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赤道越えて

1936年、太秦発声映画+横浜シネマ商会、円谷英二監督作品

▼▼▼▼▼最初にストーリーを書いていますので、ご注意ください!コメントはページ下です。▼▼▼▼▼

まず、海軍の練習艦「あさま」「やくも」の二隻が、横須賀を出航し、東南アジアから赤道を越え、オーストラリア、ニュージーランド、ハワイなどを巡り、5ケ月、全行程23000マイルに及ぶ航海を記録したこの映画によって、観客が体験追想できれば幸いと述べる中村海軍少将閣下の挨拶。

横須賀を出航する前、船上では、海軍大臣、宮様などの来賓を仰ぎ、激励送別会が催される。

一般見送りも来艦を許され、家族とのしばしの別れを惜しむ光景があちこちで見受けられる。

やがて、螢の光が吹奏され、「あさま」「やくも」の両艦は横須賀港を離れる。

土佐沖、波高し。

戦闘教練を決行する。

その後、二隻は、台湾キールンに到着。

現地の高砂族と共に台北市内を行進、台湾神社へ参拝。(当時の台湾は、日本統治下)

マカオを経由して香港へ向うが、南シナ海は、さすがに波が高い。

香港では、香港総督来艦。

船員たちは、その後、ビクトリアパークへ。

人口8000余名の英国領のこの町は、雰囲気がロンドンに似ている。

出港時、英国海軍の飛行機が一機、見送りの飛行をしてくれる。

フィリピン島マニラでは、巡洋艦などに迎えられる。

キャビテ軍港は、全ての米軍艦が入れるくらいの規模である。

この町には、日本の同胞多し。

町はアメリカ風で、人口33万人、一行は日本人学校に来訪し、少国民の歓迎を受ける。

次いで、シャムへ。

空軍の歓迎飛行、70余機が、日章旗と万国旗を小落下傘で落としてくれる。

一行はさらに、小舟でバンコックへと遡る。

日本公使館でのレセプションが開催される。

この国の王宮は黄金色に輝き、さながら御伽の国の宮殿のようである。

近衛兵の巡邏を見かける。

この国は、最古の仏教国でもあり、子供の頃から、皆、僧を経験するそうである。

水上生活者たちの暮し振りも紹介される。

女性は皆断髪で、昔から男装の風習があると言う。

地元の小学校を訪れた後、公使館で、園遊会が催される。

そこでは、時ならぬ、東京音頭の披露に驚く。

さらに、国立劇場で、現地の伝統舞踊を観覧。

この国は、昔、山田長政が内乱を平定した歴史もあり、わが国が国際連盟を脱退した時、唯一、同調してくれた友好国でもある。

その後、練習艦はシンガポールに向う。

シンガポールでは、米国司令官や同胞の熱烈なる歓迎を受ける。

この国も、大軍港を持っている。

さながら人種の展覧会と言った様相を呈するほど、多くの民族が集まっている国である。

町の交差点では、あたかも探検隊のような格好をした巡査が交通整理をしている。

人口の内、40万人は中国人であり、その中国人経営の遊園地に向う。

現地の日本人学校には、二宮尊徳の像が建っている。

久邇宮殿下が、小学生たちに挨拶を為さった。

この国では、ゴム園が盛んで、三井ゴム園を宮様方が見学為さる。

現地では、やしの実からやし油を取り、それは石鹸の材料になる。

船には、日本からの手紙が届いていた。

それを嬉しそうに読む船員ら。

その中には、若き朝香宮様のお姿もあった。

シンガポール出航後、練習艦は赤道を通過する事になり、艦上で恒例の「赤道祭」が執り行なわれる事になる。

赤鬼、青鬼、翁の扮装した三人に伴われた艦長が「赤道の鍵(に模した作り物)」を受取ります。

艦上では、無礼講のような状況になり、腹踊りをするものや、南の島の原住民に扮し踊るものもある。

やがて、練習艦は、人口6000万の蘭領バタビアに到着。

さらにジャワに入港する。

ここでは、自転車に乗る人の姿を多く見受け、その自転車の大半は日本から輸入されたものである。

露店商の多くは中国人がやっており、彼らはやがて富裕な華僑と呼ばれるようになる。

この国にも、日本の商品は増えつつあるが、オランダの制限の圧迫があり、6000万いるとされる原住民達の脅威になっている、

例えば、夫人たちの着る服の綿布は、高いヨーロッパ製品を買わされている。

一行は、列車で一時間程の所にあるダイケンゾルグ植物園に向う。

オニバスの池の向こうには、オランダ総督の屋敷が見える。

この国では、子供がタバコを吸うらしい。

思想も複雑で、昔の謀反人の晒し首を石膏で固めたものが、見せしめの為に飾ってあったりする。

同胞が乗る小舟に見送られ、練習艦はこの国を出発する。

オーストラリアへ向う途中、艦上では、運動不足解消の為、運動会が行われる。

やがて、船員たちは全員、冬服に衣替えする。

この頃、数頭のイルカが、船と競争するように泳いでいる姿が観られた。

フリーマントルに接近したのは4月12日。

さすがに、有色人種、特にアジア人の移民を排斥する白豪主義を取っているオーストラリアには、貿易商と真珠関係者以外には同胞の姿は少なかった。

それでも、パースの町では、全市民が船上に招かれ、日本人は珍しいのか、盛んに船員たちのサインを求めてくる。

当地では、夜の競馬を観覧する。

アデレイドからメルボルンへ。

4月29日は、昭和天皇の誕生日に当る天長節と言う事で、久邇宮殿下が杯をあげられる。

日本の二隻の練習艦がオーストラリアに来た事は、現地の新聞にも載る。

当地には、移設されたキャプテンクックの生家があり、そこが博物館になっている。

そこには、キャプテンクックが本国に持ち帰った岩石などが展示してあった。

その後、メルボルンに移動。

当地では、絹、綿織物、缶詰めなどの日本製品が見受けられた。

雨の日曜日、欧州敗戦記念館を訪れる。

この地では、他に娯楽がないせいか、毎日、競馬ばかりが開催されている。

この国は、広大な土地に、670万と言う、東京と横浜の人口を足したくらいの人数しか住んでおらず、手付かずの土地がふんだんにある。

牧畜業、中でも羊では世界一であり、わが国は、この国から大量の羊毛を輸入している反面、輸出品は限られており、著しい偏貿易状態にある。

三井倉庫に積まれたおびただしい羊毛の数。

その後、シドニーに上陸。

この地では、フカがいるせいか、あまり海水浴と言うものは行われておらず、市民達は、鉄柵が張り巡らせてある海辺で釣りを楽しんでいる。

5月5日、端午の節句と言う事で、鯉のぼりが上がる中、現地邦人達との親ぼくをかけた歓迎運動会が催される。

ムカデ競争やパン喰い競争、スプーン乗せ競争、綱引きなど。

練習艦は、次にニュージーランドを目指す。

艦上では、若き宮様もピンポンをしておられる。

ニュージーランドも白豪主義を取っている為、基本的に白人以外にはいない。

オークランドから、列車で270Kmの所にあるボトルアと言う所には温泉地があり、現地のマオリ族が待ち受けていた。

族長が代表して、自分達の先祖は丸木舟に乗って南に下り、当地へやって来た。貴女達の先祖は、北に向った者たちの末裔だろうから同胞だと、歓迎の挨拶をしてくれる。

この地の温泉は煮炊きなどに使われているが、一部、原住民が浸かる他に入浴する習慣はない模様。

11月中旬頃の温度で、朝夕には霜がおりる。

マオリ族の女性達が、オイダンスを披露してくれた。

フィージーのスバで燃料の石炭を積み込むが、若き宮様も一緒に手伝う。

スバの近くのバウと言う島では、昔、人喰い人種だったと言われる部族から食事に招かれる。

艦上では、暑いので、1本1銭5厘のラムネが飛ぶように売れて行く。

その後、アピアを経由してハワイへ向う途中で、もう一度赤道を通過するので、「赤道の鍵(作り物)」を海へ投げ込む儀式を執り行なう。

ダイヤモンドヘッドが見えて来て、多くの同胞が乗った小舟に迎えられる。

島民の約半数15万人が日本人だったホノルルに上陸、現地は、日本語の看板だらけで、さながら日本に帰った気分。

この地には、日本風の神社や、モダン化した本願寺、逆に、日本の城郭を模したキリスト教会まである。

現地の邦人達が、多数、艦上を訪れて来る。

やがて、三宮様もお迎えして、公使館で在留邦人主催の歓迎パーティが催される。

余興として、邦人達によるフラフラダンスや相撲大会まで行われる有り様。

港に押し寄せた多数の邦人の見送りを受け、練習艦はハワイを後にする。

その後、日本統治下のアルート島、トラック島を経由して、サイパンに向う。

サイパンでは、現地邦人達と野球をする一時もあった。

トラック島では、市内を行進する。

その後、練習艦は一路、日本へ向う。

最後に、特撮とアニメを併用し、日本が鎖国をしていた間に、東南アジア諸国は、全て欧州の植民地になってしまっており、わが日本が入り込む隙はなくなっていたと言う反省の弁が述べられた後、アジア民族の「共存共栄」のため、日本の(貿易的)南進の必要性を説く教育的訓示で締められている。

 

▼▼▼▼▼個人的なコメントはここから下です。▼▼▼▼▼

1901年生まれの円谷英二が35才で、スクリーンプロセスを完成させ「新しき土」に使用した頃で、初監督作品。

海軍省の依頼によって作られた、完璧な国策(プロパガンダ)記録映画でもある。

…と言う事は、監督であり、撮影も担当した円谷英二も、全行程に随行していた訳である。

戦前の諸外国の様子が、断片的ながらも分かるし、白豪主義を取っていたオーストラリア、ニュージーランド以外の国には、当時から、かなりの数の日本人が在留していたと言う事実を知る事ができる。

この時代、帰港する各国でそれなりの歓迎を受けていると言う事は、まだ日本は国際的に孤立していた訳ではなかったと見える。

映画撮影が出来、アニメや特撮にも通じていた円谷の才能は、当時の軍部の宣伝活動にとっては貴重だったのだろう。

この作品は、正に、そうした円谷英二の才能を如何なく発揮した作品と言う事もできるだろう。

昭和22年(1947)宮号廃止された旧宮家の方々も同行しておられるので、その御姿が随所に写っているのも貴重だと思う。