1965年、東映京都、山岡荘八原作、伊藤大輔脚本+監督作品。
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病床の父、水野忠政(加藤嘉)に、和睦の証と称して、妹、於大 (有馬稲子)を、岡崎の城主松平広忠(田村高廣)の嫁に差し出すと言うのは、松平が組みする今川義元(西村晃)の力に屈する事ではないか、第一、妹を不憫に思わないのかと長男信元(原田甲子郎)猛抗議していた。
そんな忠政は、松平に降伏するしかないのだと、かねてより於大に言い含めていたが、於大は、自分は立派な子供を生んでみせると覚悟の気持ちを父親に伝えていた。
かくして、松平広忠の元へ政略結婚の形で嫁がされた於大は、天文11年12月26日の寅の日、寅の刻に竹千代を生む。
広忠は、素直にこの子供の誕生に喜び、生まれの刻限から迷企羅(めきら)神将の生まれ変わりと考え、その像を授けるのだった。
ところが、天文13年、於大の兄、水野信元が織田方に寝返ったとの知らせが、今川義元に伝えられる。
義元は、その裏切者の妹、於大を妻とする松平広忠に、どちらへも転がると言う皮肉をこめて蹴鞠を贈る。
これを受取った松平広忠は恥辱の余り激怒するが、すでにその身体は病魔に蝕まれていた。
暗に、裏切者の妹、於大を殺せと言わんばかりの義元からの使いに対し、迷う広忠に対し、兄の裏切りを知った於大も、覚悟は決めていると伝えるのだった。
そうした中、植村新六郎(原田清人)が来て、水野下野守信元の使いで城代の杉山元六(中村時之助)がやって来たと報告する。
元六は、今川を見限り、刈谷との縁を作ってくれないかと、於大の方に伝えてくれまいかと申し出る。
しかし、この申し出に怒った広忠は、於大の事は分かった、作法通りにするとだけ答え、その場を立ち去るが、大量の吐血をして倒れてしまう。
病床の広忠は、熱心に看病する於大に、決して死ぬなと命じる。
かくて、於大は、竹千代を残して単身刈谷に戻される事になるが、城まで輿に揺られて帰って来た彼女だったが、迎えた杉山元六は、城に一歩も入らせず、そのまま名古屋の織田信秀(三島雅夫)に対面するよう申し付ける。
信秀に会った於大は、その場で、阿久居の城主、久松佐渡守俊勝(穂高稔)の妻になるよう命ぜられる。
天文16年、秋、駿府城外、安倍川の河原で織田に対する詮議の結果だった、13人の人質の処刑が行われる。
雪斉禅師(千田是也)は、今川義元に、岡崎から人質を取っていないと指摘する。
松平家家臣、大久保新十郎(天津敏)は、雪斉禅師が竹千代を引取って学問を教えていると言って来たと、仲間たちに伝えると、それが、人質になる事を意味していると分かった家臣たちは、悔しさのため一斉に泣き崩れる。
城主、松平広忠が病床に伏しているばかりに、何の抵抗も出来ない無力さに、長老、鳥居忠吉(内田朝雄)も涙する。
結局、竹千代(青木勇嗣)は、駿府へ人質として取られる事になるが、そのお供として、天野又五郎(西野雄司)以下7人の子供達が選出される。
彼らは皆、竹千代と同年輩の子供らだったが、岡崎武士として恥ずかしくないようにと、出発前に皆、金田与三左衛門(尾形伸之介)が、本格的な切腹の作法を教え込まれる。
病床の父、広忠の前に来た竹千代は、鳥居の爺から教わったと、何事も我慢する事と、お供の子供をいたわる事を、駿府に行った時の心得として聞かせるのだった。
しかし、7人のお供を連れた竹千代の一行は、途中、岡崎老津の浜で、随行した田原領主戸田弾正から、お供頭と引き綱を斬られ、列を分断されてしまう。
戸田弾正は、伊豆下野守が竹千代を買うと読み、今川方を寝がえって、先行していた竹千代の駕篭を、今川の敵に当る織田信秀の領に入れてしまう。
浜に置き去りにされた又五郎以下子供たちは、その場で、全員、腹を斬って果てる。
後に、於大は、夫佐渡守から、名古屋に行った竹千代は首を斬られるかも知れないと聞かされる。
子供を思う妻を不憫に思った佐渡守だったが、会わす手立てがない。
しばし考えた佐渡守は、於大に熱田太神宮に参詣に行くように勧める。
その言葉に従い、熱田神社に出向いた於大は、金をせびる浮浪児らしき子供達と、それを束ねている兄貴分らしき青年と会う。
吉法師(中村錦之助)と名乗るその青年は、駕篭に乗って来たその女性が於大と知ると、それとなく彼女を境内に案内し、隠れているように言いおくと、自分は、そこで匿われていた竹千代の元に行き、その姿を遠目で見せてやる。
母親がすぐ近くに来ているとは夢にも知らない竹千代は、吉法師が、かねてより兄弟の証として約束していた馬をくれないと、ちょっとすねながら、折り紙の鶴を折っていた。
それを観ていた吉法師は、山の上から、岡崎の方へ吹いてやるから、その金色の折り鶴を自分にくれないかと竹千代に申し出る。
そして、竹千代から受取った金色の折り鶴を、そっと隠れて観ていた於大に渡すのだった。
天文18年、秋、竹千代の父親、松平広忠死去。
城主を失った家臣たちは、竹千代を織田の手から奪い取ろうかと、喧々囂々の議論が巻き起こっていた。
そんな中、長老、鳥居は、自分に作戦があるが、それをやると5人に一人は死ぬ事になるぞと忠告するが、家臣たちは決行する事に賛成する。
松平広忠の墓参を装い、菩提所に向った家臣たちは、織田信秀の子、信広(近衛雄二郎)を急襲し、生け捕りにすると、竹千代と交換する作戦だった。
作戦は成功し、竹千代は岡崎城へ戻される。
その竹千代を運ぶ駕篭に走りよって来た岡崎藩家臣長坂血槍九郎(山本麟一)は、駕篭に随行して来た植村新六郎(原田清人)に、雪斎禅師が乗り込んで来ると知らせる。
家臣らの妻や領地までなくなる事になると言うのだ。
進駐部隊に松平の収入は全て取られ、自分達に残されるのは、阿多らに開墾される土地からの収入だけだとも。
お城奉行として、鳥居だけが残され、今川の手先となって織田を攻めるしかないと言う、屈辱的な立場に転じた岡崎藩。
かくして、一旦取り戻したかに見えた竹千代は、駿府に送られる事になる。
天文18年11月、臨済寺に住んでいた竹千代は、6人の子供のリーダーとして、彼らの勉強を教えていた。
ある日、安部川の処刑場に供養にやって来た竹千代は、足を痛め、先を行く母親に付いていけないとぐずっている子供を見つける。
母親に近づいてどこに行くのかと問いかけると、竹千代に会いに行くのだと言う。
子供は、本田平八郎忠孝の孫だと言う。
それを聞いた竹千代は、自分の名を名乗らずに、その子供をおぶってやる。
その夜、竹千代の元に挨拶に来た子供と母親は、その顔を見て、昼間背負ってくれた子が、竹千代本人だったと知り驚く。
母親は、三河木綿で織ったと言う反物を持参して来たのだ。
竹千代は、それを奪うようにもらうと、廊下に走り出て、しっかり抱き締めるのだった。
天文20年、父信秀が他界した吉法師改め、織田上総介信長は、家督を相続すると、名古屋から奪取した清洲に移り、城下に市場を開かせていた。
その市場に出かけた信長は、針売りに化けた猿こと、木下藤吉郎(山本圭)から、竹千代がそろそろ元服を迎える14才になったと報告を受けていた。
熱田神社で会って、7年が経過した事になる。
その藤吉郎を通じて、於大が信長からもらった手紙には、岡崎復帰に必死であると書かれてあった。
しかし、その信長の真意が分からない於大。
一方、岡崎城では、長坂血槍九郎が、竹千代の元服は、岡崎城でやらせるのが筋ではないかと言い出し、仲間ゲンカが始まっていた。
それを見た三代目本多平八郎の母は、自分達女は、男以上に我慢を重ねていると言うのに、何と言う情けない事をやっているのかと、男の家臣たちを叱りつける。
竹千代は、今川義元の姪、背名姫(鶴姫)との婚礼を前提として、今川義元が烏帽子親となり、松平次郎三郎元信(北大路欣也)と名乗り、駿府で元服を迎えていた。
その知らせを於大に伝えた藤吉郎は、何か贈るものは?と尋ねる。
すると於大は、息子がいつか敵である織田方を攻める時、一言聞きたい事があるとだけ言い渡す。
その頃、病床にあった雪斎禅師は、元信を招き寄せ、お前は駿府の者か、岡崎の者かと問いただす。
答えぬ信允に対し、背名姫と結ばれて今川の身内となり、今川とは切れぬ仲となった今、岡崎に帰ってどうすると諭す。
永禄3年、今川義元は、上洛決行の旨を宣し、四万の兵を率いて都に登る。
元信は、その上洛軍に併合されるが、いわば、お飾りのような扱いだと、藤吉郎から報告を受けた信長は、その元信には一男一女、自分には4男1女の子供がおり、子供の数では勝ったなどと冗談を言った後、能登のブの動きを監視するよう命じる。
信長は、梅雨明けまで後10日だが、その時、義元は動くだろうと読んでいた。
永禄3年5月12日、新暦の6月4日、義元は出陣を命ずる。
その義元の後を付いて行く元信。
清洲城では、籠城するか否かで議論が起こっていたが、信長は、清洲に一兵も必要ない、全員出て戦うと、家臣たちに命ずる。
所詮、3000人程度しかいない味方で籠城しても、勝ち目がない事は分り切っていたからだ。
刻々と今川軍が接近して来る中、信長は、勝てる作戦を模索し続けていた。
今川軍がいよいよ松平の土地に入る日がやって来る。
松平元信は、生まれ故郷である岡崎城に向うが、その動きを、藤吉郎は監視していた。
その行く先は、実父が眠る菩提所だと勘付く。
菩提所には、家臣やその家族たちが集結していた。
やって来た元信は、自分はお前たちを殺す為に来たと告げる。
そして、皆に聞く、お前たちは、岡崎の者か今川の者かと。
自分は、14年前、織田方に奪われた際、自決して逝った子供達の事を決して忘れない、わしは岡崎の子ぞ!と言い切る忠信。
そこへ、戸板に乗せられ、老いさらばえた鳥居忠吉が連れて来られる。
その目の前で、鎧兜を身に付けた忠信は、毒もろとも食ろうてしまえ!と叫ぶと、岡崎勢と共に、大高城に立て籠る事になる。
その知らせを受けた信長は、勝てるぞ!と確信する。
於大は、子供に、鷲津砦攻撃を開始した大高城の元信に届けるよう箱を渡す。
元信の動きを藤吉郎から受けた信長は、元信が本当に信頼できるのは。岡崎の一握りの人間だけだと弾じ、勝った!と叫ぶ。
元信は大高城に籠る。
自分達は鳴海を下る今川義元の本陣目掛けて突っ込むと言う作戦を明かした。
鷲津砦は炎上、藤吉郎は、渡る川の様子を見て来ると城を出る。
その頃、小栗のお方様より贈り物といわれ、箱を受取った元信が、蓋を開けてみると、中に、子供の頃、自分が折った、金色の鶴の折り紙が入っていた。
それを、織田を助けてくれとの伝言と受取った元信は、箱もろとも折り紙を真っ二つに斬り降ろすが、そこから手紙が忍ばせてあった事に気づく。
そこには、おそらく、息子であるお前は、このような哀れみを乞う贈り物等、一刀両断にするに違いないと見抜いた、母親の言葉があった。
それを読んだ元信は、泣き出すのだった。
黒据川、5月19日、夜。
渡汐まで後一時との知らせを、藤吉郎から受けた信長は、家臣たちの前で、人生50年〜…♪と、舞いはじめ、それが終わると、酒を盃で飲み干し、その盃を割ると、貝を吹け!と命ずるのだった。
出かける信長に対し、合掌する奥方。
雨の中、今川義元軍は桶狭間で休憩をする。
その様子を、崖の上から見ている信長。
雷が落ち、木が倒れた時、信長は、行くぞ!続け!と家臣たちに叫び、突進して行く。
急襲された義元は、雨の中、刺し殺され、その首をはねられる。
雨がやみ、空には虹がかかる。
知らせを聞いた元信は、総大将の御印(首)を奪われたとあっては、岡崎武士の名が立つか?織田を追うのだと命じ、自らも「上総介見参!」と鼓舞する。
御印を捧げた信長一行と出会った元信は、こちらには4万余人の軍がおり、その首を返せと迫る。
信長は、首を渡したら、何を返すと聞くが、元信は、何時か何かをと答えるのみ。
すると、信長は、何時か二人でした約束を今果たすと言い出す。
何の事か分からない元信に対し、信長は馬を渡し、首と一緒に持って行けと言う。
幼い頃、熱田神社でかわした約束だった。
菩提所に戻って来た元信は、家来たちの前で、二度と自分は、子供である一の姫と竹千代が待つ駿府には帰らぬと言う。
人質が大切なら駿府に帰るが、お前たち家来に見捨てられたら死ぬしかないからだと言う。
おぬしらの妻子共々、この岡崎を守る、頼みはおぬしらだけだと言い切った元信に、家臣たちは、頼られましょう!先の先の先の事は、御先祖様が御笑覧あらせられるばかりと答える。
その先祖の墓には、雪が吹雪きはじめる…。
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生まれて、人質に取られる幼少期から、元服をした後、今川義元が桶狭間の戦いで破れるまでを描いたの家康の半生を描いたもので、「徳川家康」とタイトルにあるが、実際には、家康と名乗る前の話である。
映画としての主役は、むしろ、母親、於大を演ずる有馬稲子であり、幼少期からの盟友、織田信長を演ずる中村錦之助であり、元信役の北大路欣也は、後半ちょっと出て来て、ちょっと気負ったセリフをいくつか言うだけで、子供としての家康も、年令によって、何人かに入れ替わっているので、特に子役に感情移入すると言う事もない。
はっきり言えば、家康の幼少期を取り巻いた人々の物語と言った方が、この作品のイメージに近いと思う。
家康の実父、松平広忠を演ずる田村高廣や、今川義元役の西村晃、木下藤吉郎役の山本圭、松平家の家臣を演ずる天津敏や山本麟一など、いわば脇役陣の方が印象に残る。
ストーリー自体は、やはり、歴史の素養がなくては理解できない場面が多く、映画だけでは、家康の半生が、何となく苦労の連続だったんだな〜とくらいしか分らない。
そんな中、やはり一番印象に残ったのは、駿府に送られる事になった竹千代に随行して行く途中、幼くして切腹せねばならなかった少年たちの悲劇のエピソード。
これは、後半、岡崎に戻って来た元信自信も忘れられなかった重要なエピソードである事が分かる。
子供の死は、観ていてつらい。
このエピソードを知っただけでも、この作品を観る価値はあったと思う。
