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五辧の椿

1964年、松竹、山本周五郎原作、野村芳太郎監督、芸術祭参加作品。

▼▼▼▼▼最初にストーリーを書いていますので、ご注意ください!▼▼▼▼▼

椿を描いた木版画の色刷りが、コマ撮りで一色づつ完成していき、タイトル文字が重なります。

江戸時代の芝居小屋、舞台上で浄瑠璃の三味線を弾いている優男を、客席からじっと見つめる娘。
その娘の隣で、その娘の恐ろし気なまなざしをジッと観ていた幼子が、突然、ワッと泣き出します。

おりょうと名乗るその娘が、お目当てだった三味線弾き、小太夫(田村高廣)と逢い引きしている最中、突然、ヤクザものが訪ねて来て、小太夫の過去の悪事を理由に叩きのめそうとする。
それを何故か、堂々と制して、ヤクザを帰させたおりょうは、傷付いた小太夫に、何かと昔の事を訪ねるのだった。
そんなおりょうに抱きつこうとした瞬間、簪が小太夫の胸に突き刺さっていた。
絶命した小太夫のそばには、一輪の椿の花。

婦人科の医者であるにもかかわらず、いかがわしい治療で世の女たちから金を巻き上げ、料理屋や高利貸しまでやっている海野徳石(伊藤雄之助)も、同じように、ヤクザものから乱暴を受けた後、おみよと名乗る娘を抱こうとして、簪で殺されるのだった。現場には、やはり一輪の椿。

おりょう、おみよと名乗っていた娘の正体は、その正月に両親共々火事に会い、死んだと思われていた、薬問屋「武蔵屋」の一人娘、おしの(岩下志麻)であった。

おしのの父、喜平(加藤嘉)は、入り婿でありながら、必死に働き店を支えて来たが、労咳を患い、床に付いてしまう。
しかし、かねてより、生真面目一方で面白みのない喜平を疎んじ、役者狂いなどで家を空けがちだった母親おその(左幸子)は、喜平が息を引き取った時さえ、若い役者を別荘に引き込んでは酒浸りの状態であった。

不憫だった父親の看病に明け暮れたおしのは、そんな非情なおそのを責めるが、そのおそのから、おしのの実の父親は別にいるという事実を告げられがく然とする。

一人、父親の遺骸と取り残されたおしのは、母親ならびに、母をたぶらかして平然と生きている男達に対し、復讐を決意するのであった。

母親と若い役者が酔いつぶれた後、父親の遺骸もろとも、別荘に火を放ち、その場を立ち去るおしの…。
ここで、第一部は終わる。

第二部は、連続殺人事件の捜査を担当する与力、青木千之助(加藤剛)が、徐々におしのに接近していく様を中心に描いている。

さらに、紺屋のせがれ、誠一(小沢昭一)、母親に役者をあてがっていた佐吉(西村晃)らを殺害したおしのであったが、自らも労咳に侵されている事に気付く。
最後の相手、丸梅(岡田英次)に近付いたおしのであったが、彼に捨てられたおつる(市原悦子)のもらした何気ない話から、衝撃の事実を知らされるのだった…。

 

▼▼▼▼▼個人的なコメントはここから下です。▼▼▼▼▼

清楚なお嬢様イメージが多かった岩下志麻が、現在に至る「恐い女優」イメージに転換した記念碑的作品。
事実、父親を看病する健気なおしのを演じる時の岩下志麻は、可憐なお嬢様イメージのままである。
ところが、復讐を始めたとたん、彼女のイメージは一変する。
つり上がった細眉、濃いめのアイシャドーなどで、彼女を冷徹なキャラクターに変ぼうさせている。
これが、その後の「岩下志麻」のイメージを決定付けたのである。

同じく、若き真面目な与力役を演じた加藤剛のイメージも、後年の「大岡越前」に引き継がれている。

バスター・キートンそっくりの風貌を持つ、西村晃の演技も見物。

地味な作風ながら、じっくり作り込まれた画面とドラマに、何時しか引き込まれていくような、奥深い魅力を持った作品になっている。

「八つ墓村」を思わせる、庭先で無気味に鳴くからすや、「砂の器」を連想させる、子供連れの貧しいお遍路の登場など、後年の野村芳太郎作品の原点的要素があちこちに見付けられる点も大変興味深い。

とにかく、若き岩下志麻の熱演に唸らせられる名作。