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武士道残酷物語

1963年、東映京都、南條範夫「被虐の系譜」原作、鈴木尚也+依田義賢脚本、今井正監督作品。

▼▼▼▼▼最初にストーリーを書いていますので、ご注意ください!コメントはページ下です。▼▼▼▼▼

建設会社の勤める飯村進(中村錦之助)は、婚約者の杏子(三田佳子)が睡眠薬自殺したと知らされ、病院に駆けつける。

杏子が苦しむベッドの脇で、進は、自分の家系に流れる宿命のようなものを感じてしまう。

実は、学生時代、母親の葬儀のため、郷里の信州に帰省した進は、菩提寺の蔵の中で、先祖の日記が見つかったことを思い出してたのだ。

関ヶ原の合戦の後、飯倉次郎左衛門(中村錦之助)は、掘式部守少輔(東野英治郎)の家臣に召し抱えられる。

寛永15年、島原の乱に参加した次郎左衛門は、一揆の農民たちを斬り殺していくが、それが仇になって、仮屋敷を燃やされてしまう。

兵糧攻めをしろと指示していた朝井嘉兵平(徳大寺伸)は、式部守少輔の策略に怒り、これを叱りつけるが、事情を知った次郎左衛門は、嘉兵平の門前で、詫状を残し、腹かっさばいて果てる。

全ては自分一人が悪いとしたためたその詫状を読まされた式部守少輔は、次郎左衛門の家族の面倒を見ることを誓うのだった。

次郎左衛門の息子、佐治衛門(中村錦之助)は、式部守少輔の近習に取り立てられていたいたが、式部守少輔は病床にてすでに体力も気力も失っていた。

食欲もない式部守少輔を心配して、御典医を呼ぼうとした佐治衛門の過度の忠心振りに逆上した佐治衛門は、彼を謹慎させた上、父の代から与えていた家禄を止めてしまう。

その後、式部守少輔は他界、近臣たちが次々と殉死して果てる中、殉死する時期を逸した佐治衛門は、妻やす(渡辺美佐子)に言い聞かせ、自宅で果てるのであった。

時は元禄に飛び、若き飯倉久太郎(中村錦之助)は、昌平坂の学問書で学ぶ美少年だったが、参勤で江戸に昇上がっていた掘丹波守宗昌(森雅之)に級友たちと挨拶に行った折、一人名前を尋ねられる。

その後、何故か、丹波守から呼び出しをもらった久太郎は、お萩の方(岸田今日子)にいわれるまま、殿の寝所へ案内される。

お手付き小姓となった久太郎は、我が身の不運を嘆くが、お萩の方は、人が羨む身になったのだと優しく彼を諭すのだった。

すっかり、丹波守の寵愛を受ける身になった久太郎だったが、丹後守の異常な性格によって、お萩の方との仲を疑われ、さらに丹後守が仕掛けた策略にはまり、お萩の方と間違いを犯してしまう。

それを盗み見していた丹後守は、二人の牢に閉じ込め、久太郎のシンボルを切断した上で、お萩の方と結婚させるのであった。

天明3年、浅間山が大噴火し、農作物がとれなくなった中、領主の堀式部少輔安高(江原真二郎)は、御前試合などを楽しんでいた。
家臣の一人、飯倉修蔵(中村錦之助)は、目隠しして相手を斬る「闇の太刀」なる技を、安高直々に所望されて披露していた。

そんな藩に、地元の農民たちがこぞって江戸へ出かけ、田沼意知(成瀬昌彦)に直訴したことが知らされる。

事を穏便に済ませるため、田沼に賄をしようとするが、藩の財政は逼迫しており、とても金は出せない。
そこで家老たちが考えついたのは、修蔵の一人娘のさと(松岡紀公子)を、貢ぎ物にするというアイデアだった。

さとは、野田数馬(山本圭)と婚礼の約束をした仲であったが、忠義のためとして江戸へ連れていかれる。

さらにその後、安高は、道で見かけた修蔵の妻まき(有馬稲子)に夜伽の相手として城に呼びつけるが、事態を知ったまきは、自害して果てるのだった。

その結果、修蔵は幽閉を仰せつかる。

その後、田沼意知が城内で暗殺されたので、国に返されたさとは、今度は安高の妾になれといわれた上、たまたま、謹慎中の修蔵の様子を見るために訪れた所を見回りの役人に見つかった数馬と共に、不義密通として、城へ連れていかれてしまう。

さすがに、安高を諌めに行った修蔵だったが、「闇の太刀」で目の前の罪人を斬れば許してやると安高にいわれてしまう。

その技で斬った相手は…。

修蔵は、安高から手に突き刺された剣で、自らの腹を斬るのだった。

明治の世になり、弟から座敷牢に入れられ、少し精神を病んだ最後の矢崎藩主、掘高啓(加藤嘉)を哀れに思い、自分の下宿先に連れて来たのは、車引きの飯倉進吾(中村錦之助)だった。

自分は登用試験に挑戦しながら、高啓の面倒は、家を借りている親友(木村功)の妹で、信吾が嫁にもらおうと考えていたおふじ(丘さとみ)に頼むのだが、女狂いとなっていた高啓に、おふじが乱暴されてしまったことを進吾は知る。

病床につきながらも、なお、おふじの名を呼ぶ高啓に、進吾が取った態度は…。

とある藩主に代々殉じていった被虐的な家系をオムニバス形式で紹介していくことで、人間らしい生き方など微塵も叶わなかった武家社会の侍たちの無惨な生きざまと、現代人サラリーマンの姿を重ね合わせ、何かに隷属する以外には主体性を持ち得ない、日本人の精神性のぜい弱さそのものを問いかける内容になっている。

 

▼▼▼▼▼個人的なコメントはここから下です。▼▼▼▼▼

ベルリン映画祭グランプリ受賞作品でもある。

最初のエピソードなど、時代劇では良くある美談パターンなのだが、時代を下るに従い、徐々にその内容は異常性を帯びていく。

特に錦之助が十代の美少年を演ずる飯倉久太郎と、家族全員を巻き込んでしまう老齢の剣士飯倉修蔵のエピソードが圧巻なのだが、 この二人を始め、各エピソードごとで全く年齢の違う人物たちを一人で演じ分け、少しも不自然さを感じさせない錦之助の演技力は見事というしかない。

又、久太郎を徹底的になぶる特異な性癖の藩主を演ずる森雅之と、修蔵をいたぶる酷薄な藩主を演ずる江原真二郎の不気味さ、その異常さは、最後の藩主を演ずる加藤嘉の奇怪な姿に全て結集しているように見える。

初代藩主を演ずる東野英治郎が、まだまともな人間に見えていただけに、長い武家社会の歴史の歪みは、下級武士だけではなく、上に立つ家系の人間性まで崩壊させてしまっていたということなのだろう。

森雅之が自嘲気味にいう「おれたちは、毎日酒を飲んでさえいれば、幕府から安心されるのだ」というセリフ。

藩主といえども、巨大な武家社会の中では、中間管理職に過ぎず。その立場にいる者も又人間的な生き方など出来ず、型にはまった残酷な生き方を強いられていたという事を暗示している。

つまりこれは、身分制度の中では、下層より上層に行くほど楽な生き方ができていたのではないかという漠然としたイメージを覆すもので、おそらく、全ての階層の人間が、それなりに苦しい生き方を強いられていたのだろう。

何かに隷属しているということにおいて、そこには男女の区別もなく、皆一様に人間性を踏みにじられていたのである。

では、何故、長きに渡って、そのような不自然な身分制度が成立していたのかという疑問が湧いてくる。

それは、何故、日本では、長い歴史の中で、革命らしい革命というものが一度も起きなかったのかという疑問にも繋がる。

その明確な答えが見つからない限り、時代は変わろうが、社会制度が変わろうが、日本人の本質は何ら変わらないのではないか。

作者は、そう問いかけているように思える。