊指揮官広瀬少佐(宇津井健)たちに言う。

第二回と言われますと、我々を交代させるお考えですか?と広瀬少佐が不満そうに言うので、いや、奇跡的に無事帰還した君たちは海軍の花だ。一応所属の明石に帰って休養してもらう。

今度はこの2000名の志願者の中から選抜したいと思う。山田、大江、井上の各中佐も是非と言っておる…と、名簿をめくりながら説明する島村に、何を言われますか!参謀長!絶対不服です!何故、有馬中佐、及び広瀬にこの貴い任務を命じられないのです?長官!広瀬は第一回閉塞決死隊で生還を期しておりませんでした。第一回閉塞において爆送した運送船の医師、及びその他の事故など、全てが第二回において参考になるのは明らかです。その経験を持つ者なら有馬中佐と広瀬です!ぜひ、任命して下さい!と広瀬少佐はいきり立つ。

2000名の志願者で第二回閉塞隊も、又君が指揮となったら兵はどうする?70名の兵士は第一回と同じものを又使うのか?東郷長官の心が分からないのか?と参謀に諭された広瀬は、黙れ!と叱責し、仮にも私は指揮官だ。兵は改めて選抜するのは賛成いたしますが、指揮官の交代は絶対に不服です!分かった…、有馬中佐に広瀬少佐、国のため、重ねてこの任務果たしてもらう…と東郷長官は決断する。

かくして、第二開閉塞隊は、再び広瀬少尉と有馬中佐指揮のもと出航する。

しかし、今度も敵の攻撃は凄まじく、砲撃を受け浸水した船から総員退去命令が出る。

そんな中、杉野を探す広瀬少尉は、杉野!閉塞は成功したぞ!立派な戦士だ!と姿の見えぬ杉野の語りかける。

部下たちをボートへ向かわせた直後、指揮官広瀬は、攻撃に倒れる。

以上のごとく、前後2回に渡る旅順港の閉塞において予期以上の成果を収め得たるは、連日のごとく、海軍少佐広瀬武夫の勇猛かつ沈着なる指揮の結果にして、その部下を想う心情は正に武人の旗艦、しかして全海軍の士気を鼓舞するものなり。少佐の遺品としては、一片の肉塊と血に染まりし海図のみなり…と言う報告を宮中で受けられた陛下は、広瀬の遺族に早速使いを遣わすが良い…と陛下は仰せられる。

「しきしまの 大和心のををきさは ことある時ぞ あらわれにける」(お歌が詠まれる)

海軍司令部にも広瀬中尉の位牌が飾られていた。

早いもんですな…、広瀬中佐が戦死してから、もう二ヶ月近くになります…などと島村参謀長が東郷長官に話しかけていたとき、血相を変えた秋山大佐(明智十三郎)がやって来て、「吉野」と「春日」衝突したとの知らせが届く。

出羽司令官からの連絡によれば、5月15日午前1時40分第三戦隊は旅順港封鎖に従事中、濃霧に会い、「春日」は「吉野」の左舷に衝突し、「吉野」は浸水甚だしく、沈没せり…と秋山が報告書を読み上げると、まことに申し訳のないことをした…と東郷長官は沈み込む。

詳細を調べた上、大本営にすぐ報告するように…と東郷長官が言うと、長官!大本営への報告は進退伺いを付けなければなりますまいと秋山は言うので、職務を退いたからと言って責任を免れると思うか!今は戦争中!わしは懲戒処分を頂くまでは辞職は出来ん!と東郷長官は絞り出すように言う。

そこへ又、長官!一大事であります!と別の参謀がやって来る。

戦艦「初瀬」と「八島」が、敵の機雷にかかって沈没しました!と言う。

戦艦「八島」までやられたのか?おい!間違いではないか?と島村参謀長は唖然とする。

宮中では、この際、戦艦、巡洋艦4隻を失いました。まことに申し訳ない次第でございますと、軍令部長の伊東(中村彰)が陛下にお詫びをする。

戦争では、むしろ今日までの海戦が幸運に過ぎたとも言えよう…。そのくらいの事で気を滅入らせてはならぬぞ…と陛下は仰せられ、それよりも将兵の帰省はどうだ?救助されたか?報告書を読んでみよと山本海軍大将にお尋ねになる。

総員!退艦用意!

隊長、副長は、兵を先にボートに移す事を命じ、佐伯隊長、弘田副長、武田航海長は兵をボートに移したる後、しょうようとして迫らん。陛下にお詫び申し上げ、天皇陛下万歳!帝国万歳を叫び、艦と運命を共にせり…と山本は報告書を読む。

さらに、急遽形状に趣たる救助隊に対し、海中に投ぜられたる兵は、我が身の危険を顧みず、まず上官の救助を乞い、上官は兵の救助を命じ、真に武士道精神の発露を目の当たりにしたり!と、涙ながらに山本は読み続ける。

畏れ多くも、一挙に数隻の戦艦を失い、かつ、陛下の赤子をあまた犠牲にいたしたること、まことに恐懼(きょうく)に堪えません…。この上は本官の職を解かれん事を乞い願いますと伊東軍令部長が言うと、私も軍令部長と同じでありますと山本も恐縮する。

すると陛下は、厳しいお顔で、東郷も同じように申し出ておるのか?申し出てはおるまい!伊東も山本も、辞職さえすれば一切の責任から免れる事が出来るが、天皇には辞職がないぞ!と言い聞かせる。

これには、軍令長も山本も、恐縮して頭を足れるしかなかった。

既に陸軍は韓国の治安を守り、十数万の大軍を持って南満州の荒野に一大戦線を展開し、黒木第一軍、奥保第二軍、野津第四軍は、敵の総司令部所在地たる遼陽を目指して破竹の進撃を続けた。

一方、乃木三軍司令官(林寛)は、大山満州軍総司令官(信夫英一)、児玉総参謀長(芝田新)を総司令部に訪問、旅順作戦の打ち合わせをした。

満州軍総司令部

旅順の要塞は3万のロシア最強の兵と600門の砲、金城鉄壁なる砲台60座を確認、ほとんど世界にその類を見ない規模施設でありますと伊知地参謀長(中山昭二)が報告をする。

総攻撃の時期ですが、海軍がウラジオ艦隊と旅順艦隊をある程度押さえてからでないと、我が軍の犠牲は非常に大きくなると乃木司令官は言う。

奉天から大連までの東進鉄道は既に破壊されておるのだから、敵の補給は半減されておると児玉総参謀長が言うので、閣下、旅順は現在のまま補給なしで日本軍と激戦し、二カ年は籠城出来るとステッセルは豪語しておりますと伊知地参謀長が言い返すと、日清戦争の時は2日で落ちた旅順ではないかと児玉は言う。

旅順も10月までに出来んか?と児玉が聞くので、旅順は、南山やブランデンとは全く規模が違いますと伊知地参謀長は力説する。

南山と言えば、司令官のご子息が戦死なされたそうですな…?抜群の働きと報告がありましたと大山や参謀から話しかけられた乃木は、死に場所を得て勝典も名誉ですと静かに答える。

司令官は、ご子息の戦死の地へまだお寄りになっておりませんと部下が言う。

すぐに案内せい!と大山は参謀に命じるが、それには及ばん。帰りには南山を通るでしょう…と乃木は答える。

その帰路、馬に乗った乃木は、木の棒を削っただけの粗末な墓標が何本も立ち並ぶ南山に立ち寄り、長男勝典の名が記された墓を見つめる。

奉天大勝利と叫ぶ号外売りが市中を走る。

宮中では、今回勝利を契機として、旅順総攻撃を開始する事に決定いたしましたと陛下に報告がある。

旅順の要塞の中には、敵の非戦闘員が多数いると聞くが?と陛下がお尋ねになると、婦女子らも相当数いるように聞き及んでおりますと山県有朋参謀総長がお答えすると、非戦闘員を戦火から免れしめるよう伝達するが良いと陛下は仰せられる。

慎んで誓詞に添い奉りますと山県有朋参謀総長は答える。

第三軍司令部

乃木は、山岡参謀!陛下への大御心を思い、婦女子並びに非戦闘員の旅順要塞よりの退去、まして多くの勧告を促せと命じる。

山岡参謀(江見俊太郎)は8月16日、旅順前線においてロシア軍に降伏勧告、生死の伝達、並びに非戦闘員の旅順避難を促したが、ステッセル(サベル・ジャミール)はこれを拒絶し、第三軍はここに意を決した。

8月19日 第一回旅順総攻撃

日本軍は、敵の機銃の連射雨荒らしと降り注ぐ中、何とか接近しようとするが、多くはなす術もなく、敵弾の犠牲となるだけだった。

第三司令部の乃木の元に、敵は最新兵器を使っているとの報告が来る。

機関砲の事であった。

夜になっても進撃は試みられるが、第一次攻撃隊は全滅したとの報告が乃木の元に届く。

翌朝の攻撃も同様であった。

ロシア軍は機関砲や電気鉄条網等を使用し、我が軍は混乱を究めております。これらの兵器が旅順で始めて使用された事からも、敵がこの要塞をいかに重要視しているかが分かりますとの報告が山岡参謀より乃木にある。

正面攻撃は全く無理な状況で、負傷者の収容さえ不可能な有様だった。

伊知地参謀長は、敵が構築した世界一の要塞であり、両軍の使用兵器に格段の差がある事は明らかなので、作戦計画の根本的な練り直しを言い出す。

大本営より、いかなる手段を講じても、バルチック艦隊が日本海に到着する以前に旅順を攻略せよとの厳命じゃと乃木は言い渡す。

夜、前線では、援軍もない中、瀕死の兵を負傷兵がなす術もなく力づけるだけと言う悲惨な光景が繰り広げられていた。

激戦4日、総攻撃ついに失敗に終わり、我が軍の犠牲1万5000有余に上った…

陛下は宮中にて、戦死者名簿に丹念に目を通されていた。

日野侍従(三原純)が、陛下にお会いするため控え室で待っていた伊藤博文に、陛下はお手隙になると兵士にいたる全ての戦死者名簿に目を通されている。時折、この戦闘には加藤と言う名が多い。この戦闘には山田が多いと仰せられ…と話していると、この暑さだ、お身体に障ってはいかん…と伊藤が案ずる。

しかし日野侍従が、まだ陛下は冬服をお召しでございます。お取り替えになるお許しが出ませんと言うので、伊藤は驚く。

御政務の間は、常に兵と共にと言うお気持ちの現れかと思われますと日野侍従は説明する。

その直後、お目通りの許可が出たので、陛下の前で挨拶をした伊藤に、この夏もひとしお暑いようじゃな…と陛下はお言葉をおかけになる。

しかし陛下、今日は暑さをお忘れになるような良い知らせを持って参りました。

英国に派遣しました高橋是清より、第一回外貨1000万ポンドの提供に引き続き、第二回の1200万ポンドも英米両国が引き受けてくれた。今後の外貨の見通しも非常に明るいと言うことでしたと言う報告がありましたと従者が述べる。

日本の立場を米英始め各国が良く了解してくれた事を、全国民に知らせるが良いと陛下は仰せられる。

陛下の御製のお歌の英訳をば、高橋が米国のルーズベルト大統領に示しました所、大統領は偉大なる陛下の御心に大変感激したとの事でございますと伊藤が付け加える。

陛下がハンカチで手や顔の汗をお拭きになる所を観た伊藤は、陛下!陛下は開戦以来、1日としてお休みもなく、又離宮や御用邸を一度もお使いになった事がございませんが、酷暑のおり、しばらく御避暑を遊ばされたらいかがでございますか?と具申する。

すると陛下は、伊藤、戦地の将兵に避暑があるか?と仰せになったので、伊藤は何も言えず、頭を足れる。

前線では、重い大砲を丘に運び上げていた歩兵たちが、暑さに耐えかね、水溜まりの泥水を飲もうとするが、上官が身体を壊すから!と制止していた。

橘大隊は、明日、午前4時を期して、遼陽の総攻撃を決行する!と、夜中、橘少佐(若山富三郎)が歩兵たちに伝えていた。

8月31日払暁、遼陽の攻撃は、大島中将(国創典)旗下の第三師団精鋭により火ぶたは切って落とされた。

突撃していた関谷連隊長(大谷友彦)が、敵の機関砲に撃たれるが、駆け寄って来た部下たちに橘少佐に続け!と叫ぶ。

橘少佐も又、敵弾で負傷しながらも、軍刀を振り回し、必死に戦っていたが、一時後退して下さいと助けに来た部下に、何を言うか!と叱責すると、中山少尉(明日香実)に軍旗を守れ!と呼びかける。

その直後、銃弾に倒れた橘少佐は、内田軍曹(鮎川浩)から首山堡が落ちたと聞くと、今日は8月31日だな?と確認すると、今日は皇太子殿下のお誕生日だ…、万歳…と言いかけて息絶える。

一昨日、皇太子殿下御誕生の日に、首山堡が陥落いたしました。もはや遼陽の陥落も間近かと思われますとの報告をお聞きになる陛下。

首山堡陥落に貢献したのは静岡34連隊であり、関谷連隊長、橘小隊がほとんど戦死したと報告を受けられた陛下は、橘?東郷についておった橘少佐か?とお聞きになる。

橘の名を良くお忘れなく…、橘もさぞ本望と思います。橘は敵弾に右手を撃たれて、刀を左手に持ち替えたとき、又左手に弾丸を受け、その奮戦振りは実に鬼神のごとく、本日は皇太子殿下お誕生日ならば、絶対に退却はならんと叱咤し、さらに又敵弾に胸を撃たれて、皇太子殿下のお祝いを申し上げ、陛下の万歳を絶叫し、名誉の戦死を遂げたとの報告でございますと岡沢侍従長が伝える。

東郷にその死を漏らさず伝えるが良い…と、沈痛な面持ちの陛下は仰せられる。

ロシア海軍最大の主力たるバルチック艦隊は、極東の制海権を一挙に奪回すべく、10月19日、本拠地リバンを出発、東洋に向かった。

しかし、その知らせを受けた後も、旅順の重要堡塁は一つも落ちてなかった。

総攻撃を始めて二ヶ月にもなるのに、陸軍は成果を出す事が出来ないでいた。

そんな中、東郷長官は乃木将軍に会いに行っていた。

バルチック艦隊は遅くとも一月下旬には日本近海に姿を現すと予想されています。それまでに二百三高地さえ落としてしまえば、旅順港内の敵艦は全滅させることができる!と、東郷長官に随行して来た島村参謀長が乃木に伝えていた。

島村参謀長でさえそう思っているんですから、内地で政府や国民が、既に2万の犠牲を出しながら何をしているのかと騒ぐのは無理もない…と伊知地も答える。

12月中に旅順が落ちない時には、海軍はバルチック艦隊を迎え撃つために、旅順港の封鎖を中止しなければ艦艇が足らぬ!と島村参謀長は言うので、それは困る。もしそうなれば旅順港内深く釘付けにされている敵艦十数隻が日本近海、及び公海に出没し、我が軍が脅かされる!と伊知地は反論する。

12月中に落ちなければ、海軍としてはこの手段の他には処置はない!と島村参謀長も下がらず、両者はいきり立つが、そこに割って入るように、いかなる犠牲を払い、屍の山を築こうとも、旅順は12月中に落とし、国の安泰を計らねばならん…。国民の怨嗟は乃木1人で引き受ける…と乃木将軍は言う。

それを聞いた東郷は、閣下、戦いの常とは言え、幾多の尊い人命を敵陣攻略の犠牲にしなければならない…、司令官のお気持ちは定めし耐えられん事と思います…と同情する。

難攻不落(の文字が大きく出る)

内地では、「旅順港攻撃問題国民大会」が開かれ、皆さんの親子兄弟が旅順で壮絶な最期を遂げられた事を考えますと戦争はまことに悲壮です!しかし、これに打ち勝たねば、これ以上の悲惨が日本に来るのです!かってウラジオ艦隊を逃がしたとき、上村、瓜生両邸に国民の一部が乱入した不祥事がありましたが、今やバルチック艦隊、いよいよ東洋を目指して来たるに及び、旅順の攻撃軍は何をしておるのかと、国民の一部に怨嗟の声があるようなことがあれば、これこそ敵の我が後方錯乱の策に乗るものというべきです!願わくば、今日の旅順港攻撃問題を、第三軍国民激励会とし、撃って一丸国民の発意により。銃後を守って頂きたいと思います!と戸水博士が演説、万雷の拍手を受けていた。

そんな中、1人の老人が立ち上がり、私の倅も旅順の戦いで亡くなりました。しかし、乃木閣下のご長男も戦死されたそうであります。もう何ごとも言う事はありません。必ず、我々遺族の願いで旅順は落としてみせます!と発言し、賛同の拍手を受ける。

第三軍司令部では、藤本連隊長から閣下のご子息乃木少尉について相談がありました。前線の小隊長を辞めて、司令部付きになされてはいかがかと…、ご長男の勝典中尉も戦死なされている事ですし…と参謀から言われた乃木は、そんな必要はない!保典は絶対に前線から引かせないでくれ。戦死した多くの将兵に対し、申し訳が立たん!と答えていた。

軍令部では、本日の外電によりますと、バルチック艦隊は、スペイン、及びポルトガルを通過いたしましたと伊集院次長(沼田曜一)が報告していた。

バルチック艦隊が日本近海に来る前に、旅順を何とかしてもらいたいと海軍側から陸軍に対し抗議が出る。

そんな中、一思いに乃木将軍を更迭して人身を新たにしたらどうですか?伊集院次長が提案する。

海軍としては、司令官を替えてでも、一日も早く旅順陥落を実現してもらいたい!と伊東大将が言えば、これまでの総攻撃を失敗と認められるならば、司令官の更迭もやむを得んでしょう!と山本海軍大将も迫る。

しかしそれは、乃木司令官に自殺を迫るようなものじゃ…と山県有朋が答えたので、閣下、人情論は困ります!と伊集院次長は反発したので、何じゃ!と山県もいきり立つ。

乃木閣下ではダメだと言う声が非常に強くなっております。陸軍の一部でさえその有様です。これこそ大事の前の小事です。閣下、閣下の営団を切望して止みません!と伊集院次長は迫る。

この問題は非常に重要ですから、閣下から陛下に上奏されてはいかがでしょう?と言われた山県は考え込む。

その頃、乃木司令官は、次男保典(高島忠夫)の訪問の相手をしていた。

山県有朋の訪問を受けた岡沢侍従長は、陛下はお食事中ですが構わんとおっしゃられていおりますからすぐにお会い下さいと、遠慮しかけた山県に伝える。

一方、第三軍司令部の中でも、乃木が粗末な兵隊用の食事をしていたので、持参した弁当を一緒に食べていた保典は、父上、父上はいつも兵と同じ食事ですかと聞いていた。

うん、わしはまだこうして家の中におることができると乃木は答える。

宮中で陛下にお目通り願った山県や伊東たちも、陛下が召し上がっていたのが粗末な食事である事を知り愕然とする。

今度、いつお目にかかるか分かりませんので、今日は父上と写真を撮って頂きたいと思いますと、食後、保典は頼み、戦死した兄勝典の形見の懐中時計を乃木に預かってくれと手渡す。

そうか…、なかなか立派な覚悟だな…と、時計を受け取りながら乃木は言う。

父上、何万と言う部下をお殺しになった胸の内、お察しいたします!と保典が伝えると、保典!わしも前線に出て、将兵と共に戦死することができたら…と思う…と乃木は悔しそうに答える。

その頃、宮中で、山県たちから陛下の御聖断を仰ぐ次第でございますと聞いた陛下は、乃木を替える事はならん!乃木をおいて、旅順を落とすものはない!今、乃木を替えてみよ、一番喜ぶのは敵の司令官ステッセルである。乃木は近いうち、必ず旅順を落とすとお答えになっていた。

大御心の事、肝に命じましてございます!と山県は頭を下げ、浅はかなる考えを持ちまして申し訳ございません!と山本も詫びる。

分かれば良いのじゃ…、陸海軍とも協力を切望する…と陛下は仰せになる。

陛下からの御聖断を受けた山県や伊東が戻って来たのを控え室で待っていた伊集院が、閣下、いかがでした?と問うと、大御心により、乃木司令官の更迭は取り止める!と山県が答え、今さらながら、陛下の御偉大さ、人物をご覧になるお目の高さに恐縮しましたと山本が報告する。

武官長に、今日は何の日かな?と山県が尋ね、平常と変わりませんが?と岡沢侍従長が答えると、陛下のお食事を拝見したのだが…と山県は不思議がる。

あれは、一日置きには必ず召し上がっておられます。いかにお止めになって頂きたいと申してもお許しが出ませんと岡沢が答えると、改めて居住まいを正した山県は第三軍に御誓詞を伝達せよ!と部下たちに命じる。

しかれども、今や陸海軍の状況は、旅順攻略の機を緩うすること得ざるものあり。その時に当たり、大三軍総攻撃の挙あるを聞き、機を得たるを喜び、成功を望む事はなはだ切なり…と大山総司令官が陛下の御誓詞を乃木たち第三軍全員を前にに聞かせる。

本11月3日前兆の良き日に当たりて、図らずも玉務を配し、この感激を持って将兵一丸となり、旅順総攻撃を敢行し、持って、大御心にこたえ奉ります!と乃木が答え、はるかに皇居に向い、天皇陛下万歳を全員が叫ぶ。

国民も万歳を叫んでいた。

宮中におられた陛下は、国民の声が聞こえる…、岡沢、国民の声が聞こえるぞ。天皇旗を出して遣わせと命じられる。

白馬に乗られた陛下は、国民の声に対し、敬礼で答えられる。

二百三高地は既に我が将兵幾万が倒れたる旅順要塞の一角にある!このたび第三回総攻撃の戦意こそ、国家の浮沈にかかっている!願わくば一死報国に準ずるの精神に準じて決行せよ!と乃木司令官は兵隊たちに言葉をかけていた。

祖国に対し、決別の三唱をする!

決死隊は明朝6時をきして、二百三高地側面を奪取せんとす!乃木小隊は命令に基づき、午前5時までに突撃地点に匍匐前進する。到着まで発砲を禁止する!と部下に命じた乃木保典たちは、雪が積もった中、前進を開始する。

その間、乃木司令官は一睡もせず、司令部で起きていた。

翌朝、雪の中を突き進む保典が指揮する乃木小隊。

敵弾に撃たれながらも、保典は軍旗を持ち、前進しようとする。

何度も倒れかかるが、その度に、小隊長どの!と周囲の部下たちが支え起こす。

頂きに登頂した保典は敵の銃弾に息絶えるが、持っていた軍旗を次々と部下たちが受け取り、撃たれても万歳を叫びながら、軍旗を倒さないように持ち続ける。

午前8時、を藤本連隊が始めて爾霊山(にれいさん)を奪取したが、後続部隊が続かず、目下詳細不明との報が司令部に届く。

それを聞いた伊知地参謀長は、二百三高地にたどり着いただけでも成功だ!と喜び、近いうち、必ず落としてみせます!と乃木に伝える。

そこに次の伝令が駆け込んで来て、ほとんど全滅したとの報告をする。

報告はそれだけか?と乃木が確認すると、閣下のご令息も…、華々しい最期を遂げられたそうであります!と伝令は言う。

その時、部屋の蝋燭が、風で消える。

暗闇になった司令部の中、乃木以下将校たちは皆押し黙る。

これでせめても、遺族の方にお詫びが出来る…。良く死んでくれた…と乃木は呟く。

閣下、爾霊山(にれいさん)はこの一ヶ月以内に必ず落ちる事をご令息への餞として申し上げますと伊知地は乃木に伝える。

雪の203高地に累々と横たわる将兵たちの屍。

その中の保典の遺体は、軍旗を握りしめていた。

その二百三高地を馬に乗って訪れた乃木は、無言で見つめる。

その頃、陛下が大本営をお出になった後、姿が観えないと岡沢侍従長たちがうろたえていた。

庭に出ておられた陛下は、近くのお堀端で、家族と別れを惜しんでいる将兵たちの様子を眺めておられた。

そちたちも出動するのか?家族との別れはすんだか?そちの家族は何人か?と陛下は、2人の兵隊に聞かれていた。

母1人であります!と1人が答えたので、父はどうした?と陛下はお尋ねになる。

10年前、死亡いたしました!と兵隊が答えると、別れはすんだか?と陛下は仰せになる。

母は衛門に来ております!と言うので、すぐ行くが良い。心配をかけるでないぞと陛下はお言葉をかける。

は!決してかけません!と青年兵が答えると、あげるが良いと言いながら、陛下は御煙草を下さる。

青年兵士たちが立ち去った後、陛下!と探していたもの共が駆け寄るが、陛下は黙って、集合ラッパの音に向かう兵士たちの方を黙って指差される。

岡沢!この戦争は絶対に勝たねば、国民にすまぬぞ!と、宮中に戻られた陛下は厳しい表情で仰せられる。

世界注視のこの二百三高地は、再び激戦が繰り返されていた。

そうした中、ついに二百三高地は落ちる。

その知らせを受けた乃木は、これで申し訳が立つと頷く。

国内では、旅順陥落の号外が配られていた。

その報に接した民衆は万歳と喜び湧く。

宮中では、伊藤博文が、新年を迎えました折から、このたびの旅順の開城、めでたく慎んでお祝い申し上げますと陛下に挨拶をする。

乃木をこれまでに信任遊ばされた陛下に対し奉り、まことに慚愧の極みでございますと山県有朋も挨拶をする。

乃木は2人の子供を亡くしたそうだの…?と陛下がお尋ねになる。

私情を捨て顧みないのは武人の道とは言いながら、乃木司令官の心中は察しても余りありますと伊藤がお答えする。

敵ながら、旅順守備のロシア将兵は実に良く戦いました…と山県が報告する。

しゅうろう陛下のお言葉のごとく、戦いは正義に基づかねばならぬことを痛感いたしましたと伊藤が発言する。

誤った国の方針の元で、あれまでに戦ったステッセル旗下の将兵たちは真にあっぱれであった。旅順の開城に際しては、武人の面目を保たしめるよう伝達するが良いと陛下は仰せられる。

(♪旅順開城約成りて〜と「水師営の会見」の唄が流れる中)ステッセルと乃木の対面し、固く握手する場面

国内では、陸軍代表が、旅順陥落の報告と国民の支援に感謝する大会が催されていた。

かくて、我が軍25万、ロシア軍37万、両軍合わせて62万の大兵力を投入し、ここに戦線50kmに渡る史上最大の開戦は満州の荒野に繰り広げられた。

乃木軍の一部は奉天西部に従軍し、市街戦を展開中でありますとの知らせが、野外テントの司令部にいた大山総司令官の元に届く。

ついに明治38年3月10日、我が陸軍は奉天に入城した。

連合艦隊はバルチック艦隊撃滅を期して、日夜猛訓練を続け、目標の無人島はそのために形を改めた。

戦場で訓練を観ていた東郷長官に軍令部長から電報が入り、長官は作戦室に戻る。

おそらくバルチック艦隊の行動に対する作戦の御下問かと思われます。

内地には、バルチック艦隊に関しては、様々な情報が誤り伝えられておる。よほどご注意なさらんと的確なる判断がつかなくなると思いますと島村参謀長が発言する。

陛下は非常に御心痛遊ばされておるものとご推察すると東郷が言うと、ここは大事な時です。22日までにお帰りを願いますと部下が頼む。

敵艦隊、台湾沖に出現!

昨朝、伊豆大島沖において、某国の汽船、露国駆逐艦に運行停止を命じられる。

5月17日仏暁、露国の水雷艇らしきもの房総沖5海里の地点を通過せり…などの新聞記事が踊る。

バルチック第二艦隊は、仏印カムラン湾において第三艦隊と合流し、5月15日、同基地を出航以来消息が分かりません。それ以後に掲載の新聞記事は誤報、想像、あるいは、我が軍の行動を混乱に導くためのスパイ行動ではないかと思われますと伊集院次長が会議で報告をする。

津軽を通るか、対馬を通るか?連合艦隊はどこで待ち受けるかの問題でありますと山本がご説明すると、敵が津軽、対馬、いずれを通過してもすぐに呼応出来るよう艦隊の主力を能登沖に待機させるのが妥当と思われますと伊東が捕捉する。

これは大本営参謀部の大多数の意見の一致したる所でありますと山本海軍大将が述べると、反対の意見は?と陛下がお尋ねになったので、バルチック艦隊は必ず対馬を通過しますので、対馬に待機するのが至当との意見でありますと伊集院がお答えする。

その時、東郷長官が参りましたと岡沢侍従長が陛下にお伝えする。

しばらくであったな。連合艦隊の訓練と準備は完了したか?と陛下がお尋ねになると、ただいま、落ち度がないよう、さらに研究を続けておりますと東郷はお答えする。

司令長官、やはり対馬に来ると言う考えか?と山本が聞き、それとも津軽、宗谷への意向か?と伊東も確認する。

これに対し東郷は、120隻を超える艦船をもって日夜敵艦隊発見に勤めておりますと答えるのみだったので、東郷、勝算の見込みはあるか?と陛下はお尋ねになる。

誓って、良いご報告を申し上げますと東郷がお答えすると、頼むぞと陛下はお言葉をおかけになる。

おい、あんなにはっきりした報答を申し上げて良いのか?責任はまことに重大だぞ、確かな自信があっての事じゃろうが…と、会議の後、山本は廊下を歩きながら東郷に聞く。

御前でなまじ詳しい作戦をご報告申し上げても、いたずらに御心をお悩ませ奉るだけです。我々4万6000の海軍軍人は、今こそ決死奉公の一念に燃えてバルチック艦隊を撃滅しようとしている!誰1人として帰ろうと思ってはおらん!生きて帰るようでは日本は滅びる!これは全将兵の信念だ…と東郷は答える。

鎮海湾の旗艦三笠において、最後の作戦会議が開かれた。

あれだけの大艦隊が対馬を目がけて来るとすれば、すでにいずれかの哨戒艇に見つけられているはずであります。従って敵艦隊は、一挙に津軽海峡突破を託していると言う事は十分に考えられると思いますと参謀の1人が意見を言うと、しかし、敵は運送船を上海に待機させている事は分かっている点から観て、近く対馬に来るものと思われるが?と別の参謀が反論する。

だが、敵の下層巡洋艦二隻が九州南方に現れ、そのまま宗谷方面に向かったのも又確実です。敵の進路を想定できぬ以上、最も安全に近いのは、我が主力艦隊を能登半島沖に集結し、朝鮮南方沖合、津軽、宗谷方面に方面に官舎を置いて、敵艦発見と同時にその方面に急行するのが策か…と別の参謀が発言する。

ただいま主張の能登半島待機法は敵と開戦しうる事は間違いないであろうが、決戦の時間が短い。あるいは、一回の砲戦を最後に敵をウラジオに逃げ込ませる危険性は十分予想される。従って、この策には賛成いたししかねます!現在地点で待つべきだとオmピマスと又別の参謀が発言。

我方に大和魂があれば、相手にはスラブ魂と言うものがある、敵は逃げも隠れもせず、必ず対馬海峡に一戦覚悟でやって来る。故に、ここでこのまま待つのが最上かと考えます。ことに津軽及び宗谷海峡は、大艦隊の通過には何日もかかりますと言う意見もでルガ、その意見には承服出来ません!と反対意見も出る。

一方的な戦略を取るよりも、多少欠陥はあっても能登半島待機ほかないと思いますと会議は紛糾する。

そこに、時化のために遅れた島村参謀長がやって来て、意見が別れていると聞くと、それははっきりしとるじゃないか!敵に海戦を知っている提督が1人でおれば、敵は必ず対馬海峡に来る!もはやロシア艦隊としても、決戦を交えずにはウラジオに入港出来ない事は覚悟しとる。従って残された道は、全艦隊をもってウラジオへの最短距離、すなわち対馬海峡の強硬突破に違いない。それに対馬海峡は津軽の9倍、宗谷の4.5倍の広さ、敵もし運が強ければ絶対日本艦隊に発見されずに、ウラジオに入る事も対馬海峡があればこそ可能だ。ここで決戦を待つのが難くなしと信じとると島村参謀長は自信満々に述べる。

結局、東郷長官に最後の決断を求める事にする。

全艦隊は現在位置にて待機!と東郷は言う。

5月23日

大本営で、山本は不安がて、勅命を待って能登半島に待機させたらどうか?と言う伊東軍司令長をなだめていた。

5月24日

艦隊からの入電がないことにいら立った伊東指令長は、万一制海権を敵に奪われれば何十万の陸軍は満州で孤立となる。どうする?と山本に詰め寄ると、陛下は東郷に御一任遊ばされましたと山本が受け流したので、日本が乗るかそるかと言う時だぞ!と伊東は興奮する。

軍令部長!乃木司令官の前例もある通り、陛下の御観察力はまことに鋭いです。東郷に一任すべきです!と諭す。

5月25日

陛下は、岡沢!海軍省からは何も申し出て来ぬか?とお尋ねになる。

まだ何もございませんが、夜半の場合は如何致しましょう?と岡沢侍従長は確認する。

構わん、直ちに知らせるが良いぞ…と陛下は仰せになる。

はい!陛下!必ず良いご報告がある事を確信しております!と岡沢も畏まって答える。

5月26日

5月27日

下層巡洋艦信濃丸は済州島付近を哨戒していた。

左舷15度!に船影の灯らしきもの発見するが、時刻は深夜の2時45分であり、暗過ぎて確認出来ない。

4時37分頃、ロシアの病院船ではないかと推測、近くに敵艦隊がいるに違いないと確信する。

4時45分、はっきりと敵艦隊を確認、ただちに打電させる。

三笠艦上では、信濃丸より敵艦よ見ゆ!対馬海峡に向かいつつありとの報告があった!との乗組員たちへの伝達が行われていた。

各艦隊、直ちに出動!と東郷長官は命じる。

出航用意!かかれ〜!(軍艦マーチが流れる)

午前6時31分旗艦三笠より発信!と御前会議の席で伊集院次長が伝達を読み上げる。

5月27日午前5時45分、下層巡洋艦信濃丸より、456地点において敵艦隊見ゆとの警報に接し、連合艦隊は直ちに出動、これを撃滅せんとす!本日、天気晴朗なれども波高し!

三笠上では、長官!敵艦隊が見えました!との報告がある。

午後1時40分

ついに連合艦隊は、旗艦スオーロフを先頭に、堂々38隻よりなるバルチッック艦隊の全容を捕らえた。

この大艦隊を率い、我が艦隊との決戦を臨むは、ロゼストウェンスキー中将(ジャック・アルテンバイ)であった。

Z旗が三笠上に揚がり、皇国の興廃この一戦にあり、ただいっそう奮励努力せよ!との号令が下る。

敵は1万2000!近いぞ!

大砲の弾が込められる。

距離8500!

長官!180度旋回を提言します!と参謀が言うと、東郷は展開!と命じる。

三笠は左へ旋回する。

距離8000!右舷先頭!

その旋回を観たロゼストウェンスキー中将は日本の腰抜けめとでも言うように笑い出す。

敵前で大転回とはやりますなと、別艦の参謀たちも三笠の動きに感心をする。

右舷戦闘準備完了!距離7000!6600!

小隊長!発砲はまだですか?と砲兵が焦る。

まだ攻撃命令は出ませんか?三笠は危ないぞ…と別艦の参謀たちは双眼鏡を覗きながら、さすがに不安になっていた。

距離6000!攻撃開始!ついに東郷長官の命令が出る。

撃ち方始め!砲撃開始!

三笠も2、3発敵弾を受けるが、あの剛胆さには、弾の方が逃げるわと別艦の長官は呆れる。

三笠艦上では、長官!指令塔の中にお入り下さい!と参謀が勧めるが、指揮はここで執る!と東郷は動かない。

敵は炎上したぞ!撃てい!と分隊長(菊地双三郎)が叫ぶ。

壮絶な撃ち合いが続き、味方艦も被弾するが、ロシア側の被害も甚大だった。

おい、お前たちの弾が的確に命中したぞ!と分隊長が叫ぶと、負傷していた砲兵たちは満足そうに万歳を叫ぶ。

(軍艦マーチが流れる中)ロシア艦船は次々と運航不能に陥って行く。

5月27日午後7時旗艦三笠より発信!

連合艦隊は、沖ノ島島付近において敵艦隊を邀撃し、本日午後6時までに、敵戦闘艦少なくとも4隻を撃沈、その他にも多大な損害を与えたり。我が方の損害軽微なり。なお、駆逐隊、水雷隊は、日没より残余の敵艦に対し、強襲を決行する!と伊集院次長が御前会議の席で読み上げる。

夜、ロシア将兵たちは、大破した船の中で寄り集まり、国家をいながら沈んで行った。

その事は、東郷長官にも伝えられる。

以上のような戦況をもって、27、8の両日に渡り、敵艦隊約38隻の内、撃沈せるもの20隻、捕獲するもの5隻、破壊8隻にして、連合艦隊はバルチック艦隊を全滅せり。しかして我が艦隊の失いしもの、水雷艇3隻に過ぎず、この大戦における敵の兵力、我と大差なく、敵の将卒も又、祖国のため極力奮闘したるを認む…と伊集院次長は、陛下の御前にて報告をする。

それを聞かれた陛下は、この喜びを一時も早く国民に知らせ、連合艦隊慰労の言葉を伝えるが良い…と仰せられる。

三笠の東郷長官らに、陛下からの御誓詞が披露される。

国内では、戦勝祝賀の提灯行列が行われる。

明治天皇を中心に全国に一致団結の熱意によって、この大戦は奇跡的大勝利をもって終わり、それまで一島国であった日本は一躍世界列強の間に伍する事になった。

今こそ我らは、日本民族の誇りと力を合わせて、今後の世界平和の発展に貢献すべきであろう。

国民の祝賀行事を静かに見守られる陛下

靖国神社