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二人の瞳

1952年、大映東京、小国英雄脚本、仲木繁夫監督作品。

▼▼▼▼▼最初にストーリーを書いていますので、ご注意ください!コメントはページ下です。▼▼▼▼▼

1950年の夏のある日、羽田空港に降り立った一人の少女がいた。

日本に単身暮している父親アレクサンダー・マクダーモット(ジョン・ノートン)を訪ねて来た娘のキャサリン・マクダーモット、通称ケティ(マーガレット・オブライエン)だった。

彼女を迎えたのは、父親と、ケティの日本での家庭教師役となるミス田代(三浦光子)だった。

自動車に乗って父親の自宅へ向う途中のケティは、山のように何段にも重ねた蕎麦を自転車で運ぶ出前を見て興味津々。

さらに、銀座から皇居を抜け、東京の町並みを走って行く内に、公園に集まっている人ごみを見つけたケティは、あれは何かと質問する。

あれは孤児だと説明するミス田代。

その後、自宅に到着したケティは、父親から武宮牧師(中村哲)を紹介されていた。

その頃、先ほどの公園の群集の中で、「緑ヶ丘収容所建設資金募集」「ヨイコノガクダン」と書いた立て看板を立てて歌を披露していたのは、確かに、ミス田代が説明したように、阿部マリ枝(美空ひばり)を中心とする、大村忠雄(渡辺鉄彌)、仙吉、登、夏子ら4人の孤児達だった。

しかし、群集たちが楽しんでいたそのショーに、割り込んで来て、子供達を捕まえようとする三人の男たちがいた。

訳が分からないながら、子供達が嫌がっているし、歌を妨害されたのを怒った観客らが数名、その男たちを止めようと前に出て来るが、それに対し、男たちの代表らしき男(杉狂児)は、自分は、この子たちの親なので、口出しするなと言い出す。

しかし、それを聞いていたマリ枝は、「嫌います!この人たちは、子供を食い物にする鬼です!」と言い返すのだった。

子供の言葉の方を信じた観客たちは、三人の男たちを追い払おうとする。

その隙に、その場を逃げ出す子供達。

しかし、一人、商売道具のパラソルや連れて来た子犬等を持たねばならなかったマリ枝は、他の4人とは離ればなれになってしまう。

リーダー格のマリ枝を見失った子供達は、心配して、いつまでも彼女の帰りを待つが、マリエは戻って来ない。

その頃、当のマリ枝は、追っ手の男たちに見つかりそうになり、目に付いたお屋敷の裏口から中に入り込んでしまうのだった。

しかし、その庭にいた犬に吠えられるマリ枝。

その犬スナフィを制止しながら、屋敷から出て来たのは、ケティだった。

そう、この屋敷こそ、アレクサンダー・マクダーモットの家だったのだ。

そのケティに、隠れている所を見つかったマリ枝は、悪い大人から逃げていると言う自分の今の状況を、身ぶり手ぶりのジェスチャーで相手に伝え、賢いケティもすぐさま理解するのだった。

怪んで、屋敷を塀から覗き込んだ先ほどの男たちも、庭先にいたケティに睨まれてひっくり返るのだった。

マリ枝は、助けてもらった礼を言うと共に、ケティと名乗るその外国人の少女に、自分の名前を教えて帰る。
ケティは、そんなマリ枝に、いつでも遊びに来てくれと言う。

その頃、夕飯を喰っていた先ほどの男たちは、あの子供達は、緑ヶ丘収容所から逃げ出した所を、自分が世話して、各々、独立して生きていけるために、向いた仕事を教えてやっただけなのに…と、恩知らずな子供達の事を見失った事を悔やんでいた。

夜遅く、マリ枝が戻って来て安心したガード下の子供達の一日が始まった。

仙吉、登は、行列のできる店の列の順番取り。

夏子は、アベックが多い公園に行って、わざと良いムードになりかけたアベックたちの邪魔をして、あっちに行けとお駄賃をもらう事。

忠雄は、人ごみの中で立ち止まって無駄話をしている迷惑おばさん(岡村文子、新宮信子)から掏った財布を拾ったと届けて、その礼金をもらう事。

しかし、この迷惑おばさん、バッグがなくなったと騒ぎだし、駆けつけた警官に忠雄は連行されてしまう。

その光景を目撃した仙吉、登だが、どうする事も出来ない。

彼らは、靴磨きをしていたマリ枝に急を知らせに行く。

困ったマリ枝は、昨日であったケティに相談しに行く事にする。

マリ枝から話を聞いたケティは、ミス田村に助けてあげるようにお願いをする。

田村は、マリ枝の証言に嘘がないかどうか確認した上で警察に行き、忠雄の身元保証人となって屋敷に連れて帰って来る。

忠雄は、初めて会うケティに、びっくりさせるプレゼントがあるといわれ、先に屋敷に招かれ、真新しい服に着替えさせられて待っていたマリ枝ら仲間達と再会させられる。

あまりに意外な出来事に興奮し、つい泣き出してしまう忠雄。

すっかりマクダーモット家の屋敷に慣れた子供達は、夕食が間近だというのに、忠雄が朝から何も食べてないと言う話をきっかけに、先に見つけておいた食料倉庫に勝手に押し掛け、無断で、缶詰類等を盗み喰いしてしまうのだった。

しかし、そのせいで、その直後に始まった夕食の席では、子供達は満腹で何も食べられなくなる。

夕食後、マリ枝は、浮浪児たちの厳しい実情をケティに話して聞かせるが、それを聞いたケティは、日本には子供を収容する施設のようなものがないのかと疑問を口にする。

それに対し、マリ枝は、あんな所へは行きたくない。

年齢、男女別で、部屋は分けられるは、大好きな犬とも別れなければいけなくなるからと、思わず嘘を言ってしまう。

しかし、その言葉を真に受けたケティは、自分に何とかできないかと思案し出す。

その夜、はじめて軟らかい布団に寝た子供達だったが、登がおねしょしてしまい、全員、気まずくなって家を出て、外で寝る始末。

翌朝、ケティは、役所勤めしている父親に、孤児のための収容所建設について、政府に進言して欲しいと相談するが、独立をしようとしている今の日本政府に、アメリカ人である自分が差し出がましい口を聞くのは良い事ではないと、やんわり拒絶する。

しかし、諦め切れないケティは、厚生省の大臣(斎藤紫香)に直接会いに行き、犬も一緒に収容できる施設を作って欲しいと直訴するが、敗戦国である今の日本の力では、それだけの事は出来ないのが実状ですと断わられてしまう。

しかし、当初、市民運動を起こすには、宗教組織間の協力がなければ難しいだろうと難色を示していた武宮牧師は、ケティの熱意に打たれ、自ら行動を起こす決意をし、各所で、宗教間の共同を呼び掛ける演説を繰り広げる事になる。

こうした動きは、各宗教関係者たちの気持ちを動かし、ここに、子供のための収容施設を作る運動が市民レベルで巻き起こりはじめる。

ケティやマリ枝たちも、街頭で募金活動を始める。
厚生大臣も駆けつけ、ポケットマネーを募金する。
そうした所に偶然通りかかった、かつて彼らを追い掛けていた三人組も、今の子供達の姿に共感し、自ら募金するのだった。

こうして集まった資金を元に、「緑が丘収容所」の建設がはじめるが、現場で指揮をしていた大工の親方(星光)から、忠雄はつい財布を掏ってしまう。

しかし、良心の呵責に耐えかね、すぐに返した忠雄の言葉に感動した親方は、自らも進んで募金するのだった。

全てが巧く運び、ようやく収容所が完成した時、ミス田代は、マリ枝のそもそもの既存の収容所批判に嘘があるのではないかと彼女を問いつめるのだが、マリ枝や子供達はいたたまれなくなって、元のガード下に帰ってしまうのだった。

収容所の完成式の日、子供達の姿が見えない事を心配するケティ。

そんなケティは、間もなく帰国しなければならなくなる。
ケティは、一人裏庭で、かつて子供達が歌っていた「とおりゃんせ」を寂しく口ずさむのだった。

羽田空港から、父親やミス田代に見送られ、飛行機に乗って飛び立ったケティ。

そんな飛行機を見送るため、駆けつけていた子供達。

マリ枝は去って行く飛行機に対し、滑走路にひざまずき、詫びるように手を伸ばすのだった…。

 

▼▼▼▼▼個人的なコメントはここから下です。▼▼▼▼▼

子役時代の美空ひばりと、「若草物語」(1949)の4人姉妹の一人ベス役で知られたハリウッドの名子役マーガレット・オブライエンが共演した子供向け映画。

冒頭部分は、英語に日本語字幕と言うハリウッド映画でも観ているような洒落た始まり方なのだが、その後の展開は、作品の本当の意図も良く見えない上に、何となく後味の悪い嫌な映画になってしまっている。

子供達を追っかける杉狂児たちのユーモラスな描き方などからして、明らかに「お子さま向け映画」である事は間違いないのだが…。

マリ枝たち5人の子供の生い立ちを知るには、彼らを追い掛けている杉狂児の食堂でのセリフを信じるしかないのだが、それによると、もともと彼女たちは収容所に入れられていた仲間らしい。

そこが嫌で逃走した彼女らを捕まえて、子供ながらに金を稼がせる悪さを教えていたのが杉狂児…と、ここまでは分かる。

子供達は、そんな杉狂児にこき使われるのが嫌で、そこも逃げ出し、自分達で気ままに歌を歌いながら稼いでいたようだが、ここで掲げられている「収容所建設募金」という目的が、子供達にとって本心なのか、大人を騙すための嘘なのかは、観ている側には分からない。

ここが説明不足なので、後半になって、ミス田代がマリ枝に本当の事を問いただす部分が釈然としなくなるのだ。

確かに、ケティの屋敷に招かれた子供達が、マリ枝に対し「あの子を騙して、ここに住もうよ」と言っている。

でも、その「騙して」というのが、何をどう騙すのかがが分からないのだ。

つまり、普通に考えれば、子供達は、もともと収容所から逃げて来たくらいなのだから、そういう施設に入る事を嫌がっている。

だから、ケティが収容所の事を話した時、マリ枝は、「あそこではみんな別々にされるし、好きな犬も入れられない」と拒絶反応を示す。

そのため、ケティは、それなら、犬も一緒に暮らせるような施設建設を作ろうと、努力しはじめるのだが、ここで、マリ枝たちが困惑する描写を入れていないので、観ている方も、マリ枝たちの理想の施設ができるんだと一緒に喜んで事の成りゆきを見つめる訳だが、こうした「新しい施設建設」への子供達の協力が、本当は全部「嘘」で「施設なんかに入る気持ちなんてさらさらなかった」「募金や建設協力の姿も全部芝居だった」としてしまうと、それまで盛り上がっていた観客まで一挙に騙されたような嫌な気持ちになる。

そして、これに対する子供達の反省とか、改悛の行動と言うものもはっきり描かれていない。

このため、要するに、貧しい敗戦国の心の荒んだ子供達が、結果的に、外国から来た純真な少女を騙して逃げるという情けないドラマにしか見えないし、最後の、滑走路にひざまずくひばりの姿も唐突なものに見え、全く感動できないのだ。

一種の「アンファン・テリブル(恐るべき子供達)」みたいな内容にしたかったのだろうか?

おそらく「こういう人を騙す子供になってはいけませんよ」と諭す意図だったのだろうが、結果的には、実に嫌なストーリーというか、日本人として自らを恥じるような内容になってしまっている。

夢の中で、ひばりと着物姿のマーガレットが、人形というかロボットの動きで踊って見せるシーンとか、最後のマーガレットが拙い日本語で「とうりゃんせ」を歌うシーン等、サービス部分もあるが、最終的にハッピーエンドではないので、娯楽としては、何ともスッキリしない。

これでは、ハリウッドからせっかく招いたマーガレットも、単なるお人好しで世間知らずのお嬢さんにしか見えず、何だか可哀想に思える。

タイトルも、黒い縁取りの白抜き英語文字の上に、さらに白い日本文字が重なるという特殊な様式なので、見難い事このうえない。