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梟の城

高度成長期真ッ直中の1960年代は、中間小説、コミック、TVといった新しい娯楽メディアで、若い才能たちが「忍術使い」という旧来の素材に新しい息吹を吹き込み、新しいヒーロー像「忍者」を確立させた時期でもあった。
篠田正浩監督の「梟の城」の原作が司馬遼太郎によって書かれたのもこの時期である。当時の知識人の、ある種の願望だったのであろう、禁欲かつ虚無的な生き方を選択しながらも武術に秀で、女には慕われる主役重蔵は、先行する時代劇ヒーロー机龍之助、眠狂四郎の系譜に通ずる要素も感じられる一方、それら先達たちがまだ残していた、得体の知れない情念の炎のようなもの(それが魅力なのだが)さえ希薄な、どうにも捕らえ所のないキャラクターに描かれている。
当時の小説における人物造型としては斬新だったかもしれないが、物語の中核をなす、秀吉暗殺の任務遂行にさえ懐疑的で、結局目的達成の瞬間にその無意味さを悟り放棄してしまうような冷め切ったキャラクターの行動を、平成の観客にどう感じろと作り手はいいたいのか、何をおもしろがれというのだろうか。
デジタル合成を駆使した新しいビジュアルが、それなりに成果を上げているにも拘らず、作品全体に全くといって良いほど生彩が感じられないのも、一に作り手たちの時代認識のズレが根底にアルトしか思えない。
ただこの作品に、今に通ずる魅力的なキャラクターが登場しないわけではない。主役重蔵と対照的な生き方を選択するもう一人の男、風間五平がそれである。
身分制度がまだ固まりかける前の時代、自らの才能を最大限に活用し、社会の表舞台に立ちたいという野心に素直なこの男こそ、まさに現代の若者の等身大の姿ではないだろうか。しかし彼を待ち受けていたものは、数奇で意外性に富んだ運命であり、この人物だけで、優に一本の(「忍びの者」と対を成す)娯楽時代劇ができるほどなのに、作者の視線の中心はそこにはなく、あくまで脇の一人として至極あっさり描写してしっまた所に、この作品の限界があり、作り手の計算違いがあったように思えて仕方がない。