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おじいさんのランプ

1985年、東映教育映画部、新美南吉原作、矢吹公郎脚本+監督作品。

▼▼▼▼▼最初にストーリーを書いていますので、ご注意ください!コメントはページ下です。▼▼▼▼▼

これは、新美南吉さんのお話を映画にしたものです。

皆さんも、おじいさんの話を聞いてみて下さい。

土蔵の中に置かれた古びた大ランプ

タイトル

土蔵の中に、かくれんぼをしていた東一が、隠れ場所を探して入り込み、そこに置かれていたランプを見つけると、その近くに身を潜める。

しかし、鬼役の子は、すぐに東一を見つけてしまう。

見つかった東一は、ランプが何だか分からず、鉄砲みたいに、鬼役の子に向かって撃つまねをする。

蔵に入ってランプをいじっていた東一たちを見つけたおじいさんは、何をしている?それを寄越しなさいと叱りつける。

東一は、おじいさん、それは?とランプが何なのか聞くが、うるさい!行きなさい!と、おじいさんは不機嫌そうに東一たちを外へ追い出すが、ランプをしみじみ見ながら、あの子らにも困ったもんだが、忘れかけていたこんなものを見つけるなんて…とつぶやく。

遊びつかれた東一が、本屋をやっている自宅に帰って来ると、先ほど蔵で見つけたランプが、おじいさんの部屋の隅に置かれていたので、又、ちょっといじってみたりする。

ねじのようなものを回すと、ガラスの中央にある芯が伸び出す。

そこに、おじいさんがやって来て、これは、おじいさんにはとても懐かしいもんだ。一つ、昔話をしてやるから、ここに来て座れと言う。

東一は、腹這いになり、頬杖をついて、おじいさんの話に耳を傾ける。

今から50年くらい昔の話じゃ…と、おじいさんは話し始める。

岩滑新田(やなべしんでん)と言う村に巳之助という少年がいたが、彼は両親も親戚もいない、全くの孤児だった。

寄る辺のない巳之助は、子供の頃から女の子のように子守りをやったり、米搗きなど、子供にもできる雑用を手伝って、村の区長さんの家の離れに住まわせてもらっていた。

巳之助は、このままではいけない。いつまでも子守りや米搗きのまま大人になるわけにはいかない。男は身を立てねばならない。それには、良いきっかけがないかと待っていた。

ある夏の昼下がり、巳之助は、隣町の大野まで行く人力車の紐引きを手伝わされる。

人力車は通常一人で引くが、急ぎの客などは金をはずみ、二人に引かせることがあったんだ。

巳之助は、人力車の前に繋いだ紐を引く役目だった。

巳之助は好奇心でいっぱいだった。

なぜなら、巳之助は生まれてこのかた、村を出たことがなかったからである。

峠の向こうに、どんな人が住んでいるのか知らなかったのだ。

夕方、大野の町に到着した巳之助は、駄賃をもらうと、ぶらぶらと歩きながら、はじめて見る町の様子に目を奪われる。

なかでも巳之助を驚かせたのは、各店の中にともされた明るいランプだった。

岩滑新田(やなべしんでん)には、まだランプなどなく、暗くなると寝てしまうか、せいぜい、行灯を持っている家があるくらいだったので、明るく照らすランプの光は、巳之助にとって衝撃だったのだ。

文明開化と言う言葉は聞いたことがあった巳之助だったが、ランプこそ、その文明開化だと分かった。

町をさまよううち、一軒のランプ屋についた巳之助は、ランプを一つ売ってくれと主人に頼む。

主人は一つ25銭だと言うので、巳之助は持っていた15銭で売ってくれ。卸値で売ってくれと粘る。

主人はそれでは売れないと断るが、諦めきれない巳之助は、俺、これからランプ屋になる。今日は一つしか買わないが、今度来るときはうんと買うから、今日は卸値で売ってくれと何度も頼む。

巳之助が岩滑新田(やなべしんでん)のもので、孤児だとを聞いた主人は、15銭では卸値にもならないが、お前の熱心さに感心したので売ってやると言いだす。

巳之助は、買ったばかりのランプを提灯代わりに、夜道も安心して村に帰ることができた。

巳之助の胸の中にもランプがともっていた。

村の生活を明るくしてやろうとする希望のランプだったのだ。

しかし、巳之助のランプは、始めは流行らなかった。

村の人たちは、新しいものを好まなかったからだ。

それで、巳之助は、雑貨屋のおばあさんにただでランプを貸すことにする。

五日後、雑貨屋に巳之助が行ってわらじを買おうとすると、出て来たおばあさんがうれしそうに、ランプをともしたお陰で村人から喜ばれるようになった。

夜でも店が開いていると感謝され、ものも良く売れるようになったし、ランプも三つも注文されたと言うではないか。

それを聞いた巳之助は、走って大野の町まで行くと、三つのランプを購入して戻って来る。

やがて、巳之助は、ランプを売る仕事だけで生計が成り立つようになり、雑用はしなくても良くなった。

巳之助は、近くの村にもランプを詰んだ荷車を押し、売りに出かけた。

そして、いつしか、巳之助は青年になっていた。

世話をしてくれる人がいて、嫁さんももらった。

そんなある日、大野にやって来た巳之助は、長い木の柱を道に立てている工事を観かける。

人に聞くと、電気と言うものを引くのだと言う。

一月ほど経って、又大野に行くと、道には、何本も電柱が立っていた。

しかし、巳之助には、電線が雀の休み場所にしか見えなかったので、少しバカにする。

馴染みの酒屋に入ると、そこに見慣れぬガラスの珠がぶら下がっていた。

主人が言うには、これが電球と言うもので、火事にもならないし、マッチもいらないと言うではないか。

酒を飲みながら、巳之助は、そんな主人の言葉を軽く受け流していたが、夕方になり、電球がともった途端、頭を殴られたような衝撃が走った。

電球の灯りは、ランプの灯りなど比べ物にならないくらい強力だったからだ。

その様子を観ていた店の主人は、巳之さん、とてもランプでは太刀打ちできないよと気の毒そうに声をかける。

外に出てご覧よと言われた巳之助は、信じられない気持ちで店の外に出てみるが、どの店も明るく照らす電球の明るさに、またもや衝撃を受けるのだった。

やがて、岩滑新田(やなべしんでん)でも電気を引くと村会で話し合っていると聞いた巳之助は、電灯反対の意見を村人たちに触れ回った。

電気を引くと、山から電線を伝って狐狸が里に下りて来るので、田畑が荒らされると言うものだったが、触れ回っている巳之助自身、そんなことをしていることに嫌悪感があった。

結局、村会で、電気を引くことは決まってしまい、巳之助は三日三晩、家で寝ていた。

その様子を、妻が心配そうに見つめていた。

その時の巳之助は、頭がどうにかなってしまい、誰かを恨もうとしていた。

そして、その恨む相手を区長に決めた巳之助は、マッチを持ち出そうとするが、切れていたので、仕方なく、火打石を持って家を出ると、区長の家の外においてあった藁に放火しようとする。

しかし、いくら打っても、火打石では火がつかない。

いら立った巳之助は、火打石のように古くさいものでは、いざと言う時に間に合わねえとつぶやき、その言葉で目が覚める。

「古くさいものでは、いざと言う時に間に合わない」!

俺が間違っていた!

ランプはもう、古い道具だったのだ。

俺はむしろ、電気と言う新しい文明開化を喜ぶべきだったのだ。

帰宅した巳之助は、寝ていた妻を起こすと、家にあった50くらいのランプ全てに石油を入れ、全て荷車に積ませると、大きな池のほとりまで荷車を引っ張って行く。

そして、近くにあった木の枝に、一つずつ灯をともしたランプをつり下げていった。

一本の木で足りなくなると、隣の木にもつり下げ、結局、三本の木にともったランプを全てつるし終える。

そして、明るくともったランプの木を見渡せる池の手前に来た巳之助は、「お前たちの人生は過ぎた。世の中は進んだ」と言いながら、落ちていた石を拾い上げると、ランプ目がけて投げつけ、一つ一つ壊し始める。

そっと、近くで様子を観ていた妻が、そんな巳之助に駆け寄って来る。

巳之助は、さらに「世の中は進んだ。電気のご時世になった」と叫びながら、石を投げ、ランプを壊して行く。

巳之助はその後、町に出て、本屋になったが、今では、息子がその店をやっている…と、おじいさんは語り終える。

聞き終えた東一は、残りの47のランプはどうしたの?と聞くが、おじいさんは知らんと言う。

うちには、一つもなしになったの?とさらに東一が聞くと、この大ランプだけになったとおじいさんは答える。

バカしちゃったねと言う東一に、でも、商売の止め方だけは立派だったと思わんかとおじいさんが聞く。

うん!おじいさんは偉かったんだね!と東一は答える。

 

▼▼▼▼▼個人的なコメントはここから下です。▼▼▼▼▼

新美南吉の原作を、東映動画が映画化した23分の短編教育アニメ。

メルヘンと言うより実話風の話であるため、短いエピソードにも関わらず、胸に迫るものがある。

時代の変化に乗る大切さと同時に、時代の変化を悟り、潔く身を引く大切さが描かれているのだが、これは、子供よりも、それなりの人生を歩んで来た大人の方が共感できる内容だと思う。

今回はじめてこの話を知ったが、長編映画を観たような、ずしんと胸に迫る名作だと感じた。