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そよかぜ

1945年、松竹大船、岩沢庸徳脚本、佐々木康監督作品。

▼▼▼▼▼最初にストーリーを書いていますので、ご注意ください!コメントはページ下です。▼▼▼▼▼

みち(並木路子)は、劇場の照明を担当する18才の女の子。

今日も、舞台で歌うスター歌手桜山幸子(波多美喜子)の歌う「リンゴの唄」という曲を聞きうっとりしている。彼女は、自分も唄を歌うのが大好きだったからだ。

そんなみちは、今まで、母(若水絹子)と二人で、劇場内で暮していたのだが、今回、バンドのトランペット奏者船田(上原謙)、トロンボーン奏者横山(佐野周二)、サックス奏者平松(斎藤達雄)らと一緒に、同じ一軒家に引っ越して、共同生活を始める事にする。

新居の隣は、同じバンドでピアノを弾いている吉美(高倉彰)の新婚家庭だった。

船田たちが、荷車に引っ越し荷物を乗せて新居に運んでいると、見ず知らずの青年が近づいて来て、勝手に荷車引きを手伝いはじめる。

どうやら、メンバーが歌っていた唄に惹かれて仲間になりたかったらしい、近所に住む、少し知的ハンデのある青年三平(加藤精一)だった。

そんな三平、新居で荷物を整理していたみちに向い、気安く「ねえちゃん」呼ばわりする。

実は、自称「二十歳と8ケ月」の三平はすでに23であり、みちは「ねえちゃん」呼ばわりされた事にむっとしてしまう。

その頃、隣の吉美家では、引っ越し祝い用の料理を作っていた新妻(三浦光子)が、夫に甘えていた。

一方、劇場のコーラス隊の女の子たちは、エミが結婚で引退する話で持ちきり。
やはり、女性の幸せは結婚にあるので、結婚したら舞台は辞めるべきという考えの者と、自分は結婚しても、舞台を続けたいとする考えの者がいた。

船田たちは、みちの唄の才能にかねがね注目しており、近々、劇場でデビューさせようと目論んでいたのだが、話を持ちかけた劇場の支配人は良い返事をしなかった。

いきなり、名もない新人を舞台にあげるなどとんでもないのというのだ。

君たち芸人は、もっともっと勉強して、努力の末に栄光を勝ち取るべきだと諭された船田は、自分達の考えが甘かったと、帰宅後、横山や平松に報告する。

しかし、支配人の言葉に発奮した船田は、みちをコーラス隊に入れて、基礎からみっちり勉強させようと言い出す。

こうして、歌手のバックコーラスとして、舞台に出始めたみちだったが、そんな中、みちの母親が、姉のお産の手伝いをするため郷里に帰る事になる。

甘えん坊のみちは、とても寂しそう。

そんな子供っぽいみちに、母は、これからは台所の仕事などもしっかり勉強して欲しい、と言い残して出かけるのだった。

やがて、母がいなくなった一家を支えるために、みちは一人で、他の三人の男たちの為の料理や身の回りの世話をはじめる。

かねてより、子供扱いされる横山(佐野周二)に、自分の仕事振りをアピールするみちだったが、横山はいつものように、茶化したり、辛かったりするため、みちはふくれてしまう。

そんな様子を、平松や船田は呆れて観ていた。

みちが、秘かに横山のに思いを寄せているのは誰の目にも明らかだった。
それに対し、気づいているのか、いないのか、いつも、みちの気持ちを傷つける事ばかりいっている横山の大人気ない態度を、平松たちはそれとなく注意するが、当の横山も、自分の気持ちを素直に表現できない事をどこか恥じているようだった。

ここのところ、横山には、今一つ自分なりの目的意識が見出せないのか、生気に欠けたような日々を送っていた。

そうしたふがいなさが、つい、みちへの心無いからかいとなって現れているのだ。

一方、かねてより、作曲の勉強も続けていた船田は、恋人の桜山幸子と将来の事を話し合っていた。
幸子は、結婚したら、今の歌手の仕事を辞めて、家に入る決心をする。

その頃、興行主は、劇場の内部改造に取りかかる事にする。

船田はといえば、毎日のように、平松が作詞した文句にふさわしい曲を作ろうと頭を悩ませ、アイデアが出ると、隣の吉美の家にあるピアノを借りに行く毎日。

そんな船田の熱心な様子を、吉美はちょっとうらやましそうに観ていた。
新婚の彼には、もう、船田ほどの、音楽に対する情熱が失われた事を自覚していたからだ。
しかし、そんな素振りを新妻に気づかれた吉美は、彼女を傷つけまいと、音楽への情熱が君への情熱に負けたんだよと優しく慰めるのだった。

その日も、吉美邸に出かけたはずの船田が朝まで来なかったことに気づいた横山と平松は、船田が徹夜した事を知るが、そんな彼らの住まいに、早朝から婚約者の幸子が訪ねて来る。

彼女は、船田がいない事を知ると、ちょっと残念そうだったが、そんな所に当の船田がふらりと帰って来る。

どうやら、夕べは、吉美邸ではなく、夜中歩るき廻って曲を考えていたらしい。

そんな船田の情熱を目の当たりにした横山は、自分もいよいよ本格的にやる気を出さねばならないと意を新たにするのだった。

しかし、そんな船田の態度を観たみちの気持ちは逆に落ち込んでしまう。
自分だけが独り取り残されて行くような寂しさに襲われたのである。

彼女は、幸子が手みやげに持って来たリンゴを一つ手にして散歩に出ると、川べりで、そのリンゴを川に落とし、物思いに耽るのだった。

その後、食事の声がかからないので腹を空かしていた横山と平松の元へ、みちから手紙を預かって来たと三平がやって来る。

その手紙を読むと、一人で実家の母の元へ帰ると書いてあるではないか。

その頃、劇場では、出来上がった曲を快く採用するといってくれた支配人が、さらに意外な事を言い出す。
みちを、一人立ちの歌手として抜擢するというのだ。

実は、コーラス隊として活躍しはじめたみちの歌を、支配人も陰ながら観察して、その才能に確信を持ったのだった。

そんな事とは知らず、母の元へ帰って来たみちは、懐かしいりんご園の様子を観ている内に、思わず、「りんごの唄」を口ずさむのだった。

村の子供達も交え、全員でのコーラスになった時、東京から、彼女を追ってやって来た横山たちが到着する。

横山は、自分の姿を発見して、恥ずかしさのあまり逃げるみちの後を追うのだった。

ようやく、二人きりになった横山だったが、やっぱり、うまく気持ちを伝える事は出来なかった。
でも、みちは、そんな不器用な横山と再会できた事を素直に喜んでいた。

やがて、東京の劇場。

船田が自ら指揮をする中、幸子やみちが舞台に登場し、晴れやかな顔で「りんごの唄」を歌うのだった…。

 

▼▼▼▼▼個人的なコメントはここから下です。▼▼▼▼▼

戦後すぐに作られたアイドル映画第一号といわれる作品。

ストーリー自体は他愛無いものだが、終戦直後の頃の価値観が、あまりに今のそれと違っているのに驚かされる内容になっている。

まずは、主人公みちのキャラクターが、ものすごく子供っぽく描かれている事。

18才という設定だが、その立ち居振る舞いやセリフからすると、小学生上級か、せいぜい中学生くらいの感覚である。

映画の中だけ、アイドルとして「ちょっとカモトト」風に描いているのか、当時、この年齢くらいの少女たちが、一般的にこういう感じだったのかは定かではない。

ただ、みちが子供っぽく描かれているため、その恋のお相手が佐野周二という設定も、どこか引っ掛かるものになっている。

佐野周二は、どう贔屓目に観ても「老け顔」である。

正直、おじさんにしか見えない。

そのおじさんと、小学生みたいなキャラクターの娘が、口げんかしているという構図も何となくいただけない。
二人の間に「大人の恋愛」風の生臭さを感じさせないための、これ又、アイドル映画独特の配慮なのかも知れないが、 微笑ましいというより、観ていて明らかに不自然なのだ。

又、女性の生き方としては、仕事より家庭を取るのが正しく、女性は台所の仕事を学ぶべし…みたいなセリフが随所に登場するのも、今観るとちょっと違和感を感じる。

おそらく、この映画の対象として考えられていた当時の若い女性たちが、映画に感化されて、安易に芸能界などに憧れて道を踏み外さないようにするための「教育的」配慮なのだろうが、そうした大人の感覚が、今観ると古臭く感じないでもない。

劇中、有名なりんごの唄は冒頭から登場するが、クライマックスの田舎のりんご園で、並木路子が歌う所は爽快の一言。

この映画から「りんごの唄」がたちまち世間に広まって、大ヒットしたというのも頷けるシーンである。

注目点としては、バンドでトランペットを吹いている上原謙が「愛染かつら」のテーマ曲を独奏する所。
もちろん、上原謙、田中絹代コンビで大ヒットした戦前の松竹作品を連想させるための演出である事はいうまでもないだろう。

ちなみに、この作品には、「りんごの唄」以外の明るい曲も、随所に登場している。