1955年、日活、菊島隆三脚本、森永健次郎監督作品。
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最初に「ここに出て来る人物たちは、事実のままではなく、多分に映画的に作っている」と断り書きが出る。
玄界灘…、これは、玄界灘の荒波のように、怒濤の半生を生きた男の物語である。
昭和9年 九州、大村。
小学生の百田光浩(立野一吉)は、野球が大好きな少年で、その日も、母親(飯田蝶子)に作ってもらった、雑巾製のミットを持って、遊び仲間の元へ駆けて来るが、そのミットを見つけた4つ年上の少年に取り上げられ、「こんなものじゃダメだ」と引き裂かれてしまう。
それを見た光浩は、その年上の少年に飛びかかって行く。
その後、腕を骨折したと言うその年上の少年の父親が、治療代を寄越せと母親の元へ怒鳴り込んで来る。
なけなしの金を渡して許しを乞うた母は、向こうが悪いと言い訳する光浩に、これから、どんなに相手が悪くても、喧嘩をしてはいけない。
一対一でやれば、必ずお前が勝ち、悪者にされてしまうからと釘をさすのだった。
しかし、その翌朝、優しい兄と一緒に学校に行く途中だった光浩を、あの腕を骨折した少年が、仲間を連れて待ち伏せていた。
光浩は、相手が4人なのを見て取ると、一対一ではないと気づき、すぐさま、相手に立ち向かって行くのだった。
その様子を見ていた爺様は、母親の所へ来ると、あれほど力があるのだから、自分の息子で相撲取りになった大村潟のように、東京の相撲部屋へ入れてはどうかと相談する。
中学に入れようと考えていた母親はあまり乗り気でもなく、当の光浩も相撲取り等大嫌いと逃げ回っていたが、その5年後の昭和14年、光浩は、両国にある大村部屋に入り、力道山(武藤章生)という名の新弟子になっていた。
同じ部屋の新弟子は、春勇(吉田光男)という青年だけだった。
二人は、辛い新弟子生活を慰めあいながら絶え抜いて行く。
とにかく、新弟子時代は、先輩たちの無理ばかり押し付けられ、食事も満足に与えられない。
毎日のひもじさと辛さで、母恋しさに涙する事もあった。
そんな苦労する力道山を見かけ、秘かに言葉を駆けて励ましていたのが、八ヶ岳(阪東好太郎)という力士だった。
翌昭和15年春、稽古場で鍛えられていた力道山の前に、母親が姿を見せる。
団体旅行で上京したのだと言う。
それを知った親方大村潟(沢村國太郎)は、力道山に、母親を浅草にでも連れて行ってやれと休みと小使い銭をくれるのだった。
それを見送る春勇はうらやましそうだった。
その姿に気づいた鬼龍山(安倍徹)は、俺もお前と同じで、母親がいないのだと打ち明ける。
隅田公園に案内した力道山だったが、道中、母親の様子がやけに暗い。
母親に買ってもらったゆで卵を腹一杯食べた力道山は、近くのベンチで寝ていた中年男(河津清三郎)を浮浪者だと思い、あまったゆで卵を渡そうとする。
しかし、その男は、自分は浮浪者ではなく、ただ仕事でごたごたがあっただけだと言い、母親に孝行してやれと、十円札を手渡してくれる。
その金で、昼食を取りに言った店で、人から相撲の世界は人間扱いされないひどい世界だと聞いた母親は、今日も、はだしで歩いている息子の姿を観て、そんな暮らしでは、せっかく買って来た下駄も渡せないと嘆き、このままお前を連れて帰ろうと思うと打ち明けるのだった。
しかし、それを聞いた力道山は、男が一度決めたからには、簡単に止められないと突っぱねるのだった。
その年の5月、ついに、力道山は初土俵を踏む。
その朝、部屋を出発する力道山は、母親からもらった新品の下駄に手を合わせて、初勝利を祈るのだが、その姿を横で眺めていた春勇も、自分にも拝ませてくれと頼むのだった。
かくして、序の口、序二段と土俵を重ね、昭和17年春、力道山は、二段目で、念願の初優勝を飾る事になる。
その頃、春勇は、痛めた足の状態が悪化しており、地方巡業先で秘かに医者にかかっていたが、自分の前途に不安を感じていた。
一方、力道山の元には、「ハハ キトク スグ カエレ」の電報が届くが、帰り支度していた力道山の様子に気づいた鬼龍山は、俺の母親が危篤だった時も親方は帰してくれなかったと、巡業の途中で帰る事は許されないと叱りつけるのだった。
その言葉で、帰る事をあきらめた力道山だったが、その心理状態が影響してか、試合では結果が出なくなる。
そうした力道山の様子を影ながら見守っていた八ツ岳は、泣き言言うなと又慰めるのだった。
やがて、春勇が、相撲を諦めると言う置き手紙を残して、力道山の前から姿を消してしまう。
その春勇は、力道山が母からもらった大切な下駄を、自分のお守り代わりにもらって行くと書いてあるではないか。
そんな春勇を意気地なしと罵った力道山だったが、その後、今度は、「ハハ シス」の電報が届き、さすがの鬼龍山も、今回だけは帰るように力道山に言いに来るが、出世するまで帰るつもりはないと、力道山は意地を張り通すのだった。
その2年後の昭和17年秋、十両に昇進した力道山(力道山)は、紋付袴の正装で親方の元に挨拶に訪れるが、その際、小耳に挟んだ親方の金を巡る悪い噂に付いて尋ねてみたが、親方は怒り出すだけだった。
しかし、時は戦争の直中、秋場所は取り止めになり、相撲部屋にも勤労奉仕の伝達が届き、親方から頼まれて、力道山自らが、土木仕事をしに出かける事になる。
そんな力道山は、工事現場で見知った顔を見かけ声をかける。
隅田公園で、浮浪者と間違え、ゆで卵を渡したあの男だ。
実は、建設会社隅田組の社長だったのだと言う。
それ以来、隅田社長は、力道山の後援をしてくれる事になる。
そんな中、経営が苦しくなっていた大村潟は相撲を廃業し、大村部屋もなくなってしまう。
昭和21年、前頭18枚目に入幕した力道山だったが、部屋がないため、稽古する場所にさえ事欠く有り様だった。
力道山は、何とか部屋を復興しようと、あちこちの土地を捜しまわっていたが、その時、あの相撲を辞めたはずの大村潟親方が声をかけて来る。
戦争中、あの鬼龍山も、マニラ沖で輸送船共々亡くなったと話した後、あれ以来、自分もあれこれ仕事を変わってみたが、さっぱり巧く行かないと嘆く大村潟の姿を観た力道山は、つい彼の為に、隅田社長の元を訪れ、再び相撲界に復帰できるよう、協会に働きかけてもらえないかと相談するのだった。
それを承知した隅田社長は、そろそろ君の嫁さんを紹介させてくれと持ちかけて来る。
やがて、念願だった大村部屋が、復帰した親方の元で再開するが、力道山は、無理が祟って、身体を壊すし、部屋の経営難は相変わらずで、力道山への給金もさっぱり支払われず、結婚したばかりの妻雪子(南寿美子)とジャガイモだけの食事に甘んずる毎日が続く。
やがて昭和25年、西の関脇になった力道山を、巡業先の小田原まで、雪子が訪ねて来て、お給金をもらわないと、ガス、水道代も払えないのだと詰め寄る。
その場は、妻を説得して帰した力道山だったが、思いきって、親方に直談判に出かけてみる。
しかし、すっかり元の親方風を吹かすようになっていた大村潟に、この部屋を再建したと自惚れているのだろうが、それは自分の人気取りの為にやったのではないかなどと、汚いののしりを受け、さすがに堪忍袋の緒が切れてしまう。
売り言葉に買い言葉の末、力道山は相撲を辞めると言い残して、東京の自宅に帰ってしまう。
深夜、台所に起きて行った力道山は、包丁を取り出し、その場で自らのマゲを切ってしまう。
翌日、そのザンバラ頭で、隅田社長宅に詫びに行った力道山だったが、「偉く、潔い事をやったな」と皮肉めいた言葉をかけられただけだった。
その冷たい対応に、帰りかけた力道山を呼び返しに来たのは、隅田社長の妻(坪内美詠子)だった。
隅田社長は、マゲを失った君には何の値打ちもない。もう一度考え直して、相撲界に戻してもらえるよう、今や相撲協会の会長になった八ツ岳に頭を下げて来いと忠告するが、さすがに、八ツ岳会長も、その願いを聞き届ける事は不可能だった。
職を失った力道山は、隅田社長の計らいで、昭和26年秋、工事現場の資材部長として働いていた。
そんな力道山の昼食を持って来た雪子に、今こそ、墓参りの為、九州へ帰ろうかと言い出す力道山に対し、雪子は、こんな中途半端な状態で帰れるのか?行くのなら、自分だけで行って下さいと冷たく言い返すのだった。
しかし、後日、九州行きの列車には雪子も同伴していた。
その列車が、横浜駅に着いた時、何を思ったのか、力道山はいきなり席を立ち、列車を降りてしまう。
慌てて、その後を追う雪子。
ふらふらと、駅前を歩いていた力道山が目にしたものは、進駐軍相手に開催される「プロレス興行」を知らせるポスターだった。
それを、まじまじと観ていた力道山に声をかけて来た大男がいた。
柔道の遠藤幸吉だと名乗り、自分もプロレスに興味があるので、一緒に観に行きませんかと切符を見せる。
さっそく、観に行ったプロレスの試合に、夢中になる力道山。
試合後すぐに、控え室にいたトレーナー風の大男(ハロルド坂田)に、入門させてくれと願い出た力道山は、その有り余る力を見せて、承認される事になる。
やがて、ハワイで、プロレスの練習をはじめた力道山は、めきめき試合でも頭角を現すようになり、やがて、日本でのシャープ兄弟戦、ニューマン・シャナーブル戦、オルテガ戦と勝利をおさめて行き、いよいよ、アジア選手権を賭けた、キングコング戦に挑み勝利するのだった。
その祝いの席、後援会長隅田社長は、世界選手権保持者ルー・テーズが、力道山からの挑戦を受けることに承知したとの報告を客たちに披露する。
少女アイドルの美空ひばりも、花束を持って、力道山を応援にやって来ていた。
そんな力道山に、会いたいと言う客が来ていると伝言が入り、廊下に出てみると、そこには、小山春吉(柳谷寛)と名乗る見覚えのない一人の中年男が立っていた。
その春吉とは、新弟子時代、苦楽を共にしていた、あの春勇だった。
春吉は、今日、返したいものがあったのでやって来たと力道山に渡したものは、母親からもらった新品の下駄だった。
いよいよ、ルー・テーズとの試合に向うため、飛行機に乗り込む力道山の足には、その母親から送られた下駄がはかれていた。
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戦後のヒーローだった力道山の半生を、フィクションを交えて描いた作品。
作曲家の古賀政男が、製作者に名を列ねているのが珍しい。
実際、後半の祝賀パーティの席にも、古賀政男本人が登場している。
当時、人気者だった力道山本人が登場する映画は何本もあるが、この作品でも、少年時代や青年時代こそ、別人が演じているが、十両に昇進した所から、本人が自ら演じている。
セリフ回し等、決して巧い訳でもなく、シーンによっては、明らかに、カンペを読みながら、しゃべっているように見える部分もあるが、何と言っても、ヒーロー力道山本人が画面で観られる魅力は、当時も今も変わりがない。
相撲界を辞めた理由等、どこまで現実に近い描写がなされているのか定かではないが、多少なりとも真実が含まれているのかも知れない等と想像しながら観ていた。
ストーリーそのものは、かなりきれいごとでまとめられているので、特に、映画として面白いと言うほどのものではないが、遠藤幸吉など、本物の選手がゲスト出演しているのが、今となっては貴重である。
一番驚いたのは、ハロルド坂田が出ていること。
ハロルド坂田と言えば、「007/ゴールド・フィンガー」で、シルクハットを武器にする、無気味な名悪役オッド・ジョブに扮したあの人物である。
この作品では、トレーナー役として登場しているが、実際、彼と力道山が盛り場でケンカをしたことが、プロレス入門のきっかけになったと言う逸話もあるくらい。
彼が、プロレスラー力道山生みの親と言っても良い存在だったことは確かなようだ。
関取時代の貴重な試合映像等も挿入されているのが嬉しい。
厳しい先輩、鬼龍山に扮した安倍徹や、優しい母親を演ずる飯田蝶子も印象的。
挿入歌も歌っている美空ひばりは、当時、まだ17、8の頃だと思うが、すでに「力さん」「ひばりちゃん」と呼び合う仲だったらしい。
