1955年、黒澤明作品。
▼▼▼▼▼最初にストーリーを書いていますので、ご注意ください!▼▼▼▼▼
歯科医の原田(志村喬)は、家庭裁判所の参与も引き受けており、今日も連絡を受け、裁判所に出かける。
そこでは、何やら、複雑な関係らしき、複数の男女達が言い争いをしている。
後で事情を聞くと、彼等の父親で、大きな鉄工所を営んでいる中島喜一(三船敏郎)が、原水爆の恐怖にかられ、一人勝手に、放射能から逃れるべく、あれこれ避難場所設置などに大金を注ぎ込んでいるため、止めさせてくれ…というものであった。
確かに、喜一は精神病というほどではないにせよ、その行動振りは異常というほかなく、相談の末、一応、彼を準禁治産者とする決定を下すのだった。
しかし、その後、原田の寝覚めは悪かった。
喜一の考え方に、どこか共鳴する部分を感じたからである。
一方、喜一は、そんな決定に臆する事なく、ますます勝手に、家族ならびに、自分の妾家族も含めて、全員でのブラジル移住を進めていく。
慌てふためく家族達…。
▼▼▼▼▼個人的なコメントはここから下です。▼▼▼▼▼
熱い夏の日、汗を拭き拭き、どこか早く結論を出そうとする他のメンバーに対し、一人異論を唱える原田の姿には、1957年の「十二人の怒れる男」のヘンリ−・フォンダを連想させられる。
喜一の考え方は、一見「被害妄想」「過剰反応」というしかない。
しかし、作者は、原田が感じる疑問という形で、そういう「核への慣れ、無関心振り」を示す一般大衆の方がおかしいのではないかと、痛烈な問いかけをしているのだ。
周囲の冷笑から次第に追い込まれていく喜一は、家族が自分に同調しないのは、現在の安寧な生活に執着しているからだと考え、とうとう、自らの工場に火を放つ…。
救いのないラストシーンは重く、考えさせられる。
ビキニ環礁での水爆実験や第2福竜丸の被爆事件など、「原水爆の恐怖」が極めて身近であった公開当時よりも、どこかそういう異常な状況を忘れ去り、「平和ボケ」しているかに見える現在の方が、より本作の持つ意味を考え直す時のように思える。
