1956年、東宝、白坂依志夫脚本、小田基義監督作品。
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中村健之助(榎本健一)が舞台上で国定忠次を演じてる姿が、天地逆さまに映し出される。
坊や、そんな格好で観られたんじゃ、やりにくくて仕方ないやと健之助は文句を言う。
小さな子供が、股のぞきの格好で舞台を観ていたのだ。
舞台袖では、今、忠治に斬られて引っ込んで来た役者の被っていたカツラを、市川金十郎が受け取って被っては、すぐに次の捕り方として舞台に上がる。
続いて、女形の沢村谷之丞(トニー谷)が、妙になよなよとした捕り方として登場、最後には、同じく女形の尾上海苔蔵(三木のり平)がのんびり捕り方として出て来るが、やり方分かんないんですもの…と甘えながら、忠治に斬られても死ぬどころか、逆に忠治の刀を奪い取り、忠治を斬ってしまう有様。
まばらな客しか入っていないの客の数を舞台袖から数えていた荒金興行主(谷晃)は、これ以上やってられないので、今夜限りで出て行ってくれと、舞台後、楽屋に集まった市川金次郎一座に命ずる。
以前やった「最後の伝令」は大入りだったじゃないですかと抵抗する劇団員たちだったが、当たったのは一夜限りだったし、明日からストリップが入るのでと、興行主はにべもない。
仕方なく、小屋を追い出された市川金次郎一座は、翌日、又、次の劇場に向かって旅をする事になる。
その頃、市川金次郎一座が付いた劇場がある町に向かう列車に乗っていたのは、古沢将監(古川緑波)だった。
古沢は、隣に座ったばあさんと、目の前に座っていた若い娘にみかんを勧めるが、なぜか、一緒に手を出した娘の連れの男は無視したので、男はむくれる。
隣のばあさんが次の駅まで行くと話すと、古沢も同じ町の「からす座」と言う芝居小屋に懐かしい仲間たちがいるので急に会いたくなって向かう所だと教える。
それを聞いたばあさんは、あんたも役者かね?と聞いたので、とんでもないと古沢は否定するが、ばあさんは、役者じゃないのかね?それにしては、どこかで観たような?と首を傾げる。
それを愉快そうに聞く古沢はみかんを食べて、その汁が顔にかかった斜め前の男は怒りだす。
その頃、「からす座」の楽屋では、一座のみんなが、ふかしたジャガイモで飢えを凌いでいた。
しかし、昔戦友同士の仲間だけに、戦時中、みんなでクリークに入っていた時の事を思い出せば、こんな事くらいなんでもないよと天中軒雨右衛門(中村是好)が言いだす。
その時、劇場主が、前川とおせんが駆け落ちしたと知らせに来る。
それを知った一座の全員は、二人がいなくなったんじゃ、今度の出し物の「どんどろ大師」の芝居が出来ないじゃないかと慌てる。
その頃、駅を降り立った古沢は、駅の影から自分に向かって駈けて来た娘に気づく。
列車の中で前に座っていた娘だった。
聞けば、自分は売られてゆく途中で、隣に座っていた男の目を盗んで、列車を飛び降りて来たのだと言う。
全員が困りきっていた楽屋にやって来た古沢は、一緒に連れて来た娘を紹介し、事情を話して、かくまってくれと頼む。
道子(八島恵子)と名乗ったその娘を観た雨右衛門は、何事かを隣に座っていた谷之丞に耳打ちし、その谷之丞は隣の海苔蔵に、その海苔蔵は、隣の健之助にと、何事かと耳打ちし、最後のそれを聞いた金十郎(柳家金語楼)は、道子をおせんの代わりにしようと言いだす。
その頃、道子に逃げられたすいませんの辰(大泉滉)は、帰って来た親分土井(大山健二)の家で、親分の女房とき(清川玉枝)から、こっぴどく怒鳴りつけられていた。
その女を見つけるまで帰って来るな。お前だけでは頼りないのでと、他の子分たちを引き連れて追い出された辰は、宛もない捜索に出かける。
橋の上に来かかったギャングたちは、夕焼け小焼けを歌いながら近づいて来た子供たちとすれ違うと、俺たちには、帰る家もないのか…と、全員沈み込んで川を眺めるのだった。
「からす座」では、市川金十郎一座による「傾城阿波の鳴門」お看板がかかり、客は大入り満員の盛況となっていた。
道子を見つけられず、もう何日も野宿を続けていた辰たちは、「からす座」の看板を観て、急に芝居でも観ようと言いだすと、金も払わずに中に入り込み、立ち見客に混じって舞台を見始める。
舞台上では「どんどろ大師 お弓おつるの別れの場」が始まっていた。
大きなカツラを被って浄瑠璃を唸っているのは市川金十郎。
妙天を演じる谷之丞と妙珍を演じる海苔蔵が登場し、門前の茶店で弁当を食べようとするが、たこの足の煮たのを口にした妙珍は、咽に詰まらせたので、妙天が慌てて取ってやる。
妙珍は、危うくお弁当と心中する所だったと息を吐く。
その時、舞台袖で出番を待っていた道子は、客の中に、あの辰に姿を発見、おびえて奥に引き込んでしまう。
舞台では、巡礼の姿に扮した中村健之助が「巡礼に御報謝…」と言いながら登場していた。
その巡礼に、二人の尼が報謝をしてやる。
浄瑠璃を唸っていた金十郎が、「その時、お弓は、家路に戻らんと…」と唸るが、肝心のお弓が出て来ないので、袖の方に目をやる。
客たちも、様子がおかしい事に気づき、ざわめきだす。
楽屋では、お弓をやるはずだった道子が、あの男が観ているので出られないと言いだしており、それを聞いた一座の人間たちは、このままでは芝居がめちゃめちゃだし、一体どうしたら良いのかと考えあぐねる。
その時、道子から、おじさんお願いと言われた古沢は、とんでもないと拒否するが、劇場主が耳打ちし、急に、古沢の腕に注射の針を突き刺す。
何と、女性ホルモンを注射したのだと言う。
舞台では、浄瑠璃役の金十郎に、舞台係(木田三千雄)が、事情を説明、話を引き延ばしてくれと耳打ちしていた。
金十郎は、そんなこと急に言われても…と動揺しながらも、適当な事を浄瑠璃風に唸って場をつなぐ事にする。
そうこうするうちに、用意ができたと又舞台係が止めに来て、ようやく舞台に登場して来たのは、トレードマークの大将ひげをそり落とし、女装した古沢演ずるお弓だった。
お弓の姿を見た二人の尼は、お徳と言う、今の呼び名で呼び止めると、巡礼娘に、一人旅をしている訳を尋ねる。
巡礼娘は、自分が三つの時、父様と母様は、幼い自分を婆様に預けて、家を出て行ったのだと言う。
お徳こと、お弓が、巡礼の国を聞くと、阿波の徳島だと言う。
両親の名を聞くと、父は阿波の十郎兵衛、母はお弓と言うではないか。
それを聞いたお徳ことお弓は、報謝をしてやりながら、巡礼娘の額にあるほくろで、その子が自分の実の娘である事に気づくが、二人の尼から、二人は面影が似ていると指摘されると、自分の夫は、銀十郎、私はまだ「生まず(出産未経験)」だと答えその場をごまかす。
二人の尼が参詣に出かけると、残ったお徳ことお弓は、我が子であると知りながら、他人の振りをして、巡礼と二人きりの会話を続ける。
その泣かせの場面に涙ぐみながら、ギャングたちは劇場を後にするのだった。
「もしや、あなたは、母様では?」と本能的に尋ねた巡礼に、お弓は心を鬼にして、「いんだが良いかいな…」と、巡礼にそろそろ立ち去るように説き伏せる。
その言葉に従い、一旦、帰りかけた巡礼だったが、耐えかねたお弓が、もう一度顔が観たいと呼び寄せて、しっかと娘を抱くのだが、どうした訳か、お弓は、一旦抱いた巡礼を突き飛ばしてしまうにだった。
それを観ていた金十郎は、思わず「薬が切れた!」と叫び、客は大受けになる。
涙ぐみながら、芝居小屋を後にした辰たちは、もう道子を探して5日も経つので、顔もぼんやりして来たなどとぼやくのだった。
後日、相変わらず、とある坂道の横で、ぼんやり座り込んでいたギャングたちは、荷車を押す人が難儀しているのを見かねた通りすがりの老人(有馬是馬)から、お前たち、ぼんやりしていないで、後ろを押してやらんか!全く近頃のアプレと来たら…と叱られたので、仕方なく、荷車の後ろを全員で押してやるのだった。
一方、「からす座」では、一昨日までの満員御礼が嘘のように閑古鳥が鳴いていた。
劇場主が帰って来て、隣町にバレエ団が来ており、そこに客を全部取られているのだと教える。
その、バレエ公演と言うものを、一座のみんなも観に行ってみる事にする。
確かに、客席は満員だった。
「白鳥の湖」の舞台を観ていた海苔蔵が、私たちもやりましょうよと言いだし、道子も、私、少しやった事があると乗り気になるが、その会話を聞いていた後部席の客の一人が振り向いて、シー!と注意する。
その時、道子と目が合ったその客こそ、「すいませんの辰」だった。
道子は驚き、古沢の大きな身体の後ろに隠れるが、辰の方も、どこかで観たような…と首をひねるだけで、道子とはすぐに気づかず、その場は、何事もなく別れる。
その後、市川金十郎一座では「白鳥の狸」と言う出し物が上演される事になる。
狸の扮装をした谷之丞、海苔蔵、金十郎らが、バレエまがいの踊りを踊りだす。
そんな楽屋に、道子の顔を思い出した辰や仲間のギャングたちが乗り込んで来るが、その道子は、すでに舞台で踊り始めていた。
背景の書き割りの後ろから、その道子を捕まえようとした辰だったが、捕まえられるはずもない。
楽屋を探していたギャングたちは、ちょうど良い衣装があると言うので、バレエの衣装に、頭をすっぽり覆う黒い三角頭巾を被り、全員舞台に出てゆく。
踊り終わり、一旦、袖に下がりかけた道子だったが、そこから三角頭巾を被った見知らぬ男たちが迫って来たので、それに押し戻される形で、又、舞台の中央に戻る。
そこに、金十郎扮する狸と、古沢扮する狸が現れ、道子を助け出す芝居をする。
しかし、脇で、音楽レコードをかけていた雨右衛門が居眠り、音楽が途中で切れてしまう。
奈落に逃げ込んだ道子だったが、ギャングたちはしつこく追って来る。
何とか階段を駆け上がり、健之助に泣きつく道子だったが、健之助は舞台に逃げるよう勧める。舞台の上だったら、何とかなると言うのだ。
金十郎と健之助扮する狸が、絶えず、道子と絡む芝居を即興で始めたので、一緒に舞台に出て来たギャングたちはなかなか道子に手が出せない。
一方奈落では、わざと職人たちが回り舞台を回し始める。
舞台上では、道子も、健之助も金十郎も、三角頭巾のギャングたちも、ぐるぐる舞台が回り始めたので、とうとう目を回して全員倒れ込んでしまう。
これには、客たちも大喜び。
劇場主が、目を回したギャングたちを警察に付きだそうかと劇団員たちに相談すると、キング・コング(大友純)と呼ばれたギャングが、自分たちは昔戦友仲間だったのだが、内地に帰って来ても仕事がなく、仕方なくこんな事をしているのだと事情を話す。
支配人からもらったギャラを受け取った健之助は、これを道子の身代金として持ってゆけと差し出すと、辰は、自分たちも劇団と共に連れて行ってくれと頭を下げる。
翌日、又、次の劇場目指して旅を続ける市川金十郎一座の荷車を押す、かつてのギャングたちの姿があった。
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「極楽大一座 アチャラカ誕生」(1956)の続編に当たる。
前作は、後半に名作舞台「最後の伝令」が再現されているので、その部分だけは何とか笑えたが、今回は、それに匹敵するだけの練り上げたドタバタ芝居が登場しないので、全体的には、今ひとつ弾まない内容になっている。
「傾城阿波の鳴門」はお涙もののパロディとは言っても、くすぐり程度のレベルだし、後半のバレエも、思いつきだけで終わっており、笑えるような仕掛けには乏しい。
大泉滉や大友純が演じている、内地に帰って来ても仕事にありつけず、仕方なくギャングをやっている若者たちの悲哀が、風刺要素として、若干ペーソスを醸し出しているが、演出が凡庸なので、特に胸に迫ると言うほどではない。
世間的には「ゴジラの逆襲」(1955)で知られる小田基義監督だが、今まで、これと言った作品に巡り会わないのは、添え物専門みたいな監督だったからだろうか?