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対馬丸ーさようなら沖縄ー

1982年、対馬丸製作委員会、大城立裕原作、大久保昌一良+千野皓司脚本、小林治監督作品。

▼▼▼▼▼最初にストーリーを書いていますので、ご注意ください!コメントはページ下です。▼▼▼▼▼

昭和19年、7月5日。

清(声-田中真弓)、健治(声-丸山裕子)、勇(声-安達忍)は、いつも、海に潜って遊んでいる那覇国民学校の仲良し三人組。

そんな彼らも、街を行進する兵隊たちの姿には興味津々。

他の二人と一緒にレンガ塀によじ登って覗いていた清は、運動神経が鈍い事もあり、降りる時地面に落ちて顔を強打し、ほっぺたが腫れ上がる始末。

今、彼らが通う学校は、海岸近くの砂糖倉庫の中であった。

そこで、教育熱心な担任の宮里先生(安原義人)は、本土に疎開する話を生徒たちにしていた。

鹿児島に校舎が準備されているので、環境もずっと良くなるし、今後、少年航空兵や、陸軍幼年学校に進む事もできるようになると説明していた。

清たち男の子たちは、軍艦に乗れるのだったら行っても良いなと感じていた。

問題は、父母たちの説得だった。

健治の親に説得に来た宮里先生は、貧しい家なので持たせる金の余裕がないと心配する母親を何とか説得していた。

健治の兄が大分の軍需工場で働いていると聞いて、それなら、鹿児島に行けば会いやすくなるなと言い添えたりもしていた。

清の母親は乗り気ではなかった。

身体が弱い息子を、一人で疎開させる事に対する不安だった。

父親(声-熊倉一雄)は、最近、近海で、アメリカ軍の潜水艦に何隻もの船が沈められている事を心配していた。

宮里先生は、一晩考えさせてくれと言う父親に頷いて家を後にするが、その父親も、その直後には、修学旅行のつもりで行ってみるかと、落胆していた清に語りかけていた。

その返事に喜んだ清が表に飛び出すと、健治、勇らも親の許しが出たと集まって来て、みんな一緒に本土に行ける事を楽しみにし始めるのだった。

特に、身体が弱い清は、みんなに負けまいと、体育の授業等でもより張り切ろうとするが、跳び箱では、やっぱりずっこけてしまうのだった。

その頃、市長室では、市長(声-納谷悟朗)が、各学校長相手に、疎開参加希望者が少なすぎるのは、勧誘が熱心ではないからだと檄を飛ばしていた。

しかし、その日も勧誘に駆けずり廻り、遅れて来た屋良校長(声-池水通洋)は、父母たちは、潜水艦が危ないと尻込みしているのだと説明する。

何とか、輸送には軍艦を使ってもらえないかと掛け合う屋良校長。

三田倉弘子先生(声-酒井ゆきえ)も、生徒だけではなく、老人たちへも疎開の勧誘をして廻っていたが、土地を離れたくないと言う老婆の抵抗には手こずっていた。

しかし、やがて戦場になる沖縄に子供や老人がいては、かえって戦闘の妨げになると弘子は説明をしていた。

その時、側の道路には、戦車が列をなして通過し、それを観ていた老婆も考えを改めるのだった。

やがて、屋良校長は、宮里先生を呼出し、輸送に使われるのは貨物船対馬丸に決定したと伝える。

軍艦に乗るのを楽しみにしていた子供達の事を考えると、その決定には複雑な思いだった宮里先生だったが、疎開の総指揮者になってくれと校長から言われたのには感激する。

落ち着いた環境で教育をしたいとの理念を持っていた宮里先生は、本土への疎開を歓迎していた。

いよいよ出発前夜、清の母親は、清に持たせるリュックの中に、黒砂糖を入れてやり、夜なべして綿入れを縫ってやるのだった。

かくして、出発の8月21日を迎える。

小学生の陽子(声-小林優子)らは、婆さんを連れて、那覇の港に向う。

集合場所である埋め立て地にやって来た健治は、港に停泊しているのは輸送船ばかりで、軍艦等来ていない事を知ると、がっかりして、宮里先生に嘘つきと言ってしまう。

しかし、何とか、子供達の気持ちをなだめようと、あれはイギリスからぶんどった船だから絶対安全だと太鼓判を押す。

その時、そんな健治たちに飴を渡した小さな女の子が宮里先生5才になる娘きょう子で、一緒にいたきれいな女性が、先生の奥さんだと知る。

集合した子供と父母の前で挨拶をはじめた市長は、来年には帰って来れるからと説明していた。

そんな中、出航までには、まだ随分時間がかかりそうだったので、おにぎりでも作って来ようかと、清の母はその場を離れる。

ところが、その直後から乗船が始まり、清は、母親と最後の別れをしないまま乗るのを渋るが、健治と勇に引っ張られるように乗り込む事になる。

対馬丸に乗船した清たちは、早速冒険心を燃やし、甲板に積まれた荷物の上に登って、後から乗船して来る人々の様子等眺めていたが、中には、ボートから海に落ちる人間もいた。

やがて、雨模様の中、船は出発するが、その後、港に戻って来た清の母は、すでに対馬丸が遠ざかっているのを観て愕然とするのだった。

海に出た船の中、幼い子供達の中には、すでに泣きはじめる子や、船酔いに苦しむ子供も出始める。

そんな中、輸送指揮官に集められた各学校の指揮者担当の先生たちは、敵に気づかれぬよう、子供達には絶対に騒がせるなと命じていた。

宮里先生は自分の担当場所に戻り、広間は絶対甲板に出ない事、夜、電気をつけてはいけない事、騒がない事など、諸注意を与えはじめる。

どこか旅行気分だった子供達は、その注意にがっかりする。

それでも、清たち三人組は、相変わらず好奇心旺盛で、船の中を探検して廻るが、兵隊に見つかって大目玉を食らったりする。

子供達は、本土のうわさ話には名が裂いていた。

まだ観た事がない雪の話では、伝聞によって各々話が食い違い、言い争いが始まるくらい。

清は、母が持たせてくれた黒砂糖を舐めていたが、それを目ざとく見つけた健治に横取りされてしまう。

朝になって、顔を洗おうと蛇口を開いた女の子は、水が出ない事に気づき、食堂にもらいに行く。

炊事係のおじさん(声-槐柳二)が優しい人で、特別だよと言って、水を分けてくれた。

食後のお茶をもらいに来た清と健治は、食堂で寝ている猫を発見、おじさんに名前を聞くと、「大将」だと言う。

その頃、操舵室では、対馬丸は最大でも10ノットしか出ず、これから危険地域を通過するので、ジグザク運行を勧める兵隊がいたが、総指揮官は、それでは日数がかかり過ぎると反対、多少の危険覚悟で直進コースを選択するのだった。

その後、子供達全員に救命道具の装着を命ずる。

さらに、縄梯子を登る訓練が始まる。

清は、案の定途中で登れなくなり、手が滑って危うく墜落しかけるが、危機一髪、何とか、落ちる途中で縄を掴んで一命を取り止めるのだった。

一方、宮里先生は弘子先生に、看護婦の手が足りないので、臨時でやって欲しいと願い出ていた。

そんな中、海を眺めていた子供の一人が、潜望鏡らしきものを発見、慌てて、見張り担当の兵隊に連絡に行くが、兵隊たちは、子供の話として相手にしようとしない。

弘子先生は、急性盲腸炎で病室で寝込んでいた中曽根と言う少女の看病を、宮里先生から依頼されていた。

その日から、子供達は全員、甲板上で練るよう言い付けられたが、清は、黒砂糖を入れたリュックを下に忘れて来た事に気づき、取りに戻ろうとする。

その頃、宮里先生は、自分の不安を拭き消そうと、この対馬丸は運の良い船だそうですねと、他の大人に聞いていた。

相手がいうには、満州から帰って来る時、玄界灘で二発魚雷を食らったが、二度とも不発だったそうだとうわさ話を披露する。

そんな中、見張りの兵隊が、魚雷が向って来る航跡を発見、船は面かじ15度の急旋回すると共に、直ちに非常配置が敷かれる。

一発は何とか避け切ったが、二発目が船底に命中。

そのショックで、病室のベッドに寝かされていた中曽根は、大きく弾き飛ばされていた。

宮里先生は、寝ている子供達の間を走りながら、起きるように声を掛けて行く。

2発目の魚雷が命中し、縄梯子を登っていた子供達の多くが、下に落下してしまう。

救命用の筏が海に投げ込まれ、小さな子供達の身体も、大人たちによって、次々に海に投げ込まれて行った。

黒砂糖の入ったリュックを取りに、縄梯子を降りていた清は、下から登って来る大人に突き飛ばされ落下しかけるが、何とか持ちこたえて、途中の階に避難するのだった。

その頃、弘子先生は、中曽根を背負って脱出を試みていた。

その途中で、陽子を見つけた先生は、海に飛び込みなさいと命ずるのだった。

健治と合流した清は、勇を探しに行くが、すでに勇は死んでおり、傾く船と一緒に海に飲み込まれてしまう。

その後、海に投げ出され、何とか筏の一つによじ登った清だったが、そのすぐ目の前を、無言の健治の身体が流されて行くのを観て、何度も呼び掛けるが返事はなかった。

筏の上は、後から乗ろうとするものと、すでに乗っている者との醜い奪い合いが展開されていた。

そこには、子供も大人の区別もなかった。

護衛艦も二隻付いていたのだが、何時の間にかいなくなっていた。

多くの筏は漂流を始める。

空を通過する遊撃隊らしき機影に手を振るが気づいてもらえない。

清は、眠りかけるが、眠ったら死んでしまうと、同乗していた大人から太腿をナイフで刺されてしまう。

猫の大将も流されていった。

母親に抱かれていた宮里の娘京子は、途中で凍死していた。

便意を催した陽子が、筏の上から排便していると、それを狙って魚が集まって来る。

飛魚が筏に飛び移って来たのを見つけた陽子は、それを知らないおばさんに預かってもらっていたが、用を足して戻ってみると、もうその飛魚は、預けたはずのおばさんが自分の子供に食べさせていた。

やがて、海に何かが浮いているのを発見した陽子は、食料かも知れないと言い出すが、大人たちは誰も、自ら泳いで取りに行こうとしない。

結局、子供の陽子が泳いで取りに行く事になるが、そこは鱶が泳いでいた。

危機一髪、何とか、浮いていた竹筒を拾って、筏に戻っって来た陽子が、それを割ってみると、中に赤飯が詰められていた。

何日も漂流する内に、宮里先生は、子供達と祭りをしている幻影を見るようになる。

年老いた者は、途中で力つき、筏から落ちて、鱶のエサになって行った。

数日後、清は、漁船の姿を見つけ、声が届かないと分かると、手旗信号を手を使って送り、ようやく気が付いてもらえる。

陽子たちの乗った筏は、やがて、島に漂着した。

そこに上陸した陽子は、浜に並べられた無数の水死体を観る事になる。

しかし、そんな陽子に声を掛けて来たのは、弘子先生だった。

彼女も助かっていたのだ。

鹿児島市立病院で検査した陽子は、足の指を切断しなければいけなかったが、気丈にも、陽子はその手術を受け入れる事にする。

弘子先生に連れられて廊下に出た陽子は、そこであきお兄ちゃんとすれ違うが、あきおは、視力も張力も失ったのか、顔の上半分を包帯で覆い、松葉づえをつきながら無言で通り過ぎて行く。

弘子先生は、そこで宮里先生と再会する。

宮里先生は、亡くなった子供達は戦死だ。自分の教育理念は間違っていなかった。これからも、自分は国の役に立つ子供達を育てるのが教育だと思ってやっていくつもりだと、弘子先生に言う。

この事故に関しても、市長も責任逃れの言い訳を繰り返していた。

そんな中、那覇警察署に、車に乗せられた生存者の子供達が連れて来られる。

その中には清の姿もあった。

その子供達に対し、憲兵は、これからお前たちを各々の家に帰すが、対馬丸に関しては一切何もしゃべるなと釘を刺していた。

しゃべったやつは、スパイとして銃殺刑になるぞとも脅しつける。

そうした徹底した箝口令を敷かれた清は、家に戻って、母親から事情を聞かれても、一切口を開く事はしなかった。

子供達が帰って来ない家の父母たちが、事情を尋ねに毎日清の家を訪れている事もあって、母親も辛い立場だったが、清はとうとう押入に入って泣きだしてしまう。

そして、その涙のついた指で、壁に「しんだ」とそっと書くのだった。

その後、10月10日、清の家の近所にも空襲が始まる。

裏山へ逃げようと立ち上がった父親だったが、庭先にも爆弾が落ち、家は壊滅。

気がつくと、清は、上にかぶさった父親のお陰で生き延びていた。

母親が近づいてみると、父親はもう亡くなっていた。

その母親も、倒れて来た柱に押しつぶされそうになる。

何とか、生き延びた清は母親を支えながら逃げ延びると、「みんな、死んじゃったんだ!」と初めて声にだすのだった。

対馬丸の沈没で、亡くなった人数は1458余名、生存者236名。

その内、子供の犠牲者728名、生き残った子供は59名だけだった…。

 

▼▼▼▼▼個人的なコメントはここから下です。▼▼▼▼▼

戦時中、実際に起こった悲劇を、生存者の証言等を元に、ドキュメンタリー風に再現したアニメ作品。

劇場公開はされなかったようで、学校や地域の施設等で上映された作品のようである。

対馬丸の事は、吉永さゆり主演の「あゝひめゆりの塔」(1968)でも少し描かれているが、全編、このエピソードだけで構成された作品としてははじめて観た。

今では、このエピソードを知っている人も少ないかも知れない。

ストーリー自体はドキュメンタリータッチだし、登場するアニメの絵は民話風のちょっと癖のあるタッチと言う事もあり、劇場での公開は興行的に難しかったのだろう。

あくまでも、こういう歴史的悲劇があったのだと言う事を、語り伝える事を目的とした、子供向け教育用作品と解釈すべきかも知れない。

魚雷を受け、対馬丸が沈没して、多くの子供を含めた犠牲者が出た事は知っていたが、この作品を観て、沈没後にも悲劇が続いていたのだと言う事を知った。

むしろ、沈没後の悲劇の方が、観ていて辛いものがある。

改めて、戦争の惨さを考えさせられた作品だった。