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天皇・皇后と日清戦争

「明治天皇と日露大戦争」(1957)の空前の大ヒットを受け作られた、同じ趣向の戦争映画第二弾。

「君の名は」三部作と並び、戦後の日本映画ではトップランクではないかと噂されるほどの興行記録を打ち立てた当時の新東宝が、柳の下の二匹目のドジョウを狙ったとしても不思議ではない。

本作は、ヒットした前作と基本的には同じような構成になっており、戦争シーンの間に、天皇陛下のお人柄を偲ばせるエピソードと和歌が挟まれ、時には軍歌の内容をそのまま再現していたり、昔は有名なエピソードだったらしい木口小平や、琵琶の演奏と語りが入ったりと言う、何とも通俗かつ単調と言うか、平板な内容になっている。

通俗を通り越して、俗悪趣味とでも言いたくなるほどの徹底振りである。

その俗悪趣味と、畏れ多い皇族表現と言う両要素が相混じり、一種異様な世界観になっている。

今でも、皇族方の報道はTVなどでも人気があるようで、昔も今も、皇族と言う、庶民とは縁遠い神秘の世界を覗き観てみたいと言う好奇心は変わらないと言うことかもしれない。

しかし、その庶民とは縁遠い皇族方を主役にしていると言う点が、この作品を、何故かのめり込めない違和感のある世界にしてしまっている。

偉人伝の一種と考えても、庶民である観客に主役である天皇陛下は、さすがにあまりにそのお立場が想像し難く、感情移入は出来ない。

かと言って、戦争に出向く兵士たちの誰かに感情移入出来るかと言うと、それも出来ないのだ。

冒頭部分で、一見、庶民代表の準主役のようなキャストか?と思わせる高島忠夫扮する兵士も、物語が進むに連れ影が薄くなる。

兵士の日常や心理にスポットが当たっている訳ではないからだ。

友人が死に、哀しみに暮れる所が唐突に描かれているが、それまでの彼らの心の触れ合いなどが全く描かれていないため、いかにも「お涙頂戴用のわざとらしいエピソード」以上のものではなく、泣けもしない。

それ以外の若手たちは、唐突に登場し、唐突に消えるだけの印象で、これでは感情移入する暇もない。

もちろん、他の上官や大臣たち偉いさんに感情移入出来るはずもなく、結局、大味な戦闘シーンを見せ物のように観ているうちに話が終わってしまうような印象である。

とは言え、戦闘シーンは、ものすごいエキストラ数と大セットを使った大掛かりなもので、単調とは言え、それなりに見応えはある。

そもそも、日清戦争自体を描いた映画もあまりないので、その内容の正確さはともかく、歴史の参考として、それなりに意味のある作品ではないだろうか。

各戦闘シーンに、当時の新東宝の新人スターたちが登場しているのが見所と言えば見所。

丹波哲郎、宇津井健、高島忠夫、若山富三郎、天知茂、中山昭二などなど…

全員が若いと言うこともあるが、先にも書いたように、登場シーンも短いので、ちょっと見、誰だか気づかない可能性が高い。

冒頭、高嶋忠夫演じる若者の祖母役を演じているのは、「海女の化物屋敷」(1959)や「九十九本目の生娘」(1959)、「花嫁吸血魔」(1960)「悪魔の手毬唄」(1961)などと言ったゲテものっぽい映画で、不気味な老婆などを演じていた、マニアお馴染みの人である。

この作品、人海戦術を使った陸戦だけでなく海戦シーンも多い為、ミニチュア特撮も楽しめる。

プール自体が小さい為か、東宝特撮ほどの大きな船のミニチュアは使用できず、全体的に玩具を観ているようなチープさがあるが、新東宝作品としては特撮シーンが多い作品の一つだと思う。

あちこちに登場する大セットは、さすがに安っぽいが、当時の新東宝としては膨大な大仕事だったはず。

ドラマ的には起伏に乏しいのと、登場キャラクターの魅力に乏しい為、大きな感動のようなものはないが、今では作り得ないほどの大作感には驚かされる。

この作品の興行結果は前作ほど残ってない所から観ると、思惑とは裏腹に期待はずれだったのだろう。

今思えば、「明治天皇と日露大戦争」のような未曾有の大ヒットが、結果的に、その後の会社を傾かせる一因になったのかもしれないな…などとも考えさせられる作品でもあった。

▼▼▼▼▼ストーリーをラストまで詳細に書いていますので、ご注意ください!▼▼▼▼▼

1958年、新東宝、大蔵貢原作、館岡謙之助脚本、並木鏡太郎監督作品。

※文中に、今の中国を現す「支那」と言う言葉が出てきます。当時使用されていた呼び方として劇中でもそのまま使用されていますので、文中でもそのまま使っています。ご理解のほどお願い致します。

タイトル

君が代のメロディと伊勢神宮

明治天皇伏見桃山陵

昭憲皇太后伏見桃山東陵

皇居二重橋

明治27年 京城

当時、支那は清朝統治の下、アジア大陸に404州と称する膨大な国土を有し、開国4千年を誇る大国で、「東洋の眠れる獅子」として諸外国にも恐れられていたが、朝鮮の内乱に端を発し、朝鮮を乗っ取ろうとする動きに出た為、朝鮮の独立を守らんとする日本との間に風雲急を告げ、我が朝鮮駐在公使大鳥圭介(丹波哲郎)は、支那駐在公使袁世凱(浪野幹雄)、朝鮮総理閣泳駿(武田正憲)と京城で談判を重ねていた。

韓国外務府の前では、支那軍兵士、朝鮮兵士と日本軍兵士が互いに槍と銃剣を突き出し、一発触発の状態であった。

支那はこのたびの出兵に対し、属邦朝鮮に内乱が起こり、兵を派すると我が政府に通告して来たが、朝鮮が独立国家であることは、明治9年の日韓修好条約を観ても明らかである!、日本は、朝鮮が支那の属国であるとは断じて認めることは出来ない。

しかし、牙山に上陸している支那軍も朝鮮を称して属国と言う。朝鮮側は又何ら反対する色も見えない。朝鮮ははたして独立国か!支那の属国か!と大鳥は、会議の席上、朝鮮代表団に質問する。

それに対し、朝鮮代表団は、朝鮮は独立国であると発言する。

独立国であるなら、何を持って政府の改革を断行しないのか?このたびの東学党の反乱も政府の腐敗により起こったことである。自力を持って速やかに解決したらどうか?と大鳥が発言すると、支那側は、その東学党の反乱も既に鎮静しているから、まず日本軍より撤退されよと言う。

支那が太平洋牙山に上陸させつつある以上、居留民並びに公使館の保護のため、日本軍を撤退する訳にはいかん!

我が公使館は支那兵に先導された公民に襲撃され、公使たちは危うくも難を仁川に避けるに至った。

それのみでなく、我が多くの居留民は公民の乱暴に会い、婦女子は暴行を受けたのである。

あまつさえ、公使館は袁世凱の下兵により再度襲撃され、放火された。

日本は再び、あのような暴挙を許すことは出来ん。

朝鮮を属国と称する支那兵を速やかに、牙山その他より撤退させられたい!と大鳥は訴える。

これに対し、我が兵は厳重なる規律の元にある兵である。もし乱暴した兵があるとするなら、それは支那兵を装った朝鮮の暴民である!今後、かかる暴民は我が方で取り締まるから、日本は速やかに群を撤去されるが良いと支那側が答えたので、これ以上、日本は貴国政府を相手にすることは出来ん!この上は朝鮮こそ信用するしかない。日本の権利と人命の保護を図らなければならない!と言い放った大鳥公使は席を立つ。

かくして、日清談判は破裂!

宣戦布告!

日本のとある地方

出兵する兵隊を乗せ走る機関車に、沿道の子供たちが手を振る。

畑仕事をしていた山田一太郎(高島忠夫)は、一緒に働いていた祖母(五月藤江)に、おばあ、記者だよなどと話しかけていたが、そこに召集令状が届く。

令状を読んだ一太郎は、明日の12時、入営だと祖母に伝える。

令状を持って来た村の衆は、今夜、お祝いだ!と祝福してくれる。

その夜、山田家に集まった近隣の人たちは、出征する一太郎を前に多いに盛り上がっていたが、いろりの所にぽつんと座っていた祖母の元にやって来た一太郎は、おめえも行ってしまうだな…と哀しむ祖母に、オラ、おばあを残して行くのは心配だ。小さい時、お父やお母に死なれたおらは、おばあに育てられただ。オラの親と同じだものだと感謝する。

おめえに死に水取ってもらえると思うていたんだが…、若えおめえが御国の為に名誉の戦死したら、オラより先になる。それが何だか寂しくてな…と哀しむ祖母に、おら、何も孝行出来ねえで申し訳ねえと一太郎は詫びる。

何言うだ!おらが、この年になるまで何不自由なく暮らして来たのもおめえのお陰だ、もったいねえ。御国の為に立派に戦ってくれよなと祖母は励まし、おばあも身体大事にな…と一太郎は別れの言葉をかける。

いよいよ舟に乗り込む朝、一緒に入営した佐藤兼吉二等兵(御木本伸介)が母親(浅野雪子)と最後の別れを惜しんでいる横で、一太郎は、姿を見せない祖母を捜していた。

そんな一太郎に気づいた佐藤は、まだ、おばあさんはまだか?と心配して声をかける。

5里の道を64の年寄の足だから…と一太郎は答えるが、未練を残したまま連絡船に乗り込む。

その時、ようやく岸壁にたどり着いた祖母は、必死に孫の一太郎の姿を探し、見送りの群衆の前に出て、岸壁を走り出す。

そんな祖母に気づいた一太郎に、佐藤は、良かったな、間に合って…、鉄砲を上げてやれよと声をかけ、一太郎は銃を振り上げて合図をする。

ようやくそれに気づいた祖母は、一太郎や~!家のことは心配しねえでな~!と呼びかけるのだった。

さらに、一太郎の横にいた出征兵(小高まさる)が、国旗を渡してやる。

御国の為に、一生懸命にな~!と祖母が呼びかけると、おばあも、達者でな~!と一太郎は、国旗を振りながら絶叫する。

しかし、一太郎を見送った祖母は、一太郎は行ってしもうた…、もう帰らん…、あんな若い身空でな~…、ナンマンダブツ…と、赤ん坊だった頃から女手一つで育てて来た一太郎のことを思い出しながら、泣いて合掌するのだった。

明治天皇(嵐寛寿郎)は、大山陸相(信夫英一)、西郷海相(江川宇礼雄)から作戦計画の報告を受けていた。

大山陸相は、すでに朝鮮にありましては、山県大将率いる第一軍が京城攻略の作戦計画を完了致しましたと報告すると、西郷海相も、海軍におきましても伊東指令長官の下、連合艦隊が陸軍上陸援護に全力を注いでおりますと述べる。

それを聞かれた陛下は、陸軍も海軍は良く協力し、兵たちの為に万全の作戦を立てることを望む…と仰せられる。

続いて立ち上がった伊藤首相(阿部九洲男)は、つきましては、戦線の進展に伴い、大本営を進められましてはいかがか?と存じますと進言する。

かくして、広島に大本営を進駐せらる。

新橋駅のお召し列車の中に乗っておられた陛下は、つつがない旅と戦勝をお祈り致しますと挨拶に来られた昭憲皇后陛下(高倉みゆき)に、身体を大切にするようにとお声をかける。

昭憲皇后が下車された後、ホームで見送る人々の天皇陛下万歳!の声の中、列車は出発する。

かくて日本軍は、京城付近の敵を追い、朝鮮に支那兵の1兵もなからしめんとした北上し、支那軍の精鋭3万の兵に守られた平壌に迫った。

大元帥陛下におかせられては、我が第5師団司令部たる広島に大本営をお進めになられた。我らは史上稀なるこの光栄と感激を持って、これより全軍平壌を攻撃する!しかしながら、もし平壌堕ちぬときは、即刻北洋艦隊が多数の援軍を平壌に送り来るのは火を見るより明らかである。大元帥陛下の御神聖に答え全員奮起!万死を誓って、京城を一機に陥落せしめんことを要望する!と、師団長である野津中将(広瀬康治)が挨拶をする中、原田重吉一等兵(若山富三郎)も直立不動の姿勢で聞き入っていた。

かくして平壌総攻撃が始まる。

玄武門に砲撃を仕掛けるが、容易に近づけない。

原田重吉一等兵は、上官である少佐に、自分がやります!と進言すると、銃剣を持って1人突っ込んで行く。

少佐もその後に続く。

原田重吉一等兵は、支那兵の刀を奪って斬って斬って斬りまくると、固く閉ざされていた玄武門の扉を中から開ける。

それを観た日本兵達は、開いたぞ!勧め~!と叫び、日本国旗を振って、万歳を叫ぶのだった。

この第5師団の大勝利の成果は、ただちに陛下に報告される。

広島の大本営の陛下は、死傷者が少ないのが何よりであったと言われ、大山陸相に、山県大将と野津師団長に慰労の電報をつかわすようお命じになる。

西郷海相は、平壌の上陸援護も終了致しましたので、なんと致しましても、今月中に、敵の主力艦、ていえん、ちんげんを撃沈し、公海の制海権を掌握いたす所存でございますと報告する。

ていえん、ちんげんは、世界に名だたる鋼鉄艦と聞くが、海軍の作戦はどうか?と陛下はお聞きになる。

それに対しては、山本軍務局長(沼田曜一)が代わって立ち上がると、北朝鮮西岸チョッペキ岬に集結致しました連合艦隊は、伊東司令長官、樺山軍令部長と作戦会議の結果、敵、北洋艦隊を撃滅すべく、大連、旅順の順に進むことになり、チョッペキ岬を出発致しましたと説明する。

この大遠征は始めより決戦体制を取って弱艦を伴わず、坪井少将率いる第一遊撃隊と、「吉野」「高千穂」「秋津洲」「浪速」を先陣とし、司令長官伊東中将が乗る主力本体として、「松島」「千代田」「厳島」「橋立」「比叡」「扶桑」が続き、「赤城」と樺山軍令部長を乗せた下層巡洋艦「西京丸」が随行し、出撃した。

明治天皇はある日、侍従武官斎藤(細川俊夫)に、武運を祈ろう、馬の用意を致せとお命じになると、一緒に馬で神社に向かわれる。

その帰路、陛下は、荷車を押していた2人の農夫が、道の窪みに轍を取られ、難儀している所に出会う。

荷車を曳いているのは老人(横山運平)で、後ろから押す男(天津七三郎)は身体が不自由そうだった。

陛下は、随行して来た斎藤に、押してやりなさいとお命じになる。

馬に乗った陛下を明治天皇と気づかない老人は、陛下のその格好から大将と思い、礼を述べる。

年寄の身でご苦労だなと陛下がお言葉をおかけになると、働くことは何でもないが、倅がこの通りでしようがないでがす…と老人は答える。

身体が不自由なようだが?と陛下が問われると、子供の時、熱病が元で、こんな身体になってしまい、近所の若いものはみんな天使様の為に戦に出て働いている。お役に立たないで済まないと思う取とりますと老人は恐縮する。

それを聞かれた陛下は、百姓も立派な仕事、稼業に精を出すが良いと仰せられると、斎藤に薬料を遣わせとお命じになると、薬代に致せと老人に声をかけ、そのまま帰られる。

大金を頂いた老人は、驚きながらも礼を述べ、陛下と知らぬまま見送るが、息子は、天皇様に似ているでねえか?と父親に語りかける。

9月17日午前10時

連合艦隊は敵艦隊を発見し、いよいよ海戦の火ぶたが切って落とされる。

大砲係の三浦虎次郎三等兵曹(宇津井健)は、敵弾で負傷しながらも、必死に大砲を撃ち続けていたが、「ていえい」はまだ沈みませんか?と抱き起こした上官に聞きながらついに息絶える。

負傷しながら、伊東司令長官に戦果を報告に来た山村参謀も、その場で力尽き倒れる。

4時間半に渡る大海戦の結果、日本は2隻損傷に留まる大勝利をあげる。

広島臨時国会議事堂内では、大元帥陛下たる明治天皇を讃える演奏会が催される。

その頃、昭憲皇后陛下は、氷雨が降り寒い中、少しでも多くの兵に渡るようにと、宮中で自ら包帯を作る作業に没頭しておられた。

侍女たちが、昭憲皇后陛下の寒さをいくらでも和らげようと、背後に屏風を拡げるが、宮中にまりましてさえこのような寒さ、粗末な病院で治療をしている兵の気持ちはどうでしょうか?と呟かれる。

戦場では、累々と戦死した兵士達の遺体が連なっていた。

仁川野戦病院

皇后陛下手ずからの包帯は、日本兵達のみならず、捕虜として入院していた支那兵達にも配られる。

その間も、公海の制海権を得た日本軍、山県大将の第一軍は鴨緑江を渡り、九連城、鳳凰城を攻略し、さらに進軍を続けていた。

又、大山大将が率いる第二軍は、全軍遼東半島に上陸すると、旅順攻略を目指し、破竹の進撃を開始した。

全州戦が始まる。

田代小隊長(中山昭二)が突撃!と叫ぶ中、佐藤兼吉二等兵が敵弾に倒れる。

一緒に突撃していた山田一太郎二等兵はそれを見て驚くが、その後、勝利の旗を振って、万歳を叫んでいた。

夕日の中、一太郎は、佐藤二等兵の墓に花を供えていた。

銃弾に倒れた佐藤二等兵は、駆け寄って助け起こそうとした一太郎に、俺に構わず行ってくれ!と言うので、それじゃあ、行って来る!と共に答え、そのまま突撃して行ったのだが、戦い終わり、共の姿も探して戻って来た一太郎は、すでに戦死していた佐藤二等兵を発見したのだった。

無念の思いで、佐藤二等兵の身体を抱き上げていた一太郎は、佐藤の軍服のポケットから出て来た懐中時計が、いまだに時を刻んでいることを知る。

広島の大本営で戦況の報告を受けていた明治天皇の元に、昭憲皇后陛下が訪ねて来られる。

皇后陛下は、天皇陛下のお部屋があまりに質素なのに驚き、御察ししますと言葉をかけられるが、将兵のことを思うと立派過ぎる!雨の日も雪の日も、兵達は戦っておるぞと天皇陛下は答えられる。

火薬を馬車で運ぶ第二小隊弾薬部隊は、荒れ地に難儀していた。

そんな輸送隊は、待ち伏せしていた支那軍に囲まれてしまったことに気づく。

慌てて馬車を円陣に組み、応戦しようとするが多勢に無勢、さらに敵は火槍を投じて来たので、荷車に積んでいた火薬が爆発し始める。

その頃、旅順並びに大連は、ドイツの砲兵隊ハイネケンを招聘し、最新式要塞を構築し、1万5千の支那兵を持って守られているが、酷寒期が迫る中、旅順は速やかに落とさねばならんと会議で話し合っていた上官達は、第二小隊弾薬部隊が襲撃され、全滅しかかっていると言う伝令を聞き青ざめる。

支那軍の名だたる武将ユイ将軍が南下すると危ない!と、第3軍司令官乃木希典は、大山司令官に進言する。

その頃、広島予備陸軍病院を訪れた昭憲皇后陛下は、負傷兵各人に傷の具合を聞かれ、ねぎらいの言葉をおかけになる。

下士卒病室にもお廻りになり、左腕を失った兵隊を前にした皇后陛下は、妻と5人の子を持つ左官であり、こんなカ○ワになるくらいなら、何故、戦死出来なかったのか!と嘆く相手に、御国の為とは言え、お気の毒なことと励まされる。

その言葉を聞いた左官は、考え直して、新しい職を見つけ、立派に立ち直りますと約束する。

病室を出た皇后陛下は、随行していた石黒野戦衛生長官軍医総監に、手足を失ったもののために、義手、義足はありますか?とお尋ねになり、敵の捕虜にも分けるようにと言われる。

その頃、明治天皇は、雪が降りしきる外の様子を窓から眺めておられた。

茶を運んで来た斎藤に、旅順の戦況はまだか?とお聞きになるが、報告がまだ届かないと聞くと、今しばらく待とうとお答えになる。

火鉢の火が消えていたことに気づいた斎藤侍従武官が、すぐにお運びしますと申し上げると、戦地の兵は未だ夏服のまま戦っている。旅順は内地より寒い。このままで良い…と陛下はお答えになる。

雪の進軍、氷を踏んで〜♪

雪山を進んでいた田代小隊長は、寝るときも雪の上だったので、側で毛布がはだけている部下を見つけると、そっと肩までかけてやる。

一太郎は、佐藤二等兵の片身として持って来た懐中時計を抱いて眠っていた。

国会では、先日、米国公使より、支那より講和の申し込みがあった場合、日本は受諾するや否やと問い合わせがあったことに、講和の準備はあると答えたと言うことに関して話し合われていた。

伊藤首相は、米国の新聞などでは日本の正義を讃える論調のようだが…と発言するが、陸軍は、敵をして北京城下に命を遣わせようとする大切な時、軍の士気を鼓舞するため、陛下に大陸御しんせい(?)し、大本営を御指図願いたいと発言がある。

その時、立ち上がった山本少将が、海軍としては陸軍の意向に了承する訳にはいきませんと答えたので、何故ですか?陸軍大戦略の実施を敏活にするためには、絶対必要ですと陸軍側が抗議すると、だが、大本営が海外に孤立することになっては一大事であります!と山本少将は答える。

陸軍としては、大陸で全軍をあげ大作戦を実施する為には広島は遠過ぎる。陸軍としては、ぜひとも大陸への御しんせいを進言致しますと伊東首相に頭を下げる。

西郷海相は、事ははなはだ重大です、総理!陛下に御しんせいをおうかがいしてはどうですか?と進言する。

その後、支那へ御しんせいの儀は?と伊東首相が陛下にお伺いに向かうと、他の対策を考えよう。大陸に進駐することは侵略の野心を持つものと世界の誤解を招く。このたびの戦争はあくまでも東洋の平和が目的であるぞ!支那に進駐することはならん!と言い渡される。

かくして、威海衛攻略の火ぶたは切られ、我が第2軍は大挙して威海衛軍港の背面に迫った。

また海軍は、威海衛軍港の奥深くに潜む北洋艦隊との正面よりの決戦を挑んだ。しかし敵は艦船の消失を恐れ、巨艦を港外に潜めた為、伊東司令長官は、ついに港内に世界最初の水雷艇隊による夜襲を決行する。

第2艇隊、第3艇隊、計一隻は、午前3時30分、月落ちるを待って出撃、敵艦の間近に迫って雷撃を敢行、特攻精神を持って必殺の突撃を決行した。

夜襲に次ぐ夜襲、そして連合艦隊の全勢力を挙げての総攻撃に「定遠」その他の艦は撃沈され、北洋艦隊は完全に息の根を止められ、丁汝昌提督は、ついに和を乞うて、分子を派遣した。

丁汝昌提督は書面により、部下や人民の生命が保証されることを願い、威海衛港内の艦船、兵器など全てを献納すると申し出た。

そして、米国艦隊司令官を証人に立てると誓って、伊東長官に即日の返答を乞うた。

伊東長官は、書面の内容を承知したこと、ただし、証人の必要はありません。小官は貴官を軍人であると信じるからであります。しかし小官の考えを申せば、貴官の安全と貴国将来の利益の為に、一時我が国に参り、戦争の終わるのを待たれるのが良いと思いますと、葡萄酒とシャンパンの贈り物を添えた書面に返事をしたためる。

しかし、翌日、丁汝昌提督は部屋で自決していた。

提督が残した伊東指令長官への返書には、まだ戦いが終わったと言うのではありませんので贈り物は受け取れない。武器、艦船は今日中に受け取りたいとのことでしたが、準備もありますので16日までお待ち願いたい。決して約束に背くことはありません。小官が死を持ってお誓いしますと書かれてあった。

丁汝昌提督の自決を知った明治天皇は、北洋艦隊は全滅致しましたので、その棺はジャンク船に乗せるしかないと西郷海相から聞くと、かつては大艦隊を指揮した司令官である。戦いに敗れたりとは言え、ジャンクで亡骸を輸送するのは見るに忍ぶん。丁汝昌の霊を慰めるため、「こうさいごう(?)」を戦利品とせず、棺を乗せ立派に輸送せよ。それが武人に対する礼であるぞと仰せられる。

かくして、丁汝昌提督の亡骸を乗せた舟は、日本兵達の捧げ、筒!伊東長官らの敬礼にも見送られて出航する。

その後、清国軍機大臣講和全権大使李鴻章(勝見庸太郎)が、講和条約を話し合うため、下関にやって来る。

それを観る野次馬の中に、小山(天知茂)と言う男がいた。

地元の料亭「春帆楼」にて「日清講和談判」第一回会談が行われるが、両者の溝は埋まらず、陸奥全権病気で欠席のまま行われた第3回会談で、日本側の伊藤全権は、ほうてい省南部、遼東半島、台湾及び茫乎列島の日本への割譲と3億テールの賠償金を要求する。相手方随行員(江見俊太郎)は、その条件の困難さを強調し、本国の訓令を仰ぐしかないと答えるが、伊東全権が時間稼ぎは互いに取って好ましくない結果を招くことになると迫ると、次回より講和条項の審議に入ることを約束する。

その帰路、見物人が道を覆う中、李鴻章が乗った輿の前に飛び出した小山は、懐に隠し持っていた拳銃を取り出すと、李鴻章目がけて発砲する。

李鴻章は顔面に銃弾を受ける。

小山は、警備をしていた警官たちにその場で取り押さえられる。

小山は、李鴻章を倒すんだ!と叫び続けていた。

李鴻章が兇漢に狙撃され、宿舎引接寺に運び込まれたと知った伊藤全権と、彼が見舞っていた陸奥全権は、バカな真似をしてくれた!講和談判の前途は予断を許さぬことになってしまったと落ち込み、2人とも李鴻章を見舞いに行くことにする。

同じく、李鴻章狙撃の知らせを受けた明治天皇は、ただちに石黒、佐藤を下関に遣わし、万全の治療と共に、丁重に見舞うが良いと仰せられ、犯人は何を目的としたか?と、侍従武官長岡沢少将(九重京司)にお聞きになる。

李鴻章を倒せば講和談判は破れ、戦争が継続し、北京城下に命を誓わせることが出来ると浅薄に考えたようでありますと聞かれた陛下は、いやしくも外国使臣に危害を加えるが如きは国家の重大な不名誉である。犯人は厳重に処罰し、李全権に謝罪して、警護を厳重にせよ。策を誤ってはならぬ、早く事件の処理を付けるよう伊藤に申し伝えよとと命じられる。

その頃、我が陸軍の精鋭は、敵をして北京城下に命を誓わしめるため、全軍をあげて大作戦を開始した。

大山第二軍司令官は第1軍と合流し、雪山の進軍を続け、北京攻略に着手せんと、無双の太平山砲台に果敢な突撃を敢行した。

田代小隊長と共に、進軍ラッパを吹きながら突撃していた木口小平喇叭卒(和田桂之助)は、敵弾を受け倒れるが、流血を雪の上に散らしながらも、進軍ラッパを吹き続ける。

それに気づいて駆け寄って来た田代小隊長は、遅い来る敵兵を斬り捨て、死んでなお、ラッパを手放していない木口小平を肩に担ぎ、共に進もうとするが、その田代小隊長も銃弾に倒れ、木口喇叭卒と共に雪の上に死す。

砲台に突撃した山田一太郎二等兵も銃弾を受け、落とした佐藤二等兵の懐中時計を拾い上げようとし、時計を握りしめたまま、雪の上で息絶える。

その後、幸いにして一週間で全快し、会談の速やかな続行が可能になった李鴻章だったが、老獪な彼は有利な条件を得る為に、東洋に発言権を求める諸外国の力も利用せんと計った。

諸外国は、暴漢に襲われた李鴻章に同情し、協力を約束する。

そして、いよいよ最終会談が執り行われる。

既に暴徒には厳罰を処したと謝罪した伊藤全権は、天皇陛下の御制止により、会議が円満に進行するよう講和条件にも手心を加えたと伝え、賠償額を2億テールに軽減することなど最終条件を提示するが、清国側の随行員は、台湾はまだ、日本軍が完全に攻略していない。それを割譲せよと言うのはおかしいなどと言い出す。

山東省の一部は既に日本軍が占領しておる。しかし山東省を割譲せよとは申しておらないと答えた伊藤全権は、貴国は先年、ロシアに黒龍江の一部を割譲したが、あれはロシアが占拠していないと反論すると、李鴻章と随行員は何やら話し始める。

その時、李鴻章と随行員は、部屋の障子窓から見える港を進む艦船に気づき、慌てたように、向こうに見える艦船は、いずれに行かれますか?と随行員が聞いて来る。

小松宮征清大総督が、我が陸海軍の精鋭を率いて貴国に向かわれる所です。日本軍の北京総攻撃の体制は既に完了しておりますと伊藤全権が答えると、さすがに青ざめた随行員と李鴻章は、貴国の講和条件を承諾しますと答える。

講和条約の調印は、本国政府との連絡もありますので明後17日にお願いしますと随行員が言うので、伊藤全権たちは鷹揚に頷く。

かくして日清講和条約は締結し、町では号外が配られる。

大衆は戦争の終結を喜び、戦勝記念の提灯行列などが行われるが、そうした中、日本全土の息の根を止めるような大事件が起こる。

講和条約から1週間も経たぬ4月23日

ドイツとフランス公使を引き連れたロシアの公使が外務省を訪れ、本国政府よりの重要な訓電と称して覚え書きを提出した。

講和条約の内、遼東半島割譲の一条があるが、ロシア政府は貴国政府に対しご忠告申し上げる。ドイツとフランス政府の良い分も同じだった。

彼ら三国政府は、遼東半島を支那に変換することを希望すると言うのだった。

もし、忠告をお取り上げにならない場合、重大な決意をしなければならないとまで脅して来る。

明治天皇に会いに行った伊藤首相は、みんなの声は?と聞かれ、三案しか選択肢がないと考える。

三国からの申し出を断固拒否するか、列国会議を招聘し、遼東半島をその会議で処理するか、勧告を受け入れるかであった。

事は、緊急を擁しておりますと伊藤首相が伝えると、陛下は、国民はどう考えておるか?とお尋ねになる。

三国打倒の声に満ちあふれておりますと伊藤首相は答える。

三国打倒を叫ぶ市民たちが練り歩く様子を、皇后陛下は、宮中の庭先より眺めておられた。

そんな市民たちも、戦死者の遺骨を持った遺族がやって来ると、皆一様に、英霊だ!と叫び、静かに道を開けると、遺族たちを敬う。

天皇陛下は、日夜悩まれる。

そこへ来られた皇后陛下は、日ごと夜ごとの御心痛、お身体に触りましたら…と案じながらお声をかけられる。

すると天皇陛下は、将兵の霊を慰める道はないか?その道を考えている…とお答えになる。

民衆たちは、三国干渉を絶対に排除せよ!国難に奮起せよ!と息巻いていた。

そうした中、開かれた御前会議

先に三国より遼東半島還付に関する覚え書きを受領してより、列強会議を開き、局面を打開せんと計ったのでありますが、欧州諸国の調整を検討致しました結果、講和条約自体を白紙に還元させられる恐れがあり、取りやめることにしました。本日、御聖断を仰ぎたく存じますと伊藤首相が無念そうに発言する。

続いて立った山県陸相(高田稔)は、陸軍と致しましては、全軍遼東半島に駐屯し、意気はますます盛んでありますが、一方、国内の軍備は手薄く、海上封鎖を受けましたる場合、困難なる状況に陥る危険がございますと報告する。

西郷海相は、海軍は既に幾多の海戦により、艦船、兵力とも疲労と欠乏が甚だしく、三国の東洋艦隊に対し勝算がございませんと答える。

陸奥外相は、敵は今のようなことを察しており、ロシアも教唆し、先に調印せる講和条約の批准交換を延期してまいりました。遼東半島還付とその他の条件が混同し、相共に失う結果になることを恐れますと報告する。

話を聞かれていた明治天皇は、伊藤、国民はどう考えておるか?とお尋ねになる。

世論は絶対反対でありますと伊藤首相が答えると、しばしお考えになっておられた陛下は、東洋の平和の為に、三国の勧告を受諾する。国民の不満には朕が答えるとお答えになる。

それを聞いた大臣たちは、無念の涙を流し出す。

出兵していた兵士たちが、用意された凱旋門を潜り帰国して来る。

それを歓声で迎える国民たち。

白馬に乗りその様子を眺めておられた天皇陛下も、敬礼をして兵士たちを迎えられる。

その後、明治天皇は、宮中に招いた軍人、大臣たちを前に、長い間、大義であった。勝利を得ながら、多国干渉に会い、その申し出に応じねばならなくなった。

将兵は国民と共に、勝利におごらず臥薪嘗胆、国力の充実に心を尽くし、再び外部を受けぬよう、我が国の進展に努力せよと告げられる。

国民は、戦勝に酔っていた。

天皇と皇后両陛下は、その後、伊勢神宮に参拝なさる。