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おれについてこい!

1965年、渡辺プロ+東宝、菊島隆三脚本、堀川弘通監督作品。

▼▼▼▼▼最初にストーリーを書いていますので、ご注意ください!コメントはページ下です。▼▼▼▼▼

1964年10月23日、東京オリンピック、女子バレーボールの日本対ソ連戦は、夕方の7時から行われる。

雨の朝、代々木のオリンピック村宿舎にマイクロバスでやって来たのは、女子バレーマネージャーの松木ユミ子(山本圭子)。

ガードマンの許可を得て、宿舎で寝ている女子バレー監督大松博文(ハナ肇)の部屋を訪ね、ベッドに横になっている大松に声をかけないまま、灰皿の始末や軽食の差し入れを置いて、そっと立ち去る。

宿舎からバスに戻る途中、集まっていた子供達が松木を選手と勘違いしてサインを求めて来る。

それを断わりながら、バスに乗り込んで来た松木に、世話係の戸井田(清村耕次)が大松の様子を聞く。

もちろん寝ていなかったと松木が答えると、戸井田は、監督はポーランド戦以来眠れないと言っていたと心配する。

(回想)昭和33年、大松は、前川バレー協会理事長(清水元)から、ニチボーのオリンピック出場を打診されていたが、当時、香港、韓国と並んで、まだ「9人制」を採用していた少数派の日本が、いきなり世界基準の「6人制」で勝負する事に、大松は乗り気ではなかった。

もともと基礎体力のない日本人女子に、すでに60年の歴史がある欧米の「6人制」で挑むのは無理だと確信していたからだ。

後日、熟慮した大松は、会社の事務所で理事長宛に、オリンピック出場への断りの手紙を書いていた。

事務員に、手紙の投函を頼む時、色々、借りができないよう、大松は5000円を同封するのも忘れなかった。

回想から醒めた戸井田は、もともとニチボーバレー部の選手だったユミ子が大松からマネージャーを頼まれた時の事を思い出させていた。

(回想)ある日、大松に呼出された松木ユミ子は、これから6人制になれば全員アタッカーでなければならず、身長が150Cmしかないお前は使えなくなると告げられた後、今後はマネージャーになってくれないかと思いもせぬ事を言い出され、ショックのあまり泣き出してしまう。

しかし、大松から、灯を輝かせるには燭台が必要であり、お前は燭台になるんやと説得された彼女は、泣くだけ泣いた後、割切ったように、その日の夜から炊事の手伝いをはじめ、黙って体育館で練習している仲間たちの元に夜食を運びはじめたので、他のメンバーたちは怪訝そうに彼女の姿を見つめるのだった。

それから、松木は、買い物、洗濯など、スタッフとして、選手たちをサポートする毎日が始まる。

回想から醒めた松木と大松は宿泊先である「旅館とみた」に到着する。

旅館では、待っていた大松の妻の美智代(草笛光子)に、6年振りに帰国していた長谷川女史(淡島千景)が話をしていた。

長谷川女史は金メダルを期待しているので、日の丸が見たいと美智代に言う。

松木は、そんな長谷川女史に、今日の試合のチケットを渡す。

美智代は、長谷川女史から聞かれるままに、大松と結婚した頃の事を話していた。

当時19才だった美智代は、半年くらい大松と付き合った後、結婚したと言う。

(回想)二人で列車に乗り、旅行している最中、いきなり大松が足利工場に寄ろうと言い出す。

大松はその当時、大阪から土曜の夜行で、足利工場のコーチに行っていたのである。

10年前、足利工場は貝塚工場に統合されたのだと美智代は説明する。

バレー部員たちは、正月以外は夜の10時くらいまで練習の毎日だった。

大松が帰宅するのは毎晩12時40分頃、深夜2時に寝て、朝8時半に出勤するのか日課だった。

それでも大松は、食事だけは必ず家で食べた。

一年に一度くらいは休んだが、一日中寝ているだけだった。

試合の前になると、2〜3日くらいは、大松も美智代も眠れない日々が続いた。

ある日美智代は、6人制への移行に悩み続けている夫に、そんなに深刻に考えなくても、6人制を導入しても、今の日本だったら二位くらいにはなれるのではないかと話し掛けると、二位では意味がないと大松は呟く。

ある日の屋外での練習中、大松は地面に作戦を描きはじめ、夜帰宅しても、布団の中で呻吟する毎日が続く。

大松が家にいる時、美智代は、娘の緑も小学校に入学するので、もうそろそろ生活を考えて欲しいと訴えるが、6人制の事しか頭にない大松は全く聞いてないようで、娘のおもちゃである起き上がりこぼしにつまずいたので、思わず癇癪を起こして、それを投げ付ける。

しかし、その瞬間、大松は何かのヒントを掴んだような気がした。

翌日、練習場に出向いた大松は、「馬」と言うニックネームの河西昌枝(白川由美)ら選手たちに、床を転がってみろといきなり言い出す。

言われた選手たちは、訳が分からないまま、床を転がり続ける。

やがて、選手たちの腰にマットをあてがい、レシーブしてすぐさま回転しながら起き上がる練習を始める。

「回転レシーブ」の誕生であった。

その練習風景を戸井田と共に見学に来た前川バレー協会理事長は、大松にその完成を祝福する。

大松はこれがものになるまで、半年かかったと説明する。

大松は、三大陸選手権でソ連を叩く事を誓うのだった。

前川バレー協会理事長は、会社としては、その試合には不参加にしたらしいと伝える。

戸井田は、400万と言う予算を出し切れないのだと説明する。

すると、前川バレー協会理事長は、自分が日紡の社長に会うと約束する。

大松は、母親が肝臓を患っているので、故郷の四国に行く事にする。

後日、羽田空港で三大陸選手権に向う大松と選手たちの壮行会が行われていた。

大原日紡社長(中村伸郎)が挨拶をすると、前川バレー協会理事長が400万を出してくれてありがとうと礼を述べる。

三大陸選手権が始まる前、大会宿舎から大松は日本にいる妻美智代に電話を入れる。

娘の緑(清島智子)も電話に出るが、四国の実家から届いた大松の母親死亡の電報の事は、決して伝えようとはしなかった。

1961年の三大陸選手権、大松は試合直前にイライトを一服吸って優勝する。

(現在)河西は、他のレギュラーたちと一緒に、渋谷近くの修学旅行会館にいた。

会館には、専属の医師白坂先生(志摩靖彦)が来て、相当ひどい状態になっている谷田絹子(桧よしえ)の足や、他の故障の多い選手たちの治療をしていた。

そんな河西の部屋に、貝塚時代、同じ部屋で友達だった旧姓関口(青木千里)が、マキと言う幼い娘を連れて訪ねて来る。

関口は、葛西と別れてもう8年、今では結婚して三村と言う名字に変り、この子の下に3人も子供がいると話す。

関口がバレー部に所属していたのは、まだ体育館ができる前だったと、当時を思い出す。

河西は、屋外のグラウンドで鍛えられていた。

そのあまりのしごき振りを見ていた女子工員たちは、ついに耐えかね、ある日、自治会代表の女性(宮田芳子)が、自治会、組み合いの要請として、大松に、即刻あのしごきを止めるように抗議する。

女子工員たちの間では、大松の事を「鬼」と呼んでいると言うのだ。

しかし、それを聞いた大松は、選手たちに聞いてみてくれと返事する。

即刻組員たちは河西に練習の事を聞くが、自分達が好きでやっているのだから、このままやらせてくれと言うだけだった。

昭和32年に、ようやく日紡の体育館が出来たが、その時残っていた選手は河西だけだった。

回想から醒めた河西は、関口に求められるまま、娘のためにサインをしてやり、母娘は雨の中帰って行く。

それを窓から見送りながら、河西は、自分も結婚を考えていた時期があった事を思い出す。

ある年、ちょっと改まった口調で河西は大松に、今度の正月、故郷に帰った時、見合いをすると報告する。

故郷に帰った時、会った相手は感じの良い青年(佐原健二)だった。

しかし、結局その見合いは断わって来たと、実家の妹昌代(本間文子)に河西は伝える。

今年の秋に控えている、モスクワの選手権に出るため、大松をとことんサポートするつもりだった。

その大松の方は、正月も会社に出て来ていた。

現在の修学旅行会館、食欲はなかったが、河西は無理に食事を取る事にする。

日紡の会社には、オリンピック中継を観るために、貸しテレビを電気屋(藤田まこと)が運んで来ていた。

大松は、部屋で一人、日記をつけていた。

10月23日、ありとあらゆる対ソ連用の練習はやって来た。今日、7時には、俺は必ず勝つ…と記す。

そんな所に松木がやって来て、磯辺の目が直ったと報告するが、谷田の足の方は何とも言い様がなかった。

大松と松木は、試合会場へ向うためバスに乗り込む。

バスには今は現役を引退した増尾光枝(根岸明美)も持っていた。

今回、テレビの解説を頼まれたと言う。

バスの中では皆緊張気味で、笑顔の一つもない。

大松は、二年前のソ連戦から帰国して来た時の事を思い返していた。

空港で出迎えた関係者を前に、大松は、基礎体力のない日本人に6人制を期待する方がおかしいと挨拶をする。

連戦に次ぐ連戦の選手たちは、皆、体力の限界に来ており、これ以上無理をさせる事は出来ない事は大松自身が分かっていたからだ。

大松は、自分専用に用意されていた車を断わり、選手たちと一緒のバスで、その日帰って来た。

旅館には、妻の美智代が待っていたが、それを見た大松は、自分一人になれる部屋を取ってくれと、世話係の戸井田に願い出る。

(現在)バスは修学旅行会館に到着し、選手と一緒に、これまで随分世話になった川口記者(滝田裕介)も一緒に乗り込んで来る。

試合会場に向うバスの中の空気があまりにも重いと感じた大松は、選手に歌えと指示する。

バスの窓から見える建物に「ウエストサイド物語」の映画ポスターが貼ってあるのを見つけた河西は、昔、日曜日に、息抜きとして「ウエストサイド物語」を大松と一緒に観に行った事を思い出す。

上映中、大松はずっと映画館の座席で眠っていた。

一人がその時、腹を壊して、白坂先生のところへ行ったなどと言う笑い話も出る。

川口記者は、そんなバスの中で、オリンピックに出てもらって良かったと、大松に話し掛けていた。

2年前、オリンピックへは出ないと行っていた大松を必死に口説いたのは、川口記者だったのだ。

その時、大松は、谷田、岩本、河西たちは、今がピークで、オリンピックで戦えるだけの力は残ってないし、自分も疲れたと訴えていた。

河西は19、宮本は25、オリンピックに出るために又2年間練習に打ち込めば、ますます結婚の条件が悪くなるだけだと説明した。

しかし、川口記者は、新聞への投書では、6割が辞めて良い。残り4割が、今辞めるのは非国民だと責めるものだと教える。

しかし大松は、自分はこのままでは会社の仕事も遅れっぱなし、家庭も放りっぱなし、わしかて人間や、人間らしい生活がしたいんやと力説する。

しかし、その三日後、大原日紡社長に呼出された大松は、同席していた小畑東京五輪事務総長(島田正吾)から、一つでも多く金メダルを取りたいがため、柔道と女子バレーの二種目もを正式種目に加えるのは虫が良すぎると言われたが、そこを曲げてくれとJOCに働きかけたので何とかやって欲しいと頭を下げられる。

結局、理屈には勝てても、情に負ける形で押し切られた大松は、オリンピック出場するかしないかの最終決定を選手たちにゆだねる事になる。

昭和37年大晦日、河西昌枝は実家にいた。

母親(一の宮あつ子)は、昌枝のマニキュアを注意する一方、そろそろ結婚せんとな…と語りかけていた。

病床についていた父親も、生きているうちにお前の花嫁姿をみたいと言い出す。

河西はさすがに、そんな両親に対し、オリンピックに出たいなどと言い出せなかった。

(現在)大松は、家族で熱海旅行に言った時の事を思い出していた。

しかし、疲れ切っていた大松は、ホテルのロビーでも寝てばかり。

緑たちは、遊んでくれない父親の事で母親に文句を言っていた。

部屋でも寝ていた大松に、妻の美智代は、日紡貝塚が新聞にオリンピック出場と書いてあると話し掛ける。

しかし、大松は何とか返事をごまかそうとする。

美智代は、子供達がかわいそうと呟く。

それを聞いた大松もいたたまれなくなり、黙って毛布を頭からかぶるしかなかった。

正月の松の内、大松の家に年始の挨拶に来た河西は、オリンピックに出ます。ここまで来た以上、最後までやり抜きましょうと大松に告げる。

それを廊下で聞いた美智代は、思わず持っていた屠蘇を乗せたお盆を落としてしまう。

そして、美智代は思わず、緑が遊んでいた風船を取り上げると、悔しさのあまり割ってしまうのだった。

(現在)バスの中、大松は増尾に、腎臓の具合の事を聞く。

増尾は、後輩の磯部サタ(上田美由起)に頼むと託す。

その磯田は、谷田絹子との特訓の日々を思い出していた。

ある日、練習中に反抗的だった谷田に対し、大松はバケツの水を浴びせかけた。

部屋に戻り、大泣きした谷田だったが、その後又、練習に戻って来る。

冬の最中、正座させられ、背中に雪を押し込まれた事もあった。

イスに腰掛けていた大松が居眠りをしているのを発見した選手たちが、鼻をつまんで起こした事もある。

その頃の深夜1時10分、そうした猛特訓に耐えた選手たちは、歌を唄いながら着替え室に戻って行ったのであった。

(現在)バスは、ものすごい数の群集が待ち受ける試合会場の駒沢会場に到着する。

バスを降りると、半田百合子(正城睦子)の恋人が来ていて、彼女の姿を見つけると近づいて来て励ましてくれる。

試合会場で最後の練習が始まる。

白坂先生は、谷田の足の事を案じていた。

麻酔をすればかえって良くない。運動しながら直すようにするんだと助言するが、谷田は、いっその事、自分は出ない方が良いのではないかと弱気になっていた。

そんな谷田を、宮本恵美子(河西都子)と河西が励ます。

白坂先生は、谷田の悪い方の足に、きっちりテーピングを施して行った。

すると、谷田はジャンプする事ができると喜ぶ。

そんな選手たちに、大松は記念写真を撮ろうと誘い、戸井田が構えたカメラの前に、選手たちと一緒に白坂先生も入ったのを見た川口記者は、自分が撮ってやるとカメラを受取り、シャッターを切る。

そこに前川バレー協会理事長がやって来て、宮本のスパイクに威力がないようだがと不安を覗かせる。

しかし大松は、勝負はチームワークだと思う、今交代させると自身を失ってダメになりますと自説を展開する。

練習を終えた選手と大松らは、ソ連選手の控え室の前を通過し、自分達の控え室に到着する。

5時45分。

部屋の外にいた戸井田が、大松に、試合が少し遅れていると教える。

関係者の家族たちも、続々と会場入りしていた。

河西の母親は、これが最後だから、自分が呼ばれたのだと感じていた。

大松美智代は、自分が風船を割ったあの時には、正直、夫の気持ちが分からなかったが、今は感謝していた。

緊張の内に時間が過ぎ、日本選手控え室に「時間です」と係員が通達に来る。

大松は選手たちに最後の言葉を話しはじめる。

全ては今日のために生きて来た。

みんな良くわしについて来てくれた。

お前たちのように激しい練習をして来た者はいない。

勝とうとするな。

練習の時の最高のプレーをしてくれ…と。

キャプテンの河西もメンバーたちに最後の言葉をかける。

これが最後よ!頑張りましょう!

選手たちが試合会場に入場し、大きな観客の拍手が聞こえる中、独り、控え室に残っていた大松は、ゲンかつぎのハイライトを一口吸うと、それを灰皿に置いて部屋を後にする。

実況アナウンサーの声「ソ連にオーバーネット!」

 

▼▼▼▼▼個人的なコメントはここから下です。▼▼▼▼▼

当時「東洋の魔女」と呼ばれ、連戦連勝を重ねて来た日紡貝塚のメンバーと、その監督で「鬼の大松」と異名を取った大松博文氏が、東京オリンピックに出場し、優勝するまでを描いた作品。

大松氏を演じているハナ肇は、確かに風貌がどことなく大松氏に似た所があり、この作品では全編、シリアスな演技で通している。

練習で見せるボール打ちなどもハナ本人がやっているようで、なかなか熱演だと思う。

映画では、オリンピックの決勝戦当日の朝から試合が始まるまでの間に、大松氏や選手たちが、オリンピック出場を決めるまでの苦悩を、各人が所々で回想する形で描かれている。

選手を演じているのは女優たちなので、練習風景は描かれるが、実際の試合そのものは一度も登場しない。

白川由美が演じるキャプテン河西が「馬」と呼ばれているのは、現実の河西さん御本人が面長であったため、実際のあだ名だったのだが、その辺の事情を知らない人には奇妙に聞こえるだろう。

劇中、場違いな感じで藤田まことがちらりゲスト出演しているのも、彼も又、当時同じような面長だったため、「馬」と呼ばれていた事からの「洒落」かも知れない。

スポーツものと言うよりは、当時日本中の話題となった有名人の知られざる姿をドキュメンタリータッチで描いた「裏話」と言う感じで、結果が分かっている内容だけにカタルシスなどはないが、地味ながらシリアスな語り口に、ついつい見入ってしまうような展開になっている。

今思うと、57才と言う早すぎる死を迎えられる事になる大松氏の、無理に無理を重ねた過酷な半生と、その御家族の当時の御苦労が良く分かり、当時の栄光を知る者には、万感胸に迫る一本である。