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小さき勇者たち
~GAMERA~

2006年、「小さき勇者たち〜ガメラ〜」製作委員会、龍居由佳里脚本、田崎竜太監督作品。

アバンタイトルで、何とも後味の悪いシーンがある。

それは、明らかに、本作と、金子監督による三部作の最終作「ガメラ� 邪神<イリス>降臨」(1999)を、どこかで関連づけようとしたためであるように見える。

実は、林家しん平監督によるアマチュア続編映画「駕瞑羅四」にも、同じようなシーンがある。

これは、一見、未完の形で終わっているように見えながら、その実、しっかり完結していた(その続きは、観る人、個々のイマジネーションに委ねられていたはずの)「ガメラ�」の続きを、あえて観たいと言う、一部の不粋な人たちに対するエクスキューズであり、いわば、蛇足のようなシーンなのだが、本作では、それをあっさり短時間で処理して、一つの世界観の終結を表現しながら、一方で、新しい世界の価値観を提示するための布石として描くという、ダブルミーニングになっている。

「憎しみと諍いの連続で先が見えなくなっていた時代」をアバンタイトルシーンに象徴させ、何とか、それを変えてみようと言う「再生」へのメッセージが込めた本編を、より際立たせようとする構成になっているのだ。

これは、現代社会の渾沌とした闇の部分を怪獣映画の形で再現しようとして、何となく袋小路に入り込んでしまった観のある前作の時代の後、「9.11テロ」が起こった事に無関係ではあるまい。

ただし、この新作、基本的には、前三部作とは全く関係ない。
何しろ、前三部作では「亀」と言うものが存在しないという約束事の中の世界だったのに対し、今回の作品では、ちゃんと「亀」はいる事になっているのだから。

しかし、一方で、ガメラや巨大怪獣が、過去、出現した事がある、どこかで旧ガメラシリーズとリンクした空想世界である事も事実。

物語の発想そのものは、「謎の生物と少年たちの触れ合い」という、良くある「動物感動ものの」パターンそのもの。

主人公の子供も、心に寂しさを抱えている良くあるパターン、隣に住む少女を巡るエピソードも、これ又、良くあるパターンというしかない。

こうした「良くあるパターン」を下手に料理してしまうと、普通、大人が子供に媚びたような、陳腐で、あざとい展開になってしまいがちである。

例えて言えば、「REX 恐竜物語」みたいになっていた可能性もあるのだ。

ところが、本作では、地方のどこかノスタルジックで美しい情景や、大人たちのさり気ない日々の暮らしを背景に、ゆるやかに、丁寧に子供の心情が積み重ねられて行くだけでなく、怪獣出現に関する描写もそれなりにリアルに平行して描かれているので、自然に、観ている方も、子供達の気持ちと同じ目線で、怪獣がいる不可思議世界を体験して行く事になる。

現実描写の丁寧さ、自然さが、怪獣出現という超現実的な幻想部分を、それなりに説得力あるものに変化させているのだ。

これは、脚本と演出、両方の力量の賜物だろう。

後半の、子供同士だけが心で通じ合って同一行動を取るというような表現も、最もらしい理屈などで説明せず、ビジュアルだけで観るものに感じとらせようとしているのも好ましい。

素直に理解でき、それが感動に繋がるからだ。

子供の頃に持っていた想像する楽しさ、ワクワク感を久々に思い出させてくれたジュヴナイルの秀作だと思う。

特撮も、合成の色調調整等に若干不満点が残る他は、なかなか迫力もあり、巨大感も感じられて見ごたえがある。

巨大化したトトガメラや敵怪獣ジーダスの、キャラクターとしての好き嫌いは、人によりあると思うが、取りあえずは、従来のガメラシリーズとは一味違った、全く新しい魅力に溢れた作品だと思う。